ポラリスは地上に輝く

未来屋 環

僕たちは惹かれ合って

 ――僕にとってあなたは、たったひとつのゆるぎない星だった。



 『ポラリスは地上に輝く』/未来屋みくりや たまき



 さおに透き通る夏空と傾きかけた太陽の下、風とエンジンの音だけが僕を包んでいる。

 前にブレーキをかけたのがいつだったか、もう思い出せない。

 まるで地の果てまで伸びるかのような長い道を、僕はひたすらにバイクで飛ばし続ける。

 ただただ、僕をとらえる星から遠ざかるように。


『――ねぇ。どこまで走るつもり?』


 ヘルメットの中であなたの声が反響したのは、僕の気のせいだろう。

 幻聴を振り払いつつ、心の中で僕は律儀に答えた。


 ――さぁ。ひとまずあなたの声がしない場所まで。


 この道には信号が少ないと聞いてはいたが、もはやゼロに等しい。東京に生きる者の常識など何の役にも立ちはしないのだ。

 僕はひとり風をまとったまま、誰もいない前方をまっすぐ見つめた。


 ***


『ごめん、今日遅くなる』


 ふたりで住み始めてからもうすぐ1年――このメッセージが画面に表示されることにも、もう慣れた。

 仕事もプライベートもあきらめないあなたの生活スタイルを知ったのは、決して最近のことじゃない。思い返してみれば、同棲を始める前もこの初夏の時期はプロジェクトが忙しいとかいう理由でほとんど逢えなかった。

 会社に忠誠ちゅうせいちかう程の思い入れもなく、半径2メートル以内の人だけを大切にすればいいという考え方の僕にとって、寝るも惜しんで仕事に励み、多くの友人に囲まれるあなたはまるで別の惑星ほしの住人だ。


 今思えば、冬の季節は良かった。

 寒がりなあなたは外に出たがらず様々な理由をつけては家にこもり、お蔭で僕は気の向くままあなたの存在を肌で感じることができた。


 ――しかし、そんな蜜月は春の訪れと共に去った。

 まるで蝶が野に放たれるように、あなたは外の世界へと旅立っていく。まださなぎのままの僕を置き去りにして。

 それからこの初夏の季節まで、独占欲が強い僕にしては随分と我慢できた方だろう。


 勿論もちろん仕事も付き合いも社会生活を送る上では避けられないものだから、仕方がないと頭ではわかっている。それでも、僕にとってあなたと過ごす週末は神聖で不可侵ふかしんなものであり、その命綱がおびやかされるようになってしまえば決して面白くはない。

 ベッドを出ようとするあなたを捕まえて部屋の中に閉じ込めてしまおうか、あなたを取り巻く友人たちが不幸になるよう呪おうか、さもなくばあなたの職場に隕石が落ちることを祈ろうか――そこまで考えが及んだところで、僕はふと冷静になった。


 ――そもそも、あなたにとって僕は一体どういう存在なのだろうか。


 一度疑念をいだいてしまえば、根拠のない自信は砂よりももろく崩れ去っていく。

 何故すべてを持ち合わせたあなたが持たざる者の僕と一緒にいるのか、僕にあなたのそばにいる資格はあるのか――そんなことをぐるぐる考え続けていると、テーブルの上のスマホが再度鳴った。


『終電厳しそう。週末なので、職場の人たちとオールして明日の朝帰ります』


 そのメッセージを見た瞬間、僕の中で、ぷつり、と音がした。

 その音の正体が何だったのかは今もよくわかっていない。

 ただ、僕はここにいてはいけない――そう思ったのだ。



 たまたまいていた早朝便のチケットを取り、身の回りのものを詰め込んで、夜明けと共に家を飛び出し――その4時間後には新千歳空港近くのレンタルバイク屋にいた。

 簡単な手続きを終えた後、借りたバイクにまたがって僕は走り出す。


 大した目的意識もなくここまで来てしまった僕は、ひとまずレンタルバイク屋の店員におすすめされた支笏湖しこつこをめざすことにした。

 あなたと付き合うようになってから、バイクに乗る機会は格段に減った。

 事故が心配だといつもは明るい表情を曇らせるその様子に、自分が愛されていることの愉悦ゆえつを感じたのも一因だ。そんな一抹いちまつの思い出にすがる程、僕は追い詰められていたのかも知れない。


 久々に乗るバイクに慣れるという意味で、30分程の道程みちのりは丁度良かった。

 見晴らしの良い路上を走る僕の視界には、下を向いた矢印の標識が等間隔で飛び込んでくる。

 関東ではまずお目にかかれないその矢印は『矢羽根やばね』と呼ばれていて、雪が積もった時に車道と路肩の境を教えてくれるものだという。

 その規則的で模範的にも見えるオブジェは、確かに僕を未知の世界へといざなってくれるようだった。


 支笏湖に到着すると、既に土曜朝の明るい雰囲気を纏った人々が観光を楽しんでいる。

 自分が独りだからかカップルや家族連れの姿がやたらと目に付いた。それらのノイズに気付かない振りをしながら歩くこと数分、やがて僕の視界に広々とした湖が飛び込んでくる。

 岸辺から湖の先へと、深い青がグラデーションのように澄み渡っていた。

 透明度が日本一だと聞いてはいたが、ほどその美しさは僕の心に漂うグレーのもやを一息に吹き飛ばしてしまう。


 気付けば僕は赤い鉄骨で組まれた橋の上から、じっとその青を眺めていた。

 余暇よかを楽しむ人たちを載せた白鳥が、ぽつんぽつんと湖上を控えめに彩る。

 支笏湖の青に邪念をすっかり晴らされた僕は、その光景を愛らしいとすら思いながら、売店で購入したハスカップのソフトクリームを舐めた。爽やかな酸味のあとにやってきた優しい甘さが僕の舌を控えめに撫でる。

 考えてみれば、こうして旅に出たのも久し振りだ。



 フラットな感情を少し取り戻した僕は、この無計画な旅の行程を考えることにした。

 スマホを取り出したところであなたからメッセージが届いていることに気付く。ふっと意識が東京に引っ張られるのを感じて、僕は慌ててスマホを鞄にしまい込んだ。折角せっかくあなたから離れられたのだから、もう少しこの自由な感覚に浸っていたい。

 しかし特段の行き先が思い当たらないので、僕はひとまず札幌の街をめざすことにした。


 矢羽根が頭上を彩る道を逆戻りして、僕は札幌の街に到着する。

 夏でありながら北国らしい澄んだ空気が気持ち良くて、ゆったり街中を流していると、やたらとうまそうな飲食店が目に付いた。

 そういえば、早朝に羽田空港のコンビニで買ったおにぎりを食べてから、口にしたものといえば先程のソフトクリームだけだ。腹の虫が鳴き声を上げようとしたところで、無骨な店構えのラーメン屋が視界に飛び込んできた。

 ここにあなたがいたら「スープカレーがいいな」と言うに違いない――湧き上がる反骨精神を抱えたまま僕はアクセルを緩める。



 まだ昼食時間にはだいぶ早いというのに、そのラーメン屋にはぽつりぽつりと客がいた。

 まっさらな気持ちで入店した僕に近付いてきたのは、いかにもラーメン屋という風貌の店員だ。ラーメン屋の定義は人によって異なると思うけれど、僕の中では黒Tを着て頭にタオルを巻いている人のことを指す。

 少し強面こわもてにも見える彼が意外にも丁寧な物腰でメニューを提案してくれたので、僕はまんまと販売戦略に乗ることにした。

 彼はわずかな満足感をその口許くちもとに浮かべたあと、よく通る声で「札幌味噌ラーメン一丁」と厨房に合図する。


 ラーメンが運ばれてくるまでの間、僕はスマホを使わない現代人がいかに無力かということを噛み締めていた。大した時間でもない癖に、何となく手持ても無沙汰ぶさたな気分になってしまう。

 本棚の真ん中でお役目を待つ雑誌から視線を外したところで、ふと壁に貼られた写真が視界に入ってきた。


 青い空と海を背景に三角錐さんかくすい状のモニュメントが写るその写真をじっと見つめる。

 モニュメントの前の黒い石には『日本最北端の地』と文字が彫られていた。

 そうか――随分と遠くに来たつもりでいたけれど、ここよりも更なる北の地が北海道にはあるのだ。

 写真の隣には誰かが書いた解説が遠慮がちに佇んでいる。

 日本最北端の地、宗谷岬そうやみさきに存在するその5.44メートルのモニュメントは、北極星――ポラリスの一稜をかたどったものであるという。


「――ねぇ、ポラリスって知ってる?」


 いつか聞いたあなたの台詞せりふが頭の中で響いたその瞬間、ざぁ、と星の降る音がした。

 ここに行こう、そんな思いが天啓のようにすとんと落ちてくる。


 そんな僕の決断を待っていたかのように、先程の店員がラーメンを運んできた。

 丼の上では分厚いチャーシューが3枚並んでこちらを向いている。その背後にはキャベツとにんじん、ニラ、もやしが気前良く盛り付けられ、散りばめられたコーンが隙間を彩り良く飾っていた。味噌色のスープに浮かんだバターがほのかにその身を溶かし、中央にこんもりと佇んだ白ネギが食欲をそそる。

 はやる気持ちを抑えながら一口飲んだスープには、香ばしくも味わい深い味噌の味が凝縮されていた。箸で捕まえた野菜たちはしゃきしゃきと口の中を洗い流してくれるようだ。具材の下から掘り起こした黄金色こがねいろの麺をすする度に、空腹感がその色をくしていった。

 それと反比例するように、僕の中で眠っていたなにかが力を蓄えていくように感じる。その正体がなにものかはわからないけれど、確かに僕の意識は少しずつ鮮明さを増していた。


 丼を空にしたところでスマホを開く。

 あなたのメッセージを知らせる通知を無視して、僕は宗谷岬への所要時間を調べた。高速を使えば札幌からはおよそ7時間、今は午前11時を少し過ぎたところだ。

 今から往復するのは時間的にも体力的にも厳しいが、別に誰が待っているわけでもない。そのまま旅行サイトで稚内わっかない市内のホテルを確保して、僕は席を立った。


 ***


 あれからどれだけの時間が経っただろう。

 日本最北端の地、宗谷岬。札幌からの約350kmは途方もない距離に感じられるが、車も信号も少ないお蔭で非常に快適な道程だ。

 空と海の2種類の青を視界に収めながら、東京-名古屋間よりも長い旅路を僕はただひたすらに走り続けた。


 高速道路が途切れたその先も道は続いていく。

 遠くの方に白い風力発電機の群れが見えた。ゆっくりと見えるけれど、実際には僕が走る速度なんて目じゃないスピードで回っているのだろう。

 透き通る程青かったはずの空はいつしかその濃度を高めていて、太陽が放つオレンジの光と溶け合っている。

 変わり映えのしない風景だと思っていたけれど、そんなことは断じてない。

 空も海も刻々と表情を変える。変わらないものなんてこの世には存在しないのだと、ちっぽけな僕に優しく言い聞かせるように。

 幾分か涼しさを増した風の中を走り続けながらも、僕は旅の終着点が近付いていることをひしひしと感じていた。


「――やっと見付けた、私だけのポラリス」


 あれは3年前のことだ。何度かの逢瀬おうせを重ねたあの日、僕を見つめて確かにあなたはそう言った。

 よく意味がわからず問い返す僕に、あなたはいたずらっぽい笑みを浮かべて「なんでもない」ととぼけてみせる。

 その日の帰り道、僕からあなたに想いを告げ、僕たちの関係はスタートした。


 あの頃と現在いまでは、僕たちの関係性もその姿を変えているように思う。

 夜の空を辿る指針となる絶対的な輝きを、今も僕は捉えられているのだろうか。

 その答えは、ポラリスを追うこの旅路の果てにきっとある。

 フィナーレに向けて、僕は少しだけバイクの速度を上げた。



『――それにしても、随分と遠くまで行ったもんだねぇ』


 受話器の向こうから、あなたの楽しそうな声が聴こえてくる。

 目の前に佇むモニュメントを眺めながら、僕は「まぁね」と呟いた。


 ようやく辿り着いた日本最北端のいしぶみは、夜の闇に抗うかのようにぽつりとライトアップされている。

 辛うじて生き残った太陽が水平線のきわを染めているものの、その背景のほとんどは色濃い青へと沈んでいた。もう少ししたら、きっと夜空にポラリスを見付けることができるだろう。


 ――ふと、あなたにこの景色を見せたいと思った。


「――ねぇ、来月夏休み取れそう?」

『うん、プロジェクト終わって昨日打上げもやったし、ちゃんと休めるよ』



 ――あぁ、良かった。

 本能的に湧き上がったその感情を、僕は素直に受け止める。


「それは良かった、連れていきたい場所があるんだ」


 こんなに遠くまで来ても、僕の心はあなたから逃れられない。

 あなたの存在は、僕にとってゆるぎない光なのだ。

 広大な夜空で数え切れない程の星々が移りゆく中、唯一動かない――北の空に白く輝くポラリスのように。


『うん、ありがとう。どこにでも行くよ。きみと一緒なら――どこにでも』


 あなたの声が嬉しそうな色に染まったのは、きっと僕の聞き間違いじゃない。

 これからも僕たちは、ふたりで同じ景色を見つめながら生きていける。

 そんな確信が炎のようにきらめいて、気付けば僕は微笑んでいた。


「うん、ありがとう――明日帰るよ」


 そう告げて電話を切り、僕はもう一度顔を上げる。

 視界の中では、地上のポラリスが冴え冴えと白く輝いていた。



(了) 

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ポラリスは地上に輝く 未来屋 環 @tmk-mikuriya

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