第7話
董卓を乗せた馬車が、明るい木の車輪の音を立てて去って行く。
通り道の樹の上に潜んでいた
城の近衛館の明かりが消えた。
「……。」
陸遜は屈めていた体をゆっくりと起き上がらせた。
手を上げると、ザザザザ、と風に吹かれたように木々が揺れ、配下の兵達が方々に散って行った。
顔を深く覆っていた頭衣を後ろに引き上げ、鼻まで隠していた布も、襟の下に下ろす。
涼しい風が通り過ぎる。
陸遜は樹に寄り掛かって一つ、深い息をついた。
城の方へ目を向ける。
最奥の城の頂上にひっそりと明かりが灯っている。
あそこが王の寝所だ。
「……斬らなかったか」
彼は静かに、木の枝に腰を下ろす。
あの人なら、斬るかもしれないと思ったんだが。
ザザザザ……
涼しい風が吹く。
だが、どうしてだろう。
胸にさほど、落胆はない。
むしろ微かな、安堵さえある気がした。
妙なことだ。
戦乱はまだ続くことになったのに、安堵するなんて。
(それもまた、あの人らしいと思うからか)
月を見上げる。
城の方からはまだ、何も知らない人々が穏やかにこの夜を楽しんでいるのが伝わって来る。
もう董卓は、平原の向こうに小さくなってしまった。
孫策が殺さないというのなら、自分が殺そうとも思って、ここまで出て来た。
追って殺して、呉に戻らなければ、孫策たちにも害は及ばないだろう。
陸家など、いつでも陸遜の名は消せる。
あの男は、自分のようにいつでも消えれる人間が殺すべきなのだ。
「戴冠の祝いに仕留めようとも思いましたが……喜んでは貰えないでしょうしね」
そう考え、いつのまに自分は他人の喜びなどを期待するようになったかと苦笑してしまう。
まあ、いい。
彼は思った。
殺して来いと命じられれば、その時に行くだけだ。
そもそも自分が、考えて何かを自主的に行うなど考えるべきではないのだから。
(今宵が穏やかなら、今日はそれでいい)
陸遜は城には戻らず、樹の上で外套に包まり、目を閉じる。
「りくそーん、降りて来い」
少しここで眠ろうとした時、声がした。
琥珀の瞳を開いて、下をちょっと見れば、
何故ここが分かったのか、と陸遜は残念に思ったが、万が一の時の為に董卓を追撃に出る為に身を潜ませるならば、
この男も不思議な男だ。
鈴など身につけて四六時中リンリンリンリンと自分の存在を誇示していながら、こういう勘が驚くほど働くし、意外なほどに小回りの利く男だった。
先ほどそこで大の字で寝ていたかと思えば、こうして水面下で起こった騒動を嗅ぎ付けて現われる。
元々、
そういえば、甘寧も元々、富春の城が陥ちた時、犠牲者を出さず降伏し袁術の許に一人でやって来た、周瑜の人柄を買って、
どっちかというわけではない。
あの二人はどちらもが、そういう、人を惹き付ける力を持っているのだ。
「出番だぞ。祝事の夜の宴だ。お前もなんか面白い踊りでもしろ」
甘寧がからかうような声音で呼びかけて来る。
陸遜は外套に一層深く包まる。
「もう少しここで見張っていますから」
「嘘つけ。お前の部下、さっき散って行ったじゃねーか。
お前も下りて来て酒を飲め」
そういう気分じゃない。
「陸遜! 先輩の酒が飲めねーってのか! 下りて来いよ。
下りて来ないと俺の剣でこの樹、切り倒すぞ!」
陸遜は顔を顰めた。
「………………いやです」
陸遜てめー! と下で甘寧が吠えている。
(今日は何となく、静かに夜を過ごしたいんだけどな)
甘寧が本当に幹に蹴りを入れて樹を揺らすので、陸遜は小さく息を付き、下にひらりと飛び降りた。
「最初から素直にそうすりゃいいんだよ」
ニッ、と甘寧が不敵に笑い、下りて来た陸遜の頭を無遠慮にくしゃくしゃと掻き混ぜる。
「貴方こそ、残念なのでは?」
「董卓か? いや全然」
歩き出した陸遜を追って、甘寧も緑の平原の中を城へと歩き出す。
「騙し討ちなんか楽しくもねえ。
ああいう、自分が膝をつくことも考えてねえ偉ぶった野郎は、戦場でぶちのめしてやるのが俺の流儀だ。
「……。」
「いいじゃねえか。俺は益々孫策が今日ので気に入った。
あいつは人生の楽しみ方ってやつをよく分かってやがる」
「別に、後々楽しみを取っておこうと思って董卓を見逃したわけではないと思いますが……」
「ごちゃごちゃ言うな。
今日はめでたい日なんだから、お前もっと楽しそうな顔をしろ」
「そんな無理難題を言われましても」
「どこが無理難題なんだよ。いつもよりちょこっとふわっと笑ってりゃいいんだよ。すこぶる簡単だろ」
董卓を追って殺して来いと言われた方が、自分にはずっと簡単だ。
上手く微笑まない頬の筋肉を解すように押しながら、陸遜は小さく苦笑した。
董卓を殺せなかった今夜。
だが笑うことの出来る自分が少し不思議だと思った。
◇ ◇ ◇
かたん。
音がして、毛布に包まり窓辺で膝を抱えて目を閉じ顔を伏せていた周瑜は顔を上げた。
孫策が入って来る。
顔を見た瞬間――分かった。
斬らなかったことが。
周瑜は顔を伏せる。
「周瑜」
孫策がやって来て、側に膝をついた。
丸まった周瑜の身体を、そのまま抱きしめる。
「……ごめん、策……」
泣いていた。
孫策を躊躇わせてしまった。
彼を強くするために、進ませる為にここにいるのに、躊躇わせた。
董卓など、迷いなく殺すべき人間なのに。
自分が過去に、闇に潜んで殺して来た悪人達などよりも、遥かに迷いなく殺すべき人間なのに、何度考えてもそうなのに、あの時一瞬迷ってしまった。
「公瑾」
「ごめん、策。君の脚を引っ張った。……愚かなことをしてしまった」
「いいんだ。周瑜。お前は間違ったことはしてない。
俺は躊躇ったんじゃない。今日、殺さないと自分で決めた」
「でも、私は、君の役に立つために――支える為に、ここにいるのに、」
固く、顔を上げようとしない周瑜の顔を無理に力で上げさせて、孫策は唇を重ねて来た。
「周瑜。お前が一度でも、憎しみで人を殺めたことがあるか」
夜色の瞳が見開く。
額を預け、両の頬を手の平で押さえて、鼻が触れ合う距離で見下ろし、孫策が覗き込んで来る。
「袁術でさえ、お前は俺を守る為に殺したんだ。
俺が今日董卓を殺せば、それは完全に私憤だった。
俺は武門だ。
武門は私憤で殺しはやらない。
俺とお前なら、必ず董卓を討伐出来る。
きっと遠くない未来にだ」
孫策はあの時、自然と口から出ていたのだ。
深く考えたわけではない。
だが、口にしていた。
『これから生まれて来る子供が卑怯者の息子だと罵られる』
今日、即位することで、父親の孫堅を強く意識していたからだろうか。
今ここにいる自分は、父の背を見て育ったのだと、思っていたから、ついあんな言葉が出たのかもしれない。
「俺はお前を信じる。
それにな、お前は別に俺を支える為にここにいるわけじゃない。
お前がここにいるのは俺がお前が好きで、俺の側にいて欲しいからだ。
だからお前はここにいるんだ。周瑜。
だからお前が側にいるだけで、もう俺を支えてるし、役に立ってる。」
「……
孫策は周瑜の身体を抱え起こし、そのまま抱き上げて寝台に連れて行く。
抱きしめたまま、広い寝台に身を投げ出す。
「お前が好きだ」
響いた孫策の声に、周瑜は深く目を閉じた。
――わたしが迷ってると、いつも君が教えてくれる。
愛していることも、
何を返せばいいのかも。
いつも。
何度でも。
私も君が迷ったときは道標になるよ。
孫策の身体を深く抱きしめて、周瑜はこの夜、誓いを新たにしたのだった。
<終>
異聞三国志【天の約束】 七海ポルカ @reeeeeen13
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