第5話


 落ち着けと、そういうような口づけだった。

 事実、周瑜は一度目を閉じて口づけを受け、静かに瞳を開くと、一瞬跳ね上がった心臓は収まっていた。

 周瑜の瞳の奥を覗き込んで「よし」と孫策が頷く。


「董卓が来たって……攻めて来たのか?」


 唇が離れると、ようやく、聞きたかった一言が聞けた。

 孫策は鼻先に周瑜を見下ろして、首を振る。

「いや」

 彼は周瑜の隣に腰を下ろした。

「違う。訪問して来た。――俺の、戴冠の祝いと婚礼の祝いの為に、祝いの品を持ってやって来たんだと」

 周瑜はさすがに、目を大きく開いた。

「それは……」

 フッ、と孫策が口許を歪める。

「そうだ。驚きの厚かましさだろ?

 黄蓋達はまだ飲んでるんだろうな。聞いたら何て言うか」

 喉の奥で孫策が笑った。

 周瑜は、孫策の夜衣の裾を握る。

「いや……笑っている場合じゃないぞ、策……」


「だよな。分かってる。

 ――権を呼ぶ」


「うん」

 周瑜が立ち上がろうとすると、孫策が肩を抱き寄せた。

「お前は楽にしてていい。……横になってろ」

 そっと周瑜の白い額に唇で触れ、離れた。

 本当はきちんと座っておきたかったが、正直な所、少しだけ体に気怠さがあったので周瑜は言われた通り天蓋の掛かる、寝台の奥に下がった。

 出来る限り寝台を整え、毛布を脇に寄せ、背もたれ代わりにして、身体を支える。

 少しだけ背を預けるだけでも、随分楽だった。


 孫策に連れられ、孫権がやって来る。

 孫権は、兄夫婦の寝所になど立ち入ったことが今まで一度もなかった。

 薄い幕の向こうに、周瑜の影が見え、孫権は慌てて一礼した。


義姉上あねうえ、……こんな時間に押し掛けて、も、申し訳ありません。

 その、……ご、ごごけっこん……、おめでとうございます」


 何がどうというわけではないが、兄夫婦が明らかに寝台で仲睦まじく眠っていたのだろうことが分かって、孫権はどもりながらも何かを言わねば、と一生懸命考え、結局、そんなことを言った。


 ……くす……


 小さく、笑う気配がした。

 ハッとして顔を上げると、輪郭を淡く透かせる薄布の向こうで、周瑜が笑ったのが布越しにも分かった。

「……ありがとう」

 今回の婚姻式は式典要素が強く、兄夫婦は十二歳の頃からとっくに夫婦だったのだから、それは今更結婚おめでとうと言われても、おかしいだろう。

 変なことを言ってしまったと、孫権は真っ赤になる。

「お前が謝ることじゃねえよ。常識も無くこんな時間に訪ねて来たヤツに謝らせるからいい」

「は、はい」

 孫策が水を注いだ硝子の杯を持って来て、寝台に近づいた。

 兄が少し捲り上げた幕の向こうに、足を折り曲げて、瑠璃色の夜衣を羽織り、しどけない姿で佇んでいる周瑜の姿が見えて、孫権は慌てて、上げたばかりの顔を伏せた。

 孫策の差し出した杯を手を伸ばし受け取り、「ありがとう」と柔らかく微笑む顔が見えたのだ。

 孫策は捲った天蓋を戻して、こちらに歩いて来た。

 側に置いてあった卓に座るよう弟を促し、別の杯を二つ用意する。

 孫権は慌てるように、水差しで、杯を満たした。

「このままで悪いな。さすがに朝から気を張って、周瑜も疲れてる」

「いえ、お気になさらず」

「うん」

 孫策は椅子に横向きに座り、片膝を立て、背もたれに頬杖をついた。

「それで……今、奴はどこにいる?」

「東の、賓客用の離宮に通したとのことです」

 孫策が額を指で押さえる。

 集中して物事を考えようとする、兄の仕草だった。

「そうか……」

 閉じていたごく薄い、青灰色せいかいしょくの瞳が開き、孫権を見る。



「――……一人か?」



 その問いの意味は、分かる。

「はい。」

 しっかりと頷いた。

 建業の近くまでは、護衛を連れて来たようだが、長江に着けた船の中に置いて来て、この城には本当に、数人の護衛と、戦闘員ではない女官だけを連れて来たという。その女官たちも、列に連ねる祝いの品を乗せた車を、引く為だけの要員だ。

 本当に、董卓は丸腰で乗り込んで来たことになる。


「重ねて聞くが、……護衛に呂布りょふの野郎はいねえんだな?」


「はい。兄上」

 孫策は頬杖を崩して、腕を組んだ。両脚を伸ばすようにして、椅子の背もたれに身体を預ける。

「……。」

「いかがいたしましょう……?」

「いかがいたしましょうって会うしかねーだろ。

 漢の国の<相国しょうこく>様が祝いに来たってんだから……」

「あ、兄上が直にお会いになるのですか!?」

 孫権は驚いた。

「なんだ。お前が会いたいか?」

 慌てて首を振る。

「い、いえ。私が会っても……、何が出来るか」

 孫策は首だけで振り返った。


「……。周瑜。お前はどう思う?」


 孫策は容易ならざる判断を必要とする時、必ずいつもそうするように、周瑜の助言を求めた。

「私も、相国が来た以上、君が会うべきだと思うよ」

「だよな……まぁ、それが礼儀だな」

「董卓でも、礼儀を守らねばならぬ相手ですか?」

 孫権は眉を寄せる。

「お前は反対か?」

「わたしは……」

「俺に構わず、お前の意見を言っていい。

 言っただろ。俺は近いうちに政からは身を引いて軍事に専念するから、お前を摂政に据えるつもりだって」

「兄上、そのお話は」

「分かってる。落ち着け」

 孫策は笑った。

 大きな手で孫権の赤毛をくしゃくしゃと掻き混ぜる。

 兄がいつも通り笑ったので、孫権は驚いた。

 多分、自分は今、顔が引きつってる。


 董卓が来ているのだ。


 漢王室の、漢の国の、災厄の元凶。

 この十年ほどの、全ての悪しき風の源だ。

 董卓に比べれば、袁術など小悪党である。

 袁術のしたことの全てを、孫権は許しがたいと思っていたが、それでも、その袁術がのさばるきっかけの混乱を作ったのは董卓なのだ。

 話によれば董卓は、居城である長安の城では、暗殺を恐れて幾重にも護衛を張り巡らし、決して一人になることはないという。

 人と会う時は裸にするほど所持品を調べさせ、例え相手がどんな高い身分だろうとそれを徹底させた。

 無礼なことを、と詰る者は一人もいなかった。

 董卓は、そういう男なのだ。

 外出する時は呂奉先りょほうせんを従えて、万全の態勢で出て来ると聞いた。

 その男が、大した護衛も無く現われたなど、信じられない。

 

「お前にすぐ、全てを委ねようなんて思ってない。

 まつりごとは難しい。

 必ず優秀な補佐は付けるし、俺だってお前を支える。

 少しずつ学んで行けばいい。

 今はただ、お前の考えを単純に聞いただけだ」


「……私は、……お会いにならないのも、一つの案とも思います。

 代理の者に会わせるのです。

 このような非常識な時間に押し掛けて来たのは向こうなのですから、礼儀をさほど重んじることはないのでは」

「まぁそうとも言える。

 別に向こうがどれだけ相国だぜなんて偉ぶったって、俺はもう、漢の国の武官じゃない。知ったこっちゃねえよとは言える立場になったんだからな」

「はい……」

 孫策は今度は卓に、頬杖をついた。


「でも、君は会いたいんだな」


 孫策が笑って振り返った。

「よく分かるな」

 何故兄はこんなに普通に笑えるんだろうと、孫権は不思議だった。

 以前から、この兄の豪胆さには、決して敵わないと思ったけれど、今宵ほどそれを鮮明に思ったことはなかった。

 自分がこんなに不意に董卓に訪問されたら、浮き足立ってどうすればいいのかと狼狽えただろう。

「けど、会いたいってわけじゃねえよ。董卓なんざ。胸糞悪い。

 折角今日一日いい気分だったつうのに。

 そういうんじゃなくて……ツラが見たいんだよ」

 孫策は言った。

「あいつが、全ての混乱の災いなんだろ。

 董卓の話はもう聞き飽きたぐらい聞いてるけど、俺は実物を見てねえから。

 どんな男かは、見てみたい。それだけだ。

 人間の本質は姿に出る。

 董卓はどんな顔をしてる?

 ――袁術よりムカつくツラかな」

「見る分には、どこからか、見ることは出来ると思いますが」


「いや。実際に話しをする時の表情が見たい。

 俺の言葉に、どんな顔をして、どんなことを答えるのか、その反応だ。

 絵に描いたみたいな悪党だと、皆が言う男だぞ。

 どんな顔で祝いを述べて、何を喋るのか、それは知りたい。

 ……奴はこの世に混乱を巻き起こした。

 親父は、その混乱の最中に死んだんだ。

 江東を平定し、呉を建国して、軍を整えていつか北伐し、こいつを殺すのが目的だった。

 急に現われて戸惑いはあるが――権。お前には今の俺がどう見える。

 自分でも、よく分かんねえ気持ちだ。

 思ったよりは、落ち着いているように自分では思うけど」


「……落ち着いて、いらっしゃると思います」

「周瑜。お前はどう思う。

 俺は奴の半分も人生生きてねえ。向こうは正真正銘の悪党だ。

 話してみるなんて無謀か。

 ……今の俺じゃ、軽くいなされるか?」

「……。董卓が何をしに現われたかによる。

 それが分かれば心構えが出来るだろ」

「何をしに来たと思う」

「護衛を連れて来なかったというのが真実なのだから、……祝いに来たというのは本当だろう。

 君の戴冠に、興味は持っているのだろうな。

 翔貴帝しょうきていが建国を許したという背景もある。

 それが理由で、訪問したのかもしれない。

 こんな時間になったのは、こちらに予め迎え撃つ体勢を整えさせないためかも。

 戴冠式に祝いに訪問したという事実だけがあればいいのだから。

 案外、向こうも嫌々来てるのかもしれないぞ」

「そうか。確かにそれはあり得るな。俺のこと挑発しに来てんのかと思った」


「いや……実際に会うまでは、どちらとも言えない。

 だとしたら大胆不敵としか言えないが……。

 けど、君が見てみたいと思うなら、会ってみるのはいい機会だと思う。

 呂布を連れて来ていないのなら、危険もない。

 君はいつも、自分より倍も生きてる人と普通に話してる。

 董卓だからと言って身構えることはない」

 孫策が立ち上がり、寝台の方へ歩いて行って、寝台の端に腰を下ろした。


「確かに、別に会って損はしねえよな」

「うん」

「じゃあ、会うよ」

「誰か、連れて行きますか?」

「……。いや。謁見場には俺一人で行きたい。

 張昭なんかは反対するだろうけどな。奴は丸腰で来たんだろ。

 んじゃ俺も、一人で行かなきゃいかにも情けねえし。周瑜をわざわざ奴に見せてやりに行くってのも腹立つ」


「あ、義姉上あねうえがあんな野蛮な者に会うことはありません!」


 孫権はとんでもない、と首を振った。

 董卓は長安で暴虐の限りを尽くしているという。

 粗暴なだけではなく、色狂いでもあり、各地に役人を派遣して、見目のいい娘がいると強引に女官として宮廷に連れて来て、董卓がまず犯し、飽きれば部下にやり、余興のように自分の目の前で性交をさせているなどという話を聞いた。

 そんな男が美しい周瑜を見たら、どんな悪い夢を見るか分からないではないか。

 孫権は弱腰になっていた気持ちが、怒りで一瞬押し流された。

 別に建業の城なのだから、周瑜にあの男の手が触れることなど有り得ないことだが、董卓の目に周瑜が映ると思うだけで、孫権は気分が悪かった。

 例え頭の中でだろうと、董卓が周瑜で悪しき想像を楽しむだけでも、はらわたが煮え繰り返りそうになる。


「んじゃ、一人で会いに行くことにする。

 権。張昭とかに説明は頼む。くれぐれも謁見の最中に誰か怒鳴り込んで来たりはしないようにしろよ」


「はい。分かりました。……ですが、本当に兄上、董卓と会われるのですか」

「そのつもりだ」

「会って……何を話されるおつもりでしょうか?」

「わかんねえ。それこそ周瑜が言った通り、向こうが何を言って来るかだ。

 奴はこの建国は、翔貴帝しょうきていへの長年の恩義を忘れる行為だと言って、ずっと反対して来た。

 脅してくる可能性もあるが、それなら逆に大層な護衛を連れて来た方が効果的だろ。

 特に呂布は連れて来るはずだ。

 俺は一度、派手にあいつに負けてんだから」

「確かに……大仰な護衛団など必要ない。君に恐怖を与えたいというのなら、呂布一人連れて来るだけで十分だ」

「何故、呂布がいないのでしょう?」

「筋通り読めば、祝いに来たという言葉が真実だと考えると、先だって君と戦った呂布を連れて来なかったのは筋が通ってる。

 奴が殊勝にも、それを失礼だと思えばの話だが」

「他人に対する失礼とか無礼を考える相手じゃあないけどな。

 でもまぁ、建前上、そうしたのかもしれん」

 孫策は立ち上がった。

「……悪いが、権。隣から俺の衣を適当に取って来てくれるか」

「は、はい。衣装はどうしましょう」

「んなもん適当な平服でいい。なんで俺が董卓に会う為に一生懸命お洒落しなきゃなんねーんだよ」

 兄が苦笑する。

 孫権はすぐに隣の部屋に行き、適当な衣装を幾つか選んで来た。

 孫策はそれを見ただけで、本当にすぐ、その中の一枚を選び、夜衣を脱ぎ捨てて着替え始めた。

 幼い頃から父親の軍に混ざって従軍し、軍人として鍛え抜かれて来た孫策の身体は見事だ。

 自分には、気概だけではなく、これほど頼りがいのある男としての身体も備わっていない。


「護衛を連れて来なかったってのは、舐めてんだろうな俺を」


 帯を結いながら、孫策が低い声で言う。

「こんなに急に董卓が来て、小僧は驚いて手も足も出ねえだろうと踏んでるんだ奴は。

 本来敵の多い長安では、あれだけ厳重な警備で周囲を固める奴がだぞ。

 呂布すら連れて来なかった。

 やはり挑発してるのかもしれん。

 奴が親睦の使者などで来るはずがない。

 忠告を無視して建国した馬鹿に、どうしたこっちは丸腰で来てやったぞ、建国なんぞしたって所詮自分の敵にはならんのだと、そうこの国の奴らに思わせに来た」

「……。」

「董卓が丸腰で来たってだけでも、民も、江東の豪族たちも驚くだろうな。

 そんで俺は、反董卓連合に参戦してたくせに、護衛一人連れて来なかった董卓を、ただで返してやるのか」

「……。」

「なるほど。呉の民は早くも俺に失望するかもな。

 ……いや。それこそ、翔貴帝が董卓を、命がけでここに差し向けたのかもしれない。この唯一の好機を。

 戴冠の祝いだけは曲がりなりにも隣国としてしないわけにもいかん。

 祝事なら、供回りもさほど厳重にすれば礼を欠くしな。

 ……あの人のそういう意図か?」

 寝台を振り返る。

「いや……今の帝は、そういうことを考える人ではない気がする……」

 周瑜の声が応えると、孫策は頷いた。

「そうか……そうだな。俺もそう思う」

 帯を結び終え、椅子に足を上げて靴を履く。

 寝台の側に立てかけてあった自分の愛剣を手にする。

 ゆっくりと、少しだけ鞘から刃を引き出す。

 鏡のような刀身に、自分の顔が映っている。




「……。――殺すか」




 周瑜と孫権はほぼ同時に顔を上げた。


「殺すか、周瑜。董卓を」


 周瑜は天蓋の合間からこちらを振り返った孫策を見上げて、彼と瞳を合わせた。

 青灰色の瞳が、驚きに見開かれた周瑜を見遣り、ふっ、と目を細めて笑う。

 「……いいぞ別に俺は。

 ここで董卓をぶっ殺したら、俺は堂々と一人乗り込んで来た董卓殿を礼儀も無く騙し討ちのように殺した卑怯な奴って後世まで言われるだろうけどな。

 けど、言われるくらい全然いい。

 俺には子供はいないから、汚名ぐらい着るのは何ともねえよ」

 周瑜は思わず孫策の顔を見る。

 孫策は、その時は顔を伏せ、笑っていた。

「どうせ、いずれ王位は権に任せるつもりだ。

 初代の俺は野蛮な王だったが、二代目のお前は丸腰の使者をぶった切ったりしない王、そういう風に言われるようになれば、何の問題もない」

「……策。本気で言ってるのか?」

 そっと周瑜が尋ねる。

「本気だ。だってそうだろ。千載一遇の、奴を殺す絶好の機会じゃねーか」

「いや、そうだけど……」

「ん?」

「……いや、ただ……わたしは……君はそういう戦いは、嫌いだと思うから」

 孫権は静かに顔を上げて、彼の座るそこからは、周瑜のはっきりとした顔は布の向こうになって見えないが、少しだけ空いた天蓋の薄布の間から周瑜を見る孫策を、彼女が心配そうに、真っ直ぐ見つめ返すその姿は、影になって見えた。

 透いて見える影でさえ、周瑜は典雅で美しい。

 心の底から孫策を信頼していて、今は心配しているのを、孫権でも感じ取ることが出来た。

 ……愛情深い人なのだ。

 これは昔から、知ってはいたけど。


「嫌いだけど、別に出来なくはねえよ」


 孫策は腕輪を嵌め、腰に<王の剣>である父親の形見の剣を下げ、全ての準備を整えた。髪が若干寝ぐせでぼさぼさしていたが、なんだかこのまま董卓のもとに出て行きそうな兄である。


「お前も洛陽で、見ただろ。翔貴帝があいつのやることにどれだけ心を痛めて、悩んでたか……。ここで奴を討ち取れば、あの人の心は救える。

 単なる敵なら騙し討ちなんかしねえ。

 けど、董卓は別だ。

 あいつは今この瞬間も、存在するだけで多くの人間を苦しめてる。

 きっと、あいつがここから無事に長安に戻ったら、犯されることになっている女も、処刑されることになってる者達も大勢いるんだ。

 今ここで殺せば、少なくともそいつらは救える。

 それに……、世の平穏を願うお前の夢を叶えられるだろ。

 江東を平定して建国し、そこから戦乱の世を制して治める。俺の夢は勝ち進めることだが、お前の夢はただ戦って勝つことじゃない。

 子供や女や弱い立場の者が、泣かないようにする。 

 守ってやる。

 それだ。

 なら、董卓は『いつか倒せばいい敵』じゃあないってことだ」


「……私の為に、君は董卓を殺そうとしてるのか?」

「わたしの為にっていうかな……」

 孫策は自分の髪をわしわしと掻いた。もともと癖毛なのにあまりに触るし寝ぐせがあるので、ふわふわしてしまっている。

「……俺は戦が好きだけど、平穏が嫌いなわけじゃない。

 建国して、自分の家が出来た。

 自分の家で、お前と穏やかに暮らす日々だって、俺はちゃんと好きだ。

 董卓が死んだって世はすぐに混乱が収まるわけじゃない。

 混乱を収める為には何年もまた戦わなくちゃならんだろうし。

 俺はな、戦うのはそれで十分だ。

 正直北で董卓が暴れたぞ、呂布がこっちで暴れたぞ、ってあいつらの為にいちいち呼び出されんのは腹が立つ。

 だからあいつは別に、ここで殺したって全然構わねえ奴だ」

「……」

 周瑜は押し黙った。

「……公瑾?」

 孫策が手を伸ばして、周瑜の頬に触れた。

「……どした? 騙し討ちは気に食わないか」

「いや、……董卓は、何人もの人間をそれこそ騙し討ちにしたり策謀に掛けて殺したりしている人間だ。そんな人間に、私は同情したりはしない。

 ただ、君が、ここで殺そうか、と言うと思わなかったから、びっくりして……」

 その驚きは、聞いている孫権にも分かった。

 彼も、兄がまさか今、このまま、祝いに現われた董卓を、これ幸いに殺そうか、と言った時にとても驚いたからだ。

 兄の戦いはいつも堂々としている。戦略は立てても、決して丸腰で訪ねて来た相手に対して、凶剣を突き立てるような人ではない。

 側で見て来た周瑜にはそれが誰よりも分かるのだろう。

 だからこうして、戸惑っている。


「俺だってここから、董卓の凶行を一切止められない。

 いつか長安に攻め上って、董卓を殺すつもりだった。だったらいつ殺そうが、今、殺そうが結果は同じだ。

 あいつが死んで、世が少しは平穏になるなら全然いい。

 堂々と、俺は丸腰で訪ねて来たあいつを斬ってやるよ」


 周瑜は押し黙った。

 ……確かに、こんな好機はない。

 呂布がいたら、攻め急がない方がいいと言ったが、呂布さえ董卓は連れて来なかった。

 こんなことは初めてなのだ。

 それは孫策の言う通り、彼の人柄を董卓が信じたというよりは、彼が建国したての王であること、今までの戦いぶりや、正面から勝ち切ることを望む、正々堂々としたやり方から、恐らく董卓自身が、孫策には自分を暗殺するようなことは出来まいと、侮ったことから、こうした遣り口で来たのだということが考えられる。

 世にも、董卓は堂々と呉を訪問し、長安に無事に戻ったということを知らしめることが出来る。

 人々は隣国として建国された呉の国を、どう見ているだろう?

 腐敗に満ちた心臓を持つ漢の国とは違う、これからの未来を刻んでいく国。

 その王が、護衛団も連れていない隣国の悪しき権力者を、そのまま無事に返してやったら。

 二国は友好的な関係で取りあえず行くのだろうと思うかもしれない。

 董卓は新しい国の王にさえ何もさせなかったと言う者もいるだろう。

 董卓の悪事を知っていて、何もせず帰すなど、臆病者。千載一遇の機会を逃したと、孫策を詰るかもしれない。

 董卓を斬れば、いかに悪名名高い相手でも、祝いに訪れた使者に凶剣を振るったと、孫策の名は汚れる。

 周瑜の脳裏に、幼い頃から、いつか父親のような立派な武将になるのだと、明るい瞳でいつも追い求め、励み、正しい行いをしようと、懸命に生きていた、少年の姿が浮かんだ。


 孫策は名誉など要らないと言った。


 誰かが確かに幸せになるならと。

 だが、いかにいずれ王位を孫権に譲るとしても彼は今現在は王だ。

 王の名誉は守られるべきだった。

 普通の家でも、父親の名誉が、何よりも大事なことと同じだ。

 孫策が手を汚そうというのを、自分が頷いていいのか、周瑜は迷った。

 王位に就く前なら、迷いなく頷いていたと思う。

 だが孫策は即位し、呉という大きな家の、たくさんの子供を抱える父親になったのだ。

 父親が手を汚そうと言っているのなら、止めるのが妻の役目なのではないのか、そんな風に思った。

 もしくは、自分の手で行うかだ。


 手が重なり、孫策が周瑜を見た。


「……じゃあ、やるなら、私が。」


「なんでだよ」

 孫策は少しだけ眉を吊り上げた。

「その方がいい」

 周瑜は言った。

 今度は余程、孫策は眉を寄せたようだった。

 彼には、周瑜の言葉に潜んだ意味が分かったのだ。

 無論の事だがそれは、自分は元々<闇討ち>をしているのだから、という意味が含まれていて、それを聞いた瞬間、周瑜は久しぶりに剣呑な空気を纏った孫策に気づく。

 彼は幼い頃から、周瑜が闇に乗じて賊を討つことに理解を示しても、周瑜が「そういう自分だから」とそのことで卑下することは嫌っていた。

「そんなことを言うくらいならするな」と幼い頃はそれで喧嘩をしたこともある。


『正しいと思うことをお前はやってるんだろ。だったらそのことで自分を悪く言ったりするなよ。お前は、世の為に何かをしたいと思ってる、その気持ちに共感して俺はお前に手を貸してる。それを忘れるな』


 久しぶりにそのことを思い出した。

「伯符、……ごめん、今のは、口が滑った……」

 孫権は小首を傾げた。

 彼は勿論、周瑜が幼い頃から抱えていたその秘密を知らないから、何故今、周瑜が兄に詫びたのか、その意味が分からなかったのだ。

 明らかに怒った顔をして周瑜を見た孫策だったが、周瑜が肩に触れてもう一度「ごめん」と小さく呟くと、寄せていた眉を戻し、手を伸ばして、周瑜の身体を抱き寄せた。


「……いいよ。もう。

 別に、お前がオレを心配してそう言ったことは分かってる」


 決して自分を卑下して言った言葉ではないことは。

「君は王だから、そういうことは、支えるべき私がやった方がいいと思ってしまったんだ。その為に自分がここにいると」

「分かってる。けど、そういう気遣いはいらない。

 俺とお前は同じなんだ周瑜。どっちが汚れ役にもならん。

 俺が泥を被ればお前だって被ってる。それは、俺は分かってる。

 だからお前が手を汚したって同じだ。

 他の国はどうだろうと、他の夫婦がどうだろうと知らん。

 だけど、俺とお前はそうして行こうって決めただろ」

「うん、そうだった……。

 王になったから建業にいろとか、戦に出るなとか、他の人間に任せろとか言われるのは嫌だと、今日話したばかりなのにな。

 ……本当にごめん」


「いいんだ。――で、董卓のことはどうする」


「……。君に本当に迷いがないなら、殺してしまってもいいと思う」


 孫権は驚いて、つい、腰を浮かしかけた。

 彼は周瑜を深く慕っていたが、彼女は、百合のように清楚で美しいとばかり思っていると、心底こちらを驚かせてくる女性なのだ。

 殺す、という言葉を、周瑜は迷わず口にした。

「君の言う通り、董卓討伐は、先延ばしにすればするほど、犠牲者が増える。

 それなら何を言われようと、世の為には討った方がいい。

 でも、明らかに今回のことは、君の望む事の収め方じゃない。

 無理に全てを背負って、君が本当に苦しむなら、そうしないでほしい。

 ……君がどんな傷を負っても、苦しくても、私が一緒にそれを背負うけど、傷つく君は見たくない」

 孫策は周瑜の瞳の奥を見つめた。

 そっと手の甲が周瑜の頬に触れて来る。

 青灰色の瞳は、不意に優しい光を灯した。


「お前の言いたいことは、よく分かった」


 孫策が立ち上がる。

「俺もまだ、正直心が定まらない。

 あいつを殺して世を鎮めることを、ずっと目指して生きて来たからな……戸惑いがあるんだ。こんな呆気なく殺せるのかって」

「どうするんだ……?」

「とにかく、董卓と話す。

 そうして、話すうちに心が決まると思う。

 殺した方がいいと思えば、殺して来る。

 迷いがあれば、今はやめるかもしれん。

 そういうのじゃ、曖昧かな」

 周瑜を振り返ると、夜色の瞳がじっと、真っ直ぐに孫策を見上げている。

 彼女は静かに首を振った。

「それでいい」

 孫策は頷く。

「権。悪いが、小部隊を直ぐ動かせるように用意しておいてくれ。

 別に何も命じなくていい。不測の事態に備えてのことだ。

 いつもなら口煩い重鎮共に相談してやってたところだが、俺は王位に就いたんだ。

 だから今回は、俺の独断でやる。相談はしない。

 聞いた所であいつらにも今、董卓をどうすればいいのかなんて答え、迷わず殺せか、使者だから殺さない方がいいの二分になることは分かり切ってるからな」

 孫権は頷いた。

「分かりました、兄上。そうしてください。私も兄上を信じます」

 孫策が笑んで、孫権の頭をぽふぽふと軽く叩いた。

「……策」

 寝台から、長い脚が伸びて、つま先が床に触れる。

 捲れた夜衣の裾が落ち、一瞬の腿の辺りから露わになったしなやかな白い脚を覆い隠す。

 天蓋の薄布の間から周瑜が姿を現わした。

 孫権はどきりとした。

 今日の婚姻式の着飾った姿も美しいが、瑠璃色の夜衣を優雅に羽織り、長い髪をただ背に垂らした姿でも、やはり美しいひとだった。

 普通、この状況では女の容姿などに構ってる暇はない、と孫権は思う方なのに、この人の美貌だけは追い詰められた状況でも何か深い意味があるように思えてしまう。


 ……自分を立ち止まらせる。

 

 周瑜は、夜衣を羽織っただけの姿だった。手で軽く、その胸元を押さえるように掻き合わせている。

 帯を結んでいない王妃の、しどけない姿に、孫権は一瞬目を奪われてからハッとし、慌てて膝をついて、顔を伏せた。

「わたしも行こうか」

 そっと尋ねて来る。

 孫策が妻を振り返り、微笑む。

「いや。」

 首を振った。

「董卓が呂布を連れて来てたら、こっちもお前を連れて行ったけどな。

 向こうは一人だ。

 だったら俺も一人で行く。

 お前は、ここで俺を待っててくれ。

 ……いいな?」

 孫策が言うと、周瑜は頷いた。


「分かった。君を待ってる」


「そんなに時間は掛けずに戻るから心配するな。

 話が弾むとも思えんし。

 でも周瑜、俺が董卓を斬っても斬らなくても、帰って来たら優しく抱きしめてくれ。きっと俺はどっちにしろ、むしゃくしゃしてる」

 周瑜は目を瞬かせてから、ようやく笑った。

「分かった。とにかく何も聞かず君を抱きしめるから」


 うん。


 孫策は明るい顔で笑って、もう一度周瑜の方に歩いて行くと、唇を重ねて来た。

 ――これは心配するな、という口付けかな。

 きっとそうだろう。

 周瑜は手を伸ばして、孫策の頬を優しく撫でた。

 剣の柄に手を当ててから、孫策は孫権を連れて、部屋を出て行った。

 周瑜はしばらくそこに佇んだまま見送り、そして窓の外へと目を向ける。

 窓辺に近づき、円型のそこから、外を見下ろす。


 階下の中庭が見えた。

 小さな池に丸い月が映り込んでいる。

 孫策が董卓を殺す、と言った時に感じた、自分の胸の小さな痛みの正体に、思いを巡らせた。

 対面の城では、まだ夜宴が賑わっているのだろうか?

 この城に今、董卓が来ていることを、全く知らない者が大半だろう。


 宴はまだ続いているのか。

 それとももう、終わったのか。


 王の寝所があるこの辺りはしんと静まり返り、周瑜は少しだけ、寒さを感じた。



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