君がそう言うのなら

にわ冬莉

夏の終わり

 私が実家に戻ったのは、夏も終わろうとしている八月の最後の日曜だった。


 終わろうとしている、とは言ってみたものの、実際、東京の夏は八月で終わることなどなく、九月いっぱいは汗だくになるけれど。


 ──疲れたのだ。


 ひとことで言えば、仕事にも、恋愛にも疲れ果ててしまった。

 都心のど真ん中でクリエーターなどという職につき、バリバリ働くことができていたのは、ある意味『若気の至り』だったのかもしれない。仕事に恋に、全力で取り組んできた。けれど、どちらも私の満足いくような結果を残すことは出来なかったのだ。


「ちょっと出かけてくる」

 私は、最小限で済ませた十年分の私物を実家に運び終わるや、ふらりと外へ出た。


*****


 実家から歩いて十分ほどにある大きなお寺の境内は、休日だけあって人の姿が多い。

 最近では御朱印帳を手にあちこちの神社仏閣を巡る人も多いと聞くが、それが若い層にも存在することに驚く。少なくとも私の周りには、寺に興味を示すような友人はいなかった。


 かくいう私がここに来たのは、単純に神頼みの為である。

 ここは、並みはずれた霊力により数々の奇跡を起したと言われている元三大師を祀っているお寺であり、厄除けには定評がある。……信じるも八卦、の部類ではあるが。とにかく今の私は、厄除けでもなんでもいいから救われたかったのだ。


 それと、もう一つ……。


 境内をゆるりと散策しお参りを済ませると、最後に立ち寄ったのは、窯焼き体験が楽しめることでも有名なお店。私はここで絵付けをしたマグカップを使っていたのだ。そのカップが、割れた。

 そのカップには多大なる思い入れがある。私を導いてくれたと言っても過言ではないくらい、大切なものだった。


*****

 

麻木まきって、センスあるよな」

 普段軽口しか叩かない相手からまじまじとそんなことを言われ、私はただひたすらに、驚いたものだ。

「え? それ本気で言ってる?」

 そう返す私に、彼……渡部わたべ直哉なおやは真顔で、

「は? 本気だけど」

 と答えた。


 高校二年の美術の時間、そんな会話をきっかけに、私は直哉を意識するようになった。後に両想いであると知り、付き合い始めて最初のデートが、深大寺だったのだ。

 高校生がデートするには渋い場所である。が、逆にそうであるからこそ、同級生と顔を合わせることがなさそうなこの場所を選んだのだ。そして見つけた、むさし野深大寺窯。せっかくだから形に残るものをプレゼントしたいと言ってきた直哉の照れた顔を、今でも覚えている。


 二人でマグカップに絵付けをし、交換し合った。だから私が使っていたのは、直哉が描いてくれた下手くそな猫の絵柄のマグカップ。高三の春から社会人一年目まで付き合って、いつの間にか自然消滅してしまった初恋。けれど味のあるその絵は私にとって癒しだったし、マグカップを使う……あの頃のまっすぐな自分を思い出すのは、大切な儀式のようで、手放せなかった。


 そのカップが割れた。

 私の心が壊れていくのを見かねて、まるで先に壊れてくれたかのような最後だった。


「何かお探しですか?」

 店内で声を掛けられ、私は十五年も昔のことを話した。割れてしまったマグカップはとても大切なものだったから、もう同じものを手にすることは出来なくても、またここでマグカップを買おうと思って来たのだ、と。


 すると店員さんが目を真ん丸にして、言ったのだ。『少々お待ちください』と。その慌てぶりが気にはなったものの、私は言われるがまま大人しくその場で待った。


「あの、お客様、これをっ」

 渡されたのは、箱。そっと開けると、そこにはマグカップが入っていた。下手くそな猫の絵が描いてある。

「え? これって……」

 驚いて店員さんに訊ねると、

「私も驚いてます! まさか本当に現れるなんて思わなかったので!」

「あの、どういうことですかっ?」


*****


 とても信じられないような話だった。


「今から七年前のことです。男性の方がいらっしゃいました。ええ、お一人で。絵付けをしたいとのことでしたので、ご案内させていただきました。その日は雪で、お店は貸し切り同然。暇に任せて色んなお話を伺ったのですが、昔一度やったことがあるんだとか。照れくさそうにその当時の話を聞かせてくださいましてね。のんびりと絵付けを楽しんでおいででした。ですが、出来上がった作品を見て、おかしなことを仰ったんです。『取り置きをお願いすることはできますか?』と。そりゃ、雪の日でしたからね、持ち歩いて、滑って転んだりしたらせっかくのカップが割れてしまう……そういう意味だと思ったんです。でも違った。年単位で預かってもらうことは可能か、というお話でした。そんなことを言われるのは初めてでしたのでね、理由を伺ったのです。そうしましたら、七年後の夏、このカップを必要とする人が店に取りに行きます、って仰るんです。思わず笑ってしまったんですよ。だってそんなこと、信じられます? 何故そんな先の話をするのか尋ねましたら、そのお客様は、遠くへ行くことが決まっているので七年後にここに来ることができないと。けれど、これを必要とする人にその時どうしても渡したいと、そう繰り返すのです。私、根負けしちゃいましてね。そこまで仰るなら、お代はもういただいているわけですし、面白半分で預かってもいいんじゃないかと思いまして。今日までずっと保管しておりました。まさか本当においでになるなんて……。大切なカップを割ってしまった。そこには下手な猫の絵が描かれていた。そう言ってきた客に渡してほしいとのことでしたので……」


 どういうことなのか、私にはわからなかった。わからなかったけれど、この絵は間違いなく直哉の絵だった。

 七年前……。どうしてそんなことがわかったのだろう。私が今日、ここに来ると。


「あの……他には何か、」

 これを渡してほしいと、ただそれだけ? 私がここに来るともしわかっていたのであれば、何故私がここに来たかも知っていたのでは? もしそうなら……、

「渡してもらえればそれでいい、と。、とだけ」


*****


「私にできるのかなぁ」

 就職活動の最中、何度か弱音を吐いたことがあった。私は強気な一面とは別に、新しい世界へ足を踏み出すのが苦手だった。

「麻木は心配性だな。いつだって自分が正しいと思った道をちゃんと選んでるじゃん。大丈夫だって。もっと自信持てよ」

「だって……」

「後悔するような何かがあったとしても、それを引きずったり悔やむ必要ないし、道を間違えたなんて思うなよ。お前の選んだ道だけど、その道は他のやつらも歩いてる。そいつらはお前の力じゃ動かせないんだから、思う通りにいかないことだってあるさ。自分を否定するくらいなら誰かのせいにしちまえばいいよ。麻木が優しい奴だってのは俺が知ってる。お前が選んだ道がもしハズレだったってんなら、それは

「言い切っちゃうの?」

 笑う私に、

「ああ、言い切ってやる。大丈夫だ。前を向け」

 いつかのように真面目な顔でそう言った。

 

 あれは、いつだった?


*****


 ぼやける視界がクリアになる。そしてまた、ぼやけていく。


「私、もう彼との縁は切れてるんだって思ってました。でも、彼はちゃんと、私との縁を繋ぎ止めててくれたんだ……」

 そっとハンカチを渡され、視界がぼやける理由を知る。


「人と人との縁は、会わなくなったら終わりというわけではありませんからね。それにここは縁結びの寺としても名高いお寺ですもの。きっとお二人の縁を、大切に守ってくださっていたんですよ」


 直哉がこの世を去ったと知った時はショックだった。病気だったことも、先に逝ってしまったことも何も知らなかったから。私は直哉が大変だった時、何もしてあげられなかった。なのに、直哉は私のためにこんなに素敵な贈り物を残してくれていたのだ。

「長いこと、預かっていただいてありがとうございました。大切にします」

 私は店員さんにそう告げて、マグカップを胸に抱える。


 境内に蝉の声が響く……。


*****


 私は家に帰ると、古い手帳を引っ張り出す。直哉の実家の住所、変わってないといいのだけど。

 電話を掛けると、直哉のお母さんが出た。私のことを覚えてくれていただけでなく、まるで電話があることを知っていたかのように、すんなりと話が進む。私は教えてもらった直哉の眠る場所へと、その日のうちに向かった。


 とうに盆も過ぎた日の夏の夕方。墓地に人の姿はない。直哉の眠る墓には、懐かしいマグカップが置かれていたのだ。


「これって……」

 色とりどりの鳥たちが飛んでいる、私が描いた絵。あの時交換した、もう一つの片割れ。


「直哉……私、仕事辞めた。付き合ってた彼とも別れた。今、なんにもないんだ。精一杯頑張ったけど、何も残らなかった。こんなひどい状態でも、後悔するなっていうの?」

 返事などないけれど、声に出す。


「ほんとはさ、もう生きるのしんどくて、頑張るの辛くて、生きること諦めかけてた。直哉のマグカップまで割れちゃって。なのに、なんでかな? あのマグカップが割れた瞬間、ああ、生きなきゃ、って思ったんだよね。今ここにいない、直哉のこと思い出してさ」

 生きなきゃ。そう思ったから、マグカップを買いに行ったのだ。あの下手くそな猫に似せた絵を描いて、手元に置こうと思ったのだ。でも、先を読まれていた。


「新しいカップ、ちゃんと受け取ったからね。直哉の気持ち、ちゃんと届いたからね」


 私はここから、もう一度人生を始めるのだ。何度でもやり直せばいい。何度でも立ち上がればいい。


「……ありがとう」

 暮れゆく空の赤に、青い風が吹いた。



 ──大丈夫だ。前を向け。


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