第四章「恋人よ」
(美しい子だこと・・・)
信が事故に遭い、この病院に担ぎ込まれてから、ずっと傍らにいる。担当する医師によれば、事故の際に、どこかに頭をぶつけたようで脳に腫れが見られた。だが、それも随分と良くなってきている。何時、ひょっこり目を覚ましてもおかしくない。正直、何故、目を覚まさないのか分からないくらいだ――と言うことだった。
(この子は私にそっくりだ)と思わずにはいられない。
信は梓似だ。端正な顔立ちにひょろりと長く伸びた手足、勉強が苦手なところまでそっくりだった。次男の
梓は自分に甘く、他人に厳しいところがある。常に周囲に毒を吐きながら生きている。信も恐らく似た性格のはずだ。だが、信はそんな自分の性格を毛嫌いしているかのようで、常に冷静で穏やかだった。
人は信のことを大人しくて優しい人間だと思うはずだ。だが、梓は信の内に秘める激しさを知っていた。
ふと思い出した。信がまだ小学生の頃だったと思う。
梓は巧との離婚を考えたことがある。人が良いだけの巧では、この先、出世など望めないだろう。今の生活に満足はしていたが、何処か不満を抱えていた。どこの夫婦にもある、ちょっとした気の迷いだ。無論、本気では無かった。
その時、信に聞いてみた。「ねえ、信ちゃん。パパと離婚したら、あなたはどちらを選ぶの? 当然、ママよね? パパと一緒じゃ、ろくなもの食べさせてもらえないから」
すると、暫く考えてから信が言った。「僕、パパのところに行くよ」
「何で?」と尋ねると、信はこう答えた。「だって、ママと一緒じゃ、笑っていられないから」
こういうところは梓に似て手厳しい。
最初、その言葉の意味が分からなかった。
やがて、信の様子を観察していて、分かってきた。信も駿も、巧と一緒にいる時は、何時も笑顔だということだ。冗談を言い、子犬のようにふざけ合っている。笑い声が絶えないのだ。梓と一緒にいる時に、信が弾けるような笑顔を浮かべることなど皆無だった。
今朝も病室に居たがる巧を追い出すようにして会社に送り出した。巧の優しさが、家族を繋ぎとめているのだ。
「ねえ、早く起きてよ。パパが心配しているわよ」
梓は眠り続ける信の頭をそっと撫でた。
柚木信の見舞いに行きたいと亜莉菜が言い出した。
「柚木君?彼、まだ目を覚まさないのかい?」
彬史が尋ねる。柚木は葉月の彼氏で、事故当時、車を運転していた。どうやら柚木に過失はなく、事故の原因は前方を走っていた車が居眠り運転をし、車線を越えて柚木が運転する車にぶつかって来たことが原因だということが分かっていた。
衝突の反動で、柚木の運転する車は制御を失い、ガードレールに激突し、助手席に乗っていた葉月が運悪く命を落とした。
「まだみたい・・・」と亜莉菜が答える。
約束通り、いや、亜莉菜は言った通り、週に一度の頻度で真野家を訪れてくれる。一緒に食事を作ってくれたりして、恵にとっては、亜莉菜と世間話をしているだけで、随分、癒されるようだ。亜莉菜と話をしている時、笑顔を浮かべていることが多い。
「そうか・・・」と呟いて彬史が黙り込むと、隣から恵が「ねえ。わたしたちも一緒に行かない?」と口を挟んだ。
彬史も恵も、柚木にはまだ会ったことが無かった。
「うん」彬史もそのことを考えていた。
今まで、自分たちのことで精一杯で、亜莉菜のように事故で苦しんでいる人間が他にいることなど、考える余裕がなかった。考えてみれば、柚木の両親は毎日、息子が目を覚ますことを祈って、業火に焼かれる思いで日々、過ごしていることだろう。
「迷惑になるだけかもしれないけど、行ってみようか」
何故か、(行かなければ)と思った。今更だが、葉月の恋人に会ってみたかった。
真野夫婦は亜莉菜と共に柚木が入院する総合病院を訪れた。
良い天気だった。吹き抜けになった天井の高いロビーは陽光で溢れていた。真野夫婦と亜莉菜は受付で柚木の入院している病室が何処か尋ねようとした。
誰かの見舞いに来たのだろう。若い男が同じように病室の場所を尋ねていた。
「患者さんのお知り合いですか?」
受付の年配の女性が眉間に皺を寄せながら問いかける。
「あ、いえ、はい。知り合い・・・ではありませんけど・・・」と若い男は煮え切らない。不審に思ったようで、受付の女性は「お知り合いでもない方に、病室を教えることはできません」と手厳しかった。
若者はすごすごと退散するしかなかった。
亜莉菜が尋ねる。「柚木信さんの病室は何処でしょうか?」
「ああ、柚木さん。患者さんのお知り合いですか?」
「はい。大学のサークルの後輩です」
「ああ、そう。病室は三階の三一八号室です」
「ありがとうございます」
三人が受付を離れようとすると、先ほどの若い男が近寄ってきて、勢い込んで言った。「あ、あの! すいません。柚木信さんのお知り合いですか⁉」
「ええ、そうです」亜莉菜が答える。
「ぼ、僕も病室に連れて行ってくれませんか?」
「柚木さんの友人ですか?」
「いえ。あの・・・僕は・・・」と若い男が口籠った後で、意を決したように言った。「井上康信と言います。僕は柚木さんが運転していた車にぶつかった車に同乗していた者です!」
それを聞いて、思わず彬史が口走る。「娘の乗っていた車にぶつかったのは、君の車だったのか――⁉」
「娘――⁉亡くなったお嬢さんの――⁉」
康信の頭の中が真っ白になる。
――どうする⁉ 康信?
咄嗟のことに、僕にもどうしたら良いのか分からなかった。
「亡くなった葉月は私たちの娘だ!」彬史の声が大きくなる。
「あなた」と恵が小さく彬史の袖を引いた。
亜莉菜が心配そうな表情で様子を伺っている。
「す、すいません!」考えるより早く、康信はその場に座り込むと、床に頭を擦りつけた。
土下座をしながら、ひたすら謝った。「僕が、あの時、僕が運転を代わっていれば、小磯は、祥吾は居眠運転なんかしなくて済んだし、事故は起こらなかったかもしれません。僕が運転を代わっていれば、娘さんは死なずに済んだはずです。運転免許を取り立てで、ペーパー・ドライバーで運転に自信が無かったので、小磯に運転を押し付けてしまいました。サービス・エリアで運転を代わって欲しいと頼まれた時、素直に彼と運転を変わっていれば良かった。僕だったら、スピードを出し過ぎることなんてありませんでした。ジャンケンで勝った方が運転しようなんて、小磯に言ってしまいました。そして、ジャンケンに勝って、ほっとしてしまいました。すいません。娘さんが亡くなったのは、僕のせいです。一体、どうやって、僕は・・・・あなた方に償えば良いのか・・・ううう・・・」
――偉いぞ。康信。
支離滅裂だが、気持ちは伝わったはずだ。彼のことが誇らしかった。だが、僕の言葉は彼には届かない。
事情を察したようだ。病院の床に這いつくばる康信を見て、受付の女性が言った。「他のお客様の迷惑になりますので、さあ、立って。そんなところで、土下座されては迷惑です」
そして、彬史に向かって、「この度はご愁傷様です。娘さんを亡くされ、さぞや、お腹立ちでしょうが、この場は冷静にお願いします」と言った後、「この子、今日、ここに来るのに、どんなに勇気が言ったことか」とぽつりと呟いた。
唐突に始まった愛想劇をロビーにいた人たちが興味津々といった表情で見守っていた。ロビーの人間、全員が動きを止めて、固唾をのんで彬史たちの様子を見つめていた。
女性の言葉に、(ああ、そうだな。この子に罪は無いのかもしれない。この子も苦しんでいたんだ)と彬史は冷静になった。
「すいません」と女性に謝った後、「さあ、立ちなさい」と若者を立ち上がらせた。
周囲からの好奇の視線に耐えながら、「一緒に来たまえ。柚木君に会いに行こう」と言うのが精一杯だった。
四人は病室を目指した。
トントンとノックして、三一八号室の病室のドアを開ける。
康信の視界に真っ白な病室が飛び込んで来た。病室は開け開かれた窓から差し込む陽光で溢れていた。眩しいくらいだ。奥にベッドが置かれ、傍らに年配の女性が腰かけていた。病室の現れた人影を見て、女性が立ち上がった。
ベッドに若い男性が横たわっている。
その横顔を見た時、僕はまるで霧が晴れるように、康信の頭の中から消えて行った。頭の中から吸い出されてしまった。
――ああ~何処に行くんだ。
闇。闇。真っ暗な闇。
僕は闇の中にいた。
音がしない。
光も無ければ、音も無い。静寂の闇の中だ。
今度は誰の頭の中に移動したのだろう。
「ありがとう」
何処からか声が聞こえた。懐かしい声だ。僕の好きだった声だ。
「あなたに変なことを頼んでしまって」
「変なこと? 僕が何かしたのかい?」
「何も覚えていないのね。でも、ありがとう。あなたのお陰よ」
「そんなに感謝されても、僕は何もやっていないよ。いや、何も出来なかった」
「そんなことない。あなたは私の両親を、親友を、そして私たちの事故で苦しんでいる人を救ったのよ」
思い出した。その懐かしい声は葉月のものだ。そうか。僕は彼らの頭の中にいた。彼らの苦しみを一緒に味わい、そして泣いた。
「ああ~葉月ちゃん」
「じゃあ、僕は一体、誰なんだ?」
「私の我儘を聞いてくれてありがとう。もう目を覚まして良いのよ」
「目を覚ます? 僕は寝ていたのかい?」
「うん。御免なさい。あなたの心は体を離れて、私の両親や親友のもとを訪れていたの」
「そうかあ~で、上手くいったみたいだね。良かった。葉月ちゃんの願いを叶えることができたのなら」
「うん。だから、もう体に戻ってください。柚木先輩。いえ、信さん」
僕は柚木信という名前?
「体に戻る?」
「ずっと目を覚まさないので、あなたのご両親が心配しているの。だから、もう良いの。体に戻って」
「ち、ちょっと待って。葉月ちゃん。少し、思い出した気がする。あの日、スキーの帰りに道、僕たちの乗った車は事故を起こした。そうだよね。僕が寝たきりだったのなら、君はどうなったの? 何故、こんなところにいるんだい?」
「ここはあなたの頭の中。事故が起こってから、気がつくと、私はここにいたの。そして、段々、分かってきたの。あの日、私は死んだんだって」
「死んだ――⁉ そ、そんな・・・僕は嫌だ」
「御免なさい。でも、もう起こってしまったことなの。どうしようもない」
「どうしようもないって・・・」
「悲しまないで。私はここにいるから」
「ここって?」
「あなたの頭の中よ」
「僕の頭の中?」
「うん。でもね。あなたとお話できるのは、これが最後かもしれない」
「そんなの嫌だ!」
「ダメよ。あなたは目を覚まさないと。お父さん、お母さんが待っている」
「葉月ちゃん!」
「私の代わりに亜莉菜を幸せにしてね。亜莉菜以外の女の子と付き合っちゃあ嫌よ。私、そんなの、耐えられそうもないんだから」
「そんな・・・僕は君が好きなんだ」
「ありがとう。分かっている。あなたの頭の中にいたんだから。あなたの頭の中は、私のことで一杯だった。嬉しかった。さあ、もう行って。目を開けて。みんな、いる。私の代わりに、あなたが救ってくれた人たちが来ている。大丈夫よ。私はずっとここにいますから」
葉月の言葉が終わると、真っ暗だった闇が少しずつ明るくなって来た。そして、ざわざわと音が聞こえて来た。声だ。誰かの声が聞こえる。
薄っすらと目を開ける。眩しい。窓から樹木の葉が見えた。
声がする。声がする方向へ、少し顔を傾けた。
「すいません。僕、僕、井上康信と言います。事故が起きた時、息子さんが運転していた車にぶつかった車に乗っていました。僕が、あの時、運転を代わっていれば――」と康信が病室の床に土下座しながら母親に謝っていた。
「ああ、康信。また土下座かい。いいんだ。そんなに謝らなくても。君の気持は分かっているから。葉月ちゃんのご両親に、亜莉菜ちゃんも来てくれたんだ。ありがとう」
思ったより、腹に力が入らなかった。蚊の囁くような声になってしまった。
病室の入口で康信に手を貸して、立ち上がらせようとしていた梓が真っ先に振り返った。驚きで白目を剥いていた。
「先輩――!柚木さん。目を覚ましたのね‼」と叫んだのは亜莉菜だった。その後ろに葉月の両親の顔が見えた。初対面のはずだったが、何故か直ぐに分かった。
「信――!」梓がベッドに向かって駆けて来た。
大粒の涙を浮かべていた。
奇麗な顔が涙でくしゃくしゃだった。
了
世にも優しいショートショート 西季幽司 @yuji_nishiki
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