異聞三国志【天の約束】

七海ポルカ

第1話

 






 三月。





 まだ時折、冬の残り香のような寒い風が吹くことがあるが、その日は麗らかな春の陽射しが射しこんでいた。

 ここは船の上なのに、甲板や回廊の床に、どこからか舞い込んだ、桃の花びらが散っている。

 玉蘭ぎょくらんは階段を上がって甲板に出ると、射し込んだ明るい光に、気持ち良さそうに大きな伸びをした。


 なんて気持ちのいい日なのだろう。


 最近は雨も多かったので、ハラハラしたが、この陽気だ。

 これは絶対晴れますようにと、天を呪わんばかりに祈った甲斐がある。

 昨日からずっと船室に籠っていたのと、最近の根の詰め過ぎと、寝不足で全体的に体がふらふらしたが、かつてない達成感があった。

 玉蘭は武器を持って戦うということが出来ないので、経験したことは無いのだが、恐らく戦場で憎き敵の首を討ち取った時の達成感などは、こんな感じなのだろう。

 何もかもを懸けてやり遂げたと思える。


 うっとりしていたが、そういえば集中し過ぎて最近眉間の皺が定着しつつあるのと、寝不足で隈がすごいのと、肝心の式の最中に倒れたら大変だということで、小一時間でも寝て来ようと思っていたのを思い出す。

 まだ出発には数時間、時間がある。

 

(本当に寝て来ないと、私はきっと周瑜様が玉座にお上りになられた瞬間、幸せすぎて失神してしまう)


 体調を整えなければと歩き出した矢先、前の方から「お待ちください」とか「今はいけません」とか、「固く禁じられております故」とかいう、侍女が明らかに揉めている小競り合いの気配が聞こえて来た。

 玉蘭は半眼になる。


(来たわね)


 船の回廊の角を回って現われたのは、非常に豪奢で華やかな、真紅の軍服に身を包んだ孫策だった。

 数時間後、彼の結婚式が盛大に行われることになるのだが、その衣装である。

 これに外套や、王に相応しい、今日という日の為に用意された数々の装飾品が付くわけだが、今は当然だが、まだ身につけていない。

 それでも、愛剣だけ腰に下げて現われた孫策の出で立ちは、仕えるべき周瑜への忠誠心は岩の如き玉蘭であっても、思わず見惚れるほど、男としての威風があり、色気があり、何か誇らしい気持ちにもなった。


「あっ! 玉蘭、やっと見つけたぞ! 周瑜どこに隠したんだよ」


 ……悲しいかな、彼は見てくれはすでに、黙っていれば王者の貫禄だが、口を開けばいつだって昔のままである。

「……ご機嫌麗しゅうございます孫策さま……。貴方ならきっとこの船に乗り込んで来られると思って随分迎撃部隊を配置したと思いましたのに、お越しになるとはさすがは<小覇王>と武勇の誉れ高き王となられる方。……一体どこの隙間から忍び込んで来られたのですか?」

「別に忍び込んでない。堂々と、正面から護衛をぶっ飛ばして入って来た」

「今日戴冠なさる方が臣下の兵をぶっ飛ばさないで下さいまし」

「だってあいつら絶対に俺を周瑜に会わせねえとか言うんだもん」

「あのですね」

 玉蘭は溜め息をついた。

「別に私たちも意地悪でお二人を会わせなくしているわけでは……。

 戴冠前の清めの儀式で、三日前から周瑜様に会えなくて苛々しているのは分かりますが暴力は」

「何が戴冠前の清めの儀式だから妻と触れあっちゃダメだよ! 俺は周瑜と一緒に戴冠すんの! 俺たちは二人で一つなんだよ。よって、別に会おうが穢れとか発生しねえし!」

 今日も孫伯符は大元気らしいようで何よりだ。

「大体、戴冠式と言っても、結婚式でもあんだろ! なんで周瑜に会っちゃダメなんだよ」

「こちらもですね、大殿である孫文台様のお生まれになった土地では、伝統として、花婿は式の当日は婚礼の儀が始まるまでは花嫁の姿を見てはならぬという……」

「周瑜の綺麗に着飾った姿を花婿の俺が一番最初に見れない伝統なんて絶対間違ってるぞ」

 孫策は唇を尖らせた。

「まだ式が始まるのに五時間ある。

 周瑜と話したい」

「だめです」

「ダメとかじゃない」

「だめです」

「じゃあ、話さないから見るだけならいいだろ」

「見るのが駄目なのです。婚礼の儀が始まるまでは、お二人は清らかな関係を保っていただかないと、悪しき神が嫉妬して、お二人に目を付けられますよ」

「悪しき神なんか俺がぶっ飛ばしてやる」

 三日間会えず、相当鬱憤が溜まっているらしい。

 孫策が二言目にはぶっ飛ばしてやると言い始めたら、もう彼の心を落ち着かせられるのはこの世で周瑜しかいないのだ。

「……では、声だけ。扉越しになら」

「ほんとか!」

 孫策が顔を輝かせる。

「でも絶対声だけですよ。扉越しですから。扉を蹴破ったりしないでくださいね」

「うんわかったしないしない」

 心が籠もってないにも程がある返事に、玉蘭は半眼になる。


「絶対する気ですね!!! 駄目です!! 絶対ダメです!!

 今日この日を迎えるまでに、何もかも完璧にして来たのに最後の最後でそんなの駄目です! どうしても周瑜様の所に行きたいというのなら、この私をぶっ飛ばして行って下さい!」



◇ ◇ ◇



「……あの侍女、やるね」


 孫策が板を橋渡しに掛けられ、繋がった船から追い返されて戻って来るのを見て、甲板にもたれて様子を見ていた淩公績りょうこうせきは若干呆気に取られたように呟いた。

 側にいた陸遜りくそんはあまり反応せず、腕を組んでいる。

 孫策は三日前からずっと不機嫌だ。

 最初の頃は、その不機嫌を彼も見せないように我慢していたようだが、朝から晩まで戴冠と婚礼の伝統儀に付き合わされて、しかも婚礼の儀が始まってからではないと本当に周瑜に会えないのだと実感が湧くと、途端に苛々し始めた。

 彼の苛ついた時の気の紛らわせ方である、弓などをして気分転換していたようだが、外しまくって、しまいには弓の弦まで切ってしまったのだ。

 人、一人に会えないことで、こんなに不安になる人がいるんだな、と陸遜はそのことに驚く。

 だが確かに、決して笑い話ではなく、孫策は周瑜に会えなくなると途端に駄目になるのだ。


「父上」


 向こうから隻眼の、淩操りょうそうがやって来た。

「策様の様子は?」

「怒って怒って……全く手が付けられんよ」

「折角の祝いの式典なのに、当の孫策殿が不機嫌では、本末転倒です」

 陸遜は溜め息をつき、座っていた木箱から立ち上がった。

「アレ? どこ行くんですかぁ」

 淩統が呼び止めたが、陸遜は無視して、淩操に一礼し、孫策が今しがた帰って来た架け橋を渡り、隣の船へと向かって行く。

 見送った、淩統は口笛を吹いた。

「あの侍女さん敵に回すなんてやっぱあの子度胸あんね。

 おれなら絶対そんな憎まれ役なんかやりたくないな~」

「五月蝿い、いちいち茶化すな。

 公績こうせき、お前も参列するのだから、早く着替えて来なさい」

「えーまだ五時間くらいあるでしょ?

 一時間前くらいに支度始めれば大丈夫だって……」

 ふわああと暢気に欠伸をして、ごろりと器用に甲板の縁に横になった淩統を、数秒後、父親が怖い顔で覗き込んだ。

「いいから着替えて来い! お前は! ああいうものは式の前に一度着ておくものなのだ!!

 いいか! めでたい式とは言え我々近衛の使命はあくまでも護衛だ!!

 殿に尻を向けることなくとも常に我々は背後に気を張っていないと駄目なのだぞ。

 分かっているか公績!」

「わ、分かってますって。ちょっと休憩してるだけでしょ。

 お父様戴冠式兼婚礼式当日に息子を怒鳴り散らすのやめてよ。

 ほら、肩でもお揉みしますから落ち着いて……」

「年寄扱いするでないわ!」

「別にそういうわけじゃ」

「お前こそこんな所で他人を品評したり無意味な休憩なんぞしとらんであちこち手伝って来い!! まだ準備は終わっておらんのだぞ!」

「いでででで!! わかったわかった! 分かりましたってば!」


◇ ◇ ◇


 玉蘭の指揮する侍女が、部屋の前の警備のようなことをしていた。


 陸遜が来ると、一瞬は身構えたが、彼がどちらかというと孫策ではなく周瑜の侍従であるのと、「奥方様に報告することがあるのですが、入っても構わないでしょうか」と腰を屈め、穏やかな声で彼女達に許しを乞うたのが良かったのか、「お取次ぎいたします……」と真っ赤になって中に入って行った。

 陸遜はその間、きちんと廊下の壁に沿って立ち、佇んでいる。

「お会いになれるそうにございます」

 出て来た侍女が陸遜を招いた。

「どうぞ、こちらへ」

「ありがとうございます。長居をせぬよう、注意しますので」

 侍女達が言う前に、陸遜が自分からそんなことを言ったので、彼女達はホッと安堵したような顔をした。

 一礼し、陸遜は船室へと入って行く。


 ここは元々大食堂だったのだが、全ての余計なものを外に出して、取り払い、周瑜が寛ぐための私室にしたのだ。

 家具や、絨毯なども敷かれ、ゆったりとしていて、さすがに玉蘭というあの侍女は、こういうことに対するきめ細やかさでは、敵わないなとさえ陸遜に思わせた。

 出来る限り窮屈な船室であることを忘れさせようと、織物を敷いたり、掛けたりして、それでいて品の良い雰囲気に収まっている。

 窓も、丁度船体脇につけられた搬入用の出入り口なのだろうが、布を掛けて、陽射しがきちんと入って来るように調節されていた。


(こういうところは、女性ならではの感性ということなのだろうな)


 自然に、そういう風に考えて、自分もそういえば、この世に生まれた時は女という性別だったのだなと遅れて気づいてしまう。

 孫策のような男の大胆さもなければ、玉蘭のような女の細やかさも完全には備わっていない。

 中途半端な我が身を、自嘲したいところだが、今日は祝事だ。

 自分が辛気臭い空気など出してはいけないと、陸遜は気分を切り替えることにした。

 幕を垂らされ、蓮の花が描かれた屏風にそれがしどけなく掛かり、窮屈にならない程度に仕切られた場所を通り抜けると、奥に寝そべることが出来るほどの横椅子があり、そこに周瑜が腰掛けていた。


 陸遜は立ち止まった。


 ごく薄い、水色の、特別にしつらえられた祭事用の深衣しんいを纏い、敢えて大きさの異なる真珠を散りばめた金の髪飾り、首飾り、腕輪、足輪が、清楚な色の衣にも豪奢さを演出していて、非常に美しい。

 深衣の裾は重ねられており、まるで空の色が変わる時のように、段々と長裙ちょうくんは深い色合いへとなっている。

 周瑜は女性にしては長身なので、彼女が立てば、さぞやこの衣装は映えるだろう。

 一部分を結い上げながらも残りを背に垂らした周瑜の黒髪は、今日も夜のような深い色で、そこに広がっている。


 深衣を整える飾り帯は背にあり、その帯もまた、長裙と同じように垂れた先に行けば行く程、裾が広がるようになっているらしい。

 その飾り帯の色が、目を引いた。

 翡翠かわせみの羽のような、非常に美しい色の帯である。


「陸遜」


 ハッとした。

 呼びかけられて、陸遜は慌ててそこに膝をつく。

「申し訳ありません。不躾をいたしました。

 あまりにお綺麗で、言葉を失いました」

 陸遜がそう言ったので、周瑜は目を丸くした。

「お前がそんな世辞を言うなんて珍しいな」

「いえ……、」

「はは……だけど、私もこんなすごい格好をするのは人生で初めてなんだ。

 お前はあまり、嘘で人を褒めたりしないから、綺麗だと言って貰えると少し安堵するよ」

 陸遜は顔を上げる。

 周瑜は、出で立ちは違えども、いつもの穏やかな表情をしていた。

 孫策は苛々としていたが、周瑜はいつも通りだ。

 この二人は同じようでいて、どこかが違う。

 ほとんどの感覚を共感しているが、何かがそっと違う。

 そこに孫策は深く惹かれ、周瑜も孫策に惹かれているのだと思う。

 それは、きっと男と女の違いなどという、誰しもあり得るつまらない違いなどでは無いはずだと、日頃から陸遜は思うようになっていた。


(こういったことで周瑜様は我を崩されない。

 だが、きっとこの方も心が揺れる時があるのだろう。

 そしてその時は――きっと孫策殿が揺れておられないのだろうな)


 周瑜が立とうとしたので、陸遜は立ち上がり、それを手で制した。

「周瑜様。すぐに、去りますゆえに」

「すまん。綺麗なんだが、なかなか動くのが大変で」

 周瑜が笑った。

「動き回るための衣装ではないですから。

 大したようではありません。ご機嫌はどのようかと。

 孫策殿が、ここに入って来るのを盛大に止められていましたので……」

「伯符はどうしてる」

 予期していたらしく、周瑜はくすくすと笑っている。


「――……お会いになりたいようでしたが」


 苛々していた、とは言わなかった。周瑜が心配すると思ったからだ。

「策はいつも私と会いたがるよ」

 微笑む。

 大したことは無いのだろうと思ったのだろう。

「よろしければ。何か御言付けがあれば、お伝えすることは出来ますが」

 陸遜がそう言えば、周瑜はおや、と思ったようだ。

「……お前がそんなことを言って来るということは、策の方はかなり深刻のようだな」

「……。申し訳ありません。しかし、孫策殿は玉蘭殿と話されたのち、向こうの船に戻られました。差し出がましいことだったかも」

 周瑜は椅子の背もたれに、片手の肘をかけた。

「いや……。そんなことはないよ。

 陸遜。お前はもっと、自分の目を信じていい」

「……。」

「私も、数時間後には会えるからいいかなと思っていたんだが」

「はい」

 周瑜は少し考えた後、一度小さく頷いた。

「伯言。私は今、ここから離れられない。悪いが、頼みごとをしてもいいか?」

 陸遜は跪いた。

「はい。」


◇ ◇ ◇


 扉が鳴った。


「孫策殿。陸遜です」


 孫策は支度部屋の椅子に仰向けになって、完全に不貞寝をしていた。

 陸遜という青年は任務に忠実で勤勉で、意志のとても強い所があったが、相手の人間が自分に対して距離を取ったり心を閉ざした時には、敢えて触れに行ったりしない、奥ゆかしい所があった。

 周瑜から聞いた話では、孫権に対しても陸遜はそうであるらしい。

 最初の第一印象が良くなかったのか、その後の巡り合わせが良くなかったのか、孫権は未だにこれだけの働きを呉軍でしている陸遜に対し、心を開いていない。

 開いてないだけならまだしも、未だに警戒をしているというのだから、手に負えなかった。

 孫策自身、幾度となく「俺から権に話してやる」と言っているのだが、陸遜は「こういうことは、誰かに言われて信じれるようになるものではありませんから」と静かに首を振った。

 孫権は、疑心を抱く陸遜が周瑜や孫策の側にいることが気に入らないらしく、見かけるたびに眉を顰める。

 陸遜も最近はそれが分かっているから、孫権の気配がすると、その場を後にすることがほとんどだ。

 孫権が同じ城にいる時は、陸遜はこちらが呼び出さない限り、どこにいるのか分からないほど、息を潜めて姿を見せようとしない。

 孫権がいない時は、常に周瑜の側に控えているのだから、徹底している。


「陸遜は、そういうことをあまり悲しいとは思わないようだ」


 周瑜から、陸家のことを少しは聞いている。

 彼は、その場にいないように振る舞うことに、慣れている家系なのだと。

『孫権殿と陸遜が不仲だからな……。伯符は、なるべく、陸遜に優しくしてやってくれ』

 周瑜の顔が浮かび、孫策はもう一度鳴った扉を振り返る。


「……孫策殿、お休みでしょうか。周瑜様から御言付けを頂いて参りましたが」


 思わず立ち上がって、扉を開けに行く。

 扉を開くと、そこに陸遜が立っていて、現われた孫策に一礼した。

「今の時間、見張りの侍女に休憩をやったので、お会い出来るとのことです」

「ほんとか」

 孫策の顔が輝いた。

「会いに行っていいのか? 周瑜がそう言ったんだな」

「はい」

 眩しいような彼の笑顔に、少しだけ気後れを起こしたが、陸遜は微かに笑んで、頷いた。


「会いに行く! すぐに案内してくれ!」


 本当に、この二人はいつも飽きるほど側にいるのに、いまだに互いに会いに行くことがこんなに嬉しいのだなぁ、と思うと、陸遜は少し感動した。

 こんなに仲のいい夫婦というものを、陸遜は今までに見たことが無いのだ。


「周瑜に会って来たんだな? 綺麗だったか?

 ――ああ、答えないでいいぞ陸遜。綺麗に決まってる!」


 孫策は青灰色せいかいしょくの瞳を輝かせて、笑った。


◇ ◇ ◇


 陸遜は船室の扉を開くと、自分はそこまでで足を止め、孫策を中に入らせた。

 彼は一礼して扉を閉め、足音は遠ざかっていく。


「伯符か?」


 初めて見る周瑜の支度部屋の優雅さに少し驚いて見回していると、すぐに奥から声がした。

「周瑜!」

 孫策が駆けて行く。

 仕切り用の屏風の影から姿を現わした孫策に、横椅子に座っていた周瑜が顔を綻ばせた。


 「策」


 微笑んだ周瑜の綺麗さに、孫策は少し距離のあるそこで足を止め、頬を赤らめた。

 もうこの顔は見れないと思っていたので、周瑜は嬉しくなる。

 結婚した十二歳の頃、一年ぶりに再会した時も、周瑜の成長に孫策はこの顔を見せた。

 結婚してすぐに、二年、遠征で離れ離れになって、それから再会した時も、この顔を見せて、彼は周瑜と話すことが気恥ずかしくて堪らないというような、そんな言動を見せたことがある。

 これで三度目だ。


「何を遠くから眺めてるんだ?」


 周瑜が小さく腕を広げると、孫策が、呼ばれた子犬のように駆けて来て、絨毯に膝をつき、周瑜の身体を抱きしめて来た。

「周瑜、きれいだ」

 過去二回、その言葉を言うのにとても苦労した様子だったのだが、今回はすんなりと、口から出た。

「……ありがとう」

 孫策にそう言われるのが一番嬉しい。

「本当に、綺麗だぞ。俺の語彙が貧弱なばかりにロクな賛辞が口から出て来なくて、悪いけど」

 彼が見下ろして来る。

 周瑜は笑って孫策の頬に触れた。

「私を見くびるな。そんなこと、君の顔を見れば心からの言葉かどうかなんか、すぐに分かる。

 孫策に誉めてもらうのが私は一番好きだ。

 だから嬉しい」

 孫策も、周瑜の頬に両手で触れて来る。

「……すごく、綺麗だ。

 思い描いてたやつの、十倍綺麗だった。いや……百倍綺麗だ」

 言って、孫策はようやく、というように周瑜の唇に口づけて来た。

 口付けを受けて、すぐに周瑜は「あ」と思った。


「ごめん。今日は少し鮮やかな紅をつけてるから、口づけすると君についてしまうんだった」


 孫策はきょとんとする。

「ついてるか?」

 周瑜は吹き出した。

「ついてる」

 彼女は側の卓を指差した。

「そこの布と水差しを取ってくれるか。隣に座ってくれ。とってやる」

 孫策が持って来て、周瑜の隣に腰掛けた。

「動いたらだめだぞ……」

 周瑜は水を含んだ布で、孫策の唇に少しついてしまった紅を、押さえるような手つきで取ってやった。

「取れた」

「じゃあもう一回してもいいか?」

「ダメに決まってるだろう。なにが『じゃあ』なんだ? 式が終わるまで、口付けは駄目だよ」

 周瑜が笑いながら首を振ると、孫策が今度は、彼女の衣装や、髪や、装飾品を崩さないように、ゆっくりと、慎重に――だが優しく、抱きしめて来た。

「やっとお前に会えた……。

 お前の顔見ると、やっぱり安心する。

 この三日くらい、拷問のようだった」

 おや、と思う。

 孫策はまだ二十三歳の青年だが、幼い頃からこういった式典などではほとんどと言っていいほど緊張をしない性格をしている。

 戦場に出る時は緊張も感じるようだが、こういう行事は、どこか気が抜けるらしいから、そんな行事でこれほど孫策が精神を消耗しているのは非常に珍しい。

 陸遜が孫策を気にしていた訳が、ようやく分かった。


(……孫策。緊張してるんだな)


 勿論、婚礼の儀などではない。

 戴冠の儀の方だ。

 自分が王になるという、その実感がまだ全然湧かないと、一週間前ほどに彼が言ったばかりだ。

 江東の、名門ですらない、一豪族から力でのし上がり、翔貴帝しょうきていに建国を許されることになった。

 江東平定は今日、成ったことになる。


(幼い頃からの夢だったからな)


 周瑜は微かに震えている気がした孫策の身体を抱きしめ、背をそっと撫でてやった。


「大丈夫だ、伯符。

 君の御父上も、きっと今日という日を喜んで下さっているよ」


 腕の中で、孫策の身体が少しだけ身じろいだ。

「……そうかな」

「当たり前だ」

「お前にはまだ早いとか、思われてんじゃないかな。

 俺は、まだ、何にもしてないぞ。

 董卓とうたくも、呂布りょふも討ってない。ただ袁術えんじゅつを殺しただけだ。それで、王になって、いいのかな……本当はせめて、逆臣董卓を討ってから……」


「いいんだよ」


 周瑜はゆっくりと孫策の身体を離すと、そのまま立ち上がり、体の向きを変えるようにして、孫策の前に膝をついた。

 そうする周瑜を、孫策が見下ろしている。

 周瑜は孫策の手を取ると、いつも通り、戦場に赴く時のように左手の親指に護りの指輪を嵌めたその手の甲に、優しく口づけた。


「江東平定が君の夢の終わりじゃない。

 弱い民や、女子供が武器を取らなくていい世界にする」


 ――それは、周瑜の夢だ。


 江東平定が孫策の夢なら、それは彼女の夢。

 幼い頃話し合って、互いの夢の為に協力しようと誓ったのだ。

 夫婦になった今では、どちらもが、互いの夢になっている。


「完全なものにならなければ、王になってはいけないわけじゃない。

 君は王という新しい責務を今日背負い込むんだ。

 私と君は、十二歳の時に夫婦になっただろ。初夜に結ばれることが出来ないくらい、どちらもまだ幼かったけど、それでも先に結婚した。

 義父上ちちうえは、君の成長を一つ促すために、結婚をした方がいいと思われたんだよ。

 きちんと誰かと夫婦になって、家庭を持てば、自覚が芽生える。

 でもそこが、終着地点じゃない。

 家族という支えを手にした君が、もっと強くなって行ってほしいと願ったからそうしたんだ。

 今日の戴冠式だってそれと同じだ。

 玉座が落ち着かなくても当たり前だ。

 結婚初夜も、私達にはあの舒の屋敷の寝台は大きすぎただろう?」

 孫策がようやく、強張っていた顔を少し和ませた。


「確かに大きかったな。

 寝方も分かんなかった。……結局、お前を抱きしめながらいつも通り寝たんだっけ」


「うん。そんな君だったけど、今は本当に、強くて頼りになる夫になった。

 立派だし、優しい。

 踏み出す時が来たというだけなんだから、恐れず戴冠すればいい、伯符。

 きっと王位は重たいものだろうけど、君は一人じゃない。みんないてくれるし――もちろん私も一緒に背負ってやる。大丈夫だ」


 袁術えんじゅつなどが、こうして建国を許されたら、有頂天になって盛大に式典を催し、意気揚々と玉座に座りに行っただろう。

 王位というものに正しく恐れを感じる孫策は、決して間違ってないのだ。周瑜は誇らしかった。

「この緋色の衣装も、とても似合ってる。

 格好いいぞ、策。

 君のことを袁術の後釜だなどと思ってる民は、今日君に会って、きっと君のことを好きになってくれるはずだ」

「……お前がそう言うと、そうなのかなって思える」

「そうか。……まだ不安か?」

「ハハ……緊張してんだな、俺。

 なんかこの数日、妙に苛々して、単にお前に会えないからだなーとか思ってたけど」

「緊張して当然だ。国を背負うんだからな。

 式典の当日まで、周囲に心配も掛けず、よくやった。

 偉いぞ、伯符」

 立ち上がり、頭を撫でてやると、孫策が周瑜の身体にもう一度腕を回してきて、腹部に顔を埋めるように、抱きしめる。


「……お前の声を聞いているとやっぱり落ち着くな」


「私も同じだ」

 周瑜は微笑んだ。

 孫策の額に口づけようとして、自分の唇を押さえる。

「ダメだな。君のことばかり注意していられない。私もついつい唇で君に触りに行く悪い癖があるんだな」

「それは悪い癖じゃなく良い癖だから、直すなよ、公瑾」

 孫策が周瑜の腕を取って、自分の膝の上に彼女を座らせた。

「いつもより周瑜が重いぞ」

 彼は目を丸くしてから吹き出す。

「見た目涼しげだけど、相当重いんだな、それ」

「特に装飾品が多いから。頭の髪飾りも随分重いんだ。でも、これでも玉蘭は、式の最中私が苦しくならないように、飾りとかにも気を付けてくれてる」

「この部屋も、あいつがやったのか?」

「うん。そうだ。出来る限り私が寛げるようにって」

「そうか……。やっぱり、なんだかんだ言って、あいつはこういう時にとても頑張るなぁ。

 いい仕事をする」

 周瑜は少しだけ頭を孫策の肩に預けた。

 そうするだけでもとても楽になる。

「うん」

「……本当はこんな綺麗なお前を今すぐ押し倒して、思い切り抱きたいんだが。

 そんなことしたら玉蘭が泣くな。

 それは可哀想だ」

「うん」

 周瑜は微笑む。

 孫策が自分の侍女を気遣い、労ってくれたことが嬉しかったのだ。

「数時間、我慢すればいいだけだからな。我慢するか」

「うん。式典なんか、始まってしまったらすぐだよ」

 頷いてから、孫策は腕の中の周瑜を見下ろして、数秒後、両腕で抱きかかえるようにして抱きしめ、額に熱っぽく口付ける。


「そうだな。……待ち遠しい」


 言いながら、孫策は周瑜の着ている長い深衣の裾から手を潜り込ませる。

 片足の太腿が覗くまで捲り上げて、皮膚を撫でて来る。

 愛おしむようなその撫で方に、周瑜は小さく息をついた。

 

 婚礼の儀を今日挙げるにしても、実際には夫婦になって八年、身体を繋ぐようになって六年になる。

 孫策の抱き方はいつも情熱的で力強かったが、今、見つめて来る孫策の瞳や、触れて来る手の熱さを見ると、<結婚初夜>となる今夜、彼がどんな風に触れてくるつもりなのか、頭に過り、周瑜は押し隠したが、その甘美な想像に身体の奥が確実に疼いた。


「……策、くすぐったい。もう肌に触るのは駄目だ」

「三日ぶりにお前の肌に触れて気持ちいい。胸も触っていいか」

「逆に尋ねるが、何故いいよと言って貰えると思った?」

「でも触りたいから触る……」

「あっ」

 服の上から、孫策が周瑜の胸に触れた。

「……、」

「柔らかい。あとこの布の触り心地もすごくいい……気持ちいいからあと三時間胸触ってていいか」

「いいわけないだろう。……こら、策。……変な触り方するな」

 衣に覆われた下に隠れている、胸の形を辿るように手を動かす孫策を、周瑜は注意した。

「変な気持ちになるだろ……」

「……変な気持ち?」

 孫策が額を寄せて来る。

「いい気持ちだろ」

「策……」

 周瑜は孫策の頬に触れた。

「頼む。私も、……これでも緊張してるんだ。

 今日は君の大切な日だ。私は君とは、一心同体だけど、今日の主役は伯符だよ。

 今日は私のことで失敗したくない」


公瑾こうきんでも緊張することあるのか」


 孫策が額を触れさせたまま、笑った。

 緊張の無い、幼い頃から見知った笑顔だ。

「あるよ。失礼だな。私は、君が緊張しててもそんな意地悪なこと言わなかったぞ」

 周瑜も内心を吐露して、どこか安心した。

 自分も孫策と話してると、安心するのだ。

「だってお前は、俺よりしっかりしてるし、強いからな……」

 駄目だと言ったのに、孫策はもう一度唇を重ねて来た。

「ん」

 舌が深く絡まる。

「……はくふ……」

 小さな周瑜の声が怯えるように震えた。

 孫策を見上げれば、どういう感情で孫策がそうして来るかが分かる。

 熱っぽい瞳なら、今、周瑜は孫策に平手打ちをしても止めなければ、押し倒されて瞬く間に抱かれることになるが、その時見上げた孫策は、確かにまだ理性的な表情をしていて、瞳には優しい光があった。

 少し乞うような気配を覗かせるその目は、孫策が、悪いことだと分かっていてもやってみたいと望む時に見せる、少年時代から変わらない目で、周瑜はこの目で強請られると、つい願いを聞いてやりたくなってしまう。

「今は我慢するから、もう少しだけこうさせてくれ」

「……っ、」

「そうしたら、今夜までお前に触れるのは我慢する……」

「……随分簡単に言ってくれるんだな」

 周瑜は深く息を付いた。

 数秒、心を落ち着かせるようにして、孫策の額を手の甲で軽く叩いた。

「やっぱり君は、私のこと、女だってことたまに忘れることあるだろ……」

 女は感じれば、濡れて来るんだぞ。

 周瑜は困った顔をしたが、孫策がそうしたいなら、と唇を引き結び、身構えた。

「あんまり長くは駄目だぞ」

「うん」

 孫策は嬉しそうに満面の笑みになって、周瑜を抱きしめて来た。

 それから、彼女の両頬に手を添えて、もう一度深く口づけて来る。

 感じないよう身構えている分、孫策の熱を帯びる気配にすぐさま飲み込まれるようなことは無かったが、孫策は片手を周瑜の肩に回し、抱きかかえるようにして、もう片方の手で捲り上げた長裙から覗く太腿や、胸を優しい手つきで愛撫する。

 これが平時だったらすぐに自分からも身を任せて、流れるように押し倒されていただろうが、周瑜は懸命に、今日から、重責を背負うことになる孫策を想った。

「ん」

「…………はぁ……、っ……」

 しばらく、孫策を好きなようにさせて、数分はそうしていたと思うが、やがて孫策は唇を放してくれた。

 孫策の胸に顔を伏せ、深く溜息をつき、心を落ち着かせる。

 顔を上げると、周瑜の顔色を窺うように、鼻先に孫策が覗き込んでいた。

 今度は余程、紅が移ってしまったその唇に、周瑜はまったく……、と呟いて、もう一度さっきの布で孫策の唇を丁寧に拭いてやる。

「あまりはしゃぐんじゃない」

「へへ」

 拭かれながら、屈託なく孫策は笑った。

 「……でもまぁ、君が緊張で顔が強張っているよりは、そうして子供みたいに笑ってくれていた方がこちらに安心するな」

 周瑜は孫策の唇から慎重に紅を取ってやると、自分の唇にも指を触れさせて、近くに鏡を探す仕草をした。

「私の唇も変になってないか?」

「見せてみろ」

 孫策が周瑜の顎に手を添えて、覗き込んで来る。 

 すぐに彼は微笑んだ。

「なってない。いつも通り、……いや。いつも以上に美しいぞ。周瑜」

「そうか。ありがとう……」

 そう言ってる間にもう一度口づけて来ようとした孫策の顔を、さすがにむぎゅ、と手の平で向こうに押し返した。

「もう口付けは駄目だ。きりがなくなるだろ」

「つめたいな」

 孫策が笑っている。

「何言ってるんだ……。君は緊張するか、しないかの両極しかないのか?」

 呆れたように周瑜は言った。

 それから、周瑜は孫策の膝の上から立ち上がり、もう睦み合う時間は終わりかと、がっかりしかけた孫策の隣に改めて座り直し、彼の胸に頭を凭れ掛けさせて来た。

「ん……?」

 思わず条件反射的に、周瑜の背に手を置いていた。


「抱きしめろ」


 周瑜が言った。

「え?」

「自分だけ気持ち良くなって、満足して、それで終わらせるつもりか?」

「いや、でも……俺お前をここで抱きしめたらまたムラムラしてくるだろ」

「いやらしい気持ちにならないような抱き方をすればいいだろう。

 私は今、君にぎゅっとされたいんだ。

 私は口付けを許してやっただろ。だから君も私の願いを叶えるべきだ。

 別に抱きしめたって欲情しないやり方は知ってるだろ。

 それともなんだ君は私を抱きしめると必ず欲情するのか」

「んー……。俺はわりかしそうだぞ」

 周瑜がぎゅう、と孫策の脇腹を抓って来た。

「いでで!」

「いつもやってるだろ。普通に抱きしめるやつだ。はやくしろ。私だって安心してから式典に臨みたい」

「いつもやってるやつと言ってもだな……」

 孫策が両腕を回し、周瑜の身体を胸の中に抱きしめる。

「正直、今日のお前は完璧に美しすぎて、平常心は保てんぞ」

 手触りのいい布に包まれた、細身の身体。

 女らしい柔和な線が、感じ取れる。

 微かに香る、花の匂い。

 夜色の長い髪が、広がる。

 身体をそっと委ねて来ているその仕草は可愛い。

 温かい。柔らかい。

 周瑜の身体の線を意識すると、どうしても魅力的過ぎて欲情するのは分かり切っていたから、孫策はまるで子供を抱きしめてやるかのように、宥めるように、ぎゅ、と強く周瑜を抱く腕に力を込めた。

 だが、それは周瑜の欲したものの、まさにその答えだったらしく、周瑜も孫策の身体に腕を回して来た。


「……たいへんなことだな」


 周瑜は深く息をついた。

 孫策が彼女を覗き込む。

「一つの国が建つということは。

 多くの者の期待を背負ってる。失敗も失望もさせられない。

 何も持ってない私たちが、漢の国でいう、朝廷のような存在になっていくなんて、まだ実感が湧かない……。

 でも、幼い頃君がよく言っただろう……?

 漢国の王室だって、国が建った時は、何も持ってない、一つの豪族に過ぎなかったって」

「おふくろに言ったらぶっ飛ばされたやつだな。あと張昭にも、無礼なことを言うなとド突かれた。はは……そういや張昭は今、どんな気持ちなんだろうな。俺たち以上に信じれないんじゃないか?

 あの時俺を、あいつは大それたことを言うなと怒ったんだぞ。

 その大それたことを、今、あいつは俺達と一緒に成そうとしてる。

 信じられないんじゃないのかな」

「いや。信じられないと思いながらも、きっと喜んでくれてるよ。

 義父上ちちうえが亡くなった後も、いなくならずに、君を支えて来てくれた人だからな」


「……そっか。

 けど――――、お前は何も持ってない、って言ったけど、俺はともかくお前は持ってるだろ。

 漢の朝廷において<三公さんこう>の位を戴いたことのある名門出身じゃないか」


 周瑜が小さく笑う。

「わすれてた」

 孫策が吹き出す。

「でも、おれ、お前に求婚したいって親父に訴えた時、あの女はお前には高嶺の花だから手を出すなって忠告された時、言ったんだぜ。

 江東を平定して、そこに一つの国を打ち立て、王になれば、周瑜を娶ったって恥ずかしくない身分になれるだろ、ってさ」

 周瑜はそっと、伏せていた瞳を開いた。

「……そんなこと言っていたのか?」

「うん。だってすげー身分違いだって言われたもん。主人が召使いに恋を告白されるようなものだって言われたんだぜ」

「それはいかにも身分違いだな……しかも普通の人間に言われたら気にしなくても、父上に言われたら傷つく。……よく、諦めなかったな」


「そんなもん…………何も言わずにお前のこと諦めることになるのかと思えば、身分違いなんかまったく気にならなかった。

 お前は周家のお姫様で、俺は召使いの一人だとしても、お前が、俺のこと気に入ってくれてるのは分かってたから。

 どんだけでも強くなれたよ。

 それこそ、俺が孫家の嫡男として、周家の姫を嫁にしたいっていうのを、よく言ったって褒めてくれんならまだしも分不相応だって叱るなんて、父親として情けないぞって親父と喧嘩した」


 周瑜は微笑む。

 孫策の胸に耳を預けると、鼓動の音が聞こえて、その音は周瑜を安心させた。

「でも君は本当に夢を叶えて、国を作ったんだな。大変なこともたくさんあったけど……」

 君は本当に偉いよ。

 優しく囁いた周瑜の項を、そっと撫でてやる。


「……お前がいてくれたからな」


 孫策の声に、心が安堵する。

 自分が誰かの力になっていると、そう自分で思えることは、どうしてこんなに幸せなことなんだろう。

「策……?」

「うん?」

「私も全く、同じことを考えてた。

 君がいたから、私も色んな辛いことを、乗り越えられたと思うよ。

 君と会えなくて寂しいことも確かにあったけど……そのことが、会える嬉しさに勝ったことはない。

 ……国が建って、王となる君は、また色んな大変なことがあると思うけど。

 きっと今までのように越えて行けるからな……」

 抱きしめた妻がそんな風に優しい声で言うのを聞いて、孫策は目を細めて笑った。

 

「わかってる」



◇ ◇ ◇



 玉蘭が数時間、眠って、自分の支度を整えて戻って来ると、周瑜は窓辺に置いた大きな花瓶の中に入れられた小虎を紐にじゃれさせ遊んでいる所だった。

「お休みにならなかったのですか?」

「休んだよ。ずっとここで凭れてたし」

 いつもなら腕に抱いて撫でてやるのだが、動物は衣装を汚してダメにするから決してここから出さないで下さいと言われて、今日はこの虎はずっとこの花瓶に入れられているのだ。

 まだ子猫のような大きさしかない上に、陶器で出来た花瓶は引っかかるところもないので、出て来れないのである。

 ほとんど、中で丸まって眠っていたが、起きるとひょこひょこと頭を一生懸命覗かせているのが可愛い。

 周瑜は動物が好きなので、江夏こうかの城を取ってからは、そこで色々な動物を飼っていたが、その動物たちも今日までに、建業の城に全て送られていた。

 この小虎は一番幼かったし小さいので、式典の準備で孫策に会えないことも多いだろうと予想した周瑜が退屈しのぎに手元に連れて来たのだ。

 この虎だけは、行列に加わって、今日一緒に建業に連れて行くことになっている。

「それに、この数日忙しくても、睡眠はちゃんととれていたから、平気だ」

「まだ早いですけれど、ゆっくりと最後の支度を整えましょうか。

 最後にバタバタするのもなんですし」

「うん。そうだな」

 玉蘭は周瑜に手を貸し、彼女を立ち上がらせた。

 大きな鏡の前に立たせれば、着飾ったその美しい姿に、感嘆の溜息が漏れた。

「本当に、お美しいです。奥方さま。……輝くほどに」

「ありがとう。玉蘭が一生懸命、この日の為に準備をしてくれたからな。

 今日で一応、ひと段落もつくし、一週間ほどゆっくり休みを取って、身体を休めてくれ」

「いいえ、大丈夫ですと言いたいところですけど……さすがにそうさせていただくかもしれません。

 もう精魂使い果たしましたから……。

 でも、周瑜様。疲れましたけれど、全然苦ではありませんでした。

 楽しい仕事でしたもの。

 ……あの腕白な孫策さまが、今日王位に就かれるなど、未だに信じられません。

 そして、幼い頃よりお仕えしたお嬢様が、その王妃になられるのです。

 本当に、嘘のようです。

 嘘のように、幸せです」

 周瑜は鏡の中で微笑む。


「……伯符殿の幼い頃からの夢だったからな。

 それが叶うんだから、私も今日という日が、とても幸せだ」


 周瑜の笑顔を見て、玉蘭は少しだけその表情を見つめた。

「私が席を外している間に、孫策さまがいらっしゃいませんでしたか?

 先ほど随分、周瑜様とお話ししたいお話したいなどと私と遣り合いましたので」

「どうしてだ?」

 周瑜が笑っている。

「あの方、そう簡単に諦めるような方ではないですもの」

 周瑜は鏡の中の、玉蘭の目を見つめてから、頷いた。


「……うん。来てないよ」


 言い聞かせるような優しい声だ。

 玉蘭は見返してから、小さく息をついた。

 自分も、幼い頃から周瑜に仕えてきたが、自分か孫策かなら、周瑜は孫策を選ぶ。

 昔からこの二人は、そうだったのだ。


「嘘をつかれるのは嫌ですけれど、」


 それでも、注意されて引き下がるようなのは孫策では無いし、周瑜は、悪い嘘を付くような人間ではないことは誰よりもよく分かっている。

「……気を遣って下さって、ありがとうございます」

 周瑜はもう一度微笑んだ。

「玉蘭がとても頑張っていたから、きっとさすがの伯符も根負けしたんだよ」


 孫策と、周瑜と。

 新しい城で、また新しい生活が始まる。


(どうか、今日という日がお二人の良き旅立ちの日になって、

 今日からの幸せが、ずっとずっと続きますように)


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