第6話






 扉の前で一度立ち止まり、深く息をする。


 ゆっくりと目を開くと、孫策は自分の手で扉を押し開き、謁見場とした離宮の広間へと歩き出した。

 座るべき、簡易的な玉座と、そこより数段低くなった場所に、一人の男が膝をつき、姿勢を正している。

 玉座の側まで歩いて行き、孫策は豪奢な金色の深衣を身に纏ったその姿を見下ろした。


(こいつが)


 贅に満ちた日々を暮らしていることが分かる、恰幅のいい体格。

 考えていたより、ずっと身体は大きい男だ。

 洛陽や長安の、ひ弱な役人たちが、これでは太刀打ちできないのも無理はない。

 ふっくらとやや肥えた体格はしているものの、元々背は高い方だったのだろう。

 この男が日々精を出す悪行の数々を考えなければ、立派な風体の、と表現してもいい佇まいだった。

 孫策は、彼自身がこの世で最も嫌っていた袁術を、てっきりもっと醜悪にしたような人物像を思い描いていたので、それはまず意外だった。

 長身で、武官として身体を鍛え上げている孫策とは意味合いは違うが、堂々とした貫禄は確かにある。



 漢の国で最も邪悪な男と言われている――――董仲穎とうちゅうえいである。



 入って来た孫策の足音が止まると、董卓とうたくは顔を上げた。

 彫りの深い顔立ち。

 肉はついているが、これも想像していたよりも、ずっと普通の、身分の高い豪族らしい、堂々とした表情をしていた。

 容姿の優れた男ではないが、まず、威風がある。

 力が。

 人に命じる力を持つ人間の顔をしている。

 孫策はてっきり、威風は呂奉先に頼りっぱなしの男を想像していたからこれも違った。

 どんな男があの呂布を飼っているのかと思ったが、今は納得した。

 呂布も巨漢で、威風のある堂々とした男だが、董卓も似た雰囲気があると思った。

 決して、あの呂布が董卓に不釣り合いな武器というわけではないのだ。


(なるほどな。こういう奴だったわけか)


 実物を見ただけでも、孫策の頭は幾分かすっきりしていた。

 絵に描いた邪悪な顔立ちと、醜悪な日々を送る人間らしい醜悪さが、滲み出ているのだろうと想像していたからだ。

 父親の孫堅は、董卓は台頭する前は、暴虐を潜め、むしろ人を懐柔することで、徐々に洛陽宮の中央に忍び寄って行ったのだと言っていた気がする。

 この男が、笑いながら両腕を開いて話しかけて来たら、確かに何も知らない人間は警戒を解くだろう。

 見た目からは、董卓の邪悪さは、驚くほど感じられなかった。


(袁術の方がずっと、見た時から嫌な感じがした)


 ああいう感じではないのだ。

 袁術は自分の愚かさを完全に押し隠せない男だったが、

 董卓は、漢国全土にすでに悪行が鳴り響いているというのに、今になっても尚、人前でこんなに平然と、自分は悪行など何一つしていない人間なのだ、というような空気を出せる男なのである。


(……なるほどな)


 董卓は孫策を見上げてから、拱手をした。


「呉の国の王となられた、孫伯符殿に、ご挨拶に参りました」


 孫策は腰に片手を当てて、僅かに首を傾ける。


「漢の国の相国しょうこく殿自ら祝いに来られたと聞いて出てきたが。

 悪いが、俺はもう漢の国に仕える武官じゃあない。

 ここは俺の国で、あんたが散々、行なったら不幸な結果になると脅して来た戴冠式も今日無事に終わった。

 つまり俺はこの国の王で、あんたが漢の国でどんなに偉ぶってようが、俺には一切関わりがない。


 ――したがって、今日は俺がこっちであんたがそこだ」


 壇上から董卓を冷たく見下ろしたが、男は笑いかけて来た。

 手を解き、背を伸ばし、床にどっかりと胡坐を掻く。

「構わんよ。今では私も<相国>などと偉ぶっていても、元々は涼州の辺境の商人だった。

 商いというのは、言わば人間関係が物を言う。

 私は若い頃はどんな相手とも、こうして床に座り膝をつき合わせて向き合ったものだ」

「へえ。一応自分が偉ぶってる自覚はあるのか」

「私が地べたに座れない人間と思ったかね」

 孫策は思っていた。

 袁術は、決して地べたに座れなどと命じても、我は袁家の袁術なるぞなどと怒りを露わにして、死んでもそれが出来ない男だったからだ。

 こいつは確かに、悪党としても、袁術とは器が違うようだと、孫策は心の奥底で身構えた。

「駄々を捏ねたらぶっ飛ばすいい機会だと思ったんだがな」

「はは……。

 父親に似た、面白い男だな。

 翔貴帝しょうきていが見込むわけだ。

 洛陽にも長安にも、お前のような男はなかなかいない」

 孫策は腕を深く組んだ。


「いないんじゃなくて、お前がぶっ殺しまくってんだよ」


「はっはっは! そうだったか」


 自分の悪行を、董卓は笑い飛ばした。


 ……何故、笑えるのかは分からない。

 董卓の、明るい笑い方に重ねるように、孫策は幼い頃から見つめて来た、周瑜の、二つの顔を思い出した。

 まだ己の正体を何も知らず、無邪気にこちらに手を伸ばして来た、自由闊達だった頃の彼女の明るい笑顔と――自分の血を自覚し、何かこの世界の為にしたいと一人で剣を取って、秘密を持ち、秘密を持つがゆえに相手のことを考え、あまり周瑜は人に自分から手を伸ばさなくなった。

 その、秘密を抱えた後に浮かべるようになった静かな、笑顔。


 別に悲しいわけではないのだと、彼女は言った。

 自分は別に、誰かに無理に戦えと言われているわけではないのだから、今の世には――例え戦いたくなくても、仕方なく、無理に、必要に迫られて剣を取って戦ってる人たちがたくさんいるのだから、それに比べれば自分は余程恵まれているのだからと。

 『所詮、手の届く限りのことしか出来ない』

 だからこれは気まぐれのようなもの。


<手の届く限りの善行>――<闇討ち>。


 好きなことをしているのだから、辛いはずがないし、悲しいはずがないと、周瑜は壁越しに、泣いてる声で言った。

 孫策は長い間、周瑜が何故<闇討ち>などをするのかが、理解出来なかった。

 周瑜は殺しなど望む女でははずないのに、何故殺すのだろうと。

 泣きながら、……殺めるのは何故なのだろうとずっと思っていた。

 馬鹿だとも思った。

 しなくてもいい喧嘩を自分から仕掛けて、泣いている。

 そんな奴は馬鹿だと。


『それは本当に、しなくてもいい喧嘩なのか?』


 父親に指摘されて気付いた。

『己がしなくてもいい喧嘩と、誰かが買わねばならん喧嘩は、俺は違うと思うがな』

 そうか、周瑜は誰かが買わねばならない喧嘩を買ったのだと、

 誰かが拾わなくてはならない火種を拾っているのだと、

 そう理解が出来た時、


 悲しいならやるな。

 苦しいならやめろ。

 会うたびに、お前が遠くなって行く感じがして嫌だ。

 前みたいにこっちのことなんかお構いなしに、ワガママを言ってるお前が好きだ。


 ――泣いている周瑜に、何と声を掛ければいいのか、……ずっと考えていた全ての言葉が霧散して。



『俺が一緒に戦ってやる』



 そう、孫策は自然と口にしていたのだ。

 それ以外の掛けるべき言葉は、何一つ考えつかなかった。

 独りで戦わせないことを選んだのだから。


(周瑜)


 この世には、誰もやろうとしないことを、自分がやらなければと思う人間がいるのだ。

 例え幸せを、平穏に生きれる可能性すら投げ捨てたとしても、出所の分からない使命感に駆り立てられて。 

 何も知らなかった頃の周瑜の無邪気な笑顔を、董卓の笑い方に重ねるように思い出して、孫策は不愉快だった。

 そしてそのあとに、背負わなくてもいい業を背負い込んで、そういう風には二度と笑わなくなった周瑜を思い出し、もっと不愉快になる。



(……なんでこの野郎は、こんな風に笑えんだ)



 周瑜は泣いていたのに。

 

 顔も知らない人間の苦しみを想って、彼女は泣いて、共に戦うと言った孫策を抱きしめて、ありがとう、と優しく声を掛けてくれた。

 笑い方は大きく変わっても、周瑜は周瑜だった。

 昔と変わらない、優しい魂のままだ。

 孫策には分かった。

 董卓のこの、明るい、無邪気と表現してもいいような笑い方が、どういう笑い方なのか。

 これは、何も知らない、他人の苦しみなど自分には関わりが無いと切り離している人間の笑みなのだ。


 そして孫策は――他人の苦しみの為に、笑顔の形を変えた女を愛した。


「……それで?」


 ばさり、と羽織った上衣の裾を捌いて、孫策は玉座に腰を下ろした。

「建国の祝いなど、単なる口実だろう。

 何をしにここに来た」

「そう身構えずとも、本当に他意などない」

「そうか。じゃあ、お前が律儀に今日この日まで送り続けて来た、我が国の建国を非難する文の山を、自分で持って帰るか?

 読まずに樽の中にぶち込んであるからそれなりの荷になるぞ」

「ははは……! 痛い所を突いて来るな。

 だが王とは寛容にあるべきものではないのか。元々我が国だった一部が独立しようとするのだから、私は<相国>という立場上、それは諫めねばならないのだよ。

 私もただの家長であるならば、出て行きたい者にはやってみればいいと言う男だ。

 しかし国は出て行きたいという者を野放しにして、入って来たいと思う者を取り締まらなければ、大きな混乱が起きる」

「お前の口から寛容、なんて言葉を聞かされるとはな。

 貴様は許しを知らない独裁者だと聞いたぞ。

 許してくれと嘆き乞う者達を、貴様は許して来たか?」

「国の在り方と、反乱分子に懲罰を与えることは、一緒ではないからな」


「では建国を脅して来たのは本心ではないのか」


「いや。本心だ。そもそも、私が文句を重ねたぐらいで建国を取りやめるような国ならば、出来上がった所で長続きはせんよ。

 だが、お前は建国をした。決意と情熱は伝わって来たからな。だから労いにこうして出向いたのだよ。

 見上げたものだと思っているのだ。これでもな。

 私が脅せば大概の者は、自ら折れる。

 最近は気骨のある者が大変少なくなって来て、嘆かわしく思っておったのだ」

「誰だって自分の生活や命が大事だ。

 お前は自分が脅せば皆、屈すると笑っているが、横暴な遣り口でそう仕向けているのがお前である以上、お前がそういう人間達を嘲笑うのは筋が違うと思うんだがな」

「孫伯符殿はかつて漢国の、討逆とうぎゃく将軍でいらしたが、私とは実際に会ったことがない。

 私が長安でどのように人々に接しているかは、実際には見ておられぬ。

 人の噂など、あてにはならないものですぞ」


「そうだな。見ていない。

 だが、さして見る気もせん。お前のやり方には反吐が出るからな……。

 お前は人を罰する時の尺度を国の法ではなく自分の感情で決めると言われているぞ。

 それも一人や二人じゃない。

 お前に関わった全ての者が、お前のやり方は醜く、汚く、残虐そのものだと言っている。

 お前は欲しいものがあれば、無い罪を無理に着せ、その人間を罪びとに堕としてから咎人の者だからと搾取し、お前が聞きたい話を聞かせぬ者がいれば、その妻や、母や、姉妹や、時には娘を目の前で兵に犯させ、一族を皆殺しにする時には幼子から殺して、一番最後に老いた父母を処刑し、精神的な苦しみを長引かせると聞いた。

 それも単なる風の噂か?

 お前は日々、国の法に殉じて生きているのか」


「そうですとも」

 董卓は微笑んだ。

「私は国に殉じております。それは即ち、国の法に殉じているということです」

 孫策は足を組み、玉座に頬杖をついた。呆れたような半眼になる。

「この世には、信用ならない人間って言うのは五万といるが、俺は今、今まで生きて来た中で最もたる、信用ならない人間に出会ったと思ったな」

「わたしのことですかな?」

「当たり前だ。お前みたいに平然と嘘をつく奴は嫌いだ。

 まるで真実のようにな」

「それは……残念ですな。私は貴方とは仲良く出来そうだと思ってやって来たのですが」

「冗談か何かか?」

「とんでもない……こんな私でも、信用ならない人間というものがおりましてな。

 無駄に媚び諂い、董卓様の言うことならばと文句も言わず従う人間を、私は驚くほど信用しないのですよ。

 貴方は恐れず公然と私を批判する。

 勿論、罵られるのが好きなわけではないが、ですが<相国>ともなると、公に批判してくれる人間の方が少ないのです。

 ですから、貴方は信用できる人間だ」

 孫策は鼻で笑った。

「そうか。生憎ありがとうと言う気にもならん。

 おだてられようが、お前が俺を信用していようが、俺は永遠にお前という人間を信用しない。

 まるで批判してくれる人間を欲してるような口ぶりだが、そんな広い器量が本当に貴様の中にあるのか、董卓。

 自分に逆らう者をゴミのように処分しているくせに」

「そうでしたかな? 私に逆らう者とは……一体どこのどなたのことでしょう」

 董卓はあくまで、この謁見を穏やかに笑って終わらせようとしているようだったが、男がそう言った途端、孫策の表情が一変し、瞳の奥に、紅蓮のような怒りが灯った。




「反董卓連合のことだ!!!」


 


 まさに逆鱗に触れられた勢いで、孫策は怒鳴った。



「――俺を舐めるなよ、董卓!!」



 玉座の肘掛けに拳を叩き付け、彼は咆えた。


「建国が済んだから俺の気も済んだだろうとでも思ったか?

 俺は反董卓連合の討逆将軍だったんだ!

 あの戦いの最中、俺の仲間の多くも、貴様や、呂布に殺された!!

 支持者達も、帝によって<相国>に任じられた自分に対して反意を示すものは、皆、帝に対する逆意があると言って、首を斬っただろうが!!

 翔貴帝は、貴様に、そんなことをしてくれと一度たりとして願ったことなど無いのにだ!

 俺は漢の国との縁は切っても、戦場で共に戦った者達との絆は永遠に切らん。

 無惨に殺されたそいつらに、俺は必ず貴様と呂布に報いを受けさせると誓ったんだ!!」


 孫策は立ち上がり、董卓を見下ろす。

「口の利き方に気を付けろよ。

 お前の知ってる通り、俺は呉を建国した王とはいえ、元々江南の田舎から成り上がって来た粗暴な血筋だ。

 お前の奉り立てるべき翔貴帝とは違い、些細なことで怒り狂って、貴様に斬りかかってしまってもいいとさえ考えるような野蛮なんだからな」

「フフ……」

 一瞬の沈黙ののち、董卓が胡坐を掻いた姿で、笑い始める。

「ハッハッハ……!」

「何がおかしいんだ。ぶっ飛ばされたいのか」

「いや……ハッハッハ……小気味よく吠えるな、小僧」

 孫策は片眉を吊り上げた。



「この董卓にそんな口を利く小僧は、久しく見ておらん」



「だから、見てねえんじゃなくてお前が片っ端からぶっ殺してんだろ。二度も同じこと言わせんな」

「息子がこんなに面白い男だと知っていたら、一度くらい、孫堅とやらにも、会っておけばよかったか」

「うるせえ。俺の親父は戦いの最中で死んだ。

 お前の巻き起こした戦乱の最中でだ。

 気安くお前が親父の名前を呼ぶんじゃねえ」

「ふむ。どうやら私は相当嫌われておるらしいな」

「好いてもらってるとでも思って訪ねて来たってのか? だとしたら相当頭のめでたい奴だ」

「親交を結びに来たのだよ」


「断る」


「まぁ待て。そう答えを急ぐこともあるまい」

「少し考えようが、即答しようが、答えは同じだ。

 漢の国は今、お前が事実上すべてを牛耳っている。

 民衆や、罪のない人間の殺戮をお前が止めない限り、親交など有り得ん」

「それは国の総意か?」

 孫策はもう一度、腕を組んだ。

「当たり前だ。」

 彼はきっぱりと言い放つ。


「文句があるなら長江を越えて攻めて来い。董卓!

 呉の国の基盤は孫家と、孫軍だ。

 貴様に対する恨みなら、歌うようにどれだけでも吹き出して来る。

 今更、貴様とどうか事を構えないでくれなどと、平和に漢の国との付き合いを考えてくれなどと、俺に進言する臣下なんかここには一人も存在しない!

 それは民も、同じこと。

 俺の国の民は、お前の侵略や残虐には生憎もう慣れている。

 平穏な暮らしを奪われて久しい為、戦を起こして平穏な暮らしを壊すのは止めてくれなどという者よりも、戦って平穏を勝ち取ってくれと願う者の方が多い。

 覚えておけよ。呉には董卓軍など恐れる者はいない」


「はは……」

「この際言っておくが、俺はお前と違って玉座になどしがみつかん。

 俺が王になったのは、建国を号令する者が必要だったから、なったまでだ。

 お前が軍を差し向ければ、俺は迷わず総大将として、全軍を率いて出て行ってやる」

「勇ましい王を戴いて、この国の民は頼もしかろうな」

 董卓は泰然とそこに胡坐を掻いたまま、ふと、周囲を見るような仕草をした。

「――そういえば、孫策将軍のご正室といえば、絶世の美女と名高い。

 絵に描いた鴛鴦夫婦で、戦場にも並んで出て来る仲の良さと聞いていたのだが……今日はいらっしゃいませんな。

 珍しく夫婦喧嘩でもいたしましたか?」

 孫策は額に青筋を立てて、目を細めた。

「婚礼のその日に夫婦喧嘩する馬鹿がいるか?」

「はは……」

「もっと言うと婚礼の夜に前触れもなく訪ねて来るような非常識極まりない使者を、どうして夫婦揃ってもてなしてやらなきゃなんねえんだ」

「はっはっは、それは一理あるな」

「生憎、妻はもう部屋に下がって休んでる」

「それは残念だ。ご正室の美貌は洛陽宮でも噂になっておる。ぜひこの際、お会いしてご挨拶などしたかったが」

 董卓の顔に、初めて人がいいだけではない、邪悪な色が浮かんだ。

 孫策は驚かなかった。

 むしろ信用ならないこいつの人のいい顔など見せられ続けていた方が気分が悪くなって来る。

 彼は怒りを抱いた方が、元気が出る性格をしているのだ。

 調子を狂わされるより、ずっといい。

「袁術が何故死んだのか、聞き及んでいるか。董卓」

「袁術?」

「そうだ。この建業の前城主にして、三郡太守の袁公路えんこうろ

 貴様の所の、俺は漢王室に由緒正しいお墨付きを頂いているんだと口癖のように五月蝿く吠えまくる、あの犬だ」

 ふっ、と董卓の口許が歪む。

「奴が死んだのは、汚いやり方で人の妻を略奪したからだ。

 知らないか?

 俺が反董卓連合で出兵している最中に、俺の本拠である富春を攻めた、恥知らずだが。あまりに上手く出来過ぎていて、袁術は貴様と手を組んでいるのではないかと疑ったくらいだぞ」

「いや。私は知らんよ。

 従兄の袁紹は、よく知っているがな。

 だが、出来の悪い愚かな従弟いとこの話は聞いたことがある」

「そうか。じゃあこの際忠告しておいてやる。

 袁術が死んだのは、気安く俺の周瑜に触れて、己のものにしようなど考えたからだ。同じ轍を踏んで死ぬ馬鹿にはなるなよ。相国」


「美しい女には目が無くてな」


「そうか。ではそんな目はくりぬいておいた方が身の為だと忠告しておいてやる。

 それとも、死体になってまで女と寝たいか」

「ハッハッハ!」

 董卓が体を揺すって笑いながら、ゆっくりと立ち上がる。

 壇上にいる孫策との目線が近づく。

 身長は孫策の方が高い。

 だが、体格のせいか、立ち上がると大きく思えた。

 壇上にいなかったら、この男のことを、自分はどう思っただろう。

 孫策は無性にそれが気になり、コツ、と靴の音を響かせて、自分から一歩踏み出した。


 人を怖がるという感覚が、孫策には幼い頃から覚えがなかった。

 初めてそれを味わったのが、呂布と戦った時だった。

 圧倒され、足が竦むという感覚が初めて分かった。

 それ以外にはたった一度もない。

 孫策がこの世で最も憎んだ男と言ってもいい――袁術にさえ、恐れなど感じなかった。

 ひたすらの怒り、それだけだ。


 壇上から下り、董卓と同じ床の高さに立つ。


 目線は少しだけ孫策の方が高かったが、首を下げるほどでもない。

 孫策は長身だ。

 屈強な呉軍では、もっと体格に勝る者も多いが、それでも長身の方だ。

 しかし董卓も小柄ではなかった。

 そこに恰幅のいい体つきをしている為、身長よりもずっと大きな印象を与えて来る。

 それに加えてこの態度の大きさがあれば、董卓に見下ろされた者が、どれだけの圧迫感を感じるのかは自ずと見えて来る。

 確かこの男は、涼州の出身だと言っていた。

 涼州と言えば騎馬隊の強さが有名だったが、その強い馬を操る男達も、長身で体格に恵まれた者が多いと聞いた。

 董卓という男は、決して袁術のように権威に胡坐を掻いて人々を怯えさせているわけでも、

 兵の数で脅しをかけて怯えさせているわけでも無い。

 ただ、それだけではないのだ。

 孫策は袁術に初めて会った時、まだ子供だったが、それでも袁術が今までも権威を振りかざすことで生きて来たのだろうことが分かった。

 

 董卓の泰然とした態度は、武官の匂いがした。

 孫策だからこそ鋭くそれを嗅ぎ取ったのだ。


 何故呂布が、長安からロクに動きもしない亀のような男の下に付いているのかと思っていたが、呂布も生まれながらの武人だ。

 本能的に、あの男は嗅ぎ分けたのだ。

 洛陽や長安で、一番自分を理解する才を持った相手に。


 董卓は、自分をじっと正面から見据える孫策の方を、面白そうな表情で見ていた。


 

 ――――恐怖は、感じなかった。



 少しもだ。

 大きい男だなと思ったが、それだけだった。

 むしろ、今日会うまでは孫策にとって一種、董卓は得体の知れない男だったので、その方が余程不気味だったと思う。

 だがこうして会って感じたのは、普通の人間だ、ということだった。

 呂布に会った時は、化け物に出会ったと思ったが、今は違った。

 それだけでも随分、孫策の心は落ち着いてしまった。

 しかしこの、普段は陽気に笑って見せるこの人間が、自分の居城のある長安では、漢の国の者達に対して、残虐の限りを尽くしているのだ。

 

 ……分からないものである。


「用が済んだならとっとと帰れと言いたいところだが。

 恐らく、お前とこんな形で会うのは今日が最初で最後だと思うんでな。

 この際一つ聞いてもいいか」

 孫策は腕を組んだ。

「なにかな」


「……貴様の願い、とでもいうのか。

 それを聞いてみたい」


 董卓は孫策を見据えている。


「願い?」


「そうだ。

 お前は漢の国において<相国>の座を手に入れた。

 国の最高位の官職だ。

 気に食わないかどうかはこの際脇に置いておいて、お前はもう、国において栄華は極めた。

 暴虐の限りも極めただろう。董卓。

 まだ残虐に飽きないのか。

 ……他に一体、これ以上何が欲しい?」


 孫策は睨みつけるような鋭い目で、董卓を見た。


「何を求める」


 董卓も悠然と腕を組んだ。


 ――ふっ。


「思った通り……まだまだ若い」

「俺のことか?」

「この世の全てに、理由があると思っているのだからな」

「思っているが。違うのか」

 孫策は腕をゆっくりと解く。

「この歳まで世を彷徨い歩けばな、見えて来るものがある。

 理由や答えなど、私はいらん。

 己の辿って来た道だけが己を決める。

 私がこの世に生まれた時、洛陽や長安で今、私の前に平伏する者達は、皆私よりも身分は高かった。 

 この世は弱ければ生き抜いて行けぬから、己を磨いたという、ただそれだけのこと。

 胡坐を掻いてこの董卓を都に迎えた者どもが、今更脅威に思って排撃に出た所で、一体なにが出来る?

 私は辺境から自らの力でのし上がって来た。

 のし上がって来た者が、手に入れた地位を、何故周囲の人間の望みや要求を鑑みて使わねばならん。 

 私は<相国>となることを許された。

 相国に与えられた特権は、私が要求したものではない。

 法は重んじると、私は言ったはずだ。

 私は最高位に就くことを許され、座った。

 だが私より上にも人はいる。それが帝だ。

 私の暴虐が許せぬというのなら、帝は私に位を与えなければ良かったのだ。

 ……違うか?」

「貴様が<相国>の位を望んだのではないのか」

「望む事は罪ではあるまい……。」

「では、お前は、暴虐を振るう自分自身ではなく、暴虐を振るえる立場を許した、帝がそもそもの災いだと言いたいわけか」

「いいや。天帝は過ちなど犯されぬ。そうだろう?」


 董卓は、後ろに並べられた、自分が持って来た山のような祝いの品々の中から、美しい金の杯と、酒を手にし、その場で注いだ。

 杯は二つ。

 董卓は一つを、孫策に差し出して来た。

 ゆっくりと孫策が受け取ったので、董卓はまた、忌々しい明るい目をした。

 ――張昭がこの場を覗いていたら、なんとまた危険な、軽率なことを、などと言って卒倒しただろう。

 董卓の見ている前で、孫策は杯を傾けて酒を喉に流し込んだ。

「ふふ……、誠に孫文台そんぶんだいが羨ましい。豪気な息子に恵まれるのは、いい家に生まれ付くよりも難しいからな」

 言って、董卓も酒を煽った。

「美味い酒だろう。

 これは涼州の酒だ。山に囲まれたあの地は、水が美しく酒が美味い」

不味まずい」

 孫策は言った。

 杯を、積み上げられた美しい布に向かって放り投げる。

「だが酒のせいじゃない。お前と飲んでるからだ」

 董卓は声を立てて笑った。

「それなら、お前は、己で勝ち取ったその<相国>という座にあくまでしがみつき、死ぬまで暴虐の限りを尽くすというのだな?」

「たかだかあと数十年のことだ」

 ぴく、と酒に濡れた自分の唇を、親指で拭いた孫策の手が止まった。


「そうだろう。

 みな、私を悪魔か魔王のように言っているが、私とて人間だ。

 すでに五十を過ぎて、数十年後には必ず死ぬのだぞ?

 たかだかあと数十年、過ぎ去れば私も土に還る」


 まるで、あと数十年黙って耐えればいいものを、と言っているようだ。

 孫策は自然と、腰の剣の柄に手を置いていた。


「それは、お前という災いが通り過ぎるまで待てと言うことか?」


 聞き返した声には怒りが籠った。

 はっきりと、孫策の胸に湧き上がったもの。

 それは、殺意。


「貴様にとっては暴虐も、死ぬまでの晩年の道楽のようなものか」


 董卓の表情は変わらない。明るいままだ。

 図星を指されたような気まずさも無ければ、非難されていることへの怒りもない。

 

 ――周瑜。


 孫策は心で語り掛けた。



(こいつは、正真正銘の、悪人だ)



 暴虐を自分の生き方だと正当化し、悔い改めることも無い。

 それどころか、自分が死ぬまではそれに付き合えと、本心から言っている。



(こいつは自分が死んだ後のことなんか、何一つ考えていないんだ……!)



 それなら、地位も名誉も、大陸中の人間が董卓という奴は悪魔だと罵ろうが、自分には何にも関係ないはずである。

 董卓は自分が死んだ後、自分の遺体が積年の恨みを晴らすように、蹴られようと燃やされようと、酷い扱いを受けようと、何の興味もない。


 命ある時が、この男にとって全て。


「お前にとっては晩年の道楽でも、人にとっては大事な時期かもしれない」


 孫策は、十二歳で周瑜と結婚した。

 だが遠征続きで、あまり夫として側にはいてやれなかった。

 周瑜が戦場に出るようになって、皮肉なことだがそうすることで離れず、夫婦として寄り添える時間が増えた。

 別に悔いているわけではないが、最近少しだけ、子が長く出来ないことを気にする素振りを見せ始めた周瑜を見ていると、平穏な世だったなら、もっとずっと側にいてやることが出来たのではないかと思うこともある。


 しかし、自分たちはまだいい方だ。


 董卓の悪政が続くこの時代に生まれた子供たち。

 父親がいて、母親がいて、家族が家に集って、初めて誰かと友情を結び、恋を覚えて――この女ならと思ったら、求婚をして。

 人の人生には転機がある。

 その、董卓の道楽の数十年に、その大切な転機が巻き込まれた者の悲惨さは。


「自分に付き合えなんて、よく言えたな」


 ここまでにも、多くの人間の命や、運命を巻き込んで。


 自分に覆い被さって死んだ、父親の顔が浮かんだ。

 呂布の軍とぶつかった時に、死んで行った、数多の仲間たち。

 周瑜の幼い笑顔。


 叫び声を上げたくなった。


 怒声を上げて、この男に斬りかかり、首を叩き落としたいと思った。

 初めて、この男よりは袁術はまともな人間だったなどと思ったことも、心底憎悪した。

 袁術でさえ、自分を取り繕うということは知っていた。

 だが董卓にはそれがない。

 奪うことに悪意が無い。

 悪いことをしているという思いも無いのだから、それは躊躇いも無いはずである。


 こいつは。



(殺すべき人間だ)



 ジャキッ、と柄を強く握りしめた時、その手の甲を推し留める柔らかい手の感触を思い出した。

 何故かは分からない。

 だが、それは思い出したというには鮮烈すぎて、孫策は思わず、肩越しに本当に振り返った。

 当然だが、そこには誰もいない。

 視線の先に玉座がぽつりとあるだけだ。


 その時孫策の脳裏に、ここに来る前、見せた周瑜の表情が浮かんだ。


 不思議な表情だと、孫策も思ったのだ。

 今まで自覚も無かった、違和感の意味が、醒めたように急に分かった。

 周瑜と自分なら。

 周瑜という人間のことなら、孫策は全て、分かる。

 周瑜自身が自覚のない所まで。



『……じゃあ、やるなら、わたしが』



 躊躇いがちに手を伸ばした来た。



『 策 』 



 自分を包み込むように抱きしめる仕草。

 心が寄り添っている時の、あれが周瑜だ。

 手を握り締めるのは、彼女自身に迷いがあっても、孫策の意志は尊重したいと、心を寄り添わせる時の仕草。

 時に、自分よりも苛烈な意志を見せる魂。

 殺しも、躊躇ためらわない。

 斬るべきだと思った相手は。

 袁術の首に容赦なく簪の針を突き立てる姿が蘇る。

 この男に、周瑜の同情を誘うような理由は一つもない。


(なのに躊躇った)


 孫策が董卓を殺すと言った時、周瑜は明らかに驚いていた。

 何かが、胸の奥にあったのだ。

 一瞬見せた痛むような表情。

 ここでこの男の血を浴びることに躊躇いはない。

 そのことでどんな非難を受けようが、後世に野蛮を伝えられようが、構わない。


 ただ一つ、ここに来て周瑜と心が重ならなかったことが、孫策の迷いを生んだ。


 いつもの周瑜ならば、両腕で自分を優しく抱きしめて、後のことなど気にせず、思い切り悪人を討伐して来いと、明るい声で言って来たはずだ。


 そう出来なかった何かが、今日はあったのだ。


 明らかに鞘に手をやった孫策を、董卓は面白そうな顔で、見ている。

 やれるものならばやってみろ。

 そんな風にも思えた。


(こいつは今日、俺が自分を斬るのか斬らないのか、試しに来たわけか)


 いや、違う。

 董卓は斬らないに賭けた。

 だからやって来たのだ。

 じっと地に潜り、暗殺の危険から己を遠ざけ、出来るだけ長くこの世に居座ろうとする男だと思っていたが、それは違う。

 董卓は、この世をただひたすら、謳歌しているのだ。

 自分の望む事を。

 悪行と呼ばれることもでも、この男が楽しいと思えば、それを、飽きるまでやり尽くす。

 時には自分の命さえ、試すこともある。

 楽しみの為に悪行を尽くす人間に、何故悪行を重ねるなどと聞いた所で、答えなどあるはずがない。


(思う通りに、してやるということか)


「――小僧」


 董卓が口許を歪める。


「どうした」





 ……独りなら、殺していた。





 孫策はゆっくりと、痛いほど握り締めていた柄から、手を離した。

 弾みで、王の剣がジャラ、と揺れる。


「お前を今ここで、ぶった斬ってやろうと思ったが――やめた。」


 笑っていた董卓が一瞬、笑みを収めたのが見えた。


「今日は我が国は祝事だ。

 血腥いことは、後日やる。

 いい頃合いに会いに来たな、董卓。

 お前が俺に敬意を以て、祝いに来たなどと思うほど俺は暢気じゃないが、お前が祝いに来たという事実はある。

 人の喜びに自分を寄り添わせれば、時に、自分の益にもなるということだ」


 孫策の停滞していた思考が動き始める。

「だが、これからも暴虐の限りを尽くし続けるというのなら、貴様と結ぶことなど永遠に無い。

 俺の国、民――俺の大切なものに手を出して来るなら、必ず貴様を殺しに行く。

 覚えておけ」


「それは、貴方のものに手を出さなければ、私の暴虐には目を瞑るということですかな?」


 腕を組み、董卓は挑発するような声音で言ったが、数歩、出口へと歩き出した孫策は立ち止まり肩越しに振り返る。


「そうだ。」


 言い放つ。

「俺は漢の国との従属関係を切った。

 お前を斬りに行くにもいちいち逆賊と呼ばれるのも、飽きた。

 俺は翔貴帝の祝福で王になったんじゃない。

 俺をこの世に生み出した、父と、俺と志を同じくする者達の祝福で即位した」


 王になったからには、自国の民のことをまず、守る。


「今ここで丸腰の貴様を斬れば、

 ……これから生まれる俺の子供が、卑怯者の息子だと罵られる。

 そんなのはごめんだ」


 もう、孫策の心は湖のように鎮まり返っていた。


「ああ……そうだ。

 呂布に伝えておけ。

 貴様を殺すために地獄から舞い戻ってやったとな。

 次に戦場で会い見えたら、貴様に喰らった腹の傷と同じ傷を与えて殺す。」


 斬り付けた孫策に、武官の魂を持つ男は、初めて、その気配を見せた。


「そうですか。では、私もお伝えくだされ。

 白牡丹の麗しく笑む、周公瑾に。

 私の自慢の長安に、一度お越しくださいと。美しい宮殿を、私自らご案内しましょうぞ」


 孫策は怪訝な顔を浮かべた。

「では、失礼。

 今宵は戴冠の儀、誠に祝着至極に存じ奉ります」

 慇懃無礼に一礼をすると、董卓は背を向け、歩き出した。




 しばらくして、別の扉から、孫権が慌てて、入って来る。


「兄上……!」


 弓を担いだ淩操も遅れてやって来た。

「いかがなされましたか」

「あの野郎、俺と周瑜が翔貴帝に会いに洛陽に行った時、洛陽に来てやがったのか」

「えっ?」

 白牡丹の女衣は、洛陽を訪問した時に周瑜が纏っていたものなのだ。

 孫策は心を落ち着けるように、深く、息をする。

「権。董卓のことを今、知っている者は」

「兄上が、ご自分でお決めになると仰ったので、まだ広くは。

 近衛館にいらした、淩操殿と、文をご覧になった諸葛瑾殿に、お二人の配下の方々だけです。ですが、すぐにと言われるのならば」

 孫策は手で制した。


「……いや、いい。

 今夜は奴は、このまま帰す」


 孫権と淩操は息を飲んだ。

 淩操が、ぎゅ、と担いだ弓を握り締めたのが分かった。

「不満か、淩操」

 ハッとする。

「そうだろうな……。

 董卓の、人を見た。

 あいつは殺すべき人間だ。そうも思った。

 だが、今日は斬れなかった。

 ……許せ」

 淩操は急いで、膝をついた。

「いえ! 王がお決めになったことならば。

 何も申しません。

 董卓討伐の折には、私を連れて行っていただければ十分にございます!」

「悪いな」

「いえ……おやめください。詫びることなどないのです。孫策殿」

「後日、今日のことは臣下たちには俺から話す。それまでは騒ぎにならぬようにしてくれ。

 守備兵達も労って、もう任は解いてやっていい。

 今日は祝事だ。

 ……このまま穏やかに眠りたい」


 孫権も深い拱手で応えた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る