オーレンテ1898
飯田太朗
オーレンテ1898
「先生、オーレンテ、っていうワイン知ってますか?」
「知らん!」
僕はキーボードを叩きながら応じる。
「イタリアのワインらしいんですけどー、何でもなかなか手に入らない上にイタリアの人も『何それ?』ってなるワインみたいでー」
「与謝野くんその話今必要か?」
僕はイライラしながらキーボードを叩く。〆切まであと一時間。鬼の缶詰。
「あ、そうですね先生。あと一時間です」
「分かっとる!」
「急いでくださいね」
「急いでいるのに君がワインの話なんかするから……」
「あ、そうなんですよ。そのオーレンテってワインが……」
「うあーもう黙ってろ! 加筆はあと三十分で終わらせる! それから見直し、校正! 五十分後には君んとこに回せる予定だ!」
「はぁい、お待ちしてまぁす。あ、そうだ。ケーキ買ってきてて……」
この
「原稿って何で落ちるんでしょうねー?」
妙なところでテレパシーが走るのか、与謝野くんが呑気な声を上げる。僕は返す。
「万有引力だろ」
「あはは。おもしろーい」
それから二十分ほど。
加筆は終わった。見直しもほぼ終わり。八割達成。残り五分もあれば終わる。よし、ゴールが見えてきた……! というところで、僕は口を開く。頭の中に、それがずっとあったからだ。
「で? 何なんだそのオーレンテってのは」
「だからぁ、ワインです」
「どんなワインなんだ」
「さぁ?」
「……君、人と真面目におしゃべりしたことあるか?」
「だって分かんないんですもん。だから、試しましょ?」
「……は?」
「あるんです。オーレンテ」
「はぁ?」
「オーレンテ1898っていう
*
さぁ、そういうわけで。
僕たちの前にそれがあった。
オーレンテ1898。
「1898っていうのは……?」
「一八九八年産って意味らしいですね」
「……百二十年以上前のワインを手に入れたのか君は」
「みたいです」
いくらした、とは訊けない。
「の、飲むか……?」
僕はコルク抜きに手をかける。
「これ開けていいやつなんだよな?」
「これの他に残り五点あったので、大丈夫かと」
「……逆に言うとこの世に六本しかないんだな?」
「そうなりますねぇ、あはは」
あははじゃねーだろ。
僕たちの前の丸テーブル。正確には、僕が先月「バーの片隅でワインを飲んでいるキャラを書きたい」と思ってIKEAでバカ安い値段で買った北欧の丸テーブルの上にそれはあった。オーレンテ1898。カーキ色というか、濁ったグリーンの瓶の中に赤黒いそれがあった。ソースが入ってる、と言われても納得できそうなくらい、濃くて、重い。実際少しテーブルを揺らしてみると、やや粘度のある液体の動き方をする。
ラベルは少し黄ばんでいる。『AULENTE』確かにそう書かれている。雑な質感の紙が年季を感じさせた。やはり、古く、格式高いワインなのだろう。
僕がコルク抜きを片手にジリジリしていると、与謝野くんが急にそれをひったくった。
「あーもう先生じれったいー。私が開けますね!」
「おいおいそんな大丈夫か……」
「大丈夫って、ただのワインですよワイン。少し古いだけの……」
と、与謝野くんがオーレンテ1898に手をかけた時だった。
パタッ、と。
与謝野くんが、倒れた。
*
「おいおいおい! しっかりしろ!」
と、与謝野くんの肩を掴んで体重を支えると、僕は手近にあったソファに彼女を横たえた。グレーのクッションの上に身を横たえた彼女は目を瞑り、浅い呼吸をしていた。僕は与謝野くんの頬を軽く叩いた。
「おい……おい!」
返事はない。
「おい与謝野くんどうした? 大丈夫か?」
返事はない。
「おいどうした? 何だこれ……?」
と、困っていると。
背後で、声がした。
それは低くて渋い、男性の声だった。
――我を、望むのならば。
僕は、振り返る。
人はいない。
――我を、望むのならば。
しかし声はする。低くて重い男性の声。
――我を望むのならば、示せ。
僕はようやく、気づく。
オーレンテ1898。
それが、しゃべっている。
――我を望むのならば示せ。其方が我に相応しいかどうか……
*
まず、状況を理解するのに時間がかかった。
ワインがしゃべっている。
ダメだ。仕事のしすぎで頭がおかしくなったか? 作家なんてのは元々頭がイカれてる奴がやるような仕事だし、初めから片足突っ込んでいたと言っても……。
しかし、与謝野くんは?
彼女はこうして今、倒れている。
――示せ。
しかもワインはしゃべり続ける。
――示せ。其方が相応しいか。
「OK。OK」
僕は両手を上げた。
「まず君は誰だ」
するとワインは答えた。
――オーレンテ、1898号。
「ああ、ラベル見りゃ分かることだな」
――それ以外に何が知りたい。
「君頭の中に語りかけてるのか? 思うに声というより念というか……」
――必要な者にのみ聞こえる。
「君を必要とした覚えはないけどな」
すると頭の中の声が笑った気がした。
――女の魂はもらったぞ。
ぞくりと、した。
――先刻私を開けようとした女の魂は今、私の中だ。私の中でそれは熟成され、時間をかけ、ゆっくりと、美味なる葡萄酒へと変化していき……。
「OK、君のその……瓶の中に入っているのは?」
――私を喫そうとした者たちの魂だ。
「それって飲めるのか?」
――美味いぞ。
「与謝野くんだけ返してもらえればいいんだけどな。ダメか?」
――私に相応しくない女だった。
ワインは続けた。
――よって、私の肥やしとなるべきだ。
「魂を抜かれたこれはどうなる?」
僕は与謝野くんの体を指した。
「置いていかれても困るんだが」
――人の体は脆くて弱い。
瓶は話し続けた。
――すぐに朽ちていくだろう。
そう言われて、僕は与謝野くんの体を見る。
彼女の細い、指の先。
段々と、紫色に……!
「OK分かった」
僕は再び両手を上げた。
「返してもらうにはどうしたらいい?」
ワインは答えた。
――示せ。其方が私に相応しいか……。
「示すには?」
――まずは問いに答えよ。
ワインは続けた。
――朝は四本。昼は二本。夜は三本。これは?
有名ななぞなぞだな。
僕はそう思った。だがこの謎、何かが……。
「ふふ、ふふふ」
僕は笑った。
「分かりやすすぎる。僕をナメるなよ。『足』と付けてないところがミソだな」
上記のなぞなぞに「足」をつけたものの答えは簡単だ。人間。朝は四本足……生まれたては這い這い、四本足。昼は二本足……大人になれば二本足で歩く。夜は三本足……杖をついて歩くから。人の一生を一日の進み方に例えたなぞなぞ。ギリシャ神話のスフィンクスが出したなぞなぞだ。
しかしオーレンテ1898が出した謎には「足」がない。朝は四本。昼は二本。夜は三本。本数しか言ってない。僕は頭を働かせた。それから答えた。
「『本数』に意味があるな。僕が知る限りで本数に意味があるものと言えば薔薇だ」
僕は静かに、続けた。
「薔薇四本の意味は『死ぬまで気持ちは変わりません』だ。二本は『この世界には二人だけ』。そして三本は『あなたのことを愛しています』。合わせると、だ」
死ぬまで気持ちは変わりません
この世界には二人だけ
あなたのことを愛しています
「つまり一日がかりの、ちょっと長めの愛の告白だな」
そうつぶやいた僕にオーレンテ1898は返してきた。
――見事。
どうもクリア、ということらしい。
――次だ。
「次?」
僕は返した。
「何問続くんだ?」
――今の問いは、「お前」を試した。
念は続ける。
――続く問いでは、そこの女の魂を定める。
「なるほどね。ラスト一問」
――では。
ワインは続けた。
――お前ペンを持っているな。
僕は胸ポケットを見る。確かに、ある。大切な人からもらったウォーターマンのボールペン。
――そのペンを私に売れ。
僕は首を傾げた。
ペンを売れ? 何だそれ。ちょっと勘違いしてる系の人事担当者が、面接をする時に、就活生困らせるためにするような質問だぞ。さっきの薔薇のなぞなぞと毛色が違いすぎる。なんだこれ? どういう意味だ?
僕はちらりと目線を逸せて与謝野くんを見た。彼女はやはりソファに身を横たえて眠っている……しかし!
その手が、指先が、ハッキリと変色し始め……。
まずい!
僕は一気に沸騰した。このままじゃまずい。与謝野くんが朽ちてしまう。それも、僕に課されたお題は「ただ朽ちさせない」だけじゃない。与謝野くんが五体満足のまま朽ちさせないことだ。正直今の指先が潰れ始めている段階でかなりまずい! 考えろ。考えなければ……!
ペンを売れ? ペンの魅力をプレゼンしろっていうのか? このペンに付加価値を与えて目の前のこいつが……目の前のこのワインが欲しがるように(ワインがペンを必要とする場面なぞ想像がつかんが)売り込まないといけないとか、そういうやつか?
僕は混乱した。ペン。そりゃ、僕にとってこのペンはいくら金を出されても売れないとんでもなく貴重なものだが、それを万人が万人欲しがるペンになんてどうやって……。
……いや、待てよ。
さっきこいつは「ペンを売れ」と言ってきた。逆に言うとそれしか言ってない。つまり、そうか。それだけなんだ。それだけなのかもしれない。
そうして、見えてきた。
……ははあ、こいつあれか。ただなぞなぞを出して答えさせるんじゃあないな。
そう分かるともう答えは早かった。僕は応じた。
「ああ、いいよ」
ペンを差し出す。
「いくらで買う?」
頭の中の声が笑った気がした……いや、確かに、ハッキリと。
――フフフフフ、ハハハ、ハハハハハ。
僕もニヤリと笑う。
こいつは……このオーレンテ1898はただ単に「そのペンを私に売れ」と言ってきた。そう、ただそれだけ。それだけなのだ。
例えばこれに付加価値をつけて……有名な文豪が使っていたペンですなどと言って売り込む。それもありだろう。だがこのペンはただのウォーターマンのボールペンだ。文豪は使っていない(僕は文豪になるかもしれないが確定ではない)。嘘をつくのは選択肢の一つだが周到につかねばならない。あるいは、ウォーターマンの部分に比重を置く手もあるだろう。有名なブランドだ。扱う商品も決して安くはない。だがこれはメーカー小売価格がハッキリしてる分、その価格以上の売り込みができない。仮にその価格に相手がメリットを見出せなかったら取引はチャラ……売ることには失敗する。だったら、そう。だったら。
聞かれたことのみに答える。「売れ」と言われたから「いくらで買う?」と返す。これは無駄がない分、つっこめない! 隙がない回答だ……一番
こいつはただなぞなぞを出してそれに答えさせるのではない。
出されたお題に対して当意即妙な返しができるか。
あるいは出された状況を論理的に説明できるか。
それを見ているのだ。
――合格だ。飯田太朗。
僕はニヤリと笑う。
「名乗った覚えはないけどな」
するとワインは応じた。
――どんなものにもラベルはある。
気のせいか、ワインの瓶が揺れた気がした。
――ラベルは大事だ。だが、ラベルだ。中身ではない。そのことをしっかり覚えておくといい……まぁ、余計な説教かもしれないが……。
「ありがとう」
僕は会釈する。
「覚えておくよ」
*
与謝野くんが目を覚ました。僕はテーブルメイクを終えて、新鮮なワインを一本開けたところだった。
「あれぇ、先生?」
寝ぼけ眼の与謝野くんが訊いてくる。
「オーレンテは?」
「あれはダメだ」
僕はぶっきらぼうに返す。
「貴重なワインだ。今度作品に使う。飲まない」
「ええーっ、そんなぁ」
分かりやすくむくれる彼女に僕は告げる。
「代わりに飯田家秘蔵のワインを飲むぞ。信州の知る人ぞ知るワイナリーで作られた貴重なやつだ」
と、途端に与謝野くんは目を輝かせる。
「ええーっ! いいんですかぁ? 信州のワインなら絶対日本人の口に合うやつじゃないですかぁ。正直イタリアの古いだけのワインよりそっちの方が嬉しいなー。るんるん」
まったく……。
僕は台所に置いたあの瓶を思いやる。
ワインセラー、買わないとな。
了
オーレンテ1898 飯田太朗 @taroIda
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