春風と幽霊

田中草履

春風と幽霊

彼女と彼は小さなアパートで二人暮らしをしていて、窓からは隣の家にうわった桜の木がのぞいている。毎年春になると桜が綺麗に花を咲かせて、あたたかな風が開け放った窓のカーテンをまどかに揺らす。彼がその景色を眺めながら詩をかいて、彼女がそれを歌うように朗読するのが彼らの楽しみだった。

今年も春が来て、同棲は五年目になる。大学のサークルで出会った二人は互いに就職してから帰る場所をお揃いにした。散歩中に彼女が拾った猫を飼っていたこともあった。猫は去年の秋に腎臓病で亡くなったけれど、キッチンのささやかなカウンターに写真を飾って、毎日お水を供えている。彼は毎朝コーヒーの代わりに紅茶を飲みながら猫の写真を撫でていて、仕事に行く前に必ず挨拶して家を出る。

彼は詩や小説を書くのが好きで、休日は一日中机に向かってペンを走らせている。綺麗な景色を収めた写真を見たり、お気に入りの曲を聴いたりしてはノートに物語を生み出していた。彼女は彼の書く作品を読むのが好きで、休日は彼が手を動かすのを隣に座って眺めていた。時折完成した作品を彼が見せてくれるので、彼女はそれを一度さっと読んでから朗読した。彼の作品には刺々しいものも混じっていたが、ほとんどが春風のように柔らかで心地いいものばかりだった。詩や小説を読むたび、彼女は彼の心のうちをのぞいたような気分になって嬉しく思った。

アパートの一室には穏やかな時間が流れていた。


ある時、彼が真っ暗な部屋に黒ずくめのスーツのままへたり込んでいることがあった。顔はよく見えなかったが、肩が時折小さく揺れていた。彼女は電気をつけようと思ったが、彼が暗闇に安心を求めているような気がしてやめた。彼は随分長い間うずくまり、やがてそのまま硬い床で眠ってしまった。彼女はただ彼の横に座って頭を撫でていた。

その日から、彼は仕事を休むようになった。朝が来ても布団にくるまったまま目覚めることができず、一日中そこで息を殺している。夜眠れていないのだろうか。食事も作らずに二、三日に一度ほどカップ麺やスナック菓子をつまんで空腹を満たしているようだった。時間があれば没頭していた詩や小説も、ぱったりやめてしまった。代わりにぼんやり天井を眺める時間が増えて、時々涙が頬に一筋流れていた。部屋は掃除もされずに荒れ果てて、ごみや衣類が散乱している。人間らしい生活を、彼は一切やめてしまったように見えた。

一日のほとんどを白い天井と睨めっこして過ごす彼は、折々思い出したようにキッチンの猫の写真を撫でている。季節は夏真っ盛り、毎年窓から二人で見ていた花火大会の夜も、彼は布団を頭までかぶって寝入っていた。部屋は冷房がつけっぱなしになっているせいでぞくぞくするほど冷え切っている。彼女は藍色のカーディガンを羽織った。夏は、いつもより早く過ぎ去って行くようだった。蝉の声が、彼の寝息と押し殺した泣き声をかき消していく。


じっと動かないでいる彼を眺めていたら、夏は終わってしまった。気温が下がり、肌寒さを感じるほど涼しくなったある夜、彼は布団から這い出て、夏の間全く開いていなかったノートのページを一枚破ってペンを握った。しばらくの間彼は月明かりの下で空を眺めていたが、やがて紙にいくつか文章を書きつけていた。それを淡い光に透かしてから、くしゃくしゃにして床に放り投げた。後ろから見ていた彼女は丸まった紙を拾い上げて開こうとしたが、彼が直接見せてこない作品は見るべきではないと思い直して、そのまま床に置いた。彼はまたノートのページを繰ってまっさらな見開きを机に広げたが、ペンをとることはなくただ罫線を見つめていた。彼女は鈴虫の声に耳を傾け、彼の隣に座ってから月を眺めた。

その夜から、彼は毎晩小さな机に向かってノートに文章を綴っていた。夕方になると彼は窓を開け放って、机に乗った安物の読書灯をつける。それから夜明けまでペンをひたすら動かし、物語を紡いでいた。彼が彼女に作品を見せてくることはなかったが、彼女は黙って彼の隣で本を読んでいた。朝日が彼の横顔に当たるとペンを置き、布団にくるまってまた次の夕方まで眠るのだ。彼女は桃色の朝の光に包まれながら死んだように眠る彼のことを抱きしめ、一緒に夕方まで目を閉じてじっとしていた。誰もが眠っている明け方、静謐で澄んだこの世界には、彼と彼女しかいないようだった。


秋をそうやって過ごした彼は、寒さが厳しくなってしょうがなくなると同時に外出するようになった。一週間に一度、昼過ぎに彼の友達が家まで迎えに来て出掛けて行く。帰ってくるのは夜で、彼は鞄から薬の入った袋を出すと布団にくるまってすぐ寝てしまう。病院に行くなら一緒に行くよ、と声をかけたが、彼はため息をついてこちらに背を向けて眠るのだった。病院に行くと彼はどっと疲れるようで、食事もとらない。彼女は外出できるようになった彼のことを喜ばしく思うと同時に、彼が二人きりの世界から抜け出てしまったようで虚しかった。

冬の間に病院に通ううちに、木々の芽がゆっくり膨らむようにして彼の体調が少しずつ良くなってきているように見えた。起床時間が朝に近づき、夜も早々に創作を切り上げて眠るようになった。食事も三日に一度は自分で簡単に作れるようになったし、部屋も徐々に片付いていった。病院や買い出しに行く以外にも、散歩に出かける機会が増えた。彼にだんだん笑顔が戻ってくるのを見ていると、彼女も幸せな気持ちになった。ある朝には彼は会社に電話をしていて、二週間に一度のペースでまた働き始めることを決めたようだ。彼が満足げに猫の写真に報告する姿を、彼女は微笑ましく見守っていた。


桜の花が咲いた。薄桃色の花びらが風に乗って時折こちらに舞い落ちてくる。檸檬色の春風が彼女の前髪をゆるく持ち上げていった。彼はいつものようにノートを机に広げて窓の外を眺めていたが、ついに何も書かずにノートを閉じた。彼の隣に座っていた彼女は少し驚いたが、彼が代わりに昔書いた作品を読み返し始めたのに合わせてお気に入りの作品を小さな声で朗読した。輪郭がぼやけた春の木漏れ日が、部屋の中でゆらゆらと踊っている。

桜が散って若緑の葉が枝の主導権を取り始めた頃、彼は部屋の荷物を減らし始めた。猫の写真に向かって、「今度引っ越しするんだ」と話す彼の横顔はどこか悲しさを帯びていたが、少し強くなった日差しのもとで部屋が綺麗に片付いていくのを見て彼女も寂しさを感じた。

一週間もしてから、彼と彼女の住んだ部屋は大きな家具を残してほとんどまっさらな状態になっていた。彼女はこの部屋に住み始めた時のことを思い出し、その甘酸っぱい記憶をくすぐったく思った。彼は大きなスーツケースに必需品を詰め込んでいて、今日がついに引っ越しの日なのだと分かった。部屋の中をあちこち歩き回り、戸棚の中を確認してから彼は帽子を深くかぶった。今日は特別暖かく、上着はいらないだろう。彼は最後までキッチンに飾ってあった写真の前に立った。猫の写真を指で優しく撫でてから、布でふんわりと包んでスーツケースにしまった。彼はなおもカウンターの前に佇んでいる。それから彼は何かを両手で持ちあげ、抱きかかえるようにして長い間それを見つめていた。どうしたの、と声をかけて、彼女は彼の手元を覗き込んだ。


写真立てには満開の桜の下で微笑む彼女の写真が飾られている。


彼の瞳から涙が溢れたが、彼は拭うこともなくただそれを眺めていた。しばらくしてから彼は彼女の写真も布で包むと、スーツケースにしまった。

彼は最後に部屋を見回して、それから胸を張って玄関から出ていった。開けっぱなしの窓からは名残惜しそうに春の柔らかな風が舞い込んだが、夏草の匂いを連れてきた陽気な風に吹き飛ばされて消えていった。春が終わる。

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