第3話




 建業の城に無事つくと、城へと浅い階段が続く、広殿の周囲を囲んだ回廊に、重鎮たちが並んで孫策たちを出迎えていた。

 ほぼ全員が、華やかに恙なくここまで辿り着いた孫策たちを笑顔と拍手で迎えてくれたが、張昭だけが仁王立ちで怒っていた。


「あれほど、今日は粗相はおやめくださいとお願い申し上げたにもかかわらず……」


 張昭の怒りが噴火する気配を察して、すすす……とそれとなく周囲の武将達が離れて行った。

「あんな公衆の面前で、王妃様に接吻をぶちかますとは何事ですか孫策殿!!!」

 怒鳴られて、孫策は片耳を塞いだが、すぐに唇を尖らせる。

 ちなみにまた思い切り紅が移ってしまったので、周瑜が丁寧に拭いてやったのだ。

 それを、緩やかに動く行列に並走しながら歩いてみていた民衆からは、突然孫策が周瑜に熱い口づけをしたことも驚きだったようだが、そのあと唇を拭かれてる姿も、『短期間に戦で逆らう豪族たちを殺し、江東を平定した鬼神』などと一部では恐ろしい男だと思われている孫策の、意外な姿に見えたようで、場にはくすくすと笑いがさざめきのように広がって、明るい笑いになり、中には口笛を鳴らして冷やかすような民もおり、その軽薄な様子に、今日は孫策が賢く立派な王だと印象付けさせたいと考えていた張昭は、怒ったのである。


「だって突然したくなったんだから仕方ないだろ……もう多分、癖なんだな!」


 開き直って笑顔を見せた孫策に、ぶふう! とどこからか吹き出す音が聞こえた。

 振り返る必要も無く、黄蓋だろう。

「そんな軽薄な子供のようなクセ、直してくだされ!!」

「直せってどー直すんだよ。周瑜のこと、ちょっと好きじゃなくなれって言ってんのか? そんなの出来ねえに決まってんだろ。

 お前が妻と熱い口づけをしなくなるのはお前の勝手だが、俺にまでお前の価値観押し付けんなよ。俺はお前の歳になっても周瑜とは今のままで行くつもりだからな」

「んな……!!」

 孫策の脇腹を周瑜が抓る。

「伯符どの。喧嘩は駄目だぞ。ここは素直に謝っておくんだ」

「わかった。ごめんなさい。」

 馬車の上で、絶対城に入ったら張昭は怒っているだろうから、何も反論せず思い切り謝ってやり過ごすんだぞと周瑜と約束していた孫策は、とりあえず張昭の怒りの表情を見た途端、条件反射的に文句が出たが、周瑜に抓られ、約束を思い出したのだ。

 更に怒ろうとした張昭は、孫策が珍しく自分に素直に頭を下げたので、ぐっ、と更なる怒声を飲み込む。

「まぁまぁ、子布どの。今日は本当に麗らかな、素晴らしい日ではございませぬか。孫策殿も、感極まったのでしょう」

「うんそうだ。感極まった」

 唯一、張昭の側に残っていた張絋ちょうこうが、助け舟を出して、落ち着かせるよう、張昭の背を撫でた。

「そうですぞ、張昭どの。もういいではないですか。夫婦が大衆の前で大喧嘩したというわけではない。今日は戴冠式でもある。あまり孫策殿に頭を下げさせるのはいかがなものかと」

「お二人はいつもこんなものなのですから、そう目くじらを立てず……」

「五月蝿い!! そなたらが二人はこんなものだこんなものだなどと躾も注意もせずいるから、いざというこんな大一番で孫策殿の悪癖が悪ぶれもなく炸裂するのじゃ!! しっかり教育いたせ!!」

 最後に雷を落として、張昭は張絋ちょうこうに宥められながら去って行った。

「怒られちった」

「油断も隙も無い方ですなぁ、若君は……」

 朱治が苦笑している。

「今日は怒られることは無いと思っていたのにな」

 周瑜が溜息をついた。

「黄蓋! 大体お前のせいだぞ!」

「ええ!? 私がなにをしましたか!」

「前にお前と話しただろうが! 周瑜の初恋が誰だろうって話を……」

「はぁ……。そんな話をしたようなしなかったような……」

「したんだ!」

「それがなにか?」

「その話を思い出して周瑜に聞いてたんだよ! お前の初恋は誰だって」

「なにも今日あの場所で思い出さずとも……それで、答えはどうでした?」

 黄蓋が一瞬顔をしかめたが、すぐに興味をそそられたように尋ねて来る。

 孫策も唇を尖らせていたが、突如満面の笑みになった。


「俺だった!」


「はっはっは! だからそうだと申し上げたではありませんか」

「孫策。そんなに女の初恋相手を大声で吹聴するものじゃあないぞ」

「だって嬉しくて。お前ら、俺と周瑜は初恋同士が結婚してるんだからな。国中に思う存分触れ回っていいぞ」

 武将達が吹き出して笑った。

 やがて、戴冠式を執り行う、儀典省の役人がやって来た。

「お式の準備が整いましてございます」

 恭しく、孫策に声を掛けた。

 今日は本殿の前に、特別な舞台が設けられ、そこに玉座が設えてある。

 本拠地となる建業の城に務める、前役人が中段以下の階段、広殿に立ち並び、武官達は周囲の回廊、および城壁の上に並び、更に大門を過ぎた、城下への道には、入れるだけの民衆が押し掛けている。

 孫策はここから、深緋の絨毯が敷かれた道を通り、舞台へと上がって行く。

 普通ならば、先代の王から冠を譲られるのだが、孫策は呉の国にとって、創始の王となる。

 だから冠を掲げて彼を待つ者はいない。

 玉座に冠と王の剣が置かれているので、それを手に取って、彼はたった一人で王になるのだ。

 武将達が去って行き、周瑜と、周瑜の侍女である玉蘭とその配下の娘たち、そして護衛である陸遜と、その数名の部下たちだけがその場に残ったが、気を遣い、二人からは遠く離れた所で待っている。

 回廊の端まで、孫策は出た。

 国に仕える文官達が、ずらりと揃って、膝をついている。

 山なりになっている下方には、民衆の列が、城下の遠くまで続いてるのが分かる。


 「……初めてこの建業の城に来た時」


 周瑜は顔を上げ、孫策の背を見た。

「ここは袁術の居城で」

 まだ孫策は幼かった。

 父に連れられてやって来たのだ。

「こんな馬鹿みたいに広い城に住む奴の、気が知れないって思ったよ」

 あの時に、十数年後、ここが自分の本拠地になるなんて、思いもしなかった。


 ……でも思いもしなかったことは、他にもある。


 父親が死んだこと。

 孫策は生きている間、何一つ父親に敵わないと思っていた。

 太陽のような存在で、それが無くなるなど、予想もしていなかったのだ。


(人の人生には、予想も出来ないことが起こる)


 いいことも、悪いことも。

 大切なのは、その時に、出来る限り、我を見失わないことだ。

 孫策が、父が死んだ時に我を見失わずにいられたのは、周瑜がいたからだ。

 まだ混乱の内に、父が死ぬはずがないなどと、孫策が怒っているうちに、周瑜が駆けつけてくれた。

 そのあとに訪れた、悲しみに沈む時に、周瑜と遠く離れていたら、側にいながら父親を死なせた罪悪感で、本当にどうにかなっていたかもしれない。


(俺が間違っていたり、迷いそうになると、いつもお前が、そばにいてくれる)


 だからきっと、……こんなに多くの人間を束ねることが自分に出来るのか、今はまだ自信満々などにはなれないけれど。

 それでも出来ると、信じよう。

 駄目だと思う何もかもを――今日まで乗り越えられて来た。


 柔らかい手が背に触れた。


「……大丈夫か? 伯符」


 振り返って、周瑜の顔を見る。

 その星の瞬く、夜色の瞳に見つめられると、ざわめいていた心は、落ち着いて行った。

「大丈夫だ。周瑜」

 孫策は周瑜を両腕で抱きしめた。

「俺は大丈夫だから、戴冠式が終わったらすぐにお前も来るんだぞ。

 その衣装は動きにくそうだし、裾を踏んで転倒するかもしれんが、しても気にするな。

 俺も戴冠式の最中くしゃみが出るかもしれんが、出たって気にしないことにしようと心に決めてる」

「余計緊張して来るだろ。転んでる所を想像させるなよ」

 周瑜が腕の中で笑った。

 それから、そっと、腕から抜け出す。

「策。頑張れよ。

 辿り着いた玉座に誰もいなくても、……必ずわたしが側にいるから」

「ああ!」

 孫策は明るい笑顔を見せて、周瑜の額に口付けてから、黄櫨染こうろぜんに漆黒の刺繍を溶かして、太陽と月の模様を施した豪奢な外套を翻し、強く、一歩を踏み出して行った。

 彼は迷いない足取りで、道を歩き、広段の真ん中で向きを変え、舞台へと登って行く。

 周瑜はじっと、その姿を見守った。

「周瑜様」

 後ろから声を掛けられる。陸遜が立っていた。

「こちらへ。よく見えるお席を、用意してあります」



◇ ◇ ◇



 一歩一歩、歩いて行く。

 これはどこに続く道なのか。

 そういうことを、さすがに考えた。

 数日前から、昔のことをよく思い出した。

 周瑜が側にいれば、昔を懐かしんで笑えたのかもしれないが、会うことを許されず、一人思い出す過去は、色々と考えさせられる。

 天にいる父親は、見てくれているだろうか。

 今日という日を、喜んでくれているだろうか。

 当たり前だ、と微笑んで、頭を優しく撫でてくれた仕草が蘇り、孫策は親指に嵌まった指輪を見た。


 独りじゃない。


 こうして孫策が一人で歩んでいる時は、周瑜も必ず寄り添っていてくれる。

 手を握り締めた。

 玉座が見えて来る。

 初春の陽射しに、光り輝いていた。

 今日が雨なら、ずぶ濡れになりながらこの道を辿るしかなかったのだから、本当に運が良かった。

(親父が晴れさせてくれたのかもな)

 玉座の上に、冠と、その側の台に置かれた一振りの刀。

 王の剣は、最初新しく打ち直されるつもりだったのだが、孫策は戴冠式に使う剣は、これにしてほしいと、一振りの剣を用意した。

 碧の鮮やかな孔雀石を散りばめられて作られた、豪奢な曲刀は、亡き父の形見の剣だった。

 例え創始の王だと言われても、孫策にも父はいる。

 

 あの人が、孫策に戦のことも、世の中のことも、生きているうちは全てを教えてくれた。


 父親が卑怯な男だったら、孫策も卑怯な男になっていた。

 愚鈍だったら愚鈍に。

 私利私欲に塗れているのなら、孫策も欲に塗れるのを望む王になっていたはずだ。


(あなたが、俺に道を示してくれた)


 だから、自分を迎える王の剣は、父の剣がいいと、それだけは孫策が決めたのだ。

 孫策は自分で冠を手に取り、頭にかぶった。

 そして、剣を手に取る。

 鞘から弓なりの刃を滑らせると、太陽の光が眩く、輝いた。

 天に掲げる。

 孫策が掲げると同時に、回廊と城壁に整列していた武将や兵達も一斉に武器を掲げた。

 膝をついていた文官達が立ち上がり、静まり返っていた広殿に、凄まじい歓声が上がった。

 地鳴りのように音と声が城下の方にまで響き渡り、集まった民のどよめきが、遠くに見えなくとも、空気を通じて、同じような歓声になって、天に向かって木霊した。


 小覇王、小覇王、と唱和する声が、麓から響き渡って来る。




(――――周瑜!!)




 見ているか、と思って仰いだ城の一画に、佇んで見下ろす、その姿が見えた。

 周瑜は手を叩いて微笑んでいたが、頬は少し濡れていた。

 自分の代わりに、泣いてくれたのだと、孫策は思った。


 

◇ ◇ ◇



 戴冠式が終わると、孫策は玉座に座り、文官達が一斉にザザザザと波のように分かれて、回廊の方へ消えていった。

 武将達も持ち場を離れ、その代わりに、華やかな衣装を来た楽師たちが、同じように回廊と城壁の上に並んで行く。

 城壁の上からは、華やかな刺繍を施された真紅の、呉の旗が垂れ幕のように敷き詰められ、大門からは入れるだけの民衆が招き入れられる。

 騒々しいざわめきの中、楽はすぐに鳴り出した。

 城壁の上に城に仕える女官たちが姿を現わし、色とりどりの花びらを盛大に散らし始める。

 戴冠式で、孫策が進んだのと同じ道を、回廊から現われた周瑜が、白い花をあしらった白い深衣姿の女官たちを引き連れ、歩き出す。

 方向を変える前に、周瑜が人々の方を向くと、戴冠式の熱狂から冷めやらぬ民衆から、再び大きな歓声と拍手が湧き起こった。

 周瑜はゆっくりと、本殿の方へ上がって行く。

 孫策の顔が見えた。

 嬉しそうな顔で、歩んで来る周瑜を見つめている。

 もう王になったのに、子供の頃から変わらない顔だ。

 あともう少しで辿り着くというところで、孫策が立ち上がった。

 勿論、そうする予定など無かった。

 彼は王妃が辿り着くまで玉座にいる予定だったのだが、立ち上がり、数段、そのまま降りて来ると、周瑜の手を取って、一緒に玉座へと登り始める。

「君は座ってるんじゃないのか?」

 くすくすと周瑜は笑いながら尋ねる。


「待ちきれなかった」


 孫策は屈託なく答えると、辿り着いた玉座の前で、こちらは王妃の証となる、美しい瑠璃色の首飾りを、自らの手で周瑜の首にかけてやった。

 手を取りあったまま、隣り合う玉座に、周瑜と共に腰掛ける。

 王の玉座は<太陽>を、王妃の玉座は<月>を象って装飾された、豪奢な造りである。


 神殿の巫女たちが現われて、広段の中腹辺りに建てられた舞台の上で、華やかな舞を楽に合わせて踊り始めた。

 祝賀を祝う為に、宝玉や金銀が、広殿に花びらと共にばらまかれ、大門の中でならば、これを拾うことが民衆には許されたが、大門を出て後、城下などでこれを奪い合うことは、固く禁じられた。

 破った者は、容赦なく獄に入れられ、数日の後、宝玉などは没収され、家に帰ることを許されることになった。

 賑やかな宴は夕暮れが過ぎ、火が焚かれても、酒や食べ物を振る舞われながら夜通し続いた。

 陽が落ちる頃には、孫策たちは場を城内に移し、城内の大広間で、重鎮や、孫堅の代から仕えた人々を集めて、そこで改めて祝いの席を設けた。

 ただし、そこでも、堅苦しい挨拶や形式は取り払われ、穏やかに人々が祝い合っただけだった。





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