夏とあたしと天花粉。
豆ははこ
巨乳と蝉と天花粉。時々、ハンサム。
焼ける、頭が焼ける。
なんだろうな、この暑さ。
昨日、梅雨明け宣言が出されたからだろうか。
最寄り駅から会社まで、多分十分くらい。
この距離さえ、長い。
これが春か秋だったら、もう会社かあ、とか思うのに。暑くない晴れか曇りか小雨の日だけだけどさ。
蝉の声が聞こえる。昼間よりは静かな声。
蝉たちの、朝の調音中なのだろうか。
アチーい、とでも言いたいような、チー……という鳴き声。
そう言えば、猛暑日には蝉も鳴かないとか、朝のニュースで言っていたな。
猛暑日じゃないなら、お互いに頑張ろうか。
あたしは、肩にかけたA4サイズの通勤用ショルダーから折りたたみ傘を取り出して傘の
真夏日も、暑いことは暑い。
暑いことは暑い。夏だから。
だから、急げ、開け。
よし、開いた。
銀色に光る表面と、あたしが見ている黒い面。
暑いけれど、かなり涼しい。折りたたみ傘にしては高いけど、大切に使うから意外とお得だった、アウトドアブランドの折りたたみ傘。
そんな、プラネタリウムみたいな日傘の中で思い出すのは、賃貸マンションの寝室に置いてある電池式の電動蚊取り本体と、取りかえ用の中身のこと。
去年は、夏の終わりに取りかえ用が売り切れてて、ネット通販でも買えなくて。
取り替え用五百円、見つけた、と思ったら、小さく書かれた送料六百円。
なんじゃそりゃ。それだけ出したら本体とのセットが買えるし。
そんな理由で、本体はあるのにセットの商品を買ってしまった。
だから、あたしの寝室の畳の上には、中身のない本体が二体も転がっている。
少し毛羽だった畳の上に丸くて白い本体が意外と似合う。
似合うけど、さすがに本体三体目にはしないぞ、と梅雨の時期に取り替え用の中身を三つ、購入したのだ。
かかってこい、夏の虫よ。
そう思っていたのに。
実際は、中身は入れたけど稼働していない一体と、目はないけど気分的に、目が合うような気がする度にそろそろ捨てるべきだろうかと思わせられる一体が畳の上に鎮座している。
捨てるべき。なのに、なぜか一年を一緒に過ごしたからか、愛着もある。
まあ、一年と言ったって、秋以降はあたしだけが和室、本体たちは玄関の靴箱の中で寝ていたのだけれど。
ああ、本体よりも先に、初夏に捨てたものもある。
こっちには、愛着なんかない。
そう。
蝉が鳴く前に、あたしは男を捨てた。
男は言った。今年の春に。
胸が好きなんじゃないよ、中身だよ。
嬉しかった言葉で、好きになった。
だけど、ね。
胸を好きなんだな、はね。
巨乳の持ち主には、すぐに、分かるんだよ。
嘘つきは、嫌い。
だから、夏になった気がしたから、すぐに捨てた。確か、今年最初の真夏日だった。
なんで別れるの、と聞かれたから、
夏になったから。
そう答えた。
まだ六月じゃん、とかなんとか聞こえたけど。
暦の上では夏なんだよ! そう叫んで、おしまい。
捨てたあと、一人で公園に寄った。
日傘がなくても、帽子だけでいられた頃だった。
あたしはまだ、心のどこかは春の気持ちでいたのだろうか。
つばを掴んで少しだけ、泣いた。
いつの間にか、まだ煩くはない、蝉が鳴いていた。
アチー……くない、みたいな、なきかたで。
代わりにないてくれたのかな、とか思えて、おかげでなんだかすっきりした。
そこから数えて、何回目の真夏日だろうか。
梅雨明け宣言が出た日。そう、昨日。
あたしは、ドラッグストアで大事な買い物をした。
買ったものは、
いわゆる、ベビーパウダーってやつだ。
ああ、あれね、大きなパフでばふばふとするやつだ、のイメージがある人も多いだろう。
そっちは、あたしは年中無休の自宅用にしている。
分かりやすい使用例なら、ぷりっぷりの赤ちゃんのおしりに、とかかな。
今は汗腺につまるから避けたほうがいいという説もあるらしいけれど、あたしは赤ちゃんじゃないから自分の意思で天花粉を使う。
実は、パウダーファンデみたいな丸い蓋付きの、固くて、薄いパフでパフっとできるやつもあるのだ。
これは、便利。
四つ購入して、使いかけと予備、合わせて二つ。
今も通勤用のショルダーに入れて持っている。
お気に入りの日焼け止めと並んで、あたしの夏の必需品。
スマホ、水筒、日傘、社員証。通勤用のショルダーには、必携がたくさん詰まってる。
知っている人しか知らないだろうけれど、じりじりとした日差しに首の後ろ側が焼け始める頃、巨乳は
大きな丸い二つを持つ女の、夏の秘かなたたかい。
もしかしたら、巨漢の男性もかも知れない。それならば、同士だ。
巨乳って言ったって、あたしは70のFだから、そんなに大きくはない……はず。
まあ、グラビアアイドルみたいに肉を集めて背中でガムテープ止め、とかはしなくてもいい。
その代わりに、重い、熱い。暑いじゃないのだ。
じりじりじり。
白い丸い二つの谷間には、汗疹。
胸を両手で持ち上げて、天花粉。
汗疹だけじゃない。谷間も、下乳も。
よく洗わないと、垢も溜まる。
歯磨きしてたら、歯磨き粉が落ちる。気付かない。
体重計に乗ると、胸が邪魔で数値表示が見えない。
老眼か、ってツッコミ入れるのも面倒くさい。
あとは、テーブルにのせたらあざといとかか。
違うって。重いんだよ。あざとくないんだよ。
そもそも、あざといやつはもっとうまくやるよ。ちなみに、そういうやつは割と偽乳。
知りたくない人は知りたくないだろう、豆知識。
回転寿司おいしかった! って帰宅して。
楽しくお風呂に入ったあと、バスタオルも含めてさあ洗濯だ、と思ったら。
醤油の染みが落ちてたのに気付いてなくて、洗濯機に入れる前に地味な染み抜き。
分かるかな。
洗濯用洗剤をキャップでちゃんと計量して、そうだ、お気に入りのTシャツだけはネット入れよう。あたし、えらい! とか思ったら、胸にしっかり、醤油の染みだよ。
洗濯とか皿洗いとか、自分のタイミングでしたい家事ってあるじゃん。
そのタイミングがずれるの、空しいんだよ。
あとさあ、胸が大きくていい、分けてほしい! っていう女性全員に告ぐ。
本気か? 本気なのか? なら、ね。
欲しいなら、やるよ! 安全確実、無血な方法なら、ね。
無理でしょう、って。知ってるよ。
やれないから、自分に付けてるんだよ!
こんなの、好きな人に好かれなきゃ、意味がないし。
胸が好き。
まだ、正直に言われたことはないな。
言われたら、あたし、どうするのかな。
ああそうだ、そんなことより、せっかくだから、ついでに。
痴漢とか、碌でもないのに寄られるために付けてるんじゃないんだよ!
付いてんだよ!
体重減らしても、胸から痩せないやつもいるんだ!
やばい。暑いなあ、熱いよう。
脳内で叫んでたから、ますます暑くなった。
日傘のおかげでだいぶましになったはずなのに。おかしいな。
それでも聞こえる、蝉の声。
お互い頑張ってるよね、って思わせてくれる。
暑いのは、あたしだけじゃないんだって。
暑い中、通勤通学蝉の声。
そうだ、楽しいことを考えよう。
ああ、これだ。
最近見かける、押さえつけるブラジャー。今日も着けてる。
これはありがたい。FをDに見せてくれるから。それでも胸好きは釣れてしまったけど、それはブラジャーのせいじゃない。
社会人になって、これのおかげで、けっこうあるよね。って言われるだけになった。
ありがたい。値段は高いけど、背に腹はかえられない、邪魔な巨乳は抑えずにはいられない。
けっこう胸、あるよね。
すごくあるけど、知られたくないからいいんです、なんだよ。
ああ、でも、今ちょっと、肩紐がずれたかな。
位置直しできるところ、あるかな。
そんなことを考えていたら、会社に着いていた。偉大なり、押さえつけるブラジャー。
傘を畳んで通勤用のショルダーに入れながら、スマホで予定を確認する。
ああ、そうだ。今日はあそこの会議室、午後まで空いてた。
軽く掃除してました、って言っとけば大目に見てくれる女性上司、好きだ。
出社して、少しだけ歩く。
化粧室の手前、勝手知ったる会議室の扉を社会人の適正回数、軽めにノック。
返事は、なし。
よっしゃ。
スライド式の扉を開けたら。
ハンサムがいた。姿勢がいいな。
イケメンじゃなくて、ハンサム。
そう、天花粉みたいな。
昭和のハンサムだ。ばあちゃんが素敵って言ってた感じの顔。
そんなハンサムが、ズボンに片方の手を突っ込んでる。
「……変態、じゃあありません、叫ばないでください、とにかく、ごめんなさい!」
「あ、分かってます、場所直しですよね、失礼しました」
先客がいた。多分、大きい仲間だ。
あたしは上半身、あの人は下半身。
勝手に親近感。頑張れ。
声援は送りたい、けど。
こっちが変態になりかねないから、即退散だ。
そうなると、あたしはどこで直そうか。やっぱり、更衣室かな。なら一度、部署に戻るか。仕方ない、大きい仲間の下半身を守るためならば。
「あ、あのう……」
すると、ハンサム。
遠慮がちに声をかけてきた。
さっとハンサム。
携帯の消毒用アルコールで手を消毒している。
消毒したあとの手には、名刺入れ。
両手で差し出して。
「お話をさせて頂けませんでしょうか。それから、御社の社外の人間ですのに、たいへんな失礼をいたしました」
いわゆる一つの、重要な取引先の、お客様。
今日は約束はなかったけれど、ほんとうにたまたま、うちの社のそばで危険なくらいにずれそうになったらしい。
「申し訳ありません。コンビニのトイレが清掃中でしたもので。藁にも縋る思いでした。一応御社に何度か伺っておりますので受付には化粧室を拝借したいという旨と記名と名刺の提出の上、敷地内に入れて頂きました。そうしましたら、今日の日付と午後のみ使用予約ありとホワイトボードに書かれて扉も空いている会議室が目に入りまして……すみませんでした!」
分かりますよ、分かります!
始業前の化粧室は混雑してることがあるから。
ずれたところを直してるのを見られるの、嫌ですよね!
空いている会議室を拝借、ってまさにあたしがしようとしていたこと。
やっぱり、この人は仲間だ。
そう思ったあたしは、会議室の内線を取った。
「すみません、はい、ええ、そうです。代わりますか?」
内線相手は、女性の上司。
重要な案件のお客さま、ハンサムのことだけど。
「たまたま化粧室を借りにいらしたその方に化粧室をご案内したところ、うちの部署が扱う新商品説明を希望されましたが、いかがいたしましょうか」
これが、あたしの伝えた内容だ。
「逃がすな、その代わり直帰可!」
すると、指示が返ってきた。これは、要約。至極丁寧な言葉遣いだった。
スマホのメモ帳にその旨を入れて、ハンサムに画面を見せる。
うなずくハンサム。
「上司の方に代わってください」
そのあとはとんとん拍子。
あたしはすごく良心的に弊社の新しい取り扱い商品をご説明するようだ。
取り扱いの商品は、新しいものではなくて、それぞれが長く付き合っているものではないだろうか。
そう思ったけど、悪い気はしない。
誘われたのは、お高め焼肉店の個室。
焼肉店。久しぶりだな。何でだっけ、あんまり来なかった理由。ここみたいな高級店じゃないけど。
まあいいや、今日は食べたい気分だから。
「ランチタイムだから、高くないです。じゃんじゃんどうぞ。クリーニング代ももちろん払いますので、においはお気になさらずに。必要でしたらこのあと、お着替えを購入しに百貨店にも行きましょう。もちろんお代はお支払いいたします。ご迷惑でなければですが。ご迷惑でも、この焼肉代だけは払わせてください」
お着替え、百貨店。
ハンサムっぽい言い方が、お似合い。
さっと確認したランチメニュー。
確かにいいお値段、だけど、飲み会二回分よりは安い。
ここだけはおごってもらおう。クリーニング代はいらない。
今日の服は全部洗濯機で洗えるやつなのだよ。
「セクハラとか、そういう意図はございませんが、そう感じられても仕方ない話題を出してもよろしいでしょうか」
瓶ビール、手酌派でしょうか、と訊かれてからのこの言葉。
手酌派です。
そして、話題はむしろ、待ってましたですよ、と答える。
それぞれの瓶ビールを、それぞれ注ぐ。
琥珀色の上の白い泡。
シュワシュワした、大人の炭酸。
きちんと冷えたグラスの水滴は、微妙に色っぽくて。
乾杯は、グラスを合わせたら泡が崩れるから、グラスをお互い持ち上げる。
まずは、肩ロース。
焼けるにおい。肉汁。
ステンレスボウルに入った、シャキシャキのサンチュ。淡い緑色が、きれいだ。
交換用の網がたくさんある。どんどん替えていいんだ。すごい。
ライスは、普段は小盛りだけど、今日は大盛りだ。盛りが多い、はなんとなく敬遠してたけど。
今日はいいんだ。盛り盛りだ。
「大きいと、やたらとうらやましがられますよね」
「人にもよりますが、はい」
「無理にだと、相手が苦しいんですよ」
「分かります。胸だけ使われて、勝手に終わられて、何しに来たんだぼけ! って蹴り出したこと、あります」
「無理しないで、ほんとうに無理しないで、って言ったのに、顎が疲れるから嫌だ、って。嫌だ、って、辛いですよね」
「分かります。けど、してみたくなったのかも知れませんよ。あたしはごく稀にしたいと思っても、胸を使われますよ。使うと言えば、天花粉、使いますか?」
「はい、分かります。ベビーパウダーですよね。天花粉、昔ながらのやつ。僕はですね、長い方じゃなくて、丸い方に使います。自分のとは言え、毎回なので、パフは使いたくなくて。風呂上がりに、手ですくって、ぱたぱたしてます」
「丸い二つに、ですか」
「はい、丸い二つにです」
参ったなあ、こんなところまで気が合うのか。
「あたしもです。家にはそれで、持ち歩き用にはこれ、固いタイプなんです」
通勤用のショルダーに、手をかける。
未開封の天花粉。予備のほうを見せる。
「素敵ですね、持ち歩けるんですか!」
そう、素敵なんです、天花粉。
暑い夏が、少しだけ嫌じゃなくなるんです。
なんだろう、この安心感。
自慢? とか、言われない。話しやすい。
今までで話しが合ったのは、痩せすぎで太りたいと思ってる子だけだった。
その子は彼氏の海外赴任に婚約者として付いていっちゃって、たまに連絡できるけど、やっぱり一対一で会えなくて寂しかった。
その子の彼氏は食べるけど太らない、けど普通体型なタイプで、普通体型は羨ましいけど太らないことを恨まない彼女のことをめちゃくちゃ大切にする人だ。
大切に。
そう思ったら、蝉の鳴き声が聞こえた。
アチー……か、そうか、そうか。
高級店の二重硝子。蝉のあの鳴き声は、これも突き破るんだな。
どんどんないて、どんどんさけべ。
あたしは、どんどん肉を焼くから。
だいたい半分、それぞれの陣地。
一人焼肉みたいなのに、たくさん種類を食べられる。
網だって、替え放題。素晴らしい。
じりじりじり。肉汁が落ちる。肉の脂が少しだけ網の端を黒くする。
そろそろ網、替えましょうか。そう言おうと思ったら、ハンサムと目が合った。
「あの、大きい男性と恋愛をするお気持ちはございますか?」
「そちらこそ、大きい女性と恋愛をするお気持ちはございますか?」
肉を焼く手は、止まらない。止めるつもりもない。
アチー……。
蝉の鳴き声も、止まらない。
「ございます。胸が好きです。でも、あなたはもっと好きです」
「ありがとうございます。大きすぎて入らなかったら、すみません」
「大丈夫です。時間をかけたら、きっと」
「無理なら、胸がありますよ。二つも」
「ありがとうございます」
訳が分からない。なんだ、この会話。
おかしい、おいしい。肉がいい。
そうだ、あたし。
肉を食べたら、栄養がさらに胸にいきそうで、苦手だったんだ。
肉は、大好きだった。
忘れてた、思い出した。
分からないのが、いい。
分かるのも、いい。
きっと、そう。
まだ、蝉は鳴いている。
お客様向けの静かなノックのあと。
扉が、開いた。
高級カルビが、二皿やってきた。盛り盛りだ。
窓の向こうは、大音声の蝉の声。
恋を求める蝉たちよ、頑張れ、頑張れ。
ないてくれて、ありがとう。
今度は、あたしが頑張れを言うからね。
頑張れ、頑張れ、蝉たちよ。
夏を、超えろ。
ここに、いるぞ、ここに、いるよ、と。
叫べ、鳴け。
暑さを一緒に乗り越える相手を、捕まえろ。
あたしはお先に、捕まえたみたいだよ。
夏とあたしと天花粉。 豆ははこ @mahako
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