第2話





 侍女に囲まれるようにして、現われた周瑜を見て、まず甲板に揃った武将達がどよめいた。

 黄蓋こうがい朱治しゅち韓当かんとうという重鎮たちに、落ち着きがないと冷やかされていた孫策は振り返る。

 背に伸びる、周瑜の翡翠かわせみ色の飾り帯は地を這うので、侍女二人がそれを後ろに掲げ持っている。

 つい先ほど見たというのに、改めてその美しさに感動した孫策は、玉蘭の望み通りの顔をしたから、約束を破って周瑜にあったことは許せなかったが、この祝事に、彼女は孫策を許すことにする。

「これは……お美しい花嫁ですな、孫策殿……!」

 武将達が感嘆の溜息をつき、頷き、盛大な拍手を送った。

「いや。舒城じょじょうで式を挙げた時も、勿論これよりは簡素であったが、それでも周瑜殿はお美しかった。

 だが今日はそれ以上ですぞ」

 孫策が周瑜に駆け寄って行き、寸前までいつものように周瑜に飛びつこうとしたが、側の玉蘭がめっ、という顔をしたので急停止して、飾りなどを崩さないように、ゆっくり慎重に、周瑜の身体を抱き締めた。

「周瑜。綺麗だぞ。今までで一番綺麗だ」

「ありがとう」

 抱き合う二人に、もう一度拍手が送られ、甲板の上の空気は一気に華やいだ。

 妻を上向かせ、自然な仕草で口づけようとした孫策は慌てて首を振った。

「いかん。また普通に口づけようとしてしまった」

「なんでそうすぐに忘れられるんだ?」

 周瑜が笑いながら、孫策の額を優しく撫でている。

「もう癖なんだな」

 孫策も笑った。


「まぁ、二人ともそんなところで話し込んでないで。早く待ちわびた方たちに姿を見せて差し上げなさい」


 声がして、振り返ればそこに耀淡ようたんがいた。

 息子夫婦二人が揃って振り返ると、彼女は微笑ましそうに目を細めた。

 耀淡の笑い方は、孫策に似ている。

 でも、耀淡の笑い方は、周瑜の記憶の中の孫堅にも似ていた。

 親子が似るのは血が近いからだが、夫婦が似ているのは何故なのだろう?

 それに不思議なことに、耀淡は、孫堅が生きていた時は、そんなに彼に似ていると思わなかった。

 だが、時が過ぎていくごとに、記憶の中の夫に彼女は似て来ていて、孫策のすることをいつも温かく見守って、多くは語らず、静かになった。

 周瑜にとって、母の見本は耀淡だ。

 自分の母ではないが、幼い頃から彼女を知っている。

 自分の母のことは話で聞いた。祖母のことも聞いて、『母』が子供の為にどれだけ強くなるのかは教えてもらったが、もっと熱を感じるという意味で、母を教えてくれたのは耀淡だった。

 自分が母親になることも、

 結婚したのに、……こんなに長くならないことも、予想の出来ないことだったけれど、耀淡はいつも、自分の娘のように周瑜に接してくれた。

 孫策が行方不明になり、死んだかもしれないと言われていた時でさえ、彼女の周瑜に対する態度は何も変わらなかった。

 周瑜にとって霧がかった『母親』という存在を、耀淡が体現してくれる。


 自分もそのうち孫策と似て来るのだろうか?


 耀淡が側まで来て、孫策と周瑜を交互に見て、嬉しそうに頷いて見せた。

「これでようやく貴方たちの祝言が見れますね。

 孫堅殿の意地悪で見れなかった祝言が」

 黄蓋達が笑った。

「いや、奥方……決してあれは意地悪でそうしたわけでは……」

「このままでしたら、死んだ時の唯一の心残りになった所です」

 その時だけはじろりと睨まれて、彼らは他の方向を見て、耀淡の方を見ないようにした。

 孫堅同様幾つになっても子供のようなことをする彼らを呆れた顔で見てから、しかし彼女はもう一度、花嫁衣装を身に纏った周瑜の姿を見ると、彼女の手を取って微笑んだ。

「その恨みは今日、貴方たちを見て晴れましたから。もう文台ぶんだい殿も公覆こうふく殿たちも許してあげましょう。

 何より、この幸せな日に恨み言は似合いません。

 公瑾どの。

 貴方の美しい姿に策がとても嬉しそうにしています。

 策は貴方が側にいるだけで嬉しいのです。

 私は今日、伯符殿が戴冠なされば、母と言えども臣下の礼を取ることになります。

 でも呉では、王妃は、王の共同統治者なのでしたね? 子布しふ殿」

 後ろに控えていた張昭ちょうしょうも、今日は孫策と周瑜の揃った姿に、さすがに穏やかな表情をしていた。


「はい。王となられる伯符殿が、そうして今まで来られましたからな。

 呉の玉座は二つ。

 夫婦和合を重んじ、正室には共同統治者としての権限が与えられます。

 これから、花嫁選びはいつの時代も苦労しそうですな」


「もう次の王の嫁を心配するのか。お前は間違いなく、呉で一番の心配性だな」

 孫策が吹き出している。

「心配するな。間違いを起こさぬためにも、評議の権限は強くしただろ」

「はっ。そうでありました」

「そう……。貴方だけは、伯符殿と同じ立場と目線に立って、これからもずっと側にいて差し上げて下さいね。伯符殿はそれで、いいのですから」

 周瑜は耀淡に真っ直ぐ目を向けて微笑む。

「はい。私もそうしていけたら、嬉しく思います」

「ありがとう。

 伯符殿、周瑜殿を生涯大切にするのですよ。

 仲の良い貴方たちのことです。夫婦のことは何一つ心配していませんが、貴方は戦場ではとても無茶をしますから、あまり周瑜殿に心配ばかりかけないように」

 孫策が不在の間、袁術に富春を攻撃された時のこと。

 耀淡は、その時の周瑜を、ずっと側で見て来た。

 悩みも、――強さでどうそれを乗り越えるのかも、見て来た。


(周瑜がいれば、この子は大丈夫)


 それが、耀淡がこの二人に思うことだった。


「さあ、私ばかりが貴方たちを引き留めていてはいけませんね。

 皆もう、朝から集まっています」


 母親に導かれて、孫策は周瑜の手を取ると、頷き合い、甲板の端に寄った。



 ――――ワァ……ッ!!!!



 建業の港町は隙間もないほどに、人々が集まっていた。

 吹き出すような熱狂が、気持ちのいい風に乗って伝わって来る。

 さすがに周瑜は叩きつけられた歓声の大きさに驚いたが、身を竦めた彼女の心境が伝わった孫策が、その瞬間、ぎゅっと腕を回し周瑜の身体を抱きしめて来た。

 きょとんとした顔をした周瑜を見下ろす孫策は、少年のような顔で笑った。

「こうすると安心するんだろ?」

 その孫策の顔を見た瞬間、周瑜のざわついた胸の鼓動がすっ、と冗談のように収まった。

「……人前でしろとは言ってないぞ」

 周瑜がくすくすと笑う。

「いいだろ。これが孫式の妻の可愛がり方だ。見たい奴らには存分に見て貰おうじゃねえか」

 不敵に笑い、彼は言った。

 幼い頃から従軍経験のある孫策は、さすがにこういう状況に強い。

 戦気の迸る大勢の兵達の熱気に当てられることなどよくあることで、彼は人々の熱気を受け流す術を、すでに父親から学び、自分のものにしている。

 そして元来の性格からも、彼は大勢の人々が集まり熱気に包まれている空気が、嫌いではなかった。

「しかし、まだ城でもないのによくこんな小さな港町にこれだけの人が集まったなあ。

 けど俺はこんなものじゃ調子に乗らんぞ。

 どうせ陸家の陸康りくこう殿か、周家の周尚しゅうしょう殿が変な気を利かせて自領の民衆を連れて来たんだろ。

 あの二人はいつも知らんところでつるんで遊んでるんだ」

「まさか。お二人は呼び寄せてなどおりません。

 ここにいる皆、新しい国の王となられるご夫婦を一目見たいと集まった者達ばかりですよ」

「ほんとか~? 疑わしいよなぁ、周瑜」

「はは……そうだな」

「さぁ、行きましょうか。――やぁ、本当に今日はいい天気だ」

「雨ならここまで人が集まらなかったかもしれないぞ」

「雨降ったぐらいで人が集まらなくなんのかよ。やっぱ俺たちの人気なんぞ大したこと無いぞ周瑜」

 孫策は明るく笑いながら、周瑜を横抱きに抱え上げた。

「孫策さま、周瑜様は我々が馬車にご案内を……」

「いいよ。このくらいのことは出来る。それに、今日は俺達の婚姻式でもあるんだろ。少しくらいいちゃつかせてくれ」

 孫策は歩き出し、甲板から下へと取りつけられた足場を、ゆっくりと降りていく。

「イチャつくも何も、貴方たちはいつもそんな感じでしょう」

「そうとも言うな」

伯言はくげん! 周瑜殿の武器を持ってこい!」

「馬の準備を!」

「淩操! 護衛を頼むぞ!」

 甲板の周辺も慌ただしくなって行く。

「陽射しが強ければ、もう少し日よけを」

 背の高い、飾り立てられたお披露目用の荷には、大きな支柱が一つ建てられ、そこから日よけ用の薄布が幾重にも重ねられ、たくさんの花をあしらわれている。

 人々に見やすいようにと、日よけの他に遮るものは取り払われていた。

 玉座を模した、大きな二人掛けの椅子が用意されている。

「うん。今はまだいい」

 孫策は周瑜を荷台の真紅の絨毯の上に下ろしてやると、もう一度二人で民衆にそれぞれ、手を上げてみせた。

 


 ワアアアアアアアア――――!!!!!



「面白くなって来た」

「あんまり皆で遊ぶのは駄目だぞ。興奮し過ぎて人が倒れたらどうするんだ」

「ああ、そうだった。民衆で遊ぶなんてどこぞの袁術の野郎と一緒になるな。

 絶対それはやっちゃいけないやつだ」

 孫策が、瞬く間に民衆を掻き分けて、隊列を作って行く近衛隊を見ながら言った。

 建業の近衛兵団は、韓当に任せることにしている。

 淩操は、富春ふしゅんの城からずっと城の近衛兵団を任せて来たが、本人が城での勤務よりも、今後起こり得るであろう董卓軍と戦いたがっているので、今後は護衛職よりも対外の軍務につくことになる。

 元々武勲で出世した来た男であるのと、これは周瑜にも伝えてあるが、淩操には、袁術の富春ふしゅん攻めの時に、断る術が無かったとはいえ周瑜一人を置いて城から逃げたことが、かなり堪えたらしい。

 周瑜自身の命令とはいえ、あのことで周瑜の身に何かあれば、自分は孫策が例え自分を許しても、自ら死ぬつもりだったと言っていた。

 淩操のような人間には、戦わずして逃げる方が、呂布と激突して死ぬよりもずっと怖いことなのだ。


『あの時、そこまでは考えて命令はしてやれなかった。

 私は一番、逃げろと言ってはいけない相手に、逃げろと言ってしまったんだな』

『あの状況なら致し方ない。お前は領主として当然の命令を下した。誤ってなかったから、淩操も従ったんだ』

 淩操とは違い、長男の淩統の方は、どちらかというと戦場よりも城の勤務を望む性格をしているようだ。

 淩操の側で、近衛隊を率いている青年を見ながら、孫策は父子でも性格の違う父子がいるんだな、と淩親子を見ているとなかなか楽しい。


「周瑜」


「……ん?」

 周瑜の翡翠の飾り帯は絨毯の上に優雅に広がっている。

 銀と真珠で四肢や髪を飾った周瑜は、初春の陽射しに光り輝く。

「おれは、民衆を自分の家族みたいに思いたいんだ」

 周瑜の温かい手の平を握り締める。

「自分に仕えるものじゃなくて、家族だ」

「家族……。」

「自分の仲間だが――互いに敬意を失った振る舞いをすれば、容赦なく頬を平手打ちされる」

 周瑜が目を丸くした。

「もしくは、拳骨だな」

 孫策が拳を握り締めてみせた。

「敬意か」

 周瑜は微笑む。

「困ってれば施し合う。

 でも、いつだって良くなって行くことを忘れては駄目だ。

 父親は一家を守り、母親は子を守り、子は親を敬う。

 年長の兄姉は弟妹の面倒を見る。

 弟妹は、兄姉の言うことを聞く。

 それでも過ちは起こる。

 ……だから、父親の責任は重い。一家の全てを見守り、ただす役目だ」


 彼の世界観は、父親から学んだものだ。

 これが例えば周家なら、また違う教えになった。


「でも親父にだって駄目な所はあった。

 人間には絶対欠点はある。

 けど、一人一人、それは違う。

 うちじゃ親父の駄目な所はおふくろが補ってた。

 でも、おふくろの駄目な所は、きっと親父が補ってたんだろうな。

 夫婦ってのはそういうもんだ」


義母上ははうえの駄目な所ってなんだ?」

 孫策は小首を傾げた。

「んー……まぁそりゃよく分かんねえけど。でもきっと、そうさ」

 言ってから、孫策は周瑜を抱き締めた。

「俺たちもそういう夫婦になろうな」

 本当は、建国は急ぐべきと考え、戴冠式は冬を予定されていた。

 そうしなければ、雪解けの間に董卓が兵を整えて、春には攻めてくるかもしれないという意見があったが、寒いのが嫌いな孫策が、董卓を恐れて吹き曝しの冬空の下で戴冠式をやるくらいなら俺、戴冠しねえと言い出したので、やむなくこの初春にしたのである。


 でもそれは、大正解だった。


 建業までの、遠くない道のりを、美しい桃の樹が辿っている。

 ここから馬車は隊列になり、道を辿って建業入りする。

 ここにいる民衆は皆、ついてくるのだ。

 建業の城の、戴冠式の行われる広大な広殿にも、民衆は入ることを許されているが、建業の城に仕える役人たちをまず入れねばならないので、入り切れない民は城下に溢れるだろう。

 戴冠式の後に、婚姻式が行われる。

 これは、一定の役人以外は城内に下げ、戴冠式よりも民衆を多く広殿に入れることになる。

 祝賀の雰囲気を、より盛り上げる為だ。

 戴冠式は厳格に、婚姻式は華やかに、ということになっている。


「周瑜が駄目な時は俺がお前を支える。だから、俺が駄目な時はお前が俺を支えてくれ」


 周瑜は微笑んだ。

「とっくに私たちはそうだよ」

「そうか! そうだったな」

 孫策は屈託なく笑う。


「わぁ~っ! 周瑜! すごい綺麗!!」


 駆けて来た妹の香凜こうりんが周瑜を見つけて、荷台の足場に登って来ると、迎えに出た周瑜に抱き付いて来る。

「策兄様が羨まし~っ」

「おまえ、その格好なんだよ」

 笑いながら、孫策が指摘する。

 香凜は着飾った女衣ではなく、華やかな戦装束だった。剣まで佩いている。

「私は女行列じゃなくて護衛団の隊列に加わるのー。

 周瑜、わたしすぐ後ろにいるからなんかあったらいつでも声かけてね!」

「ありがとう、香凜どの」

 周瑜が笑っている。

「おまえなー。人が多い時は馬も興奮して乗るの大変なんだぞ。

 今日落馬なんかしたら、おふくろ絶対二度とお前に馬乗らせないから気を付けろよ?」

「わかってるって♪ 心配性なんだから」

「お前が暢気すぎんだよ」

「香凜! こら、早くそこから降りて来なさい……!」

 孫権がやって来て、妹を諌めている。

「権兄さま! 見て見て、周瑜すっごく綺麗でしょ!」

「何故お前が威張るんだ……そんなに、無遠慮に、抱き付くんじゃない。義姉上あねうえに迷惑だろう……! それに、前から言っているように義姉上を呼び捨てるのはよしなさい」

「べーだ。権兄さま文句ばっかり。おめでたい日なのにさ!」

「まぁそれは一理あるな」

「兄上!」

 孫権が不満気な声を出したので、孫策が笑った。

「今日は折角の日なんだ。まぁ、あんまり締め付けるな」

 弟の頭を撫でてやって、護衛を頼むぞ、と声を掛けた。

「はい! お任せください!」

「周瑜本当に綺麗だよ。いい匂いする。やわらかい」

 香凜の反応が全く孫策と同じなので、周瑜は笑ってしまった。

「お前ってホント俺と反応一緒だな」

 そう思っていると、呆れたように孫策が言う。彼にも自覚はあるらしい。

「香凜! とにかくおりてきなさい! 出発できないだろう!」

「はーい。じゃーね! 二人とも、お城でね!」

 孫権に一喝されて、香凜は元気よく地に降り立った。

「なによォ、プンプンしちゃって。

 あっ、そうか。権兄さまも周瑜にぎゅーってしたかった?」

「そ! そんなことは考えておらん!!! お前はもうちょっと、義姉上に対して礼儀と尊敬の念をだな……!」

「ぎゅーってした来たけど、しゅーゆの胸すっごい柔らかかったよ♡」

 香凜が兄に耳打ちすると、みるみる孫権の顔が耳まで赤くなった。

「な……! ば……! そ、そういうことをするんじゃない……!」

「羨ましいでしょー! 素直に『うん』って言えば、今から周瑜に、権兄さまもぎゅっとさせてあげてってお願いして来てあげよっか?」

「そ、そんなことはしなくていい! 全くお前という奴は! 兄をからかって遊ぶんじゃない! 早く仕事に戻りなさい!!」


「……あいつらはいつもと全く変わらんなぁ」


 遣り合いながら去って行く弟妹を、呆れたように眺めながら、孫策が呟いた。

 陸遜が護衛団を率いて、やって来る。

 彼らは馬車周囲に取り付けられた一段下がった足場に弓や槍を構えて配置につく。

 ただし、あまりにも場の空気を壊さないように武器は手にしていても、その武器もそれぞれ花で飾り、戦装束も白い軍服に揃え、物々しさばかりにならないようになっていた。

「奥方様、弓と剣はこちらに飾っておきます」

 陸遜が、周瑜の弓と剣を、元々そこに置くように用意された台座に飾った。

 設置された椅子の、左右に一つずつ立派な台座がある。

 この弓と剣はどちらもが、漢帝である翔貴帝しょうきていから孫策が受け賜わったもので、それを彼がどちらも周瑜に贈ったものだった。

 周瑜は特に弓を得意とし、会稽かいけいでは許貢きょこうを、江夏こうかでは黄祖こうそを討ち取った。

 このことは民衆にも広く知れ渡っていて、今日、ここで周瑜を見るまでは、<小覇王>孫策の妻は、彼をも凌ぐ身の丈の屈強な大女だと思っている者は非常に多かったのである。

 今こうして目にしても、あんな華奢な女性が弓など引けるのか? と皆、疑問に思っているようだ。


「みんな周瑜の弓の腕見たいんだろうなぁ」


 孫策が辺りを見回して、前方に見える家を指差した。

「周瑜、あれなんかどうだ?」

「どうだって?」

 ほぼ、出発の準備が整ったようだ。

「陸遜。そこらへんの侍女から飾り紐でも貰って、矢に巻き付けて持って来てくれ」

 陸遜がすぐにどこかへ消える。

「出発の合図は周瑜に出してもらおう」

 察して、周瑜は苦笑した。

「私のあの弓は、平和な世界を作る為に使う弓だぞ。見世物にするのか。帝から賜ったものだというのに」

「戦うだけが平和な世界を作ってるわけじゃないだろ。

 それに、民衆が呉の王妃は戦えるんだと知っているのは、悪いことじゃあない」

「ちと遠いですぞ。狙えますかな?」

 下で聞いていた黄蓋こうがいが声を掛けると、孫策が笑う。

「なんだ黄蓋。周瑜を挑発するのか。こいつは見かけはこんな深窓の令嬢みたいな顔してるけど、幼い頃はとんでもない負けず嫌いだったんだぞ。

 お前には出来ないだろうなんて言われると燃える性格だ。俺達は似たもの夫婦だからな!」

「まぁ、確かに負けるのは好きじゃないな」

 陸遜が薄水色の美しい飾り帯に花を巻いて、持って来た。

「どうぞ」

「よーしよし。これでいい。弓持ってこい」

 陸遜が弓を手に取り、跪いて周瑜に手渡した。

「これは一つ、貸しだぞ。伯符。君が願うから、叶えてやるんだからな」

 言って、周瑜が大弓を手に取ると、民衆がどよめいた。

 周瑜は荷台の一番端まで行き、前方の家を正面に捕らえた。

「江夏の船上の方が距離はずっとあっただろ」

 弓を構えると、何をする気か察した民衆が、あれほど騒いでいたのに一瞬しん、となった。

 周瑜が美しい所作で矢を番え、弓をゆっくりと引く。

 胸を引いた姿勢でぴたり、と一瞬止まると、右手で引き絞っていた矢を、パッ、と手放す。


 おお……!


 人々はもう一度どよめき、青い空を流星のように駆け抜けた矢を仰ぎ見て追った。

 漢国の宝弓の一つであるこの落鳳弓らくほうきゅうの特徴は、普通の大弓のように遠距離を狙い定めた時も、大きな曲線を描いて矢が優雅に飛ばないことだ。

 特殊な形をした弓に、強力な発条ばねがあり、普通の弓とは全く違う矢の飛び方をする。

 この弓を開発した先々代の銀雅ぎんが帝は、これを狩りの時に使うのを好んだらしく、いかに早く矢が獲物に到達するかを追及された弓なのだ。

 この弓を使えば空を飛ぶものも、地を這うものも、当てれば一撃で仕留められるほどの威力がある。

 見通しのいい開けた場所から、周瑜の放った弓が、パァン、と薪を割るような清々しい音を立てて屋根の四点の一番に端に見事命中するのが見えた。

 飾り紐が風になびく。

 ワッ……!! と人々の歓声が吹き出して、周瑜が手を上げ、応える。

 孫策が隣に来て、祝福するように額に口付けをして来た。

 陸遜が頃合いを計り、手を掲げると、楽隊が一斉に笛を吹き、金属器を鳴らし、太鼓を叩き始める。

「周瑜、こっちだ」

「うん」

 孫策が手を引いて、周瑜と共に二人掛けの椅子に座った。

 大きな孫家の旗が、一斉に掲げられ、青空に翻った。

 それを見上げる孫策の横顔を、周瑜は目を細め、見つめた。

「うれしそうだ」

「……おれか?」

「当然、嬉しいんだろうけど。でも、きっと特別なんだな」

「かもな」

 馬車が動き出す。

「なんだろうな。今日は朝から、色んなことを思い出す……。

 昔のこととか……。

 周家の護衛団を引き受けた時は、親父から、周家は自分たちとは比べ物にならない特別な身分の家柄だから、絶対に失礼のないようにしろってきつく言われてさ。

 ……色んな所に、転戦してただろ。

 どこへ行っても、俺たち孫家は家柄のいい奴らの、使い走りだった。

 別に、いい家柄に憧れたわけじゃないけど、時々、都合よく使われるだけの低い身分には腹が立つことがあった。

 親父がな……」

 民衆の歓声に手を上げて、応えてやりながらも、孫策は続ける。

「自分のことよりも、自分の親父が、例えば、袁術みたいな野郎に頭を下げるのが、俺はすごく嫌だったんだ」

 幼い頃にも、確かに孫策はそういうことを言っていた。


「親父がどうしようもない奴ならそれも仕方ないけど、俺はずっと、親父は立派な武将なんだ、男としても気概があって、頼りになる父親で。

 ……そう思ってたからな。

 だから、俺は、早く強くなって戦で戦功を立てられるようになって、俺の力で、どんどん親父を勝たせて、いつか例えすごい身分の奴だろうと、親父に見放されたらまずいと、親父を尊重するようにしたいと思ってた」


 自然と、周瑜が孫策の手に、手を重ねている。

 孫策は笑みを浮かべる。

「舒城の周家の人たちと、周尚殿と、周瑜だけは、俺たちを対等な友人みたいに扱ってくれたから、好きだったけどな」

 周瑜も微笑む。

「友人みたいにじゃない。友人だ。

 養父上も、孫堅殿のことを友人だと思ってた。

 私と君も、親友だっただろ」

 そうだな。

 孫策が笑った。

「あっ!!」

 突如孫策が声を上げる。

「……どうした突然。忘れ物か?」

「思い出したんだ! ずっとお前に聞きたかったこと!」

「聞きたかったことって今じゃないとだめか?」

「今、聞かないとまた忘れる」

「そんなに忘れるなら大したこと無いことか?」

「すごく大事だ!!」

「……すごく大事なことを何故今思い出すんだ? 君は……。今はこれからの戴冠式のこととか婚姻式のこととか考えなければならないことたくさんだぞ。

 今夜聞くとかじゃダメか?」

「ダメだ。今夜は婚姻式のあとだぞ! 何言ってんだ周瑜! 初夜だぞ! そんなのんびり話してる場合じゃないだろ! 俺はもうこの一週間ムラムラしまくってた分、今夜は無茶苦茶お前を抱くからな!!」

 いつもながら率直すぎる宣言に、周瑜がさすがに頬を紅潮させた。

「それは、分かってるけど。……そんなに怒るなよ孫策……そういうつもりで言ったんじゃないから……。

 ほら、そんなに大きな声出してると、皆が喧嘩かなと思うだろ。

 今日は夫婦円満なところを見せないと……」


「お前の初恋の相手って、だれだ?」


「えっ?」

 突然、何を言われたのかと、周瑜は目を丸くした。

「初恋って……」

 それは、まだ孫策が反董卓連合の一武将として呂布と戦い、敗走して行方知れずになっていた時、成り行きで、黄蓋と話した話題だった。

 孫策の初恋は、周瑜である。

 孫策は幼い頃から父親に付き従って従軍していたこともあるが、正直そういった色恋には、全く興味がなかった。

 興味がないどころか、幼い頃の孫策は女というものを鬱陶しいと思うことすらあったのだ。

 女は弱いし、すぐ泣くし、訳の分からないことですぐ腹を立てるし、色々と面倒臭いからだ。

 孫策が面倒臭がらずに付き合った少女は、周瑜だけだったし、それも、随分長い間、少年のように相手を思ってたから、気兼ねなく付き合えたのである。

 実際に孫策が周瑜を女として意識したのは、あの十二歳の紫陽花が綺麗に咲いた初夏のことで、その前までは、一秒たりとも周瑜を女として、まともに意識したことは無かったのだ。

 だが、あの再会で、美しく成長していた周瑜に女を感じた瞬間には、恋をしていたから、紛れもなく孫策の初恋は周公瑾なのである。

 一瞬、孫策が何故そんなことを言い出したのか、真意が分からず、周瑜は隣の彼を見返したが、孫策は真剣な表情で、答えを求める強い瞳で、今がどんな状況かも忘れ、見下ろして来ている。

「俺は、初恋はお前だけど、……おれ、お前の初恋は、うちの親父だったんじゃないかなって、気になって、」

 言った瞬間、周瑜の美しい顔が、染まった。

 周瑜の夜色の瞳に、自分の顔が映っていて、孫策は、咄嗟に表われた周瑜の表情の意味が、すぐに読めた。

 これが図星を指されて反応したものだったとしたら、孫策は本当に気分を害してこの場で不貞寝していたかもしれない。

 周瑜が父親に初恋していたかもしれないという、ある日思い立った想像は、自分の知らない間にかなり深い棘になって、孫策の心に突き刺さっていたようだ。

 再会出来たことが嬉しすぎて、今日の今日まで完全に忘れていたけれど。


(でもこれは、図星を指された気恥ずかしさじゃない)


 だてに幼い頃からの長い付き合いではないのだ。


(怒った顔だ)


 何故そんなことを言うのかという、一番君にはそんなことを言われたくなかったという、そういう顔なのだ。

 ただ、周瑜は、孫策と違って思慮深い彼女は、孫策が何故そんなことを言ったのかも、すでに一瞬で察したようだった。

 本当に刹那過った、泣き出しそうに揺れた瞳の奥の光は、いつも閨で、周瑜を抱いている時に、彼女が孫策に見せてくれる愛情深いものと全く同じだったから。

 自分は、これほど日々、周瑜に深い愛情を向けられていながら、何て馬鹿な質問をしてしまったのかと、孫策は自分を呪いたくなった。


(しかもこんな、最高の日に)


 思ったこととか、思い出したことを、本当に、すぐに口から出すものじゃない。




 ――わたしの初恋だってきみだ。




 言わずとも、周瑜の顔に浮かび上がったその言葉に、孫策は腹の底から喜びが湧き上がって、口から吹き出しそうになった。

 周瑜大好きだ!! とこの一面の民衆の前で絶叫していたかもしれない。

 寸前で、今日は英邁な君主を演じなければならないのだと周瑜に約束したことを思い出して、口から出掛かった言葉を飲み込み、唇を封じた。

 周瑜の両頬に手を添えて、深く唇を重ねたのである。




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