宝田御蓮

大河井あき

宝田御蓮

宝田御蓮たからだごれんとは、生きる伝統芸能である》

 そびえたつのは技術発展の象徴として建てられ、長い年月を経た今でも保守されているディスプレイ。CMが明けて特集が始まり、解説が厳かな字体で浮かび上がる。

 画面で舞を踊るのは白い和装の佳人。道行く人々は足を止め、揃いも揃って撮影し、四角に切り取られたホログラムの彼女を見て、満足そうにまたディスプレイへと目を移す。

《時代がいくつ変わっても、技術がいくら進んでも、伝統芸能が色褪せることはない》

 宝田御蓮には、アンドロイドの類からでさえ感じ取れる情というものがない。しかし、その超然たるさまに、天女や弁天にたとえられる神性が宿る。ゆえに所作の一つ一つが畏れを引き起こし、舞を踊れば形容しがたい心の震えをもたらすのだ。

《しかし、最後の宝田御蓮から五十年。新たな彼女は未だに姿を見せていない》

 一子相伝。宝田御蓮は母から娘、あるいは祖母から孫娘へと代々受け継がれてきた。亜流が生まれたことはない。容姿に貫禄、実力、心。ほころびがたった一つあるだけで、もはや宝田御蓮ではなくなってしまうからだ。

《宝田御蓮は絶たれてしまったのか。彼女の復興は今もなお望まれている》

 遠く、山の麓からディスプレイを見て立ち止まった女童おんなわらわが一人。稽古帰りの彼女は蛾眉一つ動かさぬ無表情のまま、迎えの車に乗った。

 ディスプレイが映していたのは彼女の母。

 彼女は今、宝田御蓮に成ろうとしている。



「ただいま帰りました」

 女童が玄関の引き戸を開けると、いつもと同じように祖母が無表情で立っていた。黄色が混ざり始めた目は彼女をじろじろと見ながら、決まった軌道で瞳を動かした。宝田御蓮の後継である彼女に異常がないかどうかを確認したのである。

 しかし、その目は九歳の孫娘へ向けるべき温かさを宿してはいなかった。祖母もまた元宝田御蓮。情を備えていないのである。女童もまた、探る目に不快感や緊張感を抱くことはなかった。

「上がりなさい」

「はい」

 女童の家は町の離れにある。都市部では耐震性や遮音性、省エネルギー性を重視した3Dプリンタ製のマンションが並び連なっているが、宝田御蓮は代々家も引き継いでいるため、今では珍しいものとなった木造の小さな一戸建てである。贅沢品や嗜好品といったものはなく、祖母と二人で慎ましく暮らしていた。

 夕餉の時間になり、祖母が箸を動かしながら単調な口調で切り出した。

「何か変わったことは」

 少女は薄味の汁をすすり、静かに飲み込み、それから返した。

「朝、軒下の巣で燕が雛に餌をあげていました」

「他には」

「特にありません」

「そう」

 夕餉での二言三言しかない会話。これもまた、宝田御蓮の後継である彼女に異常がないかどうかを確認することだけが目的である。ゆえに内容は味気なく、日報を記すに等しかった。

 女童は茶碗と汁椀を空にすると、風呂、歯磨き、布団敷きを染みついた所作で終わらせて消灯した。

 枕に預けた頭はしばらく朝に見た燕の親子を思い浮かべていたが、やがて、連想する形で自らの母の姿を映し出した。

 彼女は、母のことを宝田御蓮としての姿しか知らない。父や祖父についても同様だが、物心ついたときにはすでに亡くなっていたのだ。

 しかし、不可思議なことが一つあった。脳のいずこから出てくる記憶だろうか、時折、非常に曖昧ではあるが、女性の声が耳にふっと浮かぶのだ。

――宝田御蓮になってちょうだい。

 母の声を実際に聞いたことはなかった。それでも、その声が母のものであると思えて仕方がなかった。一度も話したことがないというのに、何度も聞いたことがあるように思えてならなかった。

 胎児だったときにお腹をさすりながら話しかけていたのだろうか。生まれてきたあとに腕に抱えてあやしながら言ったのだろうか。もしかすると、実は今もどこかで自分を見守っていて、夜中にひっそりと家に忍んでは耳元で囁いているのかもしれない。眠りに落ちるまでの束の間、そのようなことを想像するのが彼女の常だった。



 彼女の一日は、すでに枕元で膝を正している祖母との挨拶から始まる。

「おはよう」

「おはようございます」

 畳と障子、押し入れの部屋で、老いてもなお白くつるりとした鶏卵の顔が言い、ウミウシのような透明感のある唇がもぞもぞと動いて返す。

 その後、布団をしまって顔を洗い、質素な朝食、効率の良い歯磨き、制服への着替えを済ませ、ランドセルを背負って玄関へ。淡々としたこの間すべて、監視のように祖母がついて回る。

「宝田御蓮は絶世の美貌と文武両道の才を持つ、浮世離れした女が引き継ぐのよ」

「はい」

 出発前、夕餉のやり取りと同様に日課となった取り交わし。当然のように声や表情に色はない。

 しかし、出迎えを担当する御守に祖母が必ず言うこの言葉。

「何か異常があればすぐ連絡するように」

 この言葉だけは妙に真に迫っていた。

 女童は御守とともに、自動運転で山の麓まで送られる。そこからは険しい隘路を通る必要があるため、徒歩での移動となる。肩で息をしながら斜面を登る御守とは対照的に、彼女は汗一つかかず、涼しい顔のまま進んでいく。

 道を抜けた先には正門がある。御守と別れの挨拶を済ませたあと、門扉の前に設置されたセンサーの前に立ち、「あー」と短く声を発する。すると、システムが彼女をスキャンして、身体からだに異常がないこと、さらにはランドセルに異物が入っていないことを確認する。加えて声紋、虹彩、指紋による認証も同時に行う。認証成功のアナウンスが流れると、彼女はガラガラと車輪を鳴らして開いた門扉を通り抜けた。

 昇降口で上履きに履き替え、階段を上り、廊下を渡って教室に入る。彼女の体内時計は精密で、机に教科書や筆記用具を揃えるのと授業開始のチャイムが鳴るのはいつも同時だった。

 ただし、ここは学校ではない。学校を模した稽古場。本舎だけでなく体育館や給食棟、実験棟なども設けられており、そのどれもが宝田御蓮のために用意された特別な施設である。衛星カメラに映りはするものの、まさか生徒が一人しかいないとは夢にも思わないだろう。

 また、未来の人間国宝を担う者は義務教育の特別免除も施されており、申請者、申請期間ともに厳重に秘匿される。しかし、一流に教養は必須であり、宝田御蓮となればなおさらである。ゆえに、放課後にあたる時間までは国数英理社の勉強に割かれていた。

 ただ、女童には疑問に思う余地もないことだったが、授業には大きな偏りがあった。本来のカリキュラム一日分が一時限目に、以降すべての時間が科学に割り当てられているのである。

 科学の中でも、とりわけ生物学に力が注がれていた。宝田御蓮専属の専門家が多数おり、彼らの指導のもと、実験棟にて、多種多様の器具の扱い方や分析の方法を学ぶ。稽古そのものとは関係のない事柄ばかりだったが、実験には精密さや集中力が必要となるため、女童はその能力を磨くための授業なのだと捉えていた。

 本来の学校でいう放課後、実験棟から教室へ戻ってようやく稽古の時間となる。

 稽古には独特のものがいくつかあった。

 たとえば、静物鑑賞。多種多様の無機物をただひたすらに観察するという内容だ。

 初期は書道作品や生け花といった躍動感が分かりやすいもの、中期は人形やぬいぐるみ、銅像や氷像といった生物を象ったもの、後期は陶磁器や漆器、ガラスの破片や錆びたネジ、はてには一滴の水といった無機物らしい無機物が対象となった。

 宝田御蓮の舞は特に型を重視するため動きは最小限。しかし、静止状態が退屈であったり無駄であったりしてはならない。この稽古を通して、静物が持つ美を我が身のものにするのである。

 人間国宝について学ぶこともあった。重要無形文化財を極めて認められた者たちについて、生い立ちや環境、信条、流儀、人格など、偉人を構成する要素を知ることで、偉人が何ゆえに偉人であるかを理解し、自らが偉人となるために必要なものを取り入れていくのだ。

 教材となる人物の中には当然、歴代の宝田御蓮も全員揃っている。同じような美白の姿が並ぶ中でもとりわけ美しく映っていた母親の姿は、女童の頭の中に未だ鮮やかに残っていた。

 ただ、基本的には舞踊の土台を固めることが中心である。土台とはすなわち舞の型。スタンド式のホログラム装置を起動し、数万以上ある型の中から無作為に映されたものと同じ体勢を取る。一定時間が経つと別の型が表示されるので、それに合わせて体勢を変える。これを延々と繰り返す。

 一見容易そうだが、力の出し入れや呼吸のタイミングに一ミリ秒、伸ばした指先や身体の傾きに一度、型から型への遷移に一フレームのずれがあるだけで見栄えが著しく損なわれてしまう。加えて即興で、無限の組み合わせに対して行うのだ。意識してこなすだけでも相当の労力が必要となる。しかし、宝田御蓮の名に相応する舞を踊るには、これを無意識でそつなくこなせる技量が必須なのだ。

 顧問は複数人いるが指導をすることはない。筋肉や柔軟性を維持できているか、技術に乱れがないか、ウォーミングアップやクールダウンが適切に行われているか。そのようなことに目をこらしてただ見守ることが彼らの役割なのである。

 稽古が終わった後は清掃を二時間かけて行う。ただし、清掃それ自体ではなく、個性の芽生えや育成が主目的だ。

 数ある伝統芸能がそうであるように、継承は模倣と同じではない。師の真似を繰り返す中で、時には葛藤や挫折にもがきながら、やがて独自の方向性、すなわち個性と結びついたものを確立した末に継承が認められる。

 だが、宝田御蓮は情を持たず、ゆえに苦悩を知ることができない。模倣が模倣で終わってしまうのだ。そこで、清掃という単純作業が役に立つ。その日に学んだ内容を頭の中で整理していく中で、ふいに情報同士がリンクして発想が生まれる。情がなくとも神経回路には個人差がある。ゆえに発想にも相違がある。これが宝田御蓮の個性として発芽し、成長していくのだ。

 清掃用具を片づけて正門を出るころには午後八時を越えている。再び御守と面を合わせ、九時に帰宅し、十時に就眠する。

 以上が彼女の平日のスケジュールである。

 土日は家を出てから帰るまでの時間すべてが祖母直々の稽古に変わる。

 内容は一対一で舞を模倣するのみ。しかし、ただ真似をするだけではない。稽古場や清掃中に浮かんだ、あるいはまさに今閃いた発想を試しながら、自身に相応しい宝田御蓮を見出していく。

 こういった日々の繰り返しによって、宝田御蓮が出来上がっていくのである。

 そして、ようやくその日が来ようとしていた。



 夕餉。いつもと同様に祖母が切り出す。

「何か変わったことは」

「特にありません」

「そう」

 普段であれば、会話はここで終わる。しかし、今日は一つ多かった。

「明日は誕生日ね」

 祝いの言葉、ではない。

 宝田御蓮の襲名は十の歳に行われる。

 今、彼女は九つ。すなわち、宝田御蓮に相応しいかどうか、明日に見定めると言っているのである。

「はい」

 彼女もまた心得ていた。試験の流れについては昨日さくじつに御守から説明を受けていた。また、襲名に伴う宴については、各講師からも激励とともに話を聞いていた。

 十の歳になると、宝田御蓮に相応しい人材であるかどうかを見定める試験がある。時間は授業終了から一時間後。場所は体育館だが、これも外見は通常の学校を模したもので、内部は舞台そのものになっている。そこへ各講師や顧問を観客として招いて舞を披露するのである。ただし、審査員は祖母一人だ。

 合格すれば、その日の夜に祝宴が行われる。会場は実験棟。正確には、隠し階段の最下階にある大部屋。その会の中で襲名を行い、公衆には後日改めて発表するという段取りである。

 彼女はいつも通りにことを済ませ、布団に入った。

――宝田御蓮になってちょうだい。

 頭の中で聞こえた声に、彼女は小さく頷いた。



 翌朝、女童は普段通りに登校して授業を受けた。体育館では準備がせわしなく進んでいたが、彼女が特別することはなかった。化粧はかえって人間味が出てしまうため不要であり、着付けは着物が質素で装飾もなく一人で行っても時間を取らないためである。

 開演時間ちょうどになると、廊下を歩くのと変わらぬ足取りで、彼女は舞台に現れた。

 期待の色を鳴らす拍手は、彼女が舞台中央に立ち止まるとぴたりとやんだ。

 緊張とのせめぎ合いや照明の熱で増す興奮とは無縁である彼女も場を読むことはできる。集中豪雨の視線、固結びの空気、埃一つ立たない静けさ。今までが練習であり、今からが本番だと告げている。

 もし、不合格と判断されたらどうなるのだろうか。不安ではなく単純な疑問として頭をよぎった。また十年後に見定めを行うのだろうか。娘を産んで託すのだろうか。あるいは、それこそ本当に宝田御蓮が絶たれてしまうのだろうか。

――宝田御蓮になってちょうだい。

 いや、関係ない。襲名するのだから。

 宝田御蓮の舞踊では、それぞれ「一」から「百」と名付けられた型を順にこなす。正座の姿勢を取って裾を直して「一」、三つ指をついて「二」、そして深々と頭を垂れて「三」。宝田御蓮の舞には礼までもが組み込まれている。上半身をゆっくりと起こして「四」、右足立ちになって「五」、両膝を揃えて立って「六」。

 そして、雅楽が始まった。歌謡はない。宝田御蓮に訴えるべき情はないのだから。

 情なき舞は無味だろうか。問われて、そうだ、と答えられるのは、宝田御蓮を知らない者だけである。

 上半身の浮き沈み、四肢の所作、一つ一つの舞の型。どこを取っても自然かつ荘厳である。無機物に対して覚える無機質さや偉人に対して抱く畏怖と同じく、共感の付け入る隙は全くない。

 昔から「日本舞踊は五月の花、宝田御蓮は断崖の花」と謳われている。辛く寂しい気持ちを侘び寂びという情緒へ昇華したのが日本の伝統舞踊であり、逆に徹底的に削ぎ落とすことで神性へ昇華したのが宝田御蓮であるという意味合いだ。

 また、「歌舞伎の風格、能の仮面、文楽の身のこなし」という評価もある。威厳を放ちつつも表情は変えず、人形のような所作で舞うさまを日本の代表的な伝統芸能で喩えた言葉だ。

 しかし、やはり比喩は比喩。宝田御蓮を形容しきる言葉はない。舞を眼前で目にした観客の中にさえ、言語化できる者は一人としていなかった。ただ、間違いなく言えるのは、宝田御蓮の舞には人の目を釘付けにする神性が宿っているということだ。

 観客に時が戻ったのは「千」の後。すなわち、舞の終わりを告げる一礼の後だった。我に返るまでの静寂があり、彼女が舞台を下りてようやく、歓声と拍手が湧き起こった。

 舞台袖。女童が一つ瞬くと、集中で縮こまっていた視界がぱっと広がった。背後では拍手が未だに鳴っていて、薄暗い中には非常口の淡い緑と祖母の影があった。

 ふと、衣装からふわりと匂いが香った。

 歴代の宝田御蓮の匂い。

 きっと、この中には母のものも……。

 そう思った途端、目の奥がツンと塩辛くなり、頬に温かい何かが幾粒も、幾粒も流れた。顔を拭うという行為は朝の洗顔でしかしたことがないことに思い至り、しかし拭くための布がないことに気付いてようやく、今、自分が泣いているのだと分かった。

「どうしたの」

 怪訝そうに伺う祖母に、女童は流れる涙をそのままにして言った。

「おかあ様のことを考えてしまって」

 祖母は何も言わなかった。

 非常口から出ても、更衣室で制服に着替えても、実験棟に入っても、女童の涙はずっとこぼれっぱなしだった。祖母は彼女を先導しながら「今回もです」と各講師に連絡をしていた。

 実験室に入ると、祖母は慣れた手つきで上下式黒板を上げた。確かに講師がスライドさせるところを見たことはなかったが、まさかこんな場所に隠し階段があるとは女童も想像していなかった。

 段差を跳び越えて、人が二人並んでちょうどの狭い入り口に立つと、すっと落ち着きが戻った。涙も、もう流れていない。

 祖母が隣に並び、涙の跡を手で拭う女童に言った。

「入って」

「先生方は?」

「いいのよ」

 階段に窓はなく、電灯もない。祖母の足元でぱたりと扉が閉まる音がすると、ぼんやりと明かりがついた。ランタンを取り出したのだ。

 照らされた壁や床は木製で、使う機会がほとんどないのか、ところどころ剥げており、ほのかにかびの臭いがする。

 祖母の明かりに付き従い、軋む階段を折り返しながら下りていく。一段ごとに心が襲名に向けて整っていく。

「ここよ」

 祖母は鉄扉の錠を外し、女童に開けるように促した。

 この先が会場。この先で襲名。この先に、母も願ってくれた宝田御蓮がある。

 彼女はゆっくりと、取っ手を下げて押した。

 中に踏み入る寸前、ふと後ろを振り返った。

 扉から漏れた光が闇を淡くぼかしている。

 下りる階段が、もう一つ、あった。

「えっ」

 背中にバンと衝撃が走る。転げるように部屋へ入ってすぐ、背後でがちりと音がした。血の気がすうっと引くのを感じながら後ろを見ると、祖母は普段以上に血の色が薄い面をしていて、南京錠を静かな所作で数度引っ張り、鍵がかかったことを確かめていた。

「どういう、こと?」

 宝田御蓮の襲名は最下階にある大部屋で行われるという話だった。しかし、今いる部屋は最下階ではない。そのうえ、室内は巨大な実験室といった様相で祝宴とは程遠い。

 彼女は混乱したまま周囲を見渡し、内外ともに錠を付けられる扉は、部屋の異常性を示す一つに過ぎないのだと知った。

 真っ白な四方の壁には、無数のプレパラートの像が目に痛いほど明瞭に映写されている。ぬるい空気には、あちこちで換気扇の呻き声がするというのに消えきっていない薬品臭が混じっている。床はガラス張り。専門用語ばかりで彼女の知識をもってしてもほとんど読み取れない英語論文を中心にちらかっている。かろうじて分かったのは、それが遺伝子工学に関するもので、ほとんどが「身体を――に戻す――溶液の研究」について記されたものであるということだけだった。

「歴代の誰一人として、あなたほど出来の悪い子はいない」

 研ぎ澄まされた刃物の声に振り向いた。悲憤も失望もない、しかし憐憫も遺憾もない淡々たる表情で切っ先を向けている。

「美顔のために十二回、容姿のために三十五回、芸才のために六回、人格のために百十五回。繰り返しても、繰り返しても、まだ足りない」

 にじり寄る祖母から目を離せないまま、書類を足で押しのけてただただ後ずさる。

 恐怖の感情はなくとも危険に対する防衛反応ははたらく。祖母が今ほどまでに鋭い無表情をしていたときは以前にあっただろうか。あったとして、どのようなときだったか。何度も見たことがあるように思えてならないというのに、頭は空回りするばかりで、何も思い浮かばなかった。

 しばらく後退して、腰に鉄の棒が当たった。足はさらに後退しようとした。それが棒ではなく柵だと気付いたときにはもう遅かった。身体はすでにバランスを崩していて、瞬く間に視界は天井へと移り、背中から落下していた。

 ざぶんと落ちた先は透明でわずかに粘性のある液体。ガラス張りの下は水槽だった。つま先立ちでようやく届く水面から顔を出して息を吸い込むと、充満している臭いに思わずえずいた。

「放り込む手間が省けたわ」

 祖母は柵に手をかけて見下ろしていた。縁までの距離は遠く、手を伸ばしても届かない。

「私をどうするの」

「遺伝子を書き換え直すのよ」

 祖母は淡泊に答えた。

「だから、また、受精卵からやり直し」

 繰り返しても、繰り返しても、まだ足りない。

 頭に凍てつきこだまする声。

 彼女は悟った。おかあ様は亡くなったんじゃない。おばあ様が――。

 泡の粒がぴちぴちと音を立ててくっついていくような振動。やがて、それが自分の細胞が縮こまりながら一つにまとまっていくことで起きているのだと気付いた。

「おかあ様、どうして」

 頭や手足は先端から押しつぶされるような激痛を伴って小さくなっていき、溶液に横向きの姿勢で身体が浮いた。「どうして」と数度繰り返した舌は下あごとひっついて止まり、声にならない声を上げる唇は両端から閉じていき、唸り震える喉も徐々に狭まっていった。髪を筆頭に眉毛や睫毛、産毛といったあらゆる毛はぼろぼろと抜けていった。瞼はすでに引っ付いていて前が見えない。肺が萎んで空気がぽこぽこと鼻孔から漏れていく。やがて、腕や脚、指、背中が曲がり、へその緒のない胎児の姿になった。

 頭の上のほうから声が降った。

「宝田御蓮は絶世の美貌と文武両道の才を持つ、浮世離れした女が引き継ぐのよ。誰かを思う感情はない」

 容姿に貫禄、実力、そして、心。ほころびがたった一つあるだけで、もはや宝田御蓮ではなくなってしまう。

 身体はなおも縮んでいく。水面に浮かぶ穴ぼこだけの耳がついに塞がるというその直前、消えかけの鼓膜に届いたのは、数十年の重みがある願望だった。

「次こそ、宝田御蓮になってちょうだい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

宝田御蓮 大河井あき @Sabikabuto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ