コールドスリープ、あるいはシュレーディンガーのドリーマー

藍﨑藍

コールドスリープ、あるいはシュレーディンガーのドリーマー

 ふわりと浮き上がるような感覚とともに、僕はゆっくりと目を開けた。最初に見えたのは白い天井だ。鼻にツンとくる匂いは薬品のものだろうか。体を起こしてはじめて、僕はベッドの上に寝ていたことを知る。床も壁も白い部屋の中には、僕以外誰もいないようだった。


 両手のひらをじっと見つめ、軽く握って開く。脳から出た指令は電気信号として神経を通って指先へと伝わる。関節が錆びついたようにぎこちなく、小指が少し震えた。


 僕はなぜここにいるのだろう。


「おはよう。気分はいかが」


 懐かしいその声に顔を横に向けると、ベッドの脇に金髪の女性が立っていた。いつ、どこから現れたのだろう。この部屋の扉が開いた音はしなかった。今彼女が急に現れたような気はしたが、きっと僕が見落としていただけに違いない。


 でも、この女性は誰だろう。


 記憶の糸を辿りながらベッドから降りようとすると、僕はいつの間にか白い床の上に立っていた。あれ、と思って横を見ると、さっきまで寝ていたはずのベッドは跡形もなく消えている。きっと、最初からなかったのだろう。


「長い間眠っていたから記憶の混乱が起きているのね。私はアン。看護師で――」


 アンと名乗った金髪の女性は少しはにかんだ。「あなたの婚約者」


「婚約者」馬鹿みたいにその言葉を繰り返した僕に対し、アンはくすりと笑う。


「そう。あなたは2074年にコールドスリープの被験者として100年の眠りについた。そして、おめでとう。今日でちょうど100年が経った。今日は2174年7月30日」


 冷凍睡眠コールドスリープ。その言葉には覚えがある。それがきっかけとなり、抜け落ちていた記憶が少しずつ蘇る。脳裏に浮かんだモノクロ写真のような映像はきっと僕の過去だろう。


 有刺鉄線の破り目をくぐり、銃を持った男に見つからないように息をひそめた。僕の手を誰かが握っていて、それはきっと僕の家族だったはずだ。


「僕は隣国から国境を越えてやってきた」


 僕の言葉にアンはうなずいて続ける。


「あなたは成功を夢見てこの国にやってきた。追われる身でありながら、商才のあったあなたは若くして財を成した」


 記憶が繋がり、モノクロだった映像に色がつき始める。


 血飛沫の赤と大草原。広い青空とゴールドの山。かねが増えるにつれ、僕の周りには人が増えていった。そして現れたのは芸術的な食事と輝く夜景。この世の全てを手に入れた僕は、静かな高級レストランでダイヤモンドの指輪を取り出した。


「そして君と婚約した」

「とても嬉しかったわ。でも結婚間近に、あなたは不治の病であることがわかった。現代の医療では助からない。だから私たちは未来に望みを託した。そして長い眠りについた」


 僕はカプセルのような装置に寝かされた。ゆっくりと扉が閉まり、白いもやのような薬が投入された。徐々に眠くなって目を閉じたのが、ほんの数分前のことのような気がしてならない。


 そういえば、あのカプセルはどこへいったのだろう。


 ずきりと頭が鈍く痛んだ。たしか他にも眠りについた人間がいたはずだ。宇宙船のような処置室には多数のカプセルが並んでいて、そして――。


〈……して〉


 ふと遠くで誰かの声が聞こえた気がして、僕は周りを見回した。


「どうしたの?」


 目の前に立つアンが首をかしげると、黒髪がはらりと流れる。アンは精巧な人形のように美しい微笑を浮かべたままだ。


「声が、聞こえたような気がしてね」


 アンは一層笑みを深くする。「きっと気のせいよ」


 その非の打ち所がない笑みにどこか冷たさを感じ、僕は本能的に一歩後ずさる。


〈……覚まして〉


 それと同時にまた声が聞こえる。


〈目を覚まして〉

 

 今度ははっきりと聞き取ることができた。目を覚ませ。そう言われても、僕は今目を覚ましたばかりじゃないか。


〈私はまだ眠っている〉


「ねえ、あなた。どうしたの」


 アンが一歩僕に歩み寄る。そして僕は気がついた。アンは一度も僕の名前を呼んでいない。


 アンは本当に僕の婚約者なのだろうか?


 懐かしさを感じていたはずの声は冷たく、急に知らない人物のように思われた。アンの顔を見るとそこだけ靄がかかったように見ることができない。先ほどまで見ていたはずなのに、アンの顔を思い描くことができなかった。


 背中につうっと汗が流れる。アンの語った僕の記憶の数々は急に砂嵐のようにぶれ始め、急速に色を失っていった。


 僕はどこから来たのだろう。今ここにいるは、誰だ?


 私はたまらず頭を抱えてその場にうずくまる。


 これは現実なのだろうか? それとも私は夢を見ているのだろうか。


 考えが口に出ていたのか、女性は私の額の汗をぬぐいながらなぐさめるように言った。


「今あなたはここにいるんだから、起きているに決まっているじゃない」


 いや、女ではないかもしれない。見ようとすればするほどその人物の顔はぶれてしまう。顔を認識することはできず、声も性別の判断がつかなくなってきた。


 私は肩にのせられたその手を振り払う。


「ここが夢だとすれば、その中にいる君はそれを認識することができない」

「あなた、一体何を言っているの。具合が悪いならお医者さんを呼びましょう」

「この世界の外にいる人物が観測してはじめて、ここが夢か現実かわかるはずだ」


 私が部屋から出ようとすると、顔の見えない人物は私の腕をつかむ。相手は華奢だと感じていたが、一瞬にして私は組み伏せられた。機械のような無機質な声が私の耳元でささやく。


「記憶の混濁による動揺を確認。鎮静剤を投与します」


 ちくりと腕に何かが刺さるような感覚があった。急激な眠気に抗うことはできず、私の視界は徐々に暗くなっていく。

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コールドスリープ、あるいはシュレーディンガーのドリーマー 藍﨑藍 @ravenclaw

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