月だけが光る空の下

亜咲加奈

お前と一緒にいたい。ただそれだけだ

 月光が格子窓から差し込む寝台の上で、男が二人、鍛え上げた体を横たえている。

 息を弾ませ、汗がにじむ肌と肌を合わせたまま、互いに腕を背中に回した。

 徐晃が天井を見ながらつぶやく。

「お前とこういう風にできるようになることを、俺は心からずっと願っていた」

 曹洪はその一言に、在りし日を思い返す。

 生きることに疲れはて、死を願っていた日々を。


 曹洪は幼い頃、曹操と同じ寝床で眠ることが好きだった。五つの曹洪にとって、従兄弟であり兄と慕う曹操の広い胸に頬をすりつけ、曹操の手を握りながら目を閉じて眠りに落ちる毎晩が至福の時だった。

 それを、ずっと続けたい。ただ、それだけだった。それだけが曹洪の願いだった。

 曹洪は曹操と、曹操は曹洪と二人でいることが何物にも替えがたい心の支えである。二人をそっとしておいてほしい。曹洪はそう願っていたのに、伏皇后は二人の秘め事を悪質な噂に仕立て上げて流した。確かに曹操と二人、体の愛を交わしたことはある。けれど曹操の年齢が進むにつれて体に衰えが見えてきたことや、彼の持病の頭痛がひどくなってきたことで、交合は片手の指で数えるほどしかできなかった。

 伏皇后は処刑されたが、彼女の死後も噂だけは生き残り、広まり続けた。

 従兄弟の夏侯惇や夏侯淵、曹洪の実兄の曹仁は噂を信じた。特に夏侯惇は何度も曹操に意見した。普段から他人に干渉しない曹仁ですら、曹操に曹洪との関係について問いただす場面も見られた。

 ――俺はただ、兄上と一緒にいたいだけなのに。

 曹操は曹洪を守ってくれていたが、曹洪の心は次第に弱っていった。

 曹操に対する想いは変わらない。しかし、二人で身を寄せあっていても、心が安らぐことが減っていた。だから曹仁の救援を申し出たのである。いや、救援したかったのではない。関羽と刺し違えたいと思っていたのだ。

 このまま曹操と二人で身を寄せあい、安らげる日がもう約束されないのであれば、生きていても仕方がない。曹洪はそう考えていた。

 しかし曹操が派遣したのは徐晃だった。

 ――お慕いしておりました。

 徐晃は涙を流してそう告げた。

 曹操は徐晃を亡き者にしようと試みた。それを悟った曹洪は、言葉を失った。

 ――兄上は俺を手放したくなかった。同時に公明どのにも渡したくなかった。

 だから曹操は曹洪を徐晃に会わせたのだ。その時曹洪は徐晃に特別な感情をもっていなかったから。しかし徐晃にとっては、想う相手と言葉を交わすことのできるただ一度きりの機会だ。そのただ一度きりの機会で、想う相手がおのれに何の関心ももっていないことを知らされれば、徐晃はすべての希望を打ち砕かれる。関羽を撃退したとしても、その過程で命を投げ出すかもしれない。

 ――兄上はそこまで考えた上で、公明どのと交わした、暇乞いに訪れることを俺に伝えるという約束を果たさなかった。

 曹洪は初めて曹操を恐ろしいと感じた。

 二人で寄り添いほほえみ交わした日々が黒い影に塗りつぶされていく。曹洪にはそう思えた。


 徐晃と曹仁が関羽を破った時、曹洪は曹操と摩陂にいた。

 その朝も曹操と二人で迎えた。

 曹洪は曹操の髪を、曹操は曹洪の髪を結い直す。そのあと互いに手伝いながら甲冑をつける。それが二人で夜を共にしたあとの習慣だった。

「公明を迎えに行く」

 曹操の口からそのあざなが出た時、曹洪は思わず曹操の顔を見た。

 口もとだけほほえみ、曹操は尋ねる。

「どうした、洪」

「いや……」

「俺に言っていないことがあるな」

 曹洪は観念した。下を向き、口を開く。

「公明どのは俺に言った。お慕いしておりました、と」

「やはりな」

 曹操が発した声の冷たさに、曹洪の足はすくむ。

「それでお前は何と答えたのだ」

「何も」

「公明は他に何か言ったか」

「いや」

「奴の様子は」

「泣いていた。何も言わず、雨の中を去っていった」

 曹操は目を細めた。

「お前も来い」

 摩陂から七里(2.8キロ)先の地点まで進み、徐晃の軍勢を待つ。

「徐」と大きく縫いとられた旗が何本も見えてくる。

 曹操は曹洪や許褚、虎豹騎の数十騎を伴い、馬を歩ませる。

 旗を持つ歩兵が左右に分かれ、その間から徐晃が騎馬で進み出る。大斧の柄を握り込み、眉目は固めたように動かない。

 曹操だけが前に出た。

 その背中を見ながら、曹洪は内心落ち着かなかった。激しく降り注ぐ雨に打たれながら声をしぼり出す徐晃と、彼が流す涙が、目の前に浮かぶ。

「いかがいたした、子廉どの」

 前を向いたまま許褚が問う。

「大事ない」

 答えたが、許褚は返答しない。曹洪は先ほどよりも声を強めて同じことを伝えた。

 許褚がわずかに顔を曹洪に向ける。

「顔色がよくない」

「案ずることはない」

 強い口調で言うと、許褚は何も言わずにまた顔を前に戻した。

 曹操と徐晃が馬首を並べて戻ってくる。

 曹洪は顔を上げた。

 徐晃と視線がかち合う。

 しかし徐晃はすぐに目線を下げる。

 曹洪は努めて平静を装い、前を向いたままでいた。

 曹操が馬を止め、徐晃も止めた。明るい声で曹操は徐晃に言う。

「恩賞は弾む」

 徐晃は眉ひとつ動かさない。口を引き結び、面をわずかにうつむけている。

 口もとだけを笑う形にし、鋭い両目を徐晃に据え、曹操は言葉を継いだ。

「何が欲しい」

 曹洪は弾かれたように顔を上げた。

 許褚と虎豹騎は沈黙を保っている。

 ――お慕いしておりました。

 徐晃の声が、涙が、曹洪の耳目によみがえる。

 徐晃は大斧の柄を握り直した。彼の右腕に力がこもるのを曹洪は見る。

「王」

 徐晃は声を張り上げる。

「お言葉を返すようでございますが、そのようなお話は、ここでなさるべきではないと存じます」

 その言葉は曹洪にはっきりと届いた。

 ――声を張ったのは、その言葉を俺に聞かせるためか。

 曹洪が気づいた時、目の前にいた曹操がまるで徐晃の目から曹洪を隠すように馬を動かした。

 曹操は近くにいる者たちを凍りつかせるような声で答えた。

「お主の言う通りだ」

 曹操と徐晃が並んで進む。

 曹洪はしばらく動けずにいたが、許褚に促され、やっと馬を歩ませた。

 摩陂に帰りついた頃、曹洪の実兄曹仁も軍勢を率いて合流した。

 曹仁は曹洪の顔を見るなり言った。

「今にも死にそうではないか」

 曹洪は何も答えず、ただ、下を向いた。


 その夜曹操は大量に酒を運ばせ、豚をつぶし、諸将を集めて振る舞った。

 曹洪は何も口にする気になれず、幕舎で一人甲冑をはずして戦袍だけになり、寝台に腰かけていた。

「将軍、曹子孝将軍がお見えになっております」

 兵士の声に曹洪は弱々しく応ずる。

「入ってもらえ」

「かしこまりました」

 曹仁が幕を引き上げ、大きな体を現した。手にした皿には焼いた肉が一切れ乗っており、香ばしい匂いが漂う。

「ほんとうに食わんでいいのか。お前の分を分けてもらってきたが」

「いらない」

「お前、どうしたのだ」

「何でもない」

 曹仁はため息を一つつくと、肉が乗った皿を卓の上に置いた。

「腹が減ったら食うのだぞ。それより孟徳兄、何かあったのか」

「何か、とは」

「苛立っていた。そういう孟徳兄を見るのは、俺は初めてだ」

 俺と公明どののことが原因なのだろうか、と、曹洪は胸の内に痛みを感じる。それを曹仁に気取られないように、わざと話を変えた。

「今、宴会の最中だろう」

「もうお開きになった。孟徳兄は幕舎に帰ったよ」

 曹洪は口の中が乾いていることに気づいた。立ち上がり、卓の前に行き、水差しから杯に水をいっぱいに注ぎ、ひと息に飲み干す。

 杯を静かに置き、言葉に感情が乗らないように気を張りながら尋ねた。

「公明どのもお帰りになったのか」

「一杯飲んだだけで陣へ戻った」

 曹洪は初めて曹仁に顔を向けた。

「疲れている。早く休みたい」

「そうしろ」

 幕舎を出た曹仁の足音が聞こえなくなったあと、曹洪は甲冑をつけて徐晃の陣へ向かった。


 兵士たちが談笑している陣が多い中、徐晃の陣だけはいまだ戦闘が続いているかのように兵士たちが緊張した面持ちで立ち働いている。

 当直の兵士に誰何され、曹洪は答えた。

「曹子廉である。徐公明どのに面会したい」

 兵士はすぐさま曹洪を徐晃の居場所まで案内すると、たちどころに走り去る。このきびきびした動きも徐晃による常日頃からの言いつけに由来するものであろうと曹洪は考える。

 月だけが光る空の下、徐晃は一人甲冑をつけたまま、自身の幕舎から離れた草地に立っていた。

「公明どの」

 徐晃がゆっくりと曹洪に体を向ける。

 素っ気ない言葉が曹洪に放り投げられた。

「拙者に何のご用がおありなのですか」

 言われて、曹洪の喉は詰まる。何のためにここへ来たのか、徐晃の陣まで馬を進める間ずっと考えていたのに、彼を前にしたとたんその想いが消え失せる。

 徐晃は背を向けた。

「もう、休もうと思っております。火急の用件でないのでしたら、明日お伺いいたします」

 曹洪は、それがほんとうに伝えたい言葉ではないことを知りながら、その言葉を口にする。

「それがしの実兄を救うてくださいましたこと、感謝申し上げます」

「礼など不要です。当然のことをいたしたまで」

 これ以上、彼にかける言葉はない。そう思いながら曹洪は最後に尋ねた。

「洛陽へ、お戻りになりますか」

「戻りますが、それが何か」

 彼と交わしたい言葉はもっと頭に浮かんだはずなのに、何一つ見つからない。曹洪は視線を下ろした。

「王はきっと、公明どのの功績に応じた恩賞をくださると思います」

 徐晃は背を向けたまま、固い声で答えた。

「もうお戻りになられた方がよろしいのではありませんか。ご一族の方々がご心配なさいます」

 胸に痛みが走り、曹洪は別れの言葉も口にせず、徐晃に背を向けてその陣をあとにした。


「あの時、俺はお前を帰したくなかった。嬉しくて、抱き締めてそのまま朝まで離したくなかった」

 月光が照らす寝台の上で徐晃が曹洪を抱き締める。

「俺はただ、お前と一緒にいたい。それだけだ」

 曹洪はようやく、あの時口にできなかった言葉を見つけることができた。徐晃を抱き返し、その耳にささやく。

「俺もお前と一緒にいたい。ただ、それだけだ」

「もう、離さない」

 徐晃が言う。

「俺も、離さない」

 曹洪が徐晃に目を合わせる。

 二人の唇が深く重なりあった。







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