カラき夢みし繰り人よ ~カラクリ~

詩川春

第一部 命短し恋せよ人形




 警笛。

 耳をつんざく金属音が、真昼の住宅街に響き渡る。

 空は赤く、艶のない漆細工のような黒い月が、慌てふためく人々の動きを睥睨している。

案山子かかしを出せ!」

「シェルター開けます!誰か!」

「落ち着いて移動してください!」

 様々な人々の声が大小重なり合い、騒めきと焦燥とが絶妙なバランスを保ちながら、張り詰めた空気を演出する。中には濃紺の制服に身を包んだ警察官や、蛍光色のベストを着こんだ誘導員が、それぞれ樹脂製のメガホンを手に呼びかけを行っている様子だ。

 住居から弾かれた様に飛び出す人々、その中から寄合所のような場所に設置された地下シェルターに向かう者、道路の各所に設置された金属製の箱を開き内部の機構を起動する者、高架橋下の【防災倉庫】の扉を開ける者など、三々五々に散っていく。

 程なくして道路の各所、前述した金属製の箱が展開し、人を模した強化樹脂製のデコイ【案山子】が動き出す。

 シェルターの重い扉は開かれ、多くの住民の移動は進行中。

 その動きの中に、確かな動揺と恐れが生まれた。

「来たぞ!」

「湧人の漏出確認、皆さま迅速な避難を!」

「落ち着いて、案山子は起動していますので落ち着いて移動を!」

 声音が早く、激しく変化している。

 変化は、各所で同時多発的に起きていた。

 コンクリート敷きの工事現場、アスファルトの道路、芝生の広がる自然公園、材質を問わず、土地に染み出す赤黒い染み。まるで赤い空そのものが溶け落ち、地面に血だまりを作るように、或いは湧き水の源泉のように、形容し難い混沌そのものが不揃いな円形の染みを広げていく。

 今まで三者三様に動いていた人の流れが、間違いようのない恐怖とそれを律する理性に従って、その染みを避けるように統制されていく。

 空気が抜ける鈍い音。

 粘性の液体の様相を呈する染みから、同色の何かが、這い出てくる。

 赤黒い肌を持ち枯れ枝のような四肢を持|つ人型、としか形容しようのない【モノ】。

 それは、この半球状に広がる赤い領域【穢土えど】に蔓延る脅威。湧き出流るばけもの―――【湧人ゆうと 】である。

 のっぺらぼうのように起伏のない顔面からは、生物的な情緒など感じ取るべくもない。いや、しかし。これに相対した人間は本能的に理解する。それらこそ【禍死吏かしり】という日本固有の自然災害の要。その名の由来となる「呪い」そのもの。深く強く刻み込まれた、人類への「殺意」と「瞋恚」の波濤を。

 一つの染み―――【たまり】から同時多発的に発生した湧人は、手近な「人と思われる者」に向かって移動を開始する。

 可視化された脅威が実体を伴って動き出すと共に、絶妙なバランスで保たれていた群衆の心理が如実に悪化していく。

 殺戮の饗宴が、今まさに始まろうとしていた。

 

 警鐘。

 

 恐怖と殺意とが渦巻く大気を引き裂くように、青銅製の鐘の音が響く。

 その澄んだ音色は、確かな希望。

 人々の胸に去来した絶望を刷新する、救いの福音。

 続くはブレーキローターとパッドが奏でる不協和音、タイヤと道路とが摩擦する鈍い音も重なる。黒一色の異形のワンボックスカー【籠車かごしゃ】の側面には【籠目隊かごめたい 杉二すぎに】の白抜き文字が光る。

 同様の文字を象った軽バンも数台、穢土地の各所に到着した。

 すぐさまワンボックスカーの後部、膨らんだオープントップが展開し、歯車が噛み合い軋む音と共に、上空十メートルほどの物見櫓が完成する。

 またサイドドアも開き、数名の白装束に身を包んだ屈強な隊員が降車。軽バンからも同様、数名の白装束と共に、背丈の半分ほどの木箱が下ろされる。

 櫓の上部でも着々と準備は進む。

 木箱の背面部分が展開、引き抜かれた両の指には、飾りのない指輪とそこから箱の内部に繋がる十本の糸が煌めいている。

『総員、開!』

 櫓上部の拡声器から、力強い命令が飛ぶ。その大気の振動は、穢土に蔓延する重苦しい泥濘を破壊する、反撃の嚆矢となる。

「開!」「開!」「開!」

 それに続く雄々しい声。白装束に包まれた両の手指は、複雑な軌跡を描きながら一つの形【いん】を象る。

 一定の速度と開度、特定の【印】によって引っ張られた糸は、箱の内部で眠る人類の至宝。日本の誇る無形文化財の極致、【人形】に命を吹き込む。

 糸―――【繰りくりいと】は始動鉤を動かし、更に張り巡らされた繰り糸を連鎖的に揺する。それに伴い、人で言えば筋肉となる歯車が噛み合い、軋みを、産声を上げる。

 籠目隊杉並二区、配されたるは歯車仕掛けの寡婦、【名原家謹製なはらけきんせい八式館守はちしきやかたもり】が箱の内部から姿を現した。

 同時に櫓上部より地上へと、小型の人形が降下。観測手により操られる動く伝声管、【奥の院謹製おくのいんきんせい閻魔蟋蟀えんまこおろぎ】である。

 ここに、人類の反撃が始まろうとしている。


 ◆


 上気する肌、荒い息を落ち着かせる暇もなく、黒塗りのSUVのサイドドアを開き内部に転がり込む。

「すみません、遅れました」

 絶え絶えの息で、何とか謝罪を伝えると、暗い車内に似つかわしくない茶色い頭髪が動き、バックミラー越しに張り付けたような軽薄な笑みが向けられる。

「いやいや、こちらこそ悪いね。学校の前は停車禁止だからさ」

 謝罪を受け流しながら、運転手―――田金さんは車を発進させた。「全く、うちも正式な認可が下りれば緊急車両扱いになるのに、参るよねえ」と言葉は続く。

「正式に籠目隊の緊急車両になったとしても、校門の前に乗り付けるのは勘弁してくださいね」

 シートに背を預け、少しずつ落ち着く鼓動を感じながら、少々の反駁。

「わかってるよ、真弘君の学生生活に要らぬ波風は立たせたくないし」

 信じていいのかどうなのか、言外の意図を感じるが、今はそれどころではない。

「場所は杉並ですよね?」

「うん、和泉の住宅街。あの周辺は保育園や養老施設も多い。嫌な場所に出やるもんだ」

 日常会話から、簡便なブリーフィングへと移り変わる。数分前、杉並区和泉に禍死吏が発生。杉並二区の籠目隊がちょうど今しがた現場入りしたらしい。

「杉並二区詰所、班長はい号ほ級の不動さんですね」

「厳つい爺さんだけど、真弘君とは面識がある分やりやすいのが救いだ。我々遊撃隊はどこに行っても外様の爪弾き者だからねえ」

 軽妙に続けながらも、車は杉並区へとひた走る。

「環七は交通規制が敷かれてるから、随分と手前から横道に逸れるしかない。司令車に合流する最短ルートは―――」

 過ぎ去る景色を尻目に、田金さんからもたらされる情報を精査し、頭に叩き込んでいく。

 杉二で使われている人形は主として八式館守。風にたなびくカーテンのような【ヒレ】を武装とする、操作難度の高い人形である。

「例によって内部の現状は不明、兎に角迅速に不動翁に面会して―――」

「遊撃隊の有用性を証明する」

 言葉を継ぐ。口酸っぱく教えられた、俺たちの使命。

 少し口角を上げながら、強く頷いた田金さんを通して、正面に見える半球状の穢土に視線を移す。まるで出来の悪いコラージュ画像のように、赤黒く切り取られた風景。その周囲を複数台のパトカーと警察官が囲い、ひしめく一般人の流入を防いでいる。加えて交通取締用四輪車の後部電光掲示板には「禍死吏発生 通行止め」という文字が流れ、交通の流れを堰き止めている。

 渋滞につかまる前に横道に逸れ、車は静かに境界へと向かう。


 

 

「ああ、来たか」

 赤黒い空、黒い月の下。黒塗りの司令車の櫓付近にて、厳めしい顔つきの壮年男性、籠目隊杉並二区実働一班班長・不動武臣ふどうたけおみはこちらをちらりと一瞥するとそう呟いた。

 境界付近の警察官から受けた訝しむ目よりも、数段温度が低い目配せだ。

 一度会っているとはいえ、いや、会っているからこそ分かる。歓迎はされていない。まったくもって。

「ええ、ええ。お世話になっております、不動班長」

 そんな空気の流れを断ち切るように、田金さんは平時の軽薄さを滑り込ませていく。よくよく見ずとも、周辺の籠目隊隊員からの目も厳しい。外様に対する排他的感情は、歴史の古いこの界隈だからこそ色濃く残っている。肌に突き刺さるような秋波を意識的に無視。不動班長の「ついてこい」というぶっきらぼうな言葉に従って、司令車の後部ハッチへと向かう。

「こいつだ」

 背丈の概ね半分ほどの木箱。天板には杉二の白文字。

「入院中の佐山の館守だ」と言いながら、不動班長の右手は無意識的に木箱を労わるようにさすっている。佐山、名前は聞いている。不動班長の右腕のような存在であったはずだ。

「癖が強い。無理だと思ったら退却しろ」

 外様に触らせたくはない。という思いが滲み出ている。隠そうともしていない。

「承知しました。大丈夫です、佐山さんの大切な人形でしょうし。傷一つ付けるつもりはありません」

 ある種の啖呵だ。周囲の視線は一層に冷たくなるが、田金さんはこちらを見やり笑みを浮かべている。以外にも不動班長からの視線に変化はなかった。いや、それもそうか。不動武臣は「知っている」のだ。

 悠然と歩を進める。禍死吏かしりという状況下にあることも、杉二の隊員達からの不満げな空気も、他者の人形を繰ることも、俺にとってはそう取り立てて珍しい出来事ではない。

 観音扉の取っ手に触れる。ひんやりとした冷たい金属の感触が、一層気持ちを引き締める。

 近くで見ると、この人形がどのような扱いを受けているのかよくわかる。人形師は人形を繰るだけではない。ある程度の等級に上り詰めるためには、人形の整備・製作までも一手に引き受ける必要性がある。細かな部分にも埃一つ見えない、手の行き届いた人形である。

 蝶番の悲鳴を聞き流しつつ、内部に目をやる。

 寡婦をイメージして作成された館守。黒いサテン地のようなきめ細やかな布、いやヒレ型の武装がひしめいている。扉の裏地に掛けられた指輪とそこから繋がる繰り糸にも目を通し、問題ないことを確認。それぞれを装着していく。指輪のノッチを調整。よし。

 一度、目の前に立つ不動班長に目をやる。軽い頷き。頷きを返しながら、ゆっくりと姿勢を正す。

 現行の五大人形は、もちろんそれぞれ特性も繰り方も異なるが、基本的な動作に用いられる印は共通である。人型の人形を繰り糸で動かすという前提条件を最適化していった結果の収斂進化のようなものだ。

「開」 

 静かに印名を呟き、印を結ぶ。結印の際の動作の反応ツキを研ぎ澄ました感覚で受信する。

 歯車が噛み合い、内部の繰り糸同士が複雑に引き合う。軽量合金製の骨格に力が宿り、眠り姫が目を覚ます。箱の外壁が内部に収納されていき、黒いドレスを纏う寡婦が立ち上がる。

 陶磁器製の白い肌を、目元を隠す黒いベールが妖艶に演出し、コントラストを生み出す。

 人形五大家が一つ、名原家謹製。館守が八代目。八式館守。

 起動時の違和感は左程でもない、個体差の範疇。

 次に「おん」。口上を上げながら結印。臨戦態勢に入る印である。館守の肝は黒いドレスのようにも見える武装の扱いだ。ここでの癖については予め知っておかなくてはならない。

 フレアスカートと後方に伸びる燕尾部分、膨らんだ袖口に偽装された黒い刃がふわりと宙に舞い―――

「!」

 違和感。繰り糸から返ってくる筈の手応えが僅かに薄い。

 周囲からの目線も毛色が変わる。嘲笑の気配だ。どうせ「鳩る(止まる)だろうな」とでも言おうとしてるのだろうが。

 癖が強い。その言葉に偽りはない。具体的には右手小指と薬指の繰り糸、その指示閾値あそびが大幅に異なる。通常の八式館守は十本三分繰り(繰り糸十本、指示閾値九ミリ)だが、これは四、いや五分(一・五センチ)まで閾値が広くとられている。

 なるほど。これは確かに、普通の館守に慣れていれば慣れているほどに扱い難いだろう。右手全体でなく一部、中でも精密操作が難しい薬指と小指部分だけの調整。

 しかし問題なし。それさえわかればそれに倣った繰り方をすればいい。

 薬指と小指、そこに増設された関節をフルに稼働させ、無理やり繰り糸の引き幅を合わせる。

 寸でのところで動作はスムーズに完遂され、館守は臨戦状態を保ったまま安定。

「ふ」

 それは嘲笑とも冷笑とも違う。得心の声か。不動班長はまっすぐに俺を見据え、少しだけ軟化した目配せをすると、「園村ァ! 武美隊員を案内しろ」即座に櫓上部に向かって快活な指示が飛ばす。

 慌てたような返事と共に、傍らの閻魔蟋蟀が起動―――しようとしてカクンと力なく地に伏す。まるで鳩が首を振りながら歩くように。車で言うエンジンストール、つまり鳩歩きゅうほだ。

「鳩ってんじゃねえぞ」

 張りのある怒声が続き、焦燥に駆られながらも今度は起動に成功。

「し、失礼した。三番観測手の園村だ」声からは僅かな震え。

「園村さん、よろしくお願いします。遊撃隊の武美真弘です」看過せずに返す。

 田金さんだけが笑いをこらえているが、下手な禍根を残すような態度はやめてほしい。切実に。

 ただでさえ人形師同士、特に同門ではない者同士の間にある溝は深い。どこにも属さず、どこへでも組する遊撃隊など、輪をかけて。本当に下らない縄張り意識だが、わざわざ藪に飛び込む必要性もないだろう。

 俺は言われたことを、言われたとおりにすればいい。

 ただそれだけで。

 意識を閻魔蟋蟀の伝声管を通した指示に傾ける。従えばいい。

 言われるがままに、目の前の人形を繰ればいい。

 それこそ、没落した人形五大家【武美家】の使命なのだから。



 躍り出る。

 赤き空に彩られ、様変わりした街並みを疾駆する。

 複雑な印を無意識的に結びながら、まるで手足の延長線上であるかのように八式館守を躍らせる。

 美しい、一歩後ろで見ていてなおそう思ってしまう。

 目の前に広がる地獄の具現、呪いの顕現ともいうべき舞台に立っていてさえ、その人形は美しい。一歩間違えれば首が飛び、一手をしくじれば臓腑が千切れる。そんな場に立っていても、優美な所作、ちらりと除く陶磁器の肌、赤と黒に煌めくヒレは、こんな人形を遣う人形にも圧倒的な芸術性を見せつける。

 物見櫓から出立して、既に二分が経過。俺の後ろを必死に追走している閻魔蟋蟀の伝声管から伝えられる現状報告と指示に従って、ただただ指を動かしていく。

 閻魔蟋蟀を繰る観測手は、物見櫓から遠眼鏡を用いて常に穢土を監視している。人形師の動き、湧人の動き、避難の動き、そして環境の動き。全てが複雑に絡み合い、相乗し合う「戦況」を常に把握できるように勤めているのだ。

『武美隊員、約三十メートル先、二時の方向、民家の影に複数の湧人あり。殲滅されたし』

「了解」

 適切且つ迅速、加えて嘘偽りのない伝達はありがたい。

 館守のヒレを翻し、命令に従って湧人の集団に攻勢をかける。

 情報というのは明確なアドバンテージだ。電子機器の使えないこの穢土地においては特に。敵の居場所、避難民の有無、戦闘適地であるかどうか。これらの判断や把握までの労力を省ける。

 奇襲。

 湧人達がこちらを嗅ぎ付けるより早く、八式館守のヒレが大気を切り裂き肉薄する。

 手前にいた赤黒いのっぺらぼうの頭部が首から零れ落ちるのを待たず、その一つ奥にいた湧人の上体が切断。鋭利な断面を曝け出すより早く、その死体を弾き飛ばして後方の湧人がこちらへ殺到する。

 感情のない、僅かばかりの起伏のみの顔面。しかし人間の本能を揺さぶり、恐怖を喚起する「殺意」の塊。

 それらがなりふり構わずこちらへと突進してくる様は、一般人にはいささか刺激が強いだろう。

 冷静に、と考えることさえせずに、怜悧な思考に先んじて指先が結印。

 湧人の爪による一撃が迫る。地面に敷いていたヒレを引き抜き、足元を掬うことで対応。失敗したテーブルクロス引き、その哀れなグラスのようにひっくり返る湧人につまずき、後方の数体がドミノ倒しの要領で地に伏せる。

 未だ黄泉孵りを体験していない生まれたれの湧人は、武装も思考も行動も単純。故に対処することは容易い。

 地面に転がる集団を避け、民家の外壁や塀を伝って左右より来襲する数体を確認。挟撃というわけか。示し合わせたというわけではないだろう、まだそこまでの思考は育っていないはず。

 まあ、仮に高度な戦術を駆使したところで意味もなし。

 など脳内で独り言ちる合間に印を結ぶ。

 八式館守が美しい面を若干上げ、白い稜線を思わせる顎がくいと持ち上がる。その動きに連動して、ヒレがはためき、左から飛び掛かる湧人の顔面を縦に両断。右から飛び出す湧人を、続く湧人ごと貫く。

 吹き出る鮮血の如き汚泥が、滑らかなヒレの表面に弾かれて宙に弧を描き、無様に着陸した赤黒い物体の終幕を彩っている。

 ふう、と息をつく。

 息を付きながらも指は止まらず、地に伏していた湧人にとどめを刺していく。

 時間にして二十秒ほどの出来事。未だ先は長い。

 閻魔蟋蟀、そして櫓に目をやる。特に動きはない。数瞬だけ待つ。続く指令は無し。

「園村さん、指示を」

『―――殲滅を、確認した。―――引き続き、シェルター防衛のため移動願う』

「了解」

 先ほどとは違い、少々たどたどしい命令に変わらず返答しつつ指が動く。

 


 ◆


「やはり圧巻だな」

 櫓の上部。穢土地全体を見渡しながら、不動武臣は呟いた。

「そうでしょう。彼は【武美】ですから」

 飄々とした声が続く。 

 無言の肯定。目の前の戦場では、湧き出る湧人を鎧袖一触に千切り飛ばす八式館守の姿。遠目であってもしかと分かる。自身が手塩にかけてきた部下たちとは一線を画する実力。その現実味が喪失するほどの業前に、観測手も、補助員も、現場の人形師達さえもが皆息を呑んでいるのが手に取るように伝わる。

 恐れを抱かぬのは、心無き湧人のみか。

「最高最強の人形師を生み出す為に、倫理も道徳も捨てた元五大家、か」

「ええ。まあ正しくは【人形遣い】ですがね」

「何?」

「彼は人形師ではなく―――」田金は目を細め口角を上げ「人形を使う人形なんですよ」そして軽く笑う。それは嘲りのようでありつつ、自慢げにも感じられる。

「まだ、ね」

 



 

「武美君!」

 明朗で凛とした声に視線を上げる。読みかけの本に栞を挟みながら、声の主を確認する、までもない。声で判断する以前に、わざわざ俺の名前を呼んでくれる人間など一人しかいない。

「委員長、何?」

 三条瑠璃。俺の所属する二年B組の学級委員長である。身の丈約四尺二寸、濡れ鴉のような長い黒髪が美しい生徒である。

「心当たりもないのは嘆かわしいんですが」と頭を振り「文化祭の出し物、今日までに第三候補までプリントに記入して提出と言いましたよね?」

 呆れたような物言いには、諦観が滲み出ている。事実、後ろ手には真新しいプリントが握られている。

「ごめん、今書くよ」

 素直に謝罪しながら、先んじて後ろ手のプリントをするりと抜き取る。A4のコピー用紙には簡素なゴシック体で「二年B組 文化祭出し物希望」と銘打たれている。小さく吐かれた溜息を頭上に感じつつ、簡素な空欄に目を落とす。

「…ちなみに、他の皆はなんて書いてるのかな」

「そうですねぇ」少し考えるような素振りを見せながら、軽く顎に手を添える委員長。

「食品系ならたこ焼きとか、焼きそば。見世物なら劇やミュージカル、といったところでしょうか」

 と言いつつ、諸所の注意点や採用についてのルールを教えてくれる。言葉の端々からも純粋な気遣いが感じられるが、それが寧ろ申し訳なかった。

 正直な話、文化祭そのものにさえ参加できるか判然としない自分に意見を通す権利はないだろう。

 なので委員長が呟いた例題をほぼそのまま書くことにする。

「そういえば、演劇部の方では白雪姫をするんだよね」第二候補に【焼きそば】と書きながら言葉を投げ掛ける。

「はい」心なしか声のトーンが一段上がっている「武美君もしっかり裏方として頑張ってくださいね」

「善処します」

 言外に潜むくれぐれも欠席するなよ、という圧を受け流しつつ、

「白雪姫役の練習に、委員長業務に、生徒会庶務か。大変だね」と話題を変える。

「私の仕事を増やしているのはどこの誰でしょうかね」

 冷ややかな視線が突き刺さる。返す言葉もない。遊撃隊の仕事先で向けられる視線より何倍も良心を揺さぶられる。

「そういえば今日は何時からでしたでしょうか」

 良心の呵責と罪悪感が形になったような言葉が口から洩れる。

「先輩方が進路相談で遅いので、十六時半からです。私も生徒会の雑務があるのでそれよりは少し早いくらいでしょうか」

「なるほど。了解」

 会話の節目にプリントを恭しく渡す。

 昨年発表された禍死吏の発生件数は、一日平均五十件ほど。流石に昨日の今日で呼び出されることはないだろう。今日は一介の学生として慎ましやかに過ごそう。委員長の背中を見送りつつ、窓の外に目を向ける。晴れやかな初夏の空、校庭には体育の授業に勤しむ生徒、視界の外では姦しい声。そう、これが俺が守るべき人々の日常だ。

 チャイムが響く。



 放課後になるのはあっという間だ。

 時刻は十五時半。朝方に委員長に聞いた部活動の開始は十六時半。だいぶ時間は空いている。しかし行く当てもないし、手持無沙汰のまま語らえる程の友人もいない。

 部活動に急ぐ者、居残りで談笑する者、委員会活動に向かう者、皆三者三様に動き出す教室を見渡しつつ、荷物をまとめる。程よく人も減り、動き易くなるのを見計らうと、出口に向かって歩を進める。

「そういえばまたアレあったよね」「アレ?」「ほら、籠目隊の人形師が捕まったやつ」「あー」他愛のない会話の応酬が嫌が応にも耳に入る。特に自身に関連する単語が出れば猶更だ。

「最近多いよねー」という言葉を背中に受け、どことなく居心地の悪さを感じながら教室を後にする。

 籠目隊の人形師が起こす犯罪は、肩書のない人形師が起こす犯罪よりもよりセンセーショナルに扱われる傾向にある。確か直近で報道されているものとしては、関西方面の籠目隊の隊員が起こした人形部品の横領だっただろうか。ここ十数年ほどで、日本固有であった禍死吏という災害が世界中に広がった結果、人形関連技術の海外流出が問題視されるようになった。

 千年以上もの長きにわたり、禍死吏という自然災害に対して人形技術を用いて対向してきた日本に対し、海外にはそのノウハウがあまりに少ない。その技術的な先進性を以て急激に発言力を強めている日本にとって、人形関連技術のいたずらな流出は死活問題であるらしい。

 人形師は間違いなく死と隣り合わせの職業である。加えて、極めて排他的且つ閉鎖的な古くからの因習に縛られている。正直な話、時代の流れに取り残されている節は強く感じる。そこに端を発する不満や不安に付け込まれ、更に大金を積まれれば、道を踏み外してしまう者が居るのもむべなるかなといったところだ。

 しかしそれらが一度ニュースサイトで取り上げられてしまえば、籠目隊全体の信用の低下を招く。出口の見えない悪循環に、上層部は頭を悩ませていることだろう。と田金さんも独り言ちていた。

「武美」

 軽薄な笑みが脳裏を過ったところで、不意に声を掛けられた。丁度本館職員室の前。視線を向けると、赤いジャージに身を包んだ短髪の男性。

「渥美先生、どうも」

 担任の体育教師、渥美士道が片手を挙げ手招きをしている。

「すまんな、時間大丈夫か?」すぐに頷いた俺を見て、「最近どうだ? その、仕事の方とか学校のこととかさ」と吟味しながら続ける。

「特にこれといったことは、ないかと」

「それなら良いんだが。昨日も杉並の方に行ったんだろ?」

 田金さんの方から、学校側に連絡がいっているのだろう。でなければ、間違いなく出席日数不足で留年確定だ。

「ええ、そちらも問題はなかったですね。丁度サッカーの試合の合間で助かりました」

 他の生徒の迷惑になるのは忍びない。まあ俺の身体能力では居ない方がマシかもしれないが。

「俺の授業中だからタイミングが良かったな」「いや悪かったのかな」と続けて呟く。

「事情は明かさなくても良いのか?」

 幾度も聞いて申し訳ないという思いからか、少し声音が小さい。

「ええ。殊更に隠すつもりもないですが、わざわざ言うつもりもないですね」

 病弱で休みがちな生徒。それが周囲からの評価である。年齢的にも一つ上であることもあり、どこか腫物を扱うように認識されているのは分かっている。だが、それくらいで良い。

 人形に、友人はいらない。

 俺はただただ、田金さんという繰り手によって糸引かれる、人々を守る人形の一つなのだから。


 

 渥美先生と別れ、数分で演劇部の部室に到着する。本館の一階、最南端に位置する空き教室。

 中に入ると、多少の埃っぽさを感じる。静寂の満ちる閑散とした部屋を、西日が茜色に染めている。長く伸びた学習机と椅子の影が、どこか哀愁を漂わせていた。

 とりあえず手近な椅子を引き、座る。机の上にはA4のコピー用紙が数枚綴じられた台本。表紙にはボールペンで白雪姫の文字が書かれている。

 白雪姫。誰しもが大まかな粗筋なら語ることができる、有名な童話だ。

 王妃の妬みにより追放された美しい白雪姫が、七人の小人と出会い、毒リンゴによって亡くなり、他国の王子との邂逅により息を吹き返し、見初められ幸せを掴む。幼い女児なら或いは男児でも憧れる、古のサクセスストーリーである。

 脚本を軽く捲る。作成者は部長だろう。プリントアウトしたものに、手書きでの修正案が複数注釈されている。

 裏表紙には登場人物と担当する配役が書き込まれている。主人公である白雪姫は委員長こと三条瑠璃。王妃役に副部長。王子役空欄。小人役も空欄。猟師役も空欄。裏方には部長と武美真弘―――俺の名前が書きこまれている。配役については調整中らしいが、幽霊部員を含めても六人、実際に活動している人員といえば四人しかいない弱小演劇部では相当な創意工夫が求めらるであろうことは想像に難くない。

 小人役には米印から矢印が引かれ、その先には【人形で代用?】との文字。

 なるほど。確かに七人の小人役を人形、つまり大道具側で担うことができれば、役回りを詰めることができる。合理的だ。

 丁度脚本から目を逸らすと、本棚の隅に押し付けられるように古びた段ボール箱が置かれている。「備品」と素っ気なく書かれた箱からは、色褪せたオレンジ色の三角帽のようなものが飛び出していた。

「なるほど、これが」

 どうしても気になってしまい、段ボール箱からそれらを取り出す。

 七人の小人を模した人形だ。表面の材質等を見るに製造から十数年は経過している。ボディは木製、表面にはニスが塗られているが、所々剥げかけている。フェルトや端切れを縫い合わせた服は見事な出来であり、日焼け等による色褪せはあるものの、遠目からならば気にならない程度だろう。

 しかし特筆すべきはそこではない。各部の関節、そして駆動方式は繰り糸式。それも吊り下げ式のマリオネットではなく、人形師が禍死吏への対策に用いる人形と同様の高度な技法が用いられている。

 すっかり興味を惹かれてしまった俺は、気づけば指輪を嵌め、少し硬いノッチを調整していた。


 

 ◆



「三条ちゃん、お疲れ様ぁ」

「お疲れさまです、会長」

 西日が目を指す生徒会室。私は綴じ終わった議事録を重ねながら応じた。机に突っ伏すように伸びをしている生徒会長は「参ったねぇ」と独り言ちる。間延びした言葉の端々からは深い疲労感が滲んでいた。

「ごめんね、副会長は昨日の禍死吏に家が呑まれちゃって関係でお休み。書記ちゃんはサボりでね」

「いえいえ、そういう日もありますから」

 想定より時間がかかったことは事実だったけれど、予定していた時間にはまだ余裕がある。こういった愚直な態度は、来年に確実に活きてくるだろうし、寧ろありがたいくらいだ。

「こりゃあ私の座は三条ちゃんに継いでもらうほかないね」

「勿体ないお言葉です」当然ですよ、とは言わない。「でも万が一そうなれば、精いっぱい務めさせていただきますけど」しかし釘は刺しておく。

 強かでなくてはならない。今できることはすべて積み上げておく。全ては未来の為。

「しっかし、真面目だね~。疲れないの?」

「それは会長も同じですよ」

 気疲れすることはある。やることは山積みだし、時間は容赦なく過ぎていく。

「でも、楽しみもあるので」

 でもそんな今だからこそ、期限付きの今だからこそ、追いかけられる夢がある。

「そりゃあ良いや」会長は老成すら感じさせる笑みを向け、「文化祭、あたしも楽しみにしてるからね」と呟いた。

 きっとこの人に隠し事はできないのだろう。どこか諦めにも似た安堵が湧き出る。

 そんな内心の変化を悟られるのも気恥ずかしい。傍らに置いた鞄へ、筆記用具類を手早く戻し、静かに席を立つ。

「お先に失礼します」

「はいよぉ、お疲れ様」

 ひらひらと手を振る会長に背を向けて、生徒会室から出る。

 携帯電話で時刻を確認すると、十六時十分。やはり丁度良い時間だ。今後のタイムスケジュールが脳内で再構築されていく。新着のメールはなし、つまり父は今日も帰宅しないだろう。弟妹の帰宅時間、朝確認した冷蔵庫の中身、それらを総合して帰宅時に寄る激安スーパーへのルートと、割引品に対応した幾つかのメニューが朧気ながら輪郭をなしていく。

 そんなことを考えながら歩いていると、部室までの道のりはあっという間だった。

 いつも通り扉に手をかけようとして、

「?」

 気配、そして物音。どうやら先客がいるようだ。何となく入室を躊躇ってしまう。誰だろうか。

 頭上に浮いた疑問符に操られるように、ごく僅かな扉の隙間から、内部を恐る恐る伺ってみる。

 

 縦横無尽に踊る七人の小人。そこから引き出される、豊かでカラフルな森の幻想。


 白昼夢?

 意識の有無を、現実性の希薄さを、目の前の光景を、全てが揺らぎ溶けていくような感覚。

 まるで、隣で困惑しつつも踊る白雪姫の姿さえ幻視できそうな衝撃的な風景。

「武美……くん?」|

 現実感を少しずつ取り戻すと、本来の姿と有り様が認識できて来た。

 間違いない。武美真弘、私のクラスメイト、いや手のかかるクラスメイト。そして数少ない同じ演劇部所属者。非常に病弱らしく、度々欠席や早退を繰り返す、どこか底知れない青年。

 そんな彼の足許、いや周囲を、七人の小人が愉快に軽快に踊り回っている。

 西日の反射がなければきっと繰り糸に気づくこともできず、現実の咀嚼にもう少し時間がかかっていたと思う。

 息をのむ、とはこういうことなのだろう。呼吸することさえ忘れ、その光景に見入ってしまう。 

 人形。前回活動時、配役の打ち合わせの際の部長の提案を微かに思い出した。

「すごい」

 陶然としながら、溢れ出た感情が言葉として漏れる。

 もし、この世界観に私が加われたのなら。それは――――


「委員長?」


 ◆


「委員長?」

 人形たちを静かに待機状態へ移しながら、恐る恐る声を掛ける。

 室外からの視線と気配に気付くのが遅れた。予想以上によくできている人形の機構に、思いの外入れ込んでしまっていたようだ。

 制定されている規格に当て嵌めるとすれば十本五分繰り(繰り糸十本、指示閾値一・五センチ)。七体がそれぞれ動作の一部を連動させつつ、まるで独立しているかのように動く。非常に高度な設計だ。

「ご、ごめんなさい。盗み見るつもりではなかったのですが」

 恐縮しながらおずおずと入室するは、予想通り委員長こと三条瑠璃であった。

 バツの悪そうな表情のまま、入室したそのままの姿勢で、人形と俺との間で目線を泳がせている。

「いや、謝るようなことじゃないと思うけど」その雰囲気に引き摺られ、声が上擦りそうになるのを抑える「えー、とりあえず、座ったらどうかな」

「はい」促されるままに先ほど俺が座っていた椅子へと腰を下ろす。 

 まるで初対面同士かのようにぎこちないやり取り。より正確に表すなら、数年ぶりに出会った親戚と二人きりなってしまった時のようななんとも珍妙な空気を、

「ふふ」

 先に打ち破ったのは委員長であった。

「何さ?」

 唐突な失笑に、何とは言えない気恥ずかしさを喚起される。

「いえ、ふふ。駄目なんです、ふ、こういう変な間が」言葉の間にもかんらかんらと笑う。

 そんな朗らかな笑顔に魅せられる。そしてつられて口角が上がる。溜息のような笑みが零れているのが自覚できて、それが何故か心地よかった。

 一通り笑い合い、程なくして落ち着いた頃、

「人形繰り、すごく綺麗でした」と委員長が口火を切った。

 綺麗、か。

 人形繰りの技術への称賛として、受けたことがない言葉だ。俺にとって、いや俺の周囲の人々にとって、人形を繰る技術というのは具体への対抗手段でしかない。

『人形を使う人形たれ』

 脳裏に過る、武美真弘の本質に刻み込まれた声。励起された負の感情を何とか抑え込み、

「そう、かな。ありがとう」

 と絞り出した。

「本当に物語の中に迷い込んだのかと思いました」

 少し顔を上げ、目を細めながら委員長は続ける。幸いにも俺の内心の変化を悟った素振りはない。

「あの人形すごく出来が良いんだ。ただの学校備品とは思えない」

 気持ちを切り替える為にも、話題を逸らすことにする。人形に対する評価に偽りはない。演劇部の備品として、杜撰な保管をされている所を見ると、卒業生の製作物か何かだろうか。

「そうなんですか?」

「そうそう、ほら」

 待機状態を解除し、反射的に「唵」という口上を上げそうになったのを飲み込みつつ、ゆったりと結印。七体の小人を連動させ、委員長の足下へと集結させる。すると目を見開いた彼女は、感嘆の声と腰を上げる。中腰になり、膝丈ほどの小人たちの一挙一動を爛々とした双眸で凝視する。

 観客がいるとなると、何故だか浮足立つような気持ちになる。落ち着かないが、悪くはない。それが委員長ならば猶更だ。

 特に意識はせずとも、指が躍る。先程までの試運転で判明した動きを次々と披露していく。

 七人の小人が、命を吹き込まれた様に軽やかに踊る。

 一人と一人が愉快なステップを刻み、二人が手を取り合って回り、三人が手斧を合わせて笑い合う。

 そんな一つ一つの動きを、眼前の猫じゃらしに目を奪われる猫のように、初めて遊園地の門を潜った幼子のように、彼女は目で追っている。

 俺の人形繰りに合わせて忙しなく動く黒い瞳が、西日を反射して宝石のように光る。

 期待と感嘆、羨望と快哉に満ちた表情が、くっきりと浮かび上がる。

 何だろう、この感覚。いや感情か?

 今まで委員長に対して朧気に抱いていた心地よい何か、その輪郭が掴めそうになる。

 潜航していく意識、対して眼前の彼女から目を逸らすことができない状況。逢魔が時の幻想的な陰影のコントラストと踊り回る七人の小人が、日常から、現実から、即興の舞台を切り取っていく。

 まるで世界に二人だけのような錯覚。

「本当に、すごい」

 ごく静かな称賛。更に動く指先。時間にして数十秒にも満たない人形劇。

 終幕は突然に訪れる。

 場違いな電子音が、現実との間の薄い紗幕を引き裂いた。

 今まで経験のない没入感を阻害され、指が止まる。途端に動揺が繰り糸を通して伝わり、直前まで快活に動き回っていた七人が、カクンと力なく脱力する。鳩ったのなんて何年ぶりだろうか。意識の端でそんな事を思う。

 呼び出し音の意味は理解している。ポケットから取り出した携帯電話の画面には「田金」の文字。

 ふう、と溜息。

「ごめん、委員長。急用だ」当惑する彼女の顔に罪悪感を感じる。それを振り切るように、指輪を外し、繰り糸が絡まないように人形を纏める。

「武美君?」

「本当にごめん。部長たちにもそう伝えておいてくれると助かる」空に近い鞄を持つ「人形繰りなら、その、少しは役に立てると思う。明日にでも埋め合わはするから」

 精一杯の謝罪と贖罪の手段を提示しつつ、何かを言わんとする委員長の横を通り過ぎる。

 引かれた後ろ髪を断ち切るように、後ろ手で静かに扉を閉めると、駆け足でその場を後にする。

 今まで感じたことのない後悔の念に苛まれながら、俺の存在意義と対峙する。



 上気する肌、荒い息を落ち着かせる暇もなく、黒塗りのSUVのサイドドアを開き内部に転がり込む。

「すみません、遅れました」

 絶え絶えの息で、何とか謝罪を伝えると、暗い車内に似つかわしくない茶色い頭髪が動き、バックミラー越しに張り付けたような軽薄な笑みが向けられる。

「いやいや、こちらこそ悪いね。学校の前は停車禁止だからさ」

 幾度も聞いた謝罪を軽い会釈で受け流す。田金さんは車を発進させる。

「部活動中だったのかな、申し訳ないね」

 先とは打って変わり、若干低いトーンでの謝罪。

「いえ、大丈夫です」本心と少し乖離した反射的な返答を自認しつつ携帯電話を開き「世田谷区ですか」と確認を取る。

「ああ、用賀付近。東名高速を巻き込んでいる、なかなか厄介な場所に出るもんだよ」

 厄介でないことなど滅多にないけれど、と継ぎそうになるが止める。不毛な話だ。人的災害とは違い、禍死吏は完全な自然災害。台風や地震と同じものだ。「地震雷呪親父じしんかみなりかしりおやじ」などよく言ったものである。 

 まあ一番厄介なものは親父なのかもしれないが。

『人形を使う人形たれ』

 再度フラッシュバックする言葉、片頭痛を伴うそれをこめかみを抑えながら無視しようと努める。

「発生は六分前、世田三の籠目隊が丁度現地入りしている頃だろうね」

「そういえば世田三って最近班長変わりましたよね?」

「そうそう」と言いつつ田金さんは助手席に置かれた分厚いメモ帳を寄越す「青い付箋のとこに基礎情報載せてあるから確認してみて」

 生粋のアナログ派の田金さんは、常にこの黒い革張りのメモ帳を持ち歩くメモ魔である。辞書もかくやの厚みだが、内部はしっかりと索引分けをしてあり、付箋や目次まで用いて綺麗に整えられている。態度や風体からは想像もできない、徹底した几帳面さだ。一番の趣味だと自称しているだけはある。

 言われたままに青い付箋を探し、ページを開く。

 世田谷三区籠目隊、二週間前に就任した新班長は、い号は級人形師・佐々良草子。流派は倉上一双流、使用人形は六代風丸。

 女性班長は極めて珍しい。しかも佐々良、五大家の本流でない人間とは。

「佐々良草子三十六歳。年齢的にも性別的にも異例の大抜擢だ」

「いかに合理性を追求する倉上家とは言え、ですか」

「うん。倉上家は数年前に当主が女性になったからね。そこで蒔かれた新しい種が、やっとこさ日の目を見たってところかな」息を吐いて「佐々良は倉上の遠い分流らしいけれど、それでも尋常でない根回しやらなにやらがあったことは想像に難くないね」

 人形師の世界は古い慣習と因習、強固な先入観と固定観念とに縛られている。男女平等が各方面で叫ばれている昨今、既得権益の拡大も手伝って寧ろ全力で逆行をしているといっても過言ではない。

 その中にあって、籠目隊の班長を女性として勤めるというのは、その座に着くのも、寧ろ着いた後の方が、想像を絶する程の労力と圧力が掛かることだろう。実際に会ったことはないが、その前情報だけで敬意を持たずにはいられない。

「僕ら遊撃隊よりも、周囲の目は厳しいだろう。しかしその分―――」

「―――俺たちへの理解を示してくれる可能性が高い」

 力強く田金さんが頷く。

 人形師という世界を支配する古臭い価値観と対峙してきた人ならば、新しい風を吹き込むことにも前向きなはずだ。少しばかり気持ちが楽になる。今更周囲からの視線や敵意などに反目はしないが、無いなら無いに越したことはない。

 気持ちの余裕が出来てくると、やはり思い起こすのは先の出来事。

 中座してしまった罪悪感が鎌首をもたげる。

 明日、ちゃんと謝らないと。委員長と、他の演劇部の面々へ。

 

 ◆


「無理だ」

 ぼそりという呟きと共に、カクンと痙攣して七人の小人が地に臥せる。

 時刻は十六時四二分。部長と副部長が部室を訪れて、丁度十分ほど経過したくらいだ。

 私の話を聞いた部長が幾度となく人形繰りに挑戦し、あえなく失敗する、その姿を見てケラケラと笑う副部長。という図が先程から繰り返されている。

「これ、本当に武美君は動かしていたの~?」

 力なく寝そべっている小人を突きながら、副部長が私へ問い掛ける。

「ええ、間違いないです。七体が別々に動いて、というか踊り回っていました」

 と言うものの、彼の人形繰りを見た時間の十倍以上、部長の失敗する姿を見ていると、その光景が現実のものなのか自信がなくなってきている。それくらい彼の操る七人の小人は、人形であることを忘れてしまうほど滑らかに、命を感じ取れるような写実性を以て動き回っていた。

「彼は、人形がすごいと言っていましたけど」

 部長は少し唸りながら、

「この人形、出来というか機構はもう間違いなくものすごいんだが」そう言いつつ再び人形繰りに挑戦して「その分、繰る難易度も半端じゃなくすごいんだよ、な」当然のように失敗する。

「何代か前の卒業生が作ったものらしいんだけど、実際に使えてる姿は見たことないね~」その姿を見て副部長はあははと笑う。

「俺だって人形に関しては一家言ある方なんだがな」

 しみじみと呟きながら深いため息を吐き、眼鏡を取って机に置く。

「吉君、言い出しっぺだからって付け焼刃で練習してたもんね~」

「樹里、お前また俺の部屋を覗いていたのか」

「お隣さんだし、カーテン閉めててもわかるんだよ。影絵みたいにね~」

 いつもの掛け合い、というか夫婦漫才という言葉が正しくあてはまるそれを目の端に捉えつつ、思案を巡らせる。

 元々部長は人形劇の関連にも造詣が深い。そんな彼が付け焼刃とはいえ夜な夜な練習して、基礎動作すら満足にこなせないほどの操作難易度。それを事も無げに、今日初めて触ったはずの武美君が完璧に使いこなしていた。

 彼は何者なんだろうか。よく考えると不可解なことが多い。欠席や早退の多さは病弱を理由としているが、ちょっと見ではその気を見出せない。体育にも普通に参加している。仮病であるとすれば、ここまで生徒指導を受けていない理由が説明できない。

 そういえばさっきも、携帯に入った電話を切っ掛けにしている。

 まさか―――

「ねえねえ瑠璃ちゃん」

「はい」

 思考の螺旋階段を駆け降りる足を止め、副部長こと八田樹里さんに顔を向ける。その向こうで部長は再び眼鏡を装着して人形繰りに挑戦している。

「武美君の操る七人の小人、劇に使えそうかな~」

「間違いないと思います、寧ろ」そう、あの完成度を考えると「私たちの演技力が足を引っ張らないようにしないといけないかと」

「ほほ~」

 満面の笑みを浮かべながら麻衣さんは脚本を引き寄せる。

「決まりでいいよね~? 吉君?」

「本当にこれが使えるのなら、ありがたい限りなんだ、が」その顔には若干の曇りがある。失敗する。

「とりあえず、明日に埋め合わせをしてくれるらしいですよ」

「是非、見てみたいものだ、な」失敗する。

「じゃ、決まり~」

 脚本の裏表紙。配役の欄に、新しい一文が書き加えられた。


 ◆


 

 余りにも事がうまく進み過ぎている時、人は疑心暗鬼となる。

 そんな言葉が思い起こされるほどに、世田三の籠目隊への合流はスムーズであった。

 借り受けた六代風丸は、細やかな整備の行き届いた状態で、これは本来の使用者が几帳面で責任感のある人物であったとして納得はできる。しかし、長年使用によって起こる内部機構の自然的摩耗、そこから生ずるごくごく僅かな指示閾値のズレに関しても懇切丁寧に説明と注意を促してくれるのは、いささか出来過ぎであるように感じてしまう。

 いや、人形師という極めて閉鎖的で排他的な環境に身を置いているからそう感じてしまうのだろうが。

 しかし頭では分かっていても、早々得心のいくことではない。要は、余りも皆善人過ぎるということだ。

 視線を上げる。頭上には巨大な構造物が天蓋となり、黒い月と赤い空を隠している。

 今回の禍死吏では穢土に巻き込んだ地形の構造を鑑み最大限に地の利を得る為、籠車の物見櫓ではなく高速道路上に作戦本部を施設している。高速道路の直下部分に目を配る観測手数名を除く、全ての後方支援員がそちらに配置されているのだ。田金さんとまだ挨拶も済んでいない件の班長【佐々良草子】もそこに居る。

『武美隊員、首尾はどうかな?』

 背後の閻魔蟋蟀の伝声管越しに、四番観測手である新発田さんの穏やかな声が掛けられる。

「問題ありません、あと二台で終わります」

 即座に経過を報告する。こんな一瞬のやり取りでも、杉二の籠目隊とは大きく異なる。ただし、杉二も籠目隊という括りの中では合理性に裏打ちされた平等性があり、我々遊撃隊への態度も殊更に悪いわけではない。故に、一際世田三の雰囲気には毒気が抜かれる。

『了解、他の持ち場も問題なし。焦らずやってくれたまえ』

「ありがとうございます」

 心からの謝辞が、反射的に口をつく。なんて健康的なんだろうか。ここまで好意的に歓待されると、期待に応えない訳にはいかない。

 清々しい心持で視線を戻す。東京IC《インターチェンジ》の直下、カラフルな大小の自動車がひしめき合っている。そして一部は押し合い圧し合いもつれ合い、ひしゃげて変形したバンパーや千切れたミラー、白化したガラスを晒している。

 車両による二次被害。これは禍死吏においての大きな弊害の一つである。

 禍死吏の直接的な被害原因であるところの湧人は、人型を積極的に攻撃するという指向性がある。故に案山子や避難導線を調整するなど各種の対応策を取ることで比較的に容易く誘導が効く。対処法さえ間違えなければ、死傷者はごく少なく収められる。事実、数十年前から湧人による死傷者数と二次被害による死傷者数は逆転している。

 もちろん、国産の自動車メーカーも手をこまねいている訳ではない。禍死吏の発生に際する電子機器の停止、これによって車両がコントロール不能となる状況を避けるためのセーフネットを、常に進歩させ続けている。それでも完璧に事故を防ぐことはかなわない。天候、速度、車重、相対距離、劣化、そもそもの性能、ありとあらゆる原因が絡み合えば、多少なりとも事故は起こる。寧ろ交通量が多い幹線道路上の禍死吏において、この程度の被害で済んでいることから、日本車の安全装備が世界一と謳われているのも大いに納得できる。

 そんな思索の中でも指は動き続け、六代風丸も与えられた仕事を黙々とこなしている。

「急な禍死吏でも安心」とCMが打たれている最新式の軽自動車を路肩へと引きずっていく。眩い赤の塗装が施されたフロントバンパーとリアバンパーが、留め金を失って力なく揺れる様子に、哀愁の念を感じずにはいられない。

 続いてその後ろ、ヘッドライトのカバーが割れ、グリルが変形してしまっている普通車に手をかけていく。

 禍死吏に巻き込まれること自体がそもそも運が悪いこと、であるのは百も承知だが、それでも今回の被害者たちは幾つかの幸運に恵まれていた。

 まずは交通量がそこまで多くはない時間帯であったこと、そして下道にいた人間は砧公園シェルターという大規模な避難先が近かったこと、最後に高速道路上の人間は湧人がスロープを上るまでの時間で穢土の範囲外に避難できたことである。

 幸い、今回も重傷者は出ていないだろう。

「新発田さん、車両の撤去完了しました。次の指示をいただけますか」

 閻魔蟋蟀に向かって言葉を投げ掛け、その繰り糸の先に向かって風丸の手を挙げて合図を送る。

『了解、噂通りの腕前だね』思わぬ賛辞の言葉、皮肉ではない称賛に、どう返そうかと逡巡する。しかし『ではそのまま直進して、スロープの攻防に参加してほしい』すぐに二の句が継がれてしまった。

 反応が欲しい訳ではない、といったところからも、やはり裏表のない心底の評価であったことが伺える。ここまで遊撃隊に対して明確に好意的であった籠目隊は無かった。

 特に排他的な傾向が強く縄張り意識の塊である九尾家などには爪の垢を煎じて飲んでほしい。切実に。

「了解、です」

 何はともあれここまで快く受け入れてくれる以上、やはり下手に迷惑をかけることはできない。寧ろ大きくなるプレッシャーを振り切るように、六代風丸の背中の足掛けへと飛び乗る。

 スロープの攻防、それは今回の禍死吏における要である。

 高速道路上に大量の案山子と生きた人間を配置することで、湧人の動きをスロープへと引き寄せ、避難と車両の撤去を円滑に進める。というのが世田三の描いた青写真であった。

 湧人の導線を絞り、生かさず殺さず興味を引き続ける。手すきとなった人形師が他の業務を同時並行で行う。禍死吏後の復旧までも視野に入れたお手本のような作戦だ。

 ここまで完成度の高い作戦を即座に展開できる事実から、班長はもちろん、周囲を固める班員たちの練度が嫌でも分かる。

 それらに恥じないような働きをしなくてはならない。遊撃隊というのはそういった意味でも難儀な立ち位置であると再確認した。

 風丸に乗ってスロープへと向かい、数メートル。

ここからスピードに乗ろうという所で、視界の端に違和感。

 それは理性ではなく本能、実感ではなく勘。それらが脊髄反射的に動く指先、繰り糸を通じて、ごくごく僅かに風丸の歩調に水を差す。その一瞬の遅延によって、違和感の正体を脳が捉える。

 放置車両の一つ、銀色のセダンに微振動がある。いや、あると断言しても良いのか分からないくらいだったが―――

「揺れてる、よな」

 風丸の動きが止まる。しかし、目の前の車両の振動は消えない。見間違いではない。

 どうする。

『武美隊員、どうかしたのかい?』

 こちらの異常を察知した新発田さんからの言葉に、焦燥感が滲む。いや、落ち着け、田金さんにも口酸っぱく言われているだろう。全ての基本は報告連絡相談であると。

「目の前の車両が揺れているんです、微細にですが、確かに」

 吟味しながら言葉を紡ぐ。

『―――なるほど、こちらからは確認できないが逃げ遅れた要救助者の可能性があるね。すぐに確認を』

 返ってきた明確な命令により、感情が刷新される。そうだ、大丈夫。間違ってはいない。外れてはいない。

 風丸ごと車両へと向き直り、足早に近寄る。

 窓から内部を覗きこむが、人影はなし。それに準ずるものもない。

 エンジンが何らかの要因によって動き続けているのか?とも一瞬疑ったが、そんな実例はない。仮に初めての事象であったとしても、排気音はなく、震動自体にも機械的な均一さがない。

 つまりはトランクの中に、何かがある。

「車内に要救助はなし。原因はトランクの内部かと」

『―――了解した。確認を、と言いたいところだけど―――』

「施錠されています」

『そうだよね、少し待っていてくれるかな』

 低年式故の便利装備なのかご丁寧に施錠したのか、原因は定かではないが、何にせよトランクは開かない。

 少々厄介なことになった。 

 籠目隊は、禍死吏への各種対応において必要であれば公共物・私物を問わず破壊することが法的には許されている。ただし消防法二十三条と同じく、所有者による申し立てがあった場合にはこれを補填しなくてはならない。特に車ともなると、請求額がかなり高額になることもままある。

 もちろん一概に言えることではない。内部に要救助者が明確に取り残されたままであったりと、所有者の有責が明確な場合はこの限りではないのだが。

 今回の場合はその明確な理由が分からない。しかもトランクの内部で要救助者が発見される確率は低い。電子機器を必要としない原始的な機械が内部で動いてしまっているという可能性もないわけではないが、これも確率としては高くない。

 面倒臭い決断を迫ってしまった。

 難儀な厄介事を招いてしまった。

 ふつふつと罪悪感が鎌首をもたげはじめたところで―――

『あ、あー。テステス』間違いようのない場違いな声、そして『すみません新発田さん、少しお借りしますね~』と緊張感の欠片もない言葉が続く。

「田金さん?」

『真弘君、今回の禍死吏でのケツは全部僕の方で持つからさ。一思いにやっちゃってね』

「―――了解」

 胸をなでおろした事を悟られないよう即座に返答する。ありがたい。世田三に迷惑が掛からないとあれば、迷うことはない。遠慮なくやらせてもらおう。

 風丸の位置を調整、片腕で車体を抑え込み、もう片方でドアを無理やりこじ開けていく。

 金属が軋み、樹脂部分が割れていくのが分かる。繰り糸を通じて微細な振動が強くなっているのを検知、十中八九生きた何かが居るのは確かなようだ。

 一際大きい金属の断末魔と共に、歪んだドアが跳ね上がり―――

 すさまじい速度で空中へと躍り出る影。を五感が捉えた。

 反射的に風丸が防御姿勢を取りつつ半歩下がる。時間がゆったりと流れるような錯覚の中、ようやくその正体を視覚情報として脳が処理した。

 それは―――

「犬!?」

『何だって!?』

 中空に身を躍らせたのは、短い四肢、明るい茶と白が複雑に交じり合った毛並み、大きな耳と突き出した鼻。

 それは紛れもなく犬、

『ありゃ、コーギーだね』

 それは紛れもなくコーギーであった。

『まさかシュレーディンガーの犬とはね』

 という田金さんの言葉が継がれるより先に、着地したコーギーは半狂乱な様子で一目散に駆けだしていった。それはそうだろう。ただでさえ異常事態に暗闇の中へ閉じ込められ、それを外部から無理やりこじ開けられたのだ。混乱するなという方が無茶な話だ。

 しかし問題はそこではない。

 短い四肢で駆けだしていった先、そこにはこの穢土地での最も危険な場所。

 湧人は人型以外の生物を積極的に攻撃することはない。しかし、人型を害するという第一義の妨げとなるのであれば、その限りではない。加えて、人形との激しい戦闘状態である。あの小さい命が儚く散らぬという保証はどこにもない。

 気づけば指が閃き、風丸が地を蹴る。

 蹴とばしたアスファルトやガラスの欠片が、塗装に傷をつけてしまう懸念さえ置き去りにして、駆けだす。

 速い。あの小さい体でここまでの速力か。

 半狂乱となっていることもあるだろうが、原付バイク程度であれば悠に追い抜いていけそうな速度である。

 湧人との直接戦闘を専門とする人形は、そもそも高速移動に向かない。人型という必要不可欠な要素が、どうしても足を引っ張っているのだ。奇しくも六代風丸は人形師を背負ったまま移動することを前提に設計されている。が、それでも時速十五キロ程度が精々であろう。

 間に合わない。彼我の速度差により、相対距離は離れていく。

 そもそも、犬に限らずペットというのは所有物という扱いである。国民の財産として保護するべき「物」であるが、人命との天秤にかけた際には、その傾き次第で皿から零れ落ちることも止む無し、という「物」である。

 まだ激戦区までは距離がある。異常を察知して進路を変えてくれる可能性もある。

 更には低い体高故に激戦区にあっても何事もなく通過できるという可能性もある。

 だが、

 進路を変えないという可能性も、運悪く戦闘に巻き込まれるという可能性もある。

 これ以上、世田三の隊員達に迷惑を掛気ても良いのか。このまま犬にかまけて突進していけば、陣形を大いに乱してしまう。本来の役割も大きく外れてしまう。

 それは、俺、つまり人形を遣う人形として相応しくはない。

 『人形を遣う人形たれ』

 指先に迷いの気配、

『真弘君。敢えて言おうか―――』

 結印が乱れる予感、

『—――さっきのは「命令」だよ』

 だが寸でのところで立て直す。

 命令、命令、命令だ。思い出せ、さっきの言葉を。

 『今回の禍死吏でのケツは全部僕の方で持つからさ。一思いにやっちゃってね』

 一思いにやれ。それが命令だ。俺に巻き付いている糸、それを伝わって流れ込む意図だ。

 水を得た魚の気持ちが分かる。視界が開ける。感情が冷却、思考が励起される。反射で行ってきた結印と運指に、理性という歯車が噛み合わさっていく。

 人形を遣う人形たるを見せてやらねばならない。俺という作品が誰よりも精緻に精密に正確に精巧に、人形を操れるという自負が沸き上がる。

 正攻法で走っても無意味。多少の無茶は承知の上だ。

 まず行うのは動作の見直し。

 六代風丸は扱い易さに重きを置いた人形だ。

 通常の人形が「足を振り上げる」「足を踏み出す」といった二つから三つの印を組み合わせ、結果として「走る」という動作を生み出す。それに対し、風丸は一つの印で「走る」という動作を完結させている。動作の汎用性や状況への柔軟性を敢えて削ることで、操作を覚え易く、無意識的に繰ることを容易にしている。

 扱い易いということは即戦力の人形師を大量に輩出できるということ。人形師不足が嘆かれる昨今において、これは政治的にも大き過ぎるほどのメリットがある。

 しかしデメリットも大きい。走るという動作を大雑把に一括りにしている為、路面状況に適した足の置き方、足の振り上げ方、足の踏み出し方が出来ず、結果として速度も乗らない。

 故にこの扱い易さを卒業していく人形師も多い。動作の引き出しが狭く、奥行きがないからだ。

 つまり、この大雑把な動作関連を解剖し、通常の人形のように細かく結印をしていけばよい。が、ここは工房ではない。人形の内部機構に手を加える時間も道具もない。

 なればどうするのか。

【間取り《はざまどり》】、という技法がある。

 本来励起されるべき動作を中断することで、中途半端な動作を生み出す。正に印の間を取る。というものである。

 これだけでは動作が完遂されない状態ができるだけだが、この半端な動作を上手く繋げて調節していくことができれば、疑似的に動作の解剖と細やかな調整ができる。

 しかし簡単なことではない。

 動作を半端に止める、それだけでも鳩歩を助長してしまう。そこから鳩らないように慎重に各種の印を精査し、精密に指を動かしながら次の間取りへ接続。加えて、その動作さえも現在の路面状況に合致するように調整しなくては意味がない。

 まずは数ミリ単位で指を動かす正確性、現在の人形の状況とどの印を間取りしどの印でその合間を埋めるのかを判断する理解力、現在の路面状況を含めた環境を見て動作の調節を行う並列思考。

 全てが揃わねばこの無理は通せない。

 しかし、しかし。

 その無理を通せる数少ない存在、それこそが、武美家の端くれたる俺である。

 これだけの為に作られ、こういったことを実現する為だけに仕上げられた。

 まさに人形を遣う人形なのである。

 視界で捉えた景色を精査、路面の状況、追い縋る対象の動きを念頭に、動作を最適化していく。 

 走るに対応する印を間取り、足を振り上げる位置を調整。そこから鳩らぬように、自然に別の印を挟み込み、すぐさま走る印を間取りし、踏み出す力を調整。上半身の角度、腕の振り上げ角とタイミング、その他もろもろ本来は一つの印で定めていた動作を一つ一つ解剖して都度最適化していく。

 すると、驚くほどに速度は変わる。

 乗り心地は最悪の一言。だがそんなことはどうでもいい。

 スロープまでの道のりは平坦でもなければ開けているわけでもない。縦横無尽に自動車が停められており、一種の迷路の様相を呈している。

 犬は目の前に車両の壁が現れる度に、身を低くしたり、横に逸れたりと修正舵を取らなくてはならず、その度に減速していく。

 対してこちらは人形。三次元的な動きも可能だ。

 跳躍の高さを最適化し、跳び過ぎないようにして距離を稼ぎつつ滞空時間を少なくする。

 腕を使って程よく車体をいなすことで、最低限の動きで速度を殺さずに減速する。

「あと、少し」

 舌を噛まぬように歯を食いしばり、必死に腕以外の全身で風丸に縋りつく。

 スロープの入り口、まさしく激戦区が目に留まる。

 相対距離、あと僅か五メートル。激戦区突入まで残り二十メートル弱。

 人形師も湧人も、こちらの存在には気づいていない。

 相対距離、残り三メートル。激戦区まで残り八メートル。

 激しい戦闘音に驚いたのか、犬が大きく減速。追い付く、激戦区まで残り三、二、一―――

 零。

 茶色い四足獣を風丸の右手で抱え込みつつ、左側から攻撃態勢に入っていた湧人の間に割って入る。

 犬を抱える際に沈み込んだ右手とは逆、振り上げる形となった左手の肘で湧人の鳩尾を突き飛ばす。

 上体に受けた反動を殺さずに右回りに一回転しつつ、遠心力を加えた拳でその先の湧人の横頬を殴り飛ばす。

 歩幅を調節して減速減速減速。回転した際に見えた世田三の人形師の結印や人形の動作から、視界外の様子を推察。邪魔にならない位置へと一気に退避行動をとる。

 急な闖入、額面通りの横槍。だが、

「コーギー、無事か?」

「早く預けてらっしゃいな」

「………」

 まるで何事もなかったかのように戦闘を続行する二名の人形師と俺に見向きもしない一人の人形師。ペースを大きく乱されたはずだというのに、涼しい顔な上に的確に指示まで与えてくれるとは。本当にこの班の練度はどうなっているのだろうか。

「ありがとうございます!」

 大きな声で礼を言う。結果的に無茶の尻ぬぐいをさせてしまっているが、せめてもの償いの為にも、早く犬を本部へと届けなくてはならない。

 そういえば、だいぶ静かだな。吠えて暴れられるであろうと踏んでいたのだが、まさかどさくさで力加減を間違えてはいないよな―――

「―――気絶、してるのかこれは」

 力なく項垂れてはいるものの、一定の間隔で上下する旨を見て安堵する。

 さて、ここからだ。気を引き締めていけ。




 

「礼を言うよ、武美真弘」

 白く輝く月の下、額の汗を拭いながら佐々良草子班長が缶コーヒーを差し出してくる。

「こちらこそ、快く作戦に加えていただき助かりました」

 恭しく缶を受け取る。プルタブを開けつつ、軽く周囲を見渡す。東名高速道路東京ICのスロープ付近に、数台のパトカーや籠車が煌びやかなライトを灯しながら佇んでいる。数分前に交通規制自体は解除されたが、未だに長蛇の渋滞列が苦し気に身をよじっているのが遠目に見える。

 微糖の甘みに味蕾が歓喜するのを感じる。禍死吏そのものは規模も大きくなく、湧人による被害もなかった。しかし高速道路と交通量の多い交差点付近を巻き込んだ事で、穢土の特性である電子機器の停止の弊害を受け、玉突き事故という二次被害が各所で生まれ、てんやわんやであった。勿論、コーギー事件もその一つに数えられている。

 禍死吏終息後も、人形師は車両の撤去等に協力を余儀なくされ、結果として数時間以上も拘束されることとなった。すっかり夕飯時である。コーギーを捕まえた地点に居た三人の人形師の面々も、各々が疲れを露わにしているのが目の端に見えた。

 さしもの佐々良班長の顔にも疲れが滲んでいるように見える。

「全く、厄介な現場だった」乱れた前髪を耳にかけながら「まあ、小うるさい老人共を相手にするよりは楽だったが」と続ける。

「いやあ異例の大抜擢ですからねえ、心労も一入でしょうね」

 軽快な声が挟み込まれる。視線を向けるまでもない、田金さんだ。

「田金崇か、神祇省の」

「ええ、ええ。改めまして、神祇省禍死吏対策課特務室試験運用部の田金です」流れるような所作で名刺を取り出し、仰々しく差し出す。

「どうも丁寧に。すまないが今は持ち合わせがなくてな」それをしっかりと両手で受け取りながら、佐々良さんは軽く頭を下げる。

 田金さんは一瞬目を見開き、すぐさま申し訳なさそうな顔でその謝罪を受け止めた。ここまで丁寧に返してくれる班長は多くない。慇懃無礼な場合は多いが。

「隊員の欠員をその場で補充するという遊撃隊、最初は訝しんでいたが」佐々良班長は視線を俺に移すと、「正直、予想以上だった」と優しく微笑んだ。

 余りにも直球の称賛。加えて美人の笑顔を向けられると、上手いこと言葉が紡げなくなる。頬が熱い。慌てて視線を逸らす。

「指示待ちのきらいはあるが、それよりも【出来過ぎる】という所くらいか」

 鋭い指摘だ。出る杭は打たれる。自身の管轄で、自身の人形で、自身の指揮下で、外様の存在が【出来過ぎる】という事実は認め難いものなのだろう。

「新しい物を蛇蝎の如く嫌う、閉鎖的な籠目隊ですから、我々も風当たりが強くて」田金さんはわざとらしく肩を落として見せる。

「察するに余りあるな」佐々良さんは深く、深く頷く。

「佐々良さんは、この前は何処に?」

 空気の弛緩を感じ取り、気になっていることを尋ねてみる。気楽に私語を挟めるような現場はそう無い。

「草子で良い」と俺をまっすぐ見据え、「そうだな。倉上家直轄のとある場所、とだけ言っておこう」からかうように薄く笑う。

 大人の女性の余裕というのか、ある種の色気というのだろうか、何だか無性に気恥ずかしいような気がする。返答で得た情報から記憶を辿ろうと思ったが、思考が乱されたので断念。

「それよりも、あの犬。無事に飼い主の元に戻れたそうだ」

 佐々良さん―――いや草子さんが俺に秋波を送る。

「良かった」いや、それはそうだが「その節は大変なご迷惑をお掛けしました」丁度良い機会だった。改めて頭を下げる。

「頭を上げろ真弘、お前は正しいことをしたまで。幸い飼い主のご夫婦が良い人でな、車輛の修理費も請求せず自前の車両保険を使うそうだ」

「それは助かる、いやあまさかメルセデスの最新式とは思わなかったからなあ」

 田金さんはカメラを向けられた芸人の如く大仰に胸をなでおろす。

「気が動転して、安全な場所に犬を隠そうとした結果、トランクに置き去りにしてしまったそうだ」

 そんな姿に一瞥もくれずに、草子さんは事の発端を説明してくれた。命の危機が迫ることなど、一般人にはそうない。冷静な判断ができない中で、愛する犬を確実に守ろうとしたのだろう。そう思えばやはり余計なことをしてしまったかもしれない。

「浮かない顔をするな、結果良ければ全て良しだ。少なくとも最悪の結果になる可能性は摘み取れているだろう」

 内心を見透かされたようなタイミングでの言葉。流石にこの若さで、女性で、班長の任を背負っているだけある。人を見る目もあり、掛けるべき言葉もある。俺には一生縁遠いものだろう。

「ありがとう、ございます。ささ―――草子さん」

 絞り出した本音に、精悍な表情が一瞬緩んだように見えたのは気のせいだろうか。

「何にせよ苦しい立場で足掻く者同士、どうか一つ遊撃隊をよろしくお願いしますね、草子さん」

 会話の隙間にすかさず親し気な言葉を滑り込ませる。田金さんの一番の目的はこの人脈作りだ。遊撃隊に対して友好的な班長を増やし、また悪感情を抱いている班長を把握する。それらは正式な認可を得る為に、極めて有用な階である。らしい。

「佐々良班長、だ。田金崇隊長」

 冷ややかな視線と訂正。緩んだように見えた顔には一部の隙もなくなっており、そのまま籠車へと向かって歩き出す姿には確かな貫禄が感じられた。

 そうして俺の背後を通り過ぎる最中、

「これからもよろしく頼むよ、真弘」

 と軽く肩を叩かれる。

 咄嗟の返事を聞き入れる暇もなく、まっすぐに悠然とした足取りで車列の影へと消えていく。

「―――良い女性だよアレは」

 強く頷くことしかできなかった。

 

 

「随分と気に入られたね」

 ミラー越しにこちらを伺いながら、田金さんが切り出す。世田三の籠目隊と別れ、事後処理も終え、すでに一時間近くが経過している。その半分以上は大渋滞に起因するものだが。

「ありがたい限りですよ」

 掛け値なしの本心だ。あそこまで有効的な班長は極めて稀有である。

「予想通りこちらへの理解も示してくれたし、話も通じる」

 全くもってその通り。

「気風も良い、指揮の腕も人形繰りの腕も良い」

 そう、その通りだ。

「おまけに疲れた顔の美人と来てる」

 うん―――うん? いやその通りではあるけれど。

「何ですか、それ?」

「いやいや、真弘君も年頃だしね。ドギマギしたんじゃないの」

 ドギマギという言葉は果たして常用語なのだろうか。

「ドギマギって何です?」

「所謂、ほら、恋の予感ってやつ?」楽し気に笑っているであろうことは見なくともわかる。

 二の句を継ぐ前に、

「高校生、青春ど真ん中なんだから、軽率に恋愛しても良いと思うよ」

 と続ける。今度は少し声音が抑えられている。

 軽率にも何も、恋愛というのがどういうものなのか分からない俺に、どうしろと言うのか。そもこんな人形を操るしか能のない人形に、そんな高度な感情と関係性は荷が重い。

「分からないですね、そういったものは」

 驚くほど無機質な言葉だ。だというのに、田金さんは億すこともなく続ける。

「ま、言葉で説明できるものでもない、説明しきれて良いものでもない」一度間を置き「そういった理論も摂理も超えて、合理に反してでも、相手に起因するような気持ちがあれば、きっとそれだよ」

 そう言われても、

「ピンとこないです」

 熱のない言葉が、狭い車内で霧散する。

 


『人形を使う人形たれ』


 目の前には長髪に和装の男。感情の一切を読み取れない、夜の帳のような冷ややかな瞳が、俺を見下ろしている。

 体温を奪い去る薄暗い土間、梁が見えないくらいに高い天井、埃と薬品と古木の香りが鼻腔に張り付く。五大人形家が一つ、武美家の秘奥―――「参の蔵」は、耳が痛いくらいの静寂に支配されていた。

『真弘、続けなさい』

『はい、お父様』

 一欠片の熱もこもらない言葉を受け止め、痛む指と心に鞭打って姿勢を正す。

 歪な凹凸と白い手術痕が生々しい幼い指には、それぞれ木製の指輪が嵌められている。指を曲げるたびに迸る違和感と爆ぜる痛み。嗚咽と苦渋を噛み殺し、頬を伝う雫を拭いながら、滲む視界のピントを絞る。

『唵』

 その日だけで既に何百回も繰り返した結印。激痛と、それに伴う痙攣を奥歯を軋ませて抑え込む。

 暗闇に紛れるように、項垂れていた人形の姿が露わとなる。

 武美家で代々継承されてきた【古傀儡ふるくぐつ】。その内の一体、鎧武者【我無人がむじん】。

 村松門左衛門によって著された【古今人形百景】に記されない、江戸期以前の人形。オーバーテクノロジーの結晶たるそれが、並々ならぬ存在感を持って立ちあがる。

 木材と特殊な金属によって成るそれらは、その日の気温や湿度によって癖が変化する。

 武美家の血族に求められるのは、最強にして最高の人形師。まさに人形を使う人形と称される、一髪千鈞を引く正確無比な人形繰りの技術。その為には、額面通り血の滲む研鑽など当たり前。指の関節の増強・増設・延長の手術、暗示と刷り込みによる精神性の強化など、倫理を外れる手段さえ取られる。

 我無人の基礎動作を何度も何度も、気の遠くなるほど幾星霜繰り返す。

 その過程で筋肉は震え、指は擦過し、精神は擦り減っていく。血と涙と汗が土間に染み込み、黒い染みを作る。膝をつけば叱責が飛び、意識が途切れれば水をかけられる。

 人であるから辛いのだ。

『今日から、お前が武美真弘となる』

『アレのことは忘れろ』

 かつて兄と慕っていた者の、かつて真弘と呼ばれていた者の、嚇怒に燃える双眸に幼い心を焼かれる痛み。

 次に切り捨てられるのは自分かもしれない。名も身分も奪い去られるかもしれないという恐怖。

 背骨の芯からじわじわと広がる苦痛。口から洩れる声にならない悲鳴。

 それも全て、人だからだ。

『人形を使う人形たれ』

 そうだ。

『人形を使う、人形に』

 なれば。

 

  

 まず覚醒したのは聴覚。次に視覚。

 点けっぱなしにしていたテレビは朝のニュースを垂れ流し、明滅する光が起き抜けの瞼を焼く。

『昨日の十六時四十分ごろ、世田谷区用賀にて発生した禍死吏を発端とする交通渋滞の影響が―――』

 脳機能が徐々に復帰し、理解不能の音の羅列が少しずつ鮮明になっていく。

 同時に現状を正しく認識。昨夜帰宅した後、シャワーも着替えも食事も取れないまま、意識を途絶したらしい。畳に臥せる形で寝入ってしまったせいで、夢見も最悪の限りだった。

 じっとりと肌に張り付く脂汗の塗膜。まずはシャワーを浴びなければならない。

 畳での雑魚寝による節々の痛みを無視し、風呂場へと急ぐ。途中、柱の壁掛け時計に目をやる。七時二十分。空腹も無視せざるを得ないようだ。

 武美家の敷地面積は千五百坪。それをほぼ使い切るように、箱根細工の如く無駄なく家屋が敷き詰められている。外壁に沿うように建造された、五角形を描き出す回廊の如き母屋。中心はどの部屋からでもアクセスできる中庭と三つの蔵。

 眠りこけていたのは表玄関から程近い客間。風呂場はここから東側に位置している。

 中庭に沿った廊下を歩いていると、嫌が応にも「それ」が視界に入る。

 参の蔵。厳重に封印の施された、武美家の秘奥。現代の人形技術の祖となった【古傀儡】が所蔵されている場所。そして武美家の跡継ぎが継承の儀を行う場である。

 視界の隅に僅かに像を結ぶだけで、明確に精神が侵される。自律神経系が乱れ、思考がかき乱される。

 だから、なるべく中庭から目を逸らす。こんなことをもう十年以上も続けている。

 足早に風呂場へ向かう。

 早く熱いシャワーを浴び、体を覆っていた不快感と共に、寝覚めの悪さも洗い流したかった。



 軽く乾かした筈の髪から滴る雫をタオルで拭いつつ、テレビを消し忘れたことを思い出して客間へと戻る。

 時刻は七時四十分。朝のニュースは速報を終え、一つの議題について討論する形式のコーナーが始まっている。

『最近の籠目隊は、正直に言って弛んでいると思うのですよ』

 したり顔の老人が、剣呑な表情でそう切り出す。画面右上のテロップには【増加する禍死吏と籠目隊隊員による犯罪】という文字。正直辟易とする。

 前述の老爺から吐き出される、空気中に飛散する唾液の粒子よりも多いのではないかと勘繰ってしまう程の下らない文章の濁流。その殆どが「籠目隊が籠車と隊服でコンビニに寄っていた」など言い掛かりの極みのようなもので聞くに堪えない。即座に消そうとリモコンを探す。

『―――なるほど。一般市民の方への不安を煽ってしまうような現状については、適切に対応していく必要性はありますね』

 対して、あくまで冷静に真摯に返答する男性。

 卓上のネームプレートには【神祇省じんぎしょう 童門大寿どうもんだいじゅ】とある。神祇省の職員が直接テレビ出演するとは珍しい。年の頃四十代半ば程だろうか。堂々とした態度とテレビ出演を引き受けられる信頼とを考えると、かなりのエリートであることは想像に難くない。実際、言動・所作・風体全てから気品と自信とが僅かに漏れ出ているように見える。

 ヒートアップする老人と比して、徹底して温厚に、そして反論する際はきっぱりはっきりと筋の通った発言をする童門氏。快刀乱麻を断つという言葉がこれ以上なく当てはまるような勧善懲悪劇が展開されている。

 番組側もこの流れの転換に敏感に反応、司会者がその辣腕を振るい、更なる演出を施している。カメラワークにも動きが生まれ、童門氏をメインに据える画角を前面に押し出す。

 危うく見入りそうなるが、焦燥感が背中を蹴り出す。

 テレビの電源を落とす瞬間、

『―――必ず、信用に報いる良き知らせを近くに―――』

 と聞こえた。



 ◆



 時間の経過を苦に思ったのは久しぶりだった。

 部活動までの道程を何度も思い浮かべ、様々な不確定要素に合わせて最短経路を模索する。毎日、父の帰宅有無と通学経路と夕飯のメニューとでオリジナルコースを造り上げてきた杵柄だ。

「―――であるからして――」

 周波数が半端に合致したラジオ番組のような声を耳朶に捉え、上の空であったことを自覚する。冷静に黒板と時計、ノートを見やる。よし、予習した範囲を逸脱してはいない。

 ちらりと左方に目を向ける。私の左隣、一番の窓際の席で、彼―――武美真弘は舟を漕いでいる。その様が、昨日散々見た停止寸前の人形の挙動と重なり、鼻から薄く息が漏れる。

 偶然か否かは分からないが、数度の席替えを経ても、今のところ私と武美君は必ず隣同士になっている。元々は隣の席の彼に、渥美先生からの提案があったことと幼い弟妹の姿を重ねたことも手伝って世話を焼き始めたのだったか。

 欠席日のプリントやノートの写し、記入用紙の説明などを皮切りにして、ああそうだ。演劇部への入部も勧めたんだ。

 まさかその時の選択が、昨日の光景に繋がるとは思ってもみなかった。

 少し感慨深い思いを頭の片隅で飾りながら、蛍光マーカーでノートを装飾する。

「あー、じゃあここの問題を―――」

 聞き覚えのあるフレーズ。周囲の弛緩した空気が若干引き締まるのを感じる。私の左隣を含めて数名の意識不明者を除き。

 そして運の悪いことに、今日の担当教員はそういった生徒を狙う。

 視線の泳ぎ方、観察してきた動きから、本日の生贄に白羽の矢が立つ。本来は自業自得、余り助け舟を出すものでもないけれど。放っておく気にもならなかった。

 甘いな、私も。

 誰にも聞こえないような溜息を吐きながら、隣で眠りこける不届き者の無防備な横腹に、人差し指を突き付け―――

「!」

 ―――寸でのところで阻まれた。

 指が触れるか触れないかのところで、武美君の手に拳が包み込まれ停止。

 やけにひんやりとした肌の温度、体温が交じり合い溶けあっていくような感覚。時間がいやに緩慢に流れ、感覚は鮮明に、しかし思考はひどくぼやけている。

 線の細い指、しかしゴツゴツとした硬さもそこかしこにある。うっすらと指の全てを縦断する白い線、その僅かな凹凸がくすぐったい。包み込まれてはっきりと分かる、大きさにたじろぐ。

 体温差なのか更に鮮明に感じる肌の冷たさ。それを心地よいとさえ思ってしまう、という感情を自覚したところで、急激に時間感覚が戻ってくる。

 慌てて指を振りほどき、目線を上げる。彼は―――

「寝てる…」

 起きる気配さえない。

 無性に、苛立ちにも似た感情が大挙して押し寄せる。

 漕ぎ出した助け舟は舵を失い、

「―――窓際の薄田兼相すすきだかねすけこと武美!」

 あえなく沈没。

 なるほど、まさに白羽の矢という事か。などと思考を逸らして、何とか平静を装う。何だか、暑い。



 ◆


 

「さあさあ、ご照覧いただこうじゃないか武美君よ」

「吉君、ご照覧は武美君側の言葉だよ~」

 さすが脚本の校正担当、訂正が早い。なんてことは横に置いておこう。

 何故だか授業中の記憶が朧げなせいで、放課後になるのも早かった。

 ちらりと右に秋波を送る。俺の隣で若干の距離を開けて座る委員長は、日本史の授業からこっち、平時より言葉数が少ないような気がする。気のせいかもしれないが。

「人形繰り、ですよね」

 言うまでもないことは、繰り糸と指輪を差し出して座る七人の小人を見れば明らかだった。

 期待の眼差しを向ける二人、ともう一人。どうにも慣れない。普段向けられることが多い敵意の何千倍も気が楽な筈なのに、寧ろ緊張するのは何故なのだろうか。

 まあ、とはいっても人形繰り。俺にとっては不随意運動にも等しい。

 一歩前に出て、指輪を嵌めていく。ノッチを調整すると、昨日より明らかに滑りが良くなっている。

「か―――い、きます」

 口上を上げそうになるのを誤魔化す。

 ゆっくりと丁寧に、昨日探り当てた癖の感覚を思い出しながら印を結ぶ。これ以上引けば鳩る、ここで引かなければ鳩る。そういった印の限界値を見定め、鳩歩寸前の最低限の力と距離と速度で繰る。すると、励起される動作は滑らかになり、生物的な柔らかさが生まれる。

 七人の小人は、裏で繋がる細い骨組みを介して動作を連動・反発させ、時にはバラバラに、時には一糸乱れず足並みを揃えて踊り、動き回る。

 とはいえ機構こそ同じでも、指示閾値あそびが広く取られていることもあり喚起できる動作の数はそう多くない。かなり単純な集合と散会の動作に、緩急を付けることでメリハリを生み出す。気持ち動作を速め、遠心力を上手く使って腕を振り上げる動作を生み出す。そのタイミングを合わせることにより手斧をかち合わせているかのような場面を作り出す。

 昨日の試運転から感覚を咀嚼したことで、より精度が上がっているのを自覚する。

「なんてこった、予想の直角だ」

「才気煥発~」

 眼前の二人はそれぞれ喝采を上げながら、人形の動きに見入っている。

 そして、委員長は。

「……」

 その動きを目に焼き付けるように、一挙一動を見逃さないように、取りこぼさぬ様に、凝視している。そして何事かを呟いている。最初はそれが何かわからなかった。少し集中して見ると、唇の動きと周期性から仮説が浮かぶ。

 台詞―――か?

 ああ。俺の人形繰りに、そこまで執心してくれるのか、君は。

 それを自覚した時、再起する錯覚。まただ、世界に君という観客しかいないように感じられる。

 いや、この感覚は、それよりはるか前にもあったような気がする。―――そうだ。委員長が、俺に演劇部を勧めてくれたあの日。一緒に演劇をしないかと誘ってくれた時の、あの思い。 

 本来、部活動などするべきではない。籠目隊として、遊撃隊として、人形を使う人形として、最適解は帰宅部であるのに。

 なぜ、俺はその手を取ったのだろうか。

 なぜ、不合理を自ら背負ったのだろうか。

 答えには辿り着けないまま、幕を引く。

 

 

「素晴らしい、もうほんと素ん晴らしいじゃないか! 武美!」

「こんな特技があったなら教えてよ~」 

 やんややんやと姦しい称賛に囲まれながら、どう返していいものか分からず適当な相槌を打つが、押し寄せる物量に対して余りにも弾幕が薄い。何とかして流れを変えようと、思考を巡らせ、口を開く。

「小人、綺麗にしてくれたんですよね」部長に向かって目線を送る。

「分かってくれたか! そうなんだよ、ちょっと埃被ってたからさ。持ち帰ってちょいちょいとな」

 埃をこそぎ取るようなジェスチャーをしながら、部長は強く頷いた。

「指輪部分のノッチがスムーズになっていたので、もしやと」

 やはり、清掃の賜物だったか。ぱっと見では分からない程度の節々の汚れだったが、それを見逃さず丁寧に手入れするとは。

「あー、昨日やたらと背筋を曲げて何かしてるな~と思ってたけど、それだったのか~。アレかと」

「アレってなんだよ、そして覗くな」

「見せつけられるこっちの身にもなってほしいかな~って」

 漫談、いやこの場合は夫婦漫才というのが適切なのだろうか。完成度の高い会話劇の応酬を見ると、やはり演劇部のツートップなのだなと強く感じる。関係ないかもしれないが。

 しかしようやく解放された。注目の的になるのは慣れているが、褒められ慣れてはいない。悪い気はしないが、こそばゆくてどうにも落ち着かなかった。

「委員長―――」

 彼女の方に向き直ろうとした時、不意に、右手に柔らかな体温を感じた。

「すごいです! 武美君! 本当に、すごくて、ああ語彙が出てこない―――」

 興奮した様子の委員長が、その小さな両手で俺の右手を包み込んでいるのだと、遅れて自覚した。

 小さく飛び跳ねる様はまるで小動物の様で、庇護欲のようなものが掻き立てられる。平たく言えば愛くるしい。なんて感情は脳の片隅に追いやられる。

 初めて触れる、柔らかい異性の手と指。血流が早くなる。

 しかし同時に、心の芯に冷たいものが突き刺さる。

 俺の指と、委員長の指。絡み合い、触れ合っても、いや触れたからこそ分かる。

 柔らかく、か細い指。

 硬く、醜い指。

 違うのだ。性別だとか、体質だとか、そういったものとは違う。もっと根本的な乖離。

 分かっていたことだろう、とっくに。無視してきたつもりはない。けれど、それと同等に感じる程の、この迸る情動は何なんだ。

 


 そこからはよく覚えていない。確かなのは、滞りなく、当たり障りなく、無事に部活動を終えられたということだけだ。

 演劇部の活動日が不定期なことや、俺の一身上の都合もあり、部活動を完遂した後に自らの足で帰路につくケースは決して多くない。何とはなしに空を見上げ、日の傾き加減に、時の流れを強く感じる。

 もうすぐ冬になる。そんな事に気を向けたのはいつぶりだろうか。 

 文化祭までの時間は決して長くはない。きっと、あっという間に本番になるのだろう。

 このままで、果たして良いのだろうか。一抹の不安は、時間と共にその体積を増しているようだ。

 人形である、人形であるべき俺が、人間の真似事をして、良いことなどあるのだろうか。

 そもそも、日常生活を送るように舞台を整えてくれた田金さんの意図は、未だに分かっていない。普通に暮らしてみなさいと貴方は言った。一体、何の為に。

 とても合理的とは思えない選択であることは、常々感じていた。分不相応だと。

 悶々とする感情、得心のいかない堂々巡り。それとは関係なく、二つの足は規則的なリズムで地を踏みしめて行く。

 大通りに合流し、左折する。いつも通りの光景、いや、人通りが多いか。日による誤差の範疇を超えた人並み、怪訝な思いを抱えつつも進んでいく。

「ああ、スーパーか」

 先日開店したばかりのスーパーで大規模な大安売りが行われているらしい。主婦然とした妙齢の女性や、会社帰りのサラリーマンやOL、それにちらほらと学生の姿も見られる。 

 その中でも一際目立つ見慣れたセーラー服。

 まるでさっきまで見ていたかのような黒髪のポニーテール。

 そして細腕を限界まで酷使する、はち切れんばかりの、いや既に溢れているマイバッグ。

「……委員長?」

「え?」

 普段の姿から想像もつかないくらい、強張った顔。小刻みに震える肩。重い荷物に抗えず、伸び切った腕。

 たらりと頬を伝う冷や汗が、顎先から落下するのと同時に、冷凍食品のパッケージもつられて落下。

 絶妙なバランス、というより圧倒的な力技で抑え込まれていた砂礫の楼閣が、倒壊していく。

「あぁぁぁ」

 そんな声、初めて聞いたよ。


 ◆


「ごめんなさい、重いですよね」

 隣を歩く武美君は、両手を目いっぱいに使って、はち切れそうな我が家のマイバッグを抱えている。重量バランスを考えて、どちらにも重い物を詰めてしまった事が裏目に出た。せめて軽い方を持ってもらおうと思ったのに。申し訳ない。

「いやいや、これ、くらい」

 と言いつつ、持ち方を変える。

 流石に買い過ぎた。偶然見つけてしまった開店セール、冷やかしのつもりだったのに、予想以上の値引き率に我を失っていた。休日であれば自転車に段ボールを括り付けてきたのに。

「随分とすごい量の買い物を頼まれたんだね」

「そういうわけでもなくて」どこまで説明したものかと迷うが、「我が家の家事は、全て私がやっているので」と出方を伺う。

「俺と同じだね」事も無げな返答「ああでも、うちは一人だから比べるのも烏滸がましいか」予想外の追記。

「そうなんですか?」

「うん、家族、いないんだ」

 声の高さは変わらない。しかし、僅かに陰りが見える。

「ごめんなさい」と咄嗟の謝罪が口を吐き、そして「私も、殆ど弟妹しかないんです」無意識的に吐露していた。

「なら尚の事大変だね」

 同情だけど、苦手な類のものではない。実感の伴った共感の言葉に、少し安心する。

「委員長はマメだから、掃除に洗濯に妥協しなさそうだ」

「そう見えますか?」

「うん。うちなんて、使ってない部屋は埃だらけだよ」少し笑い、「広過ぎるのもあるけどね」と小さく呟く。

 お互いに「洗濯洗剤は液体なのか個体なのか」や「重曹とクエン酸がおすすめであること」などを滔々と話しながら歩いていると、我が家まであと数分という所まで来ていた。

「あの、ここまでで大丈夫です」

 実際、全くもって大丈夫ではないが、重い荷物を持たせたままにしている罪悪感がそれを勝る。

「あー、それがね」少し口よどみながら「このバッグさ、持ち手の付け根がだいぶ裂けてるんだよね」僅かに袋を傾けてくれる。

「本当ですね、気付かなかった」

 まだ買って半年も経過していないのに勿体ない。あて布をすれば補修できるだろうか。

「多分、さっき入り口でバランスが崩れたのもこれの影響だと思う」冷静な分析をして、「次、持ち手に負担を掛けたら最後だね」

 流石にこの場にバッグを置いていくのは無謀。ならば。

「武美君」

「はい」

「良ければ―――」一方的な貸しを作るのは、私の主義に反する、だから「―――私の家でお茶でもどうですか?」



 お呼ばれしてしまった。それも、委員長の家に。

 不可抗力、というかなんというか。一人で運べないことが明白であるのに放っておくことはできないし、そうなれば家まで送る外ない。加えてこの後何か予定が入っているわけでもない。お礼を断るというのは失礼だ。だから仕方ない。

 大通りから外れて数分、年季の入った集合住宅。掲示板には【都営洗足池団地とえいせんぞくいけだんち】とある。

 側面に三と書かれた建物に入る。三条という表札の下には黄ばみの目立つネームプレート。殆ど文字も掠れているが、辛うじて二〇二という数列が読み取れた。

「お邪魔、します」

「どうぞ」

 重い扉が開かれ、中へ通される。

 一度荷物を廊下へ置き、靴を脱いで揃える。向きの揃った靴が二組。どうやら件の弟妹は不在のようだ。

 外観と反して、内装は綺麗だ。やはり予想通り、清掃が細やかなところまで行き届いている。

「荷物はこちらにお願いできますか」

「うん」

 他人の家へ上がり、細かな清掃具合などに目を向けてしまうのは余り上品ではない。慌てて目を逸らし、丁重に荷物を持って委員長の後を追う。

 客間に入ると、丁度薬缶を火にかけている委員長の姿が見える。冷蔵庫の前に置かれたもう一つの買い物袋の横に荷物を下ろす。

「ありがとうございます、どうぞ座っていてください」

 そう言いつつ、てきぱきと購入物を選別して仕舞っていく。無駄のない美しい所作だ。

「うん」

 気の抜けた返事が口から洩れる。言われた通り、客間のテーブルに足を向け、手近な椅子に座る。実際に腰を下ろすと、ここから少しの間とはいえ委員長の生家で過ごすことになるという当たり前の事実を再認識してしまう。

 ああ、緊張する。幼い頃に他の五大家の敷居を跨いだ時と、遜色ないほどに。

 余りジロジロと観察するのも良くないと思い、委員長から視線を外す。余裕の無さ故の不自然な動作を悟られぬ様、ゆったりと周囲を見渡す。

 台所と地続きの客間、合わせて八畳ほどだろうか。テーブルのすぐ横には薄いカーテン、僅かに透かして夕暮れの街並みが見える。窓際には軟質の洗濯籠が置かれており、生活感を醸し出している。

 全体的に小ざっぱりとした家だ。意味なく飾られている物は殆どない。

「何にもない部屋でしょう」

 委員長がこちらも見ずに言う。どこか自嘲的な響きが感じられる。

「そうなのかな、さっぱりしていて良いと思うけど」

 掛け値のない言葉だ。そもそも、所謂「普通の家庭」を知らない俺には判断のしようもないのだが。

「ふふ、そう、ですかね」

 鼻から抜けるような僅かな笑いが、薬缶の沸騰音に掻き消される。

「物は、多ければ良いって物でもないと思うよ」

 そうだ。どんなに多くの物があっても、実際に使わなければ意味を成さない。どんなに最強の人形でも、暗い蔵の中に封印されたままだとしたらゴミも同然だ。

 だとしたら、そもそも「それ」を動かすことを第一義に作られた俺は。俺の価値は……存在意義は。

 些細な切っ掛けで開いた鉄門扉を潜り、思考が暗い螺旋階段を下りていく。

「どうぞ」

 不意に掛けられた言葉と、鼻腔をくすぐる香りで思考が浮上する。いつの間にか対面には委員長が座っており、お盆に急須、お互いの目の前に置かれた湯呑と立ち上る湯気を視界が捉える。

 湯呑に煎れられた日本茶からは、落ち着く香りがする。乱れた思考が矯正されていく。

「ありがとう」

「あ、そうだ」一度席を立ち、台所に向かい。すぐに帰ってくる「これも良ければどうぞ」

 差し出されたのは落雁。よく仏壇等の供え物にされる、シンプルな和菓子である。

「余り洒落たものも出せなくてすみません」

「いや、好きだよ落雁」

 母は早くに亡くなった。仏壇には同じものが供えられていたように思う。下げられた落雁を食べる時、朧げな母の姿を思い出す。数少ない、忌むべき点のない過去の美しい記憶。

「母の仏壇によく供えるので買うのですが、買い置きがあることを忘れていまして」少し頬を赤らめ「でも、ちゃんと新しい方ですよ」と付け足す。

 そうか、委員長も。

「うちでもそうだった。母親の仏壇によく供えられていたよ」

 郷愁に駆られながら「いただきます」と呟き、落雁を齧る。歯触りは固く、崩れると滑らかな砂のような食感、そして優しい甘味が広がる。目を閉じると、瞼の裏にぼやけた輪郭が浮かぶように思える。

「武美君のお家は、その、ご両親ともいらっしゃらないのですか?」

「そうだね。母は早くに亡くなった。父も、十年前に禍死吏でね」

 申し訳なさそうな顔で伺う彼女を安心させるように即答する。

 少し目を見開いた彼女の瞳が僅かに震える。逡巡するような少しの間を置き、

「―――私の母も禍死吏で亡くなりました。父は一応は生きていますが」

 と話してくれた。

 禍死吏での犠牲者数については近年増加傾向にある。

現存する江戸期からの記録を辿ると―――人形師の技術の収斂と人形技術の洗練とにより―――犠牲者数は十数年前までは間違いなく減少傾向にあった。しかし、反比例するように禍死吏の発生件数は増加傾向にあり、遂にここ数年で犠牲者数の微増が認められたのだ。

 その中に、彼女の母と俺の父が居るわけだ。

「武美君」

 少し震えた声。掴みどころがなく、大気中を漂う不安感。

「武美君は、人形師なのですか?」

 虚を突かれた、訳ではない。彼女の程の思考力があれば、ちりばめられたピースから全体像を把握できるだろう。

「……いや」

 ―――殊更に隠すつもりもないですが、わざわざ言うつもりもないですね。

 渥美先生に言い放った言葉が脳内で反響する。

「俺は、人形師ではないよ」

 そう、武美真弘は人形師ではない。人形を使う人形。繰るのではなく、繰られる存在。

 嘘は、言っていない。

「そう、ですか」予想が外れたというのに、彼女の顔に悲観はなく、寧ろ穏やかに息を吐いて「良かった」と絞り出すように呟く。

「良かった?」

「ええ。武美君がもし人形師で、禍死吏と関わっていたとしたら」頭を振り「いつ居なくなってしまうともわかりませんから」

 その言葉で、殉職した人形師の顔が、その遺族達の顔が、やりきれない顔をした隊員達の顔が、次々と浮かんでは消えていく。そしてそれに相対した自身の無力さも。

「俺は」いっそ、居なくなっても良い。普通の人々の日常に寄生し、中途半端に関わって迷惑をかけている。委員長はその最たる例じゃないか。生徒会に委員会に部活動に、家事に親代わりまでこなしている君に、おんぶにだっこで甘えている。

「いなくて「私には―――」



「―――私には、武美君が必要なんです」

 被せるように、言う。俺の自虐的な言葉を掻き消すように。


「貴方の人形繰りを見て、心奪われたんです。貴方の繰る人形達と、白雪姫を演じたいんです」

 静かに、そんなことを言う。声音に反した力強さで。


「それが、私に許された夢なんです。唯一の救いなんです」

 必死に接ぎ木するような言葉。

 

 だから。


「そんなこと、言わないでください」


 暖かな指の感触。いつの間にか握りしめていた拳が、柔らかな体温に包まれている。

 俺は、俺は。



 ◆



「お邪魔しました」

「碌なおもてなしもできず、すみません」

 そんなことないよ、と否定の言葉とお礼を残して、扉が閉められる。しばらく見慣れた扉を見つめ、心を落ち着ける。そして、落ち着いた事で回想が巡る。

 ―――とんでもないことを口走ってしまった。 

 正直、一言一句、どういったことを言ったのかは覚えていない。

 ただあの時、彼が口走ろうとしていた自己否定の言葉を打ち消さなければならない、という激情に駆られたことは覚えている。

 そうしなければ、彼がそのまま消えてしまうような気がしたのだ。

 でも、一つだけ良かったこともある。ここ最近、武美君に抱いていた懸念。それが払拭されたことだ。外ならぬ本人の口からのきっぱりとした否定を得られ、自分でも驚く程に安堵した。 

 そうだ居なくならない。母のように、母の、


 赤い空、黒い月、禍々しい人型。

 抱き締めてくれた母の温もり。肌に染み込む、赤い、血の、温もり。


 駄目だ、思い出してはならない。

 思い出す必要もない。

 額から流れる雫が、顎を伝ってフローリングの床に落下する。心臓が早鐘を打つ。呼吸が細く早くなる。

 居なくなる。あの赤い空、黒い血を残して。

『俺は、人形師じゃないよ』

 言葉が反響する。

 少しずつ、少しずつ、平静を取り戻していく。視界に掛かった赤いフィルターが薄くなっていく。


「おねーちゃん? どうしたの?」


 その一言で、一気に現実に引き戻される。

 習い事から丁度帰った妹が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「あ、おかえり」

 もうそんな時間か。弟もじきに帰ってくるだろう。

 やることは山積みだ、時間を無駄にはできない。

 大丈夫、彼は、居なくならない。

 武美真弘は、人形師ではないのだから。





「配役についてなんだが」

 部室に集まるなり、部長がすぐさま切り出した。

 どうやら副部長とああでもないこうでもないと夜通し話し合っていたらしく、両目には薄い隈取が見て取れる。

「取り合えず、新しい脚本を確認してくれ」

 それぞれの席に用意されていた真新しいコピー用紙の束を手に取る。

「ついでに脚本もブラッシュアップしたからね~」

 副部長の声にもどこか陰りが感じられた。そんな様子を敏感に察知した委員長が、労わるように声をかけている。

 促されたとおりに表紙を捲り、配役表のある裏表紙に目を通す。

 白雪姫→三条瑠璃、王妃兼裏方→八田樹里、七人の小人(人形)兼裏方→武美真弘、猟師兼王子兼裏方→門田吉朗。

 なるほど、順当だ。四人しかいない部員で劇を構築するには、兼務を増やすしかない。

「基本的に出ずっぱりな白雪姫こと三条は演技に専念してくれ」

「裏方はどうしても人が足りないから、他の三人で回していくことにするよ~」

 脚本の方も、裏方の交代や衣装変更、小道具・大道具の移動・照明操作の時間等々を考えた上で、ある部分は削り、ある部分には独白を増やして時間を稼ぐなど細やかな工夫が凝らされている。

「委員長」

 隣で脚本に集中している委員長に、小声で呼び掛ける。

「はい?」

「照明とか緞帳の操作って舞台袖で出来るんだよね?」

「そうですね、客席から見て右側、上手に操作盤があったと思います」

 なるほど。流石、部活動以外でも学年代表や生徒会絡みで舞台に立つことが多いだけある。軽く会釈で礼を告げ、一冊の脚本を見つめあう部長と副部長に向き直る。

「照明とか緞帳の操作くらいなら、人形を繰りながらでも出来ると思います」

「え?」「マジ?」

 示し合わせたかのようなタイミングで、二人がこちらを見た。その動作がまるで連動した人形のようにぴったりで、思わず吹き出しそうになるのを抑える。

「ええ、小人の扱いはもう完璧なので。操作盤も使い方さえ分かれば」

 正直詰められる余地はまだまだある。例えば、片手で繰れるよう人形自体に手を加える方法など。しかし余り出過ぎた真似をするのも良くないだろう。

 それは正体の露見を恐れているからか?

 ……いや、きっと違う。違う筈だ。

 単純に伝統のある卒業制作の人形に手を加える事への抵抗感と、そも十本繰りの人形を五本繰りにすれば、万全に操れるのは関節を増設している武美の人間だけになってしまうから。それだけだ。本当に。

「にわかには信じ難いが、あれだけの人形繰りを見せられている手前、説得力を感じてしまうな」

「じゃあ実際にやってみよ~、もし本当にそれができるなら、もっと場面の自由度が上がるしさ!」

 部長は「ようし、ならば体育館の使用許可、絶対確実に取るぞ」と意気込んでいる。

 それに伴い、普段気怠い雰囲気を纏っている副部長が活気づいている。

 そんな阿吽の呼吸を見て、委員長が笑っている。

 俺の口角もいつの間にか上がっている。

  


「舞台だけなら問題ないぞ」

 バレー部顧問である渥美先生により、舞台の使用許可はあっさりと出された。本来は予め使用の申請などが必要らしいが、俺の方に一瞥をくれ「構わん」の一言を返されるのみだった。

「ありがとうございます」

 すぐに踵を返し、背中越しに腕を上げ去っていく背中に頼もしさを感じた。

「よし、取り合えず武美は俺と操作盤だな」

「じゃあアタシと瑠璃ちゃんは舞台で軽く合わせてみよ~」

「そうですね、もう台詞はバッチリです」

 二手に分かれ、舞台上を移動する。部長の後をついて、上手の舞台袖へ入る。照明が落ちている為、ほぼ真っ暗闇だ。しかし操作盤の位置は蓄光シールによって、却って認識し易い。

「まあ、ほぼ説明書きの通りなんだがな」

 と言いつつ、部長は操作盤を操作する。

 重い金属音と共に、幕が下りていく。更にメイン照明が点灯すると共に、舞台袖にも副照明が点灯する。

「なるほど、下に説明書もあるんですね」

「図説もあるから、まあ分からなくなったらそれを見れば万事問題はないと思うが」

 部長の説明を聞きながら、説明書にも一通り目を通す。脚本の空きスペースに要約したメモを取っていく。当たり前だが複雑な操作はない。

「スポットライトはキャットウォークからになるから基本顧問任だ。ここでの操作はこれくらいだな」

「なるほど、各種幕の操作とメイン・サブ照明」

 頷く部長を傍らに置き、教わった通りに幾度か操作を練習する。

 メイン照明の全点灯、サイド点灯、一部消灯。緞帳や暗転幕の上げ下げを一通り行う。問題なし。

「どうだ?」

「ええ、これくらいなら問題ないですね」操作盤から舞台上へと目線を移す。そこで話し合う委員長と副部長の姿を捉え、立ち位置を調整しつつ「この位置からなら繰り糸を延長すれば問題ないかと」

「なら良かった。物覚えのいい後輩を持ってめちゃくちゃ助かるぞ」

 と肩を叩かれる。

「なあ、武美」

「はい」

 向き直ると、真剣な眼光が俺を貫く。

「別に答えなくても良いし、違うなら違うでそれも良い」と前置きし「俺も樹里も、何となくは分かっている」更に一息吐いて「何があっても、お前は俺たちの後輩で演劇部のメンバーだからな―――それだけだ」

「そ、れは」

「答えなくて良い」頭を振り「ほら、俺達も合わせに行くぞ」と背中を叩かれる。

 言葉を選ぶ暇もなく、舞台へと送り出される。

 照明の明かりが、嫌に眩しく感じた。



「お疲れ様~」

「ご苦労だったな諸君」

 舞台上には一歩劣るものの、充分なくらい眩い照明。肌色や白といった柔和な色合いに統一された壁や調度品。広いテーブルとそこかしこから聞こえる賑やかな声。

 ファミリーレストラン【ジェイダイナー 碑文谷店ひもんやてん】の六番卓にて、お疲れ様会なるものが開かれていた。

 言い出しっぺの副部長と、親睦を深めるのに良い機会だと二つ返事に応じた部長によって、急遽開催される運びとなったのだ。幸いにも遊撃隊の出撃の兆候はない。こういった場に足を運ぶ機会がなく、こういった場に参加したこともないが故に消極的だった俺の背中を委員長が押してくれた。

「お疲れ様、です」

「お疲れ様です」

 どうにも慣れない。常にどこかしらを糸で引かれているように緊張感が抜けない。しかし、幼い頃に参加した五大家の家長会議や籠目隊詰所の歓迎されいない作戦会議に出ている時とは明確に異なり、悪い気分ではなかった。

 肩の力が抜けないというだけで、常に周囲からの敵意や奇異に晒されているわけでもなければ、何が起きても良いように感覚を研ぎ澄ませ続ける必要もない。

「今日は俺、達の奢りだ。好きに頼んでくれて構わんぞ」と胸を張る部長。

「そうそう、吉君の奢りだからね。ほら二人とも~、高級秋鮭フェアだってよ~」とこちらにメニュー表を渡してくる副部長。 

「―――ドリンクバーと合わせて一人千円までで好きに頼んでくれて構わんぞ、俺と樹里の奢りだ」と訂正する部長。

 そんな様子を見て、微笑む委員長の横顔。綺麗に通った鼻筋、長い睫毛、薄い唇。幾つもの人形の面相を見てきた。面相の美しさに特に力を入れている九尾家の道化師や名原家の館守、その何れとも異なる美しさに、努めて静かに息を吞む。

 ありとあらゆる美の要素を、完璧な配置と完全な状態で再現した人形の顔は、勿論美しい。単純な造形で言えば、生きた人間に太刀打ちできるものではない。

 なのに、なぜなのだろうか。委員長の横顔に、こうも目を奪われてしまうのは。

「武美君?」

「え」

 不意に掛けられた言葉に続く、素っ頓狂で間抜けで掠れ切った情けない声。それは自分のものだと後から自覚する。俺の声か、これ。

「大丈夫ですか? どこか具合が悪かったりします?」

 いや、大丈夫だよと今度はしっかりと返せるように言葉を準備したのに、声が出ない。

 ひやり。冷たい。

 委員長の伸ばされた手が、額と、そして首筋に当てられた。

 熱を測っている、そう理解した。理解はしたが、何故か声は出ないし、思考が定まらない。

「あ、ごめんなさい!」

 靄のかかった脳内に響き渡る竹を割ったような謝罪で、視界が晴れる。委員長が途轍もない速度で距離を取っている。

「つい、弟と妹への癖が」

 続く言葉は声にならず、唇のみがすみませんと震えていた。家での癖を外で出してしまった事、幼い弟妹への対応をクラスメイトにしてしまった事、それらが一般的に恥ずかしいという感情に繋がることくらいは、流石の俺にも分かる。委員長の顔や耳に朱が刺しているのもむべなるかなだ。

「えっと、いや、大丈夫。全然、ほんとに」

 もつれ合い絡み合う繰り糸のように不細工な言葉の羅列。ここは颯爽とした対応をすることで、恥をかかせないものだろうに。人と関わることを意識的にも無意識的にも避け続けてきた弊害が、こんな所で現れるとは。

 他者に不意に熱を測られたくらいで、肌を触れ合わせたくらいで、こんなに取り乱してしまう自分を情けなく感じる。

 取り繕う様に、何かを誤魔化すように、委員長から視線を逸らすと、

「良いな、樹里よ」

「だねえ、吉君よ」

 柔和なアルカイックスマイルを浮かべた部長と副部長とが、頷き合っている姿が見て取れた。

「よおし、やはり前言撤回!」急な大声に、俺も委員長も正気に戻る「ドリバ抜きで千円以内までなら、好きに頼んでいいぞ! 新たな門出に向けて大盤振る舞いだ!」

「さっすが部長~! えーとこの高級秋鮭―――」その姿を大仰に褒めつつメニュー表に目を落とす副部長。

「それはそうだろう、副部長。我々の力を見せてやろうじゃないか、我々の、な」と念を押す部長。

 ふ、思わず失笑したのは俺なのか委員長の方なのか。

 隣に目をやると、口に手を当てながら微笑むいつもの姿、いつもの横顔がある。目が合う、心拍数が上昇する。改めて笑いかけられる、心拍数が上昇する。

 仮にこれが遊撃隊での業務中であれば、支給されている徐脈剤を飲む事を提案する程に、心臓が早鐘を打つ。

 だけど本当に不思議だ。

 緊張しているのに、悪い気分ではない。脈拍が乱れ血流も異常なのに、苦しいわけではない。

 同じ感情であるのに、同じ症状であるのに、どうしてこうも出力される気持ちは穏やかなのだろうか。

 人形は常に、一定だ。一定の指示閾値で、一定の印を結び、一定の繋ぎ方をすれば、誰にでも、どんな状況でも、同じ動作を励起する。同じ顔を見せてくれる。人間も究極的には同じものであると、そう思っていた。

 邪魔な人間が来れば嫌な顔をする。試し、嘲弄し、排斥しようとする。

 だから同じように、対応する。平気な顔で人形を動かし、優位性を見せつける。

 バツの悪そうな顔をしながら、受け入れたように振舞う。

 ここ数年は、人間との関わりと言えばそんなことばかりだった。

 いや、武美家が没落しなければ、もっと酷いものとなっていたかもしれない。

 父の顔色を窺い、刻まれた言葉に従い、武美という名に相応しい人形として、ただただ日々を機械的に消化していく。

 そうなるだろうし、そうするだろうことは想像に難くない。人形を遣う人形、既に存在意義さえ曖昧になっている俺という存在。

 俺はどうしたいのだろうか。そう思うことさえ無駄なことだと、余計な足枷だと、信じて疑わなかった。

「えっと、武美君はどれにしますか?」

 などといった堂々巡りの思考が、一瞬で刷新される。

 温もりと匂い。

 気持ちの悪いことだとは分かっているけれど、格好がつかないことは承知の上だけれど、同じメニュー表を肩を寄せ合う形で見ることになる以上は、どうしても体温などを感じ取ってしまう訳であり。

 花の香りを思わせる、生物的美しさに満ちた匂いを感じ取ってしまう訳でもあり。

「え、あー」

 そんな薄気味悪い感情を悟られぬように、慌ててメニュー表に目を落とす。多種多様な色が平面上に踊り、馴染みのない柔らかなフォントの文字が複雑に絡み合っている。その中で確かな論理を感じる枠に沿って、たくさんの料理の写真が所狭しと並ぶ。

「―――難しいな」

 情報量の多さに目が滑る。

 遊撃隊の職務の都合上、田金さんと外食を共にすることはあるが、大概は行きつけの蕎麦屋や喫茶店となることが多い。そういった店にある簡素なお品書きに慣れてしまっている俺にとって、この色彩豊かな冊子は、未知の言語が並ぶ書き物のように感じられてしまう。

「余り、こういった所には来ないから」

 時間を取らせてしまっているのではないか、という危惧と焦りを誤魔化すように、そう呟く。

「大丈夫、私もそうですよ」

 まるで内心を見透かされたかのようだ。

「だから、相談しませんか?」

 少し顔を斜めにし、俺の顔を覗き込むように提案する委員長。その可憐な動作に対し、首を縦に振ることしかできなかった。

 真剣な表情でメニューの一つ一つを精査する彼女の顔、表示されているカロリーや値段をつぶさに呟く唇。果たして相談という体をなしているのか、自信はない。

「―――なあ、樹里」

「皆まで言わないでもわかるよ」

「財布の紐、緩めも良いか」

「皆まで言わないでも分かるって」

 そんな遣り取りを目の端に捉える。

「パスタという手も、いえ確かこのお店はパンが美味しい筈」

 いつの間にか、緊張の糸は切れていた。心地よい弛緩した空気、ああ。そうか。こんな日常の一ページを守る為に、人形はあるのだ。

 例え、そこに俺の椅子がなかったとしても。それでいい。それで満足だ。



「美味しかったですね」

 余韻を噛み締めるように、委員長が呟く。日も落ち、肌寒さを感じる大気に、暖かな呼気が溶けていく。

「そうだね」

 詰まらない返し。それでも彼女の笑顔は曇らずに、優しくこちらを見つめる瞳に吸い込まれそうな錯覚を得る。

「久しぶりに外食をしました、青と藍には悪いですけど」ふふ、と笑みが漏れる。

「そうか、学業に家事と大忙しだもんね」

 先日上がりこんだ家の様子、打ち明けた内情などを鑑みれば、想像することは容易い。俺など気楽なものだろう。気を遣う相手も世話を焼く相手も自分のみ。何があっても全ては自業自得である。己の不徳と分かっているからこそ、文句も出ない。

 委員長は違う。育ち盛りの弟妹の世話をし、家事と一言では括れない多くの業務をこなさねければならない。その上に学業でも常に成績を上位に保ち、生徒会の業務をこなし、そして演劇部の主役まで。そこに手のかかるクラスメイトへの世話まで付け足される訳だ。まったく頭が上がらない。 

「そう、ですね。学校と家の往復がほとんどなので」ほんの少しだけ言い淀むが「だからこそ、今日はとっても楽しかったんです」と締めくくる。

「俺も、概ねそうかもしれない」 

 学校から家への往復、そこに禍死吏の現場が挟まれるだけで、概ね同じだ。

「武美君は、どうでしたか?」

「楽しかったよ」思考を挟むまでもない、脊髄反射での返答、「ただ、余りああいった場に慣れてなくて、何か粗相をしていたごめん」と理性が言葉を繋げる。

「大丈夫ですよ。部長も副部長も、とっても良い方ですし」即座に否定の言葉、一拍置いて「何より、私は武美君が来てくれて、嬉しかったですから」と繋いでくれる。

 俺に向けられる眩しい笑顔、日も落ちているというのに、日の出を幻視した程だ。

 直視したいが、出来ない。そんなことも含めて、本当に太陽のようだった。

「ありがとう」素直な礼。それだけで良いのか?

 しばしの逡巡を経て、

「俺も、委員長と一緒に行くことが出来て、その、嬉しかったよ」

 咽喉に絡まる躊躇いを乗り越えつつ、言葉を紡ぐ。舌の根が乾いていく。指示閾値の低い人形を繰るよりも、癖の酷い人形を説明なしに渡された時よりも、委員長に掛けるべき言葉を選び、それを口に出すことの方が数十倍も数百倍も難しく感じる。

「あ、りがとうございます」

 先細っていく声の真意に気を回す余裕も、推察する余力もない。先程より、多少距離を開けられた気がするのだが、その距離を概算することもできない。こちらが動揺で千鳥足になっている可能性もあるからだ。

 しばし、沈黙が続く。

 町の喧騒が嫌に響く。

 並ぶ足音が耳に痛い。

 途端に、不安になる。

「あの」

「あのさ」

 不意に、重なる言葉。

「あ、いや」

「ごめん」

 そして、重ねる謝罪。

 思考停止、再び沈黙。

「―――武美君から、どうぞ」

「あ、はい」

 いやいや委員長からどうぞ、という形式ばった返答も、三度の沈黙も許さない、無言の圧力を感じる。

 何を言おうとしたのかを冷静に思い返し、焦らずに言葉を紡いでいく。

「いや、何でそんなに頑張れるのかな、と。純粋に、ほら、すごいことだと思うしさ」

 凡百な質問だ。会話に窮したことが端から見てもよく分かることだろう。それでも、何かを話さなければならない、いや。より正確には何かを話していたい。折角の時間なのに、沈黙のままでは勿体ない。

「―――私、将来は医者になりたいんです」

 真摯な言葉だ。その裏に秘めたる、確固たる決意の輪郭がしかと見えてくるほどに。

「医者、か」

「はい」

 即答。

「国立の医大に進む為にも、たくさん勉強しないといけないですし」遠い目で空を見上げ「内申点もなるべく稼がなきゃいけないんです」

 そうか、だから生徒会や学級委員などという面倒なことまで一手に引き受けているのか。合点がいくのと同時に、毎日の学業も業務も、彼女にとっては大きく重い物であることを知る。俺にとっては日常の一ページだが、彼女にとってはその日常こそが、ある種の戦争なのだろうか。

「すごいな、立派というか」

 月並みな言葉を並べることしかできない。

「いいえ」否定は俺へ向けたものではない「もちろん、医者として命を救う現場に携わりたいという意思はあります。母のような人を少しでも救えればと、そう思う気持ちも嘘ではありません」

 胸に手を当てて、一呼吸置く。そして、

「でも、もっと下世話で切実な話なんですよ」委員長の歩調が少し早くなり、俺に対して少し振り向くような形となる「単純に貧乏なんですよ、うちは。だから、たくさんお金も稼がないといけないんです!」

 陰る表情、自嘲気味の言葉。それでも無理やり陽気に見せようとする語気。

「だからすごくなん―――」

「―――いや!」声を大にして、遮る「すごい、すごいよ。君は」たどたどしく言を繋ぐ。

 何かに突き動かされるようにして慌てて言葉を掻き消した。何故かは分からない、分からないけれど。その否定の意志を、口に出させてはいけないような気がした。

「俺なんかよりも、ずっと、ずっと」

 ああくそ、自分の語彙力の貧弱さが憎い。まるで歯抜けだらけの書架ではないか。適切な表現も適当な言葉も出てこず、それを検索さえできないもどかしさに歯噛みする。

「ありがとうございます」

 それでも、彼女は笑ってくれる。気遣いと、悲哀と、そういった思いが含有されてはいる。それでも。

「武美君には、本当に本当に、感謝しているんですよ」

 その言葉が真に迫るものであることが分かる。

 委員長は更に続ける。

「最初は演劇部に入る気なんて無かったんです」少しだけ目を瞑る「将来のことだけを考えれば、部活動も自主練も、全て勉強に費やした方が効率が良いので」

 動悸がした。一際大きく、心臓が跳ねた。

 ああ、それは俺もそうだ。演劇部に入る事、いやそもそも高校生として日常に溶け込むこと。その全てが合理的とは言えない。改めて意味を問われても、きっとうまく説明できないだろう。

「でもふと思ったんです。これからの人生、ずっと勉強して仕事してお金を稼いでなのかなって」

 ああそうだろう。これからの人生、ずっと人形として人形を繰り、禍死吏と対峙していくのか。

「だから、ここで夢に区切りをつけようって」ある種の晴れやかさを感じる「演劇の主役だなんて、ここでしか、今でしか実現し得ないでしょうし」

 吹っ切れたような顔だ。いや、より正確に言えば吹っ切るしかなかったという顔でもある。

 夢に区切りをつける。普通の若者が、漠然とした将来に描いていく青写真であり原動力。それを、彼女はここで全て消化しようとしている。今この瞬間に夢を叶え、それを今後一生走り続ける為のガソリンとする心算なのだろう。

 それは確かに、合理的なのかもしれない。

 どんな夢や希望も、実現するとは限らない。仮に実現したとしても、それが本当の幸せに繋がるのかは定かではない。

 幼い頃、人形繰りの修練で朝も夜もなく蔵に閉じこもっていた頃。思うことは一つだった。強くなりたい、人形師として、いや人形を遣う人形として。

 それに近づいている今が、幸せなのか分からないように。

 だから委員長は正しい。俺より学もある、交友関係も広く、様々な経験値も高い。そんな彼女がそういうのだから、きっとそれが正しい選択なのだろう。そうなのだろうか。

「前にも言いましたね。私には武美君が必要なんです」

 強い眼差しだ。眩しい太陽とはまた違う、月のような静謐さも持ち合わせた瞳。

「こんなことを言うのは烏滸がましいと、分かっているんです。重苦しいことも」僅かな逡巡の後「武美君と一緒に演劇をするのが夢なんです、唯一の救いなんです。だから―――」

 だから。

「私の前から居なくならないでくださいね」

 明確に、心臓が痛んだ。嘘は言っていない、欺いているわけではない。だって俺は、人形を遣う人形で―――

「ああ、いなくならないよ。委員長の傍にいる」

 何故そんな無責任な言葉が口をついて出たのか、分からない。

 何が正解だ、委員長の意志や信念が正しいのか、分からない。

 それでも、今この瞬間だけは。

 そう言うしかない、と思った。

 そして温かさと匂いを感じた。

 「沈黙」はもう辛くなくなった。


 



 千代田区平河町、半蔵門駅通りから一本路地を入る。雑居ビルの地下一階、一見様では到底見つけられぬ位置にある小さな看板と階段。迷いなく照明の切れた階段を下りていく。

 静寂に靴音のみが反響する。蛍光灯の明滅がコンクリートのトンネルを朧気に描き出す。

 ちょっとしたホラー映画の一場面のようだ。偶然看板と階段を見つけ、踏み込んだ者の好奇心を打ち砕くには充分過ぎる雰囲気。

 鼻歌交じりに明と暗のコントラストの中を進むと、暖かなランタンの明かりが目に飛び込んでくる。

 腕時計を見る、二二時三十分。スーツの懐を探り、手慣れた革張りのメモを取り出す。スケジュール部分を開き、今日の日付のマスに二二時四五分と書かれているのを確認。

 丁度いい時間だ。

【プロセムニア】と書かれた立て看板の横を通り、扉を開ける。上品なドアベルの音。

 内部は落ち着いた雰囲気のオーセンティックバーである。先程まで居た寂れた雑居ビルとは余りにかけ離れた世界観。

 明度が意図的に落とされた間接照明、ダークウッドに拘った調度品の数々は艶めかしく、酒棚バックバーには数えきれないほどの酒瓶が一糸乱れず整列し、その魅惑的なラベルで迷い蛾を誘惑する。

「どーも」

 マスターに軽く挨拶すると、会釈と共に奥へと通される。

 カウンターの奥、入り口からは影となる半個室のテーブルへと歩を進める。敷かれている上質なカーペットの心地よい反発力を受けてか、足取りが軽くなる。

「早いな、田金」

 テーブルには先客。

 気配を殺している上に、店内の薄暗さもあり、直前までその存在を認識できていなかった。

「言葉を返すよ」

 そう言いつつ、田金崇は上着を脱ぎ、椅子に腰かける。

「定時上がり? エリートは良いね」

「馬鹿言え、一時間後にはまたオフィスの席で書類とにらめっこだ」

 肩を竦めた壮年の男が、グラスを傾ける。甘いコーヒーのような香りの茶色い液体は残り半分ほど。

「お前こそ、気楽なもんだろう。ほとんどが外回りでサボり放題。羨ましい限りだよ」

 会話の合間を縫うように、滑らかな動作でカクテルとナッツやチーズが運ばれてくる。軽く会釈をし、

「ま、そうだね。現場仕事の方が合ってるよ。刺激も多い」

 と返して、ミントの匂いを漂わせるグラスに口を付ける。

 軽口の応酬ではあるが、談笑という雰囲気ではない。事実、生真面目そうな男の表情はデスマスクのように微動だにしない。

「反響は大きいぞ、概ねは批判的なものだが」

 ナッツをつまんで口に放り込む。 

「順調だね、溜りに溜まった不満が、反転する」

 チーズを一齧り。

「反響と言えば」思い出したかのように、田金が口を開く「この前のテレビ。最高だったじゃないか」

「……相対したのが名ばかりの爺さんだったからな。それでも、引き際を弁えて居るし、番組の進行には忠実で助かったが」

 と深い溜息を吐く。

「だから便利に使われるし、使ってもらえるからああなるんだろうけどね」

「概ね、お前の筋書き通りになっただろう」

 鋭い眼光が向けられるが、田金はあくまで飄々とした笑みを崩さない。

「完璧さ。童門大寿の名前を売ることもできたし、種も蒔けた」

 細められた目の奥には爛々と光る瞳。上がる口角と反して、そこには虎視眈々と獲物を見つめる大蛇の様相が浮かぶ。

「なら、いい」

 童門は更にグラスを傾け、一気に残りを飲み干す。空のグラスを静かにテーブルに置き、懐から一枚の折り畳まれたメモ用紙を取り出して、田金に差し出した。

 茶色い頭が少し動き、すぐさま受け取ったメモ用紙を広げる。内容を確認し、すぐさまメモ帳に挟み込む。

「こいつは、デカいね」

「裏付けは取ってある。後は任せる」

 その言葉を残し、仄かに甘い匂いを乗せて風のように去っていく大きな背中を見送る。

 自身のグラスに口を付け、爽やかな酸味を味蕾が捉える。

 しばし思考を巡らせ、

「後は任せるって、会計もかよ」

 ふ、と鼻息が漏れる。


 



『遠方への出張の為、遊撃隊は明日までお休み』

 朝一番で送られてきたメールには、簡潔な文面がしたためられていた。

 田金さんを示す着信音によって、反射的に意識が覚醒させられたのだが、肩透かしを食らった気分だ。時刻は五時三十分、平時の起床時間より半刻程早い。

 よりによって田金さんからの着信、つまり遊撃隊としての出撃を前提とした覚醒をしてしまった為、アドレナリンの分泌量の多さからか眠気が消失してしまった。

 このまま布団に帰っても無為な時間を過ごすことになってしまう。

 仕方ない、少し早いが日課を始めよう。

 寝巻として使っている和装のまま、寝室から出る。玄関から近い洗面所で顔を洗い、ごく僅かに残った眠気の残滓を拭い去る。

 この時間だと、流石に外は肌寒い。中庭へ繋がる引き戸の近くで、無造作に置かれた上着を拾い上げ袖を通す。

 サンダルを突っ掛けて中庭へと降り、参の蔵から視線を逸らしつつその隣にある弐の蔵へ向かう。三つある蔵の中で、人形の保管を行う弐の蔵。重い金属製の扉を開き、敷居を跨ぐ。

 黴と埃、漆や油、数々の化学薬品類とそれを包括する木の匂い。

 共通する香りから、忌むべき過去が掘り起こされそうになるのを何とか抑え込む。

 入り口からすぐ横で待機する人型へと目を向ける。【武美家謹製たけみけきんせい武士壱號もののふいちごう】。武美の名を関する人形師にのみ操ることを許された、極めて操作難度の高い人形だ。遊撃隊として五大家全ての人形を操った経験から言っても、群を抜いて繰り難い厄介者のじゃじゃ馬。

 武美家に伝わる古傀儡が一体、我無人をベースとした量産品。我無人から各部の装甲等が軽量化・簡素化されており、鎧武者を模したオリジナルと比して足軽のような外観となっている。

 指輪を順番に指にはめ込んでいき、ノッチを調整。

 三十分に設定したアラームをセット。

 繰り糸を引き絞る。

「唵」

 静かに口上を上げ、結印。異常ともいえる指示閾値あそびの狭さは、鍛練用に組まれた特殊な調整だ。

 十本一分繰り(繰り糸十本、指示閾値三ミリ)、正直実戦では敏感過ぎて使い物にならない。

 自然な指の痙攣でさえ敏感に拾ってしまう為、しっかりと呼吸をし、脈拍を安定させなくては話にならない。

 指示閾値を狭くし、これに順応させたところで、実戦での人形繰りで優位に立てるわけではない。寧ろ癖の違いにより、繊細な人形繰りが煩雑となる可能性さえある。しかし武美の人形師は実戦だろうと演舞だろうと関係なく、最高且つ最強を目指さなくてはならない。他家の人形師には到底扱えない人形を事も無げに扱って見せる、見せかけの優位性。そんな下らない見得だけで、五大家として数えられていた歪な血族なのである。

 人形師そのものを改造する性質、徹底した実力主義と少数精鋭。故に人形の設計・生産において他の四家に遠く及ばず、故に十年前の大規模な禍死吏によって俺を残して全滅した。

 雑念が手許を狂わせる。

 不随意反射により、結印が乱れ、動作が惑う。

 鳩る―――寸前、敢えて印を中断し、動作を道半ばで止め、待機状態へ。【間取り】と言われる技法だ。既定の動作に移る「過程」を切り取り、想定されていない動作を生み出す。応用範囲の広い技術。

「駄目だ」

 呟きが暗闇に飲み込まれて消える。

「もう一度」

 集中。

  

『人形を使う人形たれ』

「人形を使う人形たれ」



 刻み込まれた呪詛。与えられた存在意義。

 無駄な思考はいらない。俺は人形。人形を使うためだけに生きる人形。

 思考が消え去り、精神が研磨され、感覚が研ぎ澄まされていく。

「唵」

 口上。

 物心ついた時からのルーチンワーク。

 規定された動作を全て繋げ、それが終われば間取りで規定外の動作を励起。それをただひたすら、時間感覚が喪失する位に繰り返す。

 目は見ているが見えず、耳は聞こえているが聞こえず。

 まるで人形そのものとなったかのような空虚に身を置く。 

 そこに感動はなく、情動もまたなく。

 悲しみも痛みも苦しみもなく。

 しかし同時に、

 喜びも楽しさもない。



 鍛練の終わりは唐突に訪れる。

 設定したアラームの電子音が、新鮮な驚嘆と共に、集中の繰り糸を断ち切る。

 いつも通りではあるが、極限の集中状態には正に青天の霹靂。故に、現実への帰還が叶う訳だが。

「ふう」

 息を吐く。

 軽く汗ばんでこそいるが、吹き込む風と涼し気な大気が心地よい。

 武士一號を待機させ、指輪を外す。蔵から出ると、目に痛いほどの快晴が俺を迎えてくれる。今日は滅多にないオフだ。さて、どうしたものか。


 

 ◆



 三条家の朝は忙しい。

 目覚まし時計のアラームは、毎朝五時半きっかりにけたたましく鳴り響く。

 薄靄のかかった意識でそれを認識。縋りつく睡眠欲との戦いを。引かれる後ろ髪を断ち切る思いで制し、覚醒。アラームを止める。

 大音量のアラームなどどこ吹く風で寝こけている弟妹達を尻目に子供部屋から出る。洗面所に向かう途中で携帯電話を確認する。深夜に女友達からメールがあるが、優先順位を鑑みて一旦保留。

 父は昨夜も帰らなかった。弁当の数と人数から、朝食のメニューと量とを概ね決める。

 長い髪を纏め洗顔後の顔を確認。隈はなし。軽いスキンケアとナチュラルメイクを済ませる。髪を下ろし、軽くドライヤーを当てながらヘアブラシで梳かす。幸い今日の寝ぐせはひどくない。ヘアアイロンはいらない。

 子供部屋に取って返し、勉強机の横に掛けられた制服を手に取り、手早く袖を通す。姿見で全身を確認、特に問題なし。

 早足で台所へ向かう。

 冷蔵庫から卵を、冷凍庫から冷凍ご飯、使いさしの冷凍野菜と冷凍の合い挽き肉を取り出す。先日の大セールのおかげで、安価に冷凍品が手に入った為使っているが、保存用に加工する手間がないのがとても楽だ。

 冷凍ご飯をまとめて電子レンジに入れ、スイッチを入れる。

 調味料をまとめて用意し、フライパンに油を敷いて火にかける。充分に油が温まったところで挽肉、野菜の順に投入。鶏がらスープの素と醤油、塩胡椒で味を調えつつ炒めていく。

 合間を縫って卵を砂糖を加えつつ溶き、卵液を作っておく。

 出来上がった野菜炒めを大皿に移し、そのままフライパンに卵液を流し込んで卵焼きを作る。

 卵焼きが出来上がると共に電子レンジが快音を響かせる。

 時間調節はぴったりだ。少し気持ちが良い。

 ご飯とおかずを盛り付けて、弟妹と自分用にワンプレートを作り上げ、残りを仏飯として盛り、弁当箱に詰める。蓋はまだ閉めない。

 時刻は丁度六時。ラジオを付けて天気予報を聞く。今日は一日快晴、つまり洗濯ができる。

 洗面所に向かい、溜まった洗濯物を洗濯機へと放り込む。感覚で洗剤を計量して入れ、最速モードでスイッチを入れる。

らんせい、起きなー」

 縦横無尽の寝相で腹が捲れている藍と、寝返り一つ打たない青にそれぞれ声を掛ける。これで起きるとは思っていないが、声を掛けたという事実を作ることが重要なのだ。文句を言われても封殺できる。目覚ましのアラームを一分後にセット、せめてもの慈悲だ。

 コルクボードに留めた、二人の小学校の予定表と自身の予定表とを見る。保護者関連の行事等はなし。胸をなでおろす。

 けたたましくアラームが鳴る。

 もぞもぞと衣擦れの音を聞き流しながら、先程よそっておいた仏飯を仏壇へと供えに行く。母の遺影にうずく胸を抑えつつ、蝋燭に火を灯し線香に火を点け香炉へ立てる。すぐに火を消し、おりんを鳴らし、手を合わせる。

 活けた花の様子を見るがまだ大丈夫そうだ。水だけ変えよう。

 そうこうする内に、台所へ藍と青が到着。

「おねーちゃん」

「はいはい」

 とりあえず朝ご飯。その後、今日の授業範囲を軽く復習し、洗濯物を干す。後は……。

 三条家の朝は忙しい。より正確には、三条瑠璃の朝は忙しい、かな。



 ◆


 

 いつもと同じ通学路も、時間が少し早いだけで別の顔を見せる。

 人が動物が植物が、目に映るもの全てが新鮮なような気がする。これは遊撃隊としての休日という心理的余裕に起因するものかもしれない。 

 学校が近付くにつれて、朝練に向かうジャージ姿の生徒や単語帳を片手に欠伸を噛み殺している生徒の姿が多く見られるようになる。

 そんな生徒たちに紛れ込むようにして校門をくぐる。

 部室棟方面に消えていく運動部達と別れる。三階までの吹き抜け構造になっている校舎に入ると、天窓から入る暖かな日差しが未だ人の少ない廊下を照らしていた。

 二階へと歩を進め、クラスへと入る。数人のクラスメイトがついさっきまで居た形跡はあるが、多分朝練組だろう。

 窓際の自席に向かい、鞄を下ろす。椅子を引いて腰を下ろす。

 さて、何となく学校に早く来てみたはいいけれど手持ち無沙汰になってしまった。今日は特にテスト等があるわけではないし、テスト対策でもないのに復習や予習をするほど勤勉ではない。

「……部室に行くかな」

 思い立ったが吉日。鞄から台本を取り出し、教室を離れる。

 一階の最南端を目指し歩を進める。

 窓から見える校庭では、野球部やサッカー部の朝練組が走り込みや筋トレなどに精を出している。

 通りかかる別教室では、早くに登校した生徒たちが勉強をしたり友人同士で談笑している。

 平和な風景。普通の高校生の日常。

 そこに自身も加わったかのような錯覚が、少し心地よい気がする。

 


 程なくして部室へ到着する。

 もしかしたら施錠されているかもしれない、と思っていたが杞憂だったようだ。

「これも、実質朝練か」

 ふ、と少し笑いが漏れる。

 台本をテーブルに置き、俺の出番である七人の小人登場シーンを開いておく。教室の隅へ向かい、七人の小人が納められた布地素材の箱の蓋を開く。先日部長が七人の小人専用に、百円ショップで買ってきてくれた箱だが、中々様になっている。良かったな、と小人に心の内で語り掛け、指輪を嵌める。ノッチを調整する。

「唵」

 油断して口上が出てしまったが、まあいいだろう。

 印を結び、すっくと立ちあがった小人達を移動させる。まるでペットを散歩させているような感慨を抱きながら、台本の前まで戻ってきた。

「最初のシーンは―――」 

 

 暗転

 大道具・森の小屋の書割 木々の書割 配置

 明転(暗)

 スポットライト→白雪姫

 白雪姫、不安げに周囲を見渡しながら小屋へ近づく。

 白雪姫『こんなところに小さなお家があるなんて』

    『少し、休ませてもらいましょう』

 白雪姫、小屋の軒先で眠る。

 スポットライト消灯

 明転(明)

 BGM・愉快な森の妖精たち

 七人の小人が愉快に歌いながら小屋へと帰ってくる。

 小人『おやおや、見知らぬ綺麗なお嬢さんが僕らの小屋で眠っているね』

 小人『もしもし、綺麗なお嬢さん。大丈夫かい?』

 

「白雪姫が眠ったのを確認して、照明を操作。明るくなったと共に入場、と」

 操作盤があると仮定し、レイアウトを思い出しながら中空で指を動かす。腕と指の動きを最小限に留め、人形の誤動作を防ぐ。予想通り操作盤のボタンを押す程度なら問題ない。

 頭の中で、白雪姫の姿を描き出し、印を結ぶ。

 七人の小人が、軽やかなリズムに乗って、愉快に笑いあいながら歩を進めていく。

「えー、『おやおや、見知らぬ綺麗なお嬢さんが僕らの小屋で眠っているね』」

 台詞を割り当てられた小人を一歩前に進ませつつ、声を当てていく。本番では予め吹き込んだ台詞を流しながら、それに合わせて人形繰りを行う手筈になっている。

「……『もしもし、綺麗なお嬢さん。大丈夫かい?』」


「『あら、ここは貴方達のお家だったのね。ごめんなさい』」


 不意に続けられた台詞。凛とした声音からは品位が、しかし若干のか細さから不安げな雰囲気が塗布された、まさにこの場面に相応しい白雪姫の声。

 部室の入り口に目を向けると、まだ鞄を背負ったままの委員長の姿。

 声を掛けようと思ったが、謝意と若干の恐怖とが入り混じった表情、少し潤んだ瞳が、中断を許さない。

 一瞬の理解。理性より反射によって、人形繰りが再開される。

 慌てて台本へと目を移し、

「……『いいや、それは構わないさ』」一度息を吐く、吸う「『ところで、君はどこから来たんだい?』」

 その間に、素早く委員長は立ち位置を移動。

「『私は、ずっと遠くのお城から来ました』」目を伏せ「『でも、もう帰ることができないのです』」

「『それは可哀そうに。良ければこの森で一緒に暮らしましょう』」

 七人の姿勢を前傾に、同情の意を示す。そして、一つの提案を行う。

「『ありがとう、小人さんたち。私は白雪姫と申します』」

「『白雪姫、雪のように綺麗なお嬢さんにぴったりの名前だ』」それは、本当だ。事実に即した台詞は若干恥ずかしい「『さあ、歓迎会を始めましょう』」

 一番近い位置にいる小人の腕を上げ、白雪姫に向かって手を差し伸べる。

「『まあ、うれしい』」

 そういって白雪姫が小人の手を取る。

 人の動きが介在すると人形繰りは途端に難しくなる。まあ一般論だが。踊りのリズム自体は簡単なもので、七人と一人が軽く手と足を振り上げながら笑い合うというもの。

 委員長と一瞬視線が交錯する。静かに頷く。

 頷き返した彼女が、おずおずと手を振りながら、踊り始める。

 そこに反応し、瞬時に指が印を結ぶ。ほぼ誤差なく、彼女の手と足の動きに合わせて小人が躍る。

 台詞も消えた無音の部室に、小さな靴音が響く。ともすれば単調なリズムだが、軽快にステップを踏む小人と、まるで本当に歌っているかのような笑顔の白雪姫の姿が重なることで、舞台を幻視する。

 なまじ音楽を掛けていない分、そこには明確な終わりはなく。

 俺自身も、不思議なこの幻覚を終わらせる気はなかった。

 白雪姫は俺を見ていない。彼女の眼には、煌びやかな舞台が映っている。

 その姿が、ただただ美しかった。



 ◆



 予鈴が鳴り響く。

 嫌という程聞き慣れた電子音が、意識を現実へと引き戻す。

「―――おはようございます。武美君」

 そもそも挨拶をしていないかったことを思い出し、不躾であったことを恥じながら彼の方へ向き直る。

「おはよう、委員長」

 小人を足許へ引き戻しつつ、挨拶が返される。

「早い、ですね」

 演技に没頭し過ぎてしまった。悪癖が露呈してしまった事に、気まずさと気恥ずかしさとが噴出する。急に暑くなってきた。

「委員長こそ。もしかして、毎日朝練してるの?」

 そんなこちらの内心の変化に気づいていないのか、気付かぬよう気を遣っているのか、彼はいつも通りに話を続けてくれている。

「毎日、という程ではないですが」息を継ぐ「概ねそうですね」

「すごいな、知らなかったよ」

 素直な称賛を向けられると、どう返したらよいものか迷う。

「白雪姫役、堂に入っていて驚いた」

 そんなこちらの気持ちも知らないで、更に賛辞が綴られていく。ちょっと待って欲しい。

「小人との踊りも、スムーズだね。流石だ」

 ここだ、切り返すならここしかない。

「それに関しては、武美君のお陰ですよ」包み隠さない本心をぶつける「私は姿勢を落とすくらいのことしかしていないのに、動作を合わせてくれて」

 初めての合わせ、それも不意な乱入であったのにも関わらず、彼は私の視線に無言で力強く頷いてくれた。そこに大きな信頼感と安心感とを得た。彼になら、彼の人形繰りになら、全幅の信頼を置いても良い。

「まあ、リズム自体は簡単だし、ね」

 こちらを褒めていた時とは打って変わって歯切れの悪い返答。目線も泳いでいる。

 そんな姿が今さっきの自分と重なって、もどかしいやら気恥ずかしいやらで、ふふ、と息が漏れる。

「正直嬉しいんです。武美君が、こんなにも部の活動に積極的になってくれて」

 そして、私の演技を認めてくれて、私の演技を補完してくれて。

「あー、でも本当に今日はたまたま早く目が覚めた、というかなんというか」

 それでも良いのだ。

「それでも、良いんです。今日だけでも、たまたまでも」

 こんな日々が続けば良い。

「武美君と演劇をすると、楽しいんです」

 どんなに毎日が大変でも。彼の人形繰りを見ていると、そこに加わることができると、この僅かな時間に見出した、夢の輪郭がはっきりと描かれていく。

 唯一の希望、人生に意味を見出す為の方位磁針。

「俺も、委員長と演劇をするのは楽しいよ」

 嬉しい。


「こんな日々が続けばいいと思っている」


 それはどちらの言葉だったのだろうか。

 日常への肯定。幸せの認定。

 ずっと、こんな毎日が、続いて―――


 

 警笛。

 耳をつんざく金属音が、朝の喧騒を掻き消していく。

 空は赤く、艶のない漆細工のような黒い月が、未だ状況を咀嚼できていない人々の動きを睥睨している。



 長野県佐久市某所。

 地元民さえ寄り付かない、寄り付く意味のない山間の一区画。遠い昔に切り拓かれ、とおに見捨てられた何らかの建造物の廃墟。そこに二台の自動車と、向き合う二人の男性が見える。

 一人は着古した作務衣に髭面の壮年男性。

 一人は黒のスポーツウェア上下と目深に被ったキャップが特徴的な若年男性。

 壮年男性の表情は険しく、拳は強く握りこまれ、足先が忙しなく地面の砂利を叩いている。

 対して若年男性は表情こそ見え辛いが、まるで駅前で待ち合わせた恋人でも待つかのような悠然たる雰囲気を醸し出している。

 血に飢えた肉食獣と、爪を隠した鷹。とでもいうのか、とにもかくにも二者の間には、いつ切れるとも分からない緊張の糸が何本も何本も張り巡らされているようだ。

「単刀直入に言うぞ、テメェの目的は何だ」

 口火を切ったのは髭面の男。ドスの効いた低い声には、心底の嫌悪と確かな怒気、少しばかりの困惑と焦燥が入り混じっている。

 今すぐにでも胸倉を掴み、あわや暴力沙汰かと思わせる問い。

 対する若い男は、やはり綽綽とした余裕を崩さず、たっぷりと間を取ってようやく口を開く。

「―――逆に聞くけどさ、何て答えて欲しいのよ?」

 応答性の悪さと質問を質問で返すという横紙破り、こめかみに浮いた血管が震えている。ようにさえ見える。

「ふざけてんじゃあねえぞ」

 じり、ほんの僅かに二者の距離が縮んだ。

「どこから漏れたかは知らねえが、テメェどうせ伊那家の関係者だろ」髭面の男が頭を振り「その車、後部に積んでるのは人形だろうが。つまりは公安の犬じゃねえし、金目当ての半グレでもねえだろうがよ」

 捲し立てる様な言葉に、やはりたっぷりと間を取って。

「―――うーん、なるほど。やっぱり小賢しい犯罪に関わっているだけあって目聡いねえ」苦笑交じりの応答、そしてゆっくりと面を上げ鋭い双眸で相手を捉え「でも不正解、この程度の推察力しかない男が上に立っているとは、佐久詰所の面々も浮かばれないね」

「ああ?」

「籠目隊佐久詰所実働一班班長、い号と級人形師・寺尾武文。九尾家の遠い分家である寺尾家の三男、幼少期より素行に問題が多い」

 つらつらと読み上げられる個人情報。

「佐久詰所に配属されてから僅か三年で班長に就任、歴代の班長やその候補は皆何かしらの理由で次々に引退している」

 まだまだ続く。

「二年前から別名義の海外口座に複数の巨額振込があり、国税庁にも目を付けられている」

 言い終えるよりも先に、大きな舌打ちが響く。

「糞が、やっぱり伊那家の人間じゃねえか。技術流出者を狩ってるって噂はマジかよ」

「さあてどうかねえ、仮にそうだとしてアンタはどうする?」

「どうもこうもねえなあ」寺尾の声には平静、というよりも余裕が取り戻されている「法的にも五大家間のしがらみ的にも、大々的に動けねえみてえだしなオタクも」

 じり、二者の距離―――自体は変わらない。少しずつ足が動かされている。両足を肩幅に開く。

「その含みを持たせた言い回しも、俺を苛つかせる態度も、時間稼ぎなんだろ?」

 全てを看破した、とでも言いたげな髭面。僅かに上がる口角と共に、両の腕も胸のあたりまで引き上げられる。

「悪いけど、死んでくれや」

 そう、それらの体捌きは全て―――

「開ぁああい!」

 人形を繰る為の基本姿勢、人形師の臨戦態勢へと繋がる。

 怒声が響くと共に、寺尾の自動車のトランクが跳ね上がる。優美に宙を舞い、現れたるは「九尾家謹製・道化師の陸」。

 玲瓏なる無表情の白面、菱模様の入った束ね髪、黒いケープに長身痩躯、宮廷道化師を思わせる外装が特徴的な人形である。非常に美しい造作の白面が、派手な装飾品の中で一際異彩を放っている。

 人形師という因習に塗れた世界の総元締めたる五大家の中でも、一際に排他性の高い九尾家の作品。それらの特徴は、派手で美しく、扱い難いことである。つまり九尾家の優秀な人形師にしか十全に扱えず、この人形を扱えるということは人形師として一流あるという考えが下地にある。

 加えて寺尾武文は「い号と級人形師」に認定されている。い~との中で最上級のい号、その中では最下級のと級。しかし、そもそもい号をまで上り詰めている時点で、人形繰りの技術に関しては超がつく程の一流であることに間違いはない。

「思った通り、場慣れしてるな」

 その淀みなく臨戦態勢に入る様子を見て、黒づくめの男が独り言ちる。

 人形師はあくまで、対禍死吏に特化した技術職である。

 いかに生死の境界で跳ね回るような職であったとしても、相手とするのは自然災害。人型をしていたとしても、相対するのは穢土から染み出した湧人である。 

 人間に対して人形を戦闘目的で扱うなど、あまつさえそれが殺人の手段であるなど、通常考えられない。

 だからこそ、余りに淀みのない動作。それに至るまでの思考の簡潔さには、察するに余りあるほどの裏がある。

「唵」

 闘争の開始を意味する口上。常人では目で追えない速度で結印が完了する。

 高位の人形師になればなるほど、当然のことではあるが結印は高速化していく。印を結ぶという操作の過程が目で追えない為、人形がまるで生きているかの如く動くように見える。

 故に、人形繰りとはある種の芸術であり、人形五大家に端を発する人形技術全般は無形文化財と定められているのである。

 例に漏れず寺尾の繰る道化師の陸もまた、動作のつなぎ目を意識させない、有機的な艶めかしさを放っている。その異様な風体、美しくも違和感の勝る外観が合わさることで、無言の圧力が場を支配しようとしていた。

「―――ッ」

 それがどちらの反応であるのか、驚愕であるのか殺意の表れなのか、判然としない。何の前触れもなく、いや感じさせず、道化師が居た地面が爆ぜ、その体躯が颶風となって駆ける。

 相手もまた人形での対人戦に慣れている。

 寺尾はそう確信を持ち、それが故に一切の手心も油断もなく、全身全霊を以て目の前の男を殺すことに決めた。

 目的の為であれば手段は問わない。それが九尾家の遠い分家、しかもその三男という特異な家庭環境で植え付けられた強迫観念である。そのように思わなければ、そのように振舞わなければ、一生燻り続ける人生であったことは想像に難くない。

 倫理など母の子宮に捨ててきた。そんな足枷があっては息をすることさえままならない。

 ここまでどんなに汚い手を使ってでも這い上がってきたのだ。まだまだ俺の人生は途上も途上。これからだ。

 こんな道半ばでケチを付けられてたまるか。

 躊躇うことなく、黒づくめの男に対して凶刃を差し向ける。道化師は両の手を広げ、男を挟み込むように攻撃する。

 瞬発力を活かした突進による肉薄で後方への退避を潰し、左右への回避を許さない。

 だが、虚をつく為の最低限の印では完璧な攻撃は不可能。逃げ道はある。

 即座に体を鎮める「下」、そして―――

「上だとぉッ!?」

 跳躍力を活かして頭上を取る、「上」である。

 有り得ない、訳ではない。オリンピック選手並みの身体能力と、生きた人間との生死を掛けた相対への適応力。それらが揃えば或いは、という程度に注釈が必要だが。

 そのまま道化師の陸の美しい顔面を足蹴に、横方向に跳び退る男。

 そして、

「開」

 空中で閃く合わせて十の指先。

 い号という最高位を持つ寺尾の動体視力を以てしても捉え切れない神速の結印。

 予め解放されていた後部ドアから射出される影。

 着地までの一秒弱、体勢を立て直した道化師を手許に引き戻すより早く、黒い男の人形が攻勢に出る。

 声にならない舌打ちを置き去りにして、道化師を防御体制へ移行。瞬間、途轍もない衝撃が繰り糸を伝わる。

 黒い男の人形は即座に得物に手を掛け居合抜きの要領で一撃を加える。対して、山勘で被害箇所を絞り最低限且つ最速の動きで見事防御してみせる道化師。

 人形師であればこの一瞬で、互いの力量をある程度推し量ることが出来る。

 奇しくも、互いへの評価は同じである。即ち、

「こりゃ予想以上」

「意外とやる、か」

 互いに聞こえない程度の呟き。無意識的に漏れ出るほど掛け値なしの本音。

 そんな言葉を掻き消す速度で、結印、結印、結印。

 抜き身の刀が閃く、道化師の仕込み刀がこれを迎撃。飛び散る砂利で、二台の自動車の塗装が削り取られていく。削られた細やかな塗装の被膜が、絶え間なく立ち位置を変える二体の人形の起こす風圧で巻き上げられる。

 黒い男の人形が大上段から刀を振り下ろす。対して道化師は真っ向からこれを防ぐ。凄まじい金属音、飛び散る火花が薄暗い景色に輪郭を与えていく。

 防がれてなお、知ったことかと力が込められる。重力も味方につけている状況に、僅かずつ旗色が悪くなっていく。

 ざわり、菱模様の束ね髪が意志を持つように動き出す。かと思えば途轍もない速度で黒い男の人形、その足元へと殺到する。

 足を取られる。反射的な回避行動が誘発され、腕の力が緩む。その一瞬を見逃さず、道化師の右足が黒い男の人形の胴を蹴り飛ばす。損傷を与えるというよりも、反動を利用して距離を取ることを目的とした行動である。

「惜しいねえ、ほんと」今度は聞こえるように、黒い男の口が動く「上腕の動きを維持したまま、束ね髪の武装を制御しつつ、本命の前蹴りまで繋げる」結印の速度は緩まない「そこまでの実力があるのにねえ」

「うるせぇんだよ」

 一喝。

 瞬間的に取った距離はごくごく僅かであり、稼いだ時間も微々たるもの。しかし、寺尾の思考はその時間を一切無駄にはしない。

 相手の扱っている人形は不明。現行で用いられている五大家の人形ではなく、もちろん伊那家の人形でもない。それぞれの過去シリーズの人形でもない。鎧武者のような外観には僅かながら見覚えがある気がするが、記憶をゆっくりと探るような時間はない。また、高位の人形師が通常の人形をベースに改造した「異形」と言われる物もあるが、どちらにせよ把握できない。つまり相手の人形から弱点などを見出すことは不可能。

 加えて人形師本人についても殆ど分からない。職業柄、九尾家以外の五大家直下の人形師とも会う機会はあるが、それらの経験で得ていた各流派の「癖」や「雰囲気」といった何れにも該当するものがない。分かるのは途轍もない技量の持主であるということだけだ。

 結果として、相手について判明した事実は何もない。

 青天の霹靂の如く、急に掛かってきた電話。告げられた自身の罪の内容。目的も分からず呼び出された現状。

 何もかもが分からないままだ。

 だが、無駄ではない。分からない、ということが分かった。ならば、それに合わせた立ち回りをしていけばいい。

 理由は分からないが、相手も自分もお天道様に顔向けできる立ち位置ではないようだ。ならばまだ、やりようはある。

 刹那の熟考を終え、再び十の指が動き出す。

 道化師の陸は、一見すると武装を持たない。全てが華美な装飾の裏に隠されているのだ。両腕に仕込まれた刀、自在に動く束ね髪、両脚の杭打機と、シンプルな外観に反して手数の多さは随一である。

 黒い男もそんなことは百も承知であろう、束ね髪の武装について即座に反応できたこともその証左だ。

 ならば、と寺尾は考える。

 ならば、本来の道化師の陸には無い武装に、果たして反応できるのかと。

 手の内を知られている以上、情報戦におけるイニシアチブは完全に握られている。

 そこを逆手に取ってやる。

 だが、チャンスは一度きり。切り札で趨勢を決められなければ、それこそ終わりだ。

 やってみせる。どんな手を使ってでも。俺は他ならぬ九尾家分家筋寺尾家の三男、あの肥溜めのような環境から生まれたい号人形師、寺尾武文だ。

 伺う、その時が来るのを。それまでは耐え忍べ。

 黒い男の人形は精緻な足さばきと精密な斬撃を絶え間なく叩き込む。最早一瞬でも隙は与えない、先のような中断は許さないとでも言う様に。対して寺尾の繰る道化師は少しずつ対応が遅れているようにも見えた。仕込み刀で受けるが流しきれずよろめき、その致命的な隙を隠された武装をふんだんに使うことで誤魔化す。素人目には、そう見えるだろう。

 高度な駆け引きである。劣勢の状況を敢えて作り出す。武装を吐き出しているのも、手の内を出し切っていると錯覚させる為の行為。

 寺尾武文は高圧的で高慢で気位が高い男であると思われがちである。

 それも強ち間違ってはいない。しかし、それが必要な手口であるのならば、プライドなど容易にかなぐり捨てる打算的な男というのが本質だ。

 苦戦しているという雰囲気を作る為に、苦虫を嚙み潰したような演技をすることなど朝飯前。自身の手塩にかけてきた人形をぼろ雑巾のように使い潰すのも当たり前。

 一際大きい破砕音と共に、右手が落とされる。

 続いて束ね髪が根元から断ち切られ、宙を舞う。

 まだ、まだだ。

 身を炙る様な焦燥感を抑え込む。

 美しい面相に刃が突き立つ。飛散する破片が頬を掠め、皮膚が裂ける。

 あと、少し。

 左腕の隠し刀が、石突の打撃で砕かれる。

 止め、とばかりに一際大きな一歩が踏み出される。

 ここ、

 ここだ。

「消えろや」

 ずっと留められていた印が閃く。

 道化師の陸の胴体が弾け、内部機構が露わになる。そこには人形の骨子を担う骨組みや繰り糸、歯車や発条がある―――普通であれば。

 寺尾の口角が上がる。

 そこに収められていたのは、超短銃身の散弾銃。それも三列三段の計九丁。

 禍死吏において暗黙の了解として禁止されている銃。それこそが寺尾武文の真の奥の手であり、切り札であった。

 まさに対人戦への切り札だ。銃刀法が浸透している日本国内であるということ、禍死吏に最適化した人形という伝統工芸品を用いていること、その全てがブラフとして機能する。

 人形が踏み込むということは、人形師も踏み込む。距離は縮まっている。今更避けることはできない。

 九つの銃口が一斉に火を噴く。 

 ほぼ同時に九つの火花と凄まじい金属音が響く。

 それが相手の人形が粉々に破壊された音だと、これこそ勝利のファンファーレであると、よく聞きもせずに、そう確信してしまった。


 勝ちへの確信が、決定的な慢心を生む。


「は?」

 無傷。視覚が現実を捉えた。無傷。

 相手の人形は愚か、人形師本体にも被害が見られない。

 何が起こっているのか、情報の処理が追いつかない。

 馬鹿な、有り得ない。あの距離であの数であのタイミングで、無事である筈がない。

 だとすれば銃に不具合が起きたのか、そうとしか考えられないが、この目と耳朶が、火薬の爆ぜる爆音と眩い発射炎マズルフラッシュを捉えている。

 じゃあ、なんだ。

 何なんだ、あの音と火花は。

 急速に温度を失っていく感情、処理落ちした脳が一つの現実を出力する。

 ―――斬り落としたっていうのかよ、九つの散弾を。

 嘘だ、そんな馬鹿げた芸当ができるものかよ。銃弾を切って落とすなんて、そんなのフィクションの中だけだろうが。そうじゃなきゃ許されねえ反則じゃねえか。

「―――あのさあ、アンタが裏でやってきた汚ねえことがこっちには全部筒抜けなわけだろ?」

 ざり、距離が縮まる。

「告発者がいるのは火を見るよりも明らかってもんじゃないかねえ」

 ざり、距離が縮まる。

「情報の中には、もちろんこの浅薄に過ぎる下品な奥の手についてもあるでしょうよ」

 ざり、ざり、ざり。

「そういう問題じゃねえだろうがよ、こんな」

 こんな、神業。

 二の句は告げなかった。その一言は全てを認めることになってしまう。自分の中の何かが瓦解してしまう。

「一応、確認しておこうか」

 黒い男の指が閃き、既に人形としての役目を果たすことのできないガラクタが乱雑に破壊される。四方に飛散する人形の残骸、そこに接続された繰り糸に引っ張られ、足がもつれて尻もちをつく。

 そんな寺尾を睥睨する二つの瞳には、軽妙な口調とは打って変わって何の感情も汲み取ることが出来ない。その不気味な落差が、生物の本能的な部分を揺さぶる。

「寺尾武文、アンタは自分が班長となる為に対抗馬を強引に蹴落としたきた」ゆっくりと膝を折った黒い男の顔面が、徐々に近付く「有能な後輩、同僚、先輩、その家族」淡々と読み上げられる文面は嫌でも聞き覚えのあるものであった。

「暴力、恐喝、強姦、放火、暗殺、手段は選ばない」そう、その通り「それらを金で雇った脛に傷のある者たちに実行させた」

 まるで蛇に睨まれた蛙のように寺尾武文は動けない。肯定も否定もできない。いや、その姿勢そのものが肯定を顕しているといえばその通りだが。

「資金源は人形技術の流出で賄っていた、以上。何か事実と相違は?」

 質問の体裁を取ってはいるが、仮に否定したとしても聞き入れる気はない。裁判長が判決を言い渡す直前、被告に対して形式的に投げ掛ける言葉と同じ種類のものだ。

「何なんだ、何なんだよアンタは―――」

 絶望の権化、寺尾の目を通した黒づくめの男は、正に死神であった。

「伊那家の狩人じゃねえ、そんな枠組みの業前じゃねえだろ」

 現実感を喪失する程の腕前だ。こんな人形師は、この国全てをさらってもそう居ない。

「テメェの目的は何だ、何なんだよ、一体」

 復讐。寺尾の脳裏をかすめたのはそんな二文字だった。今まで踏みつけ乗り越えてきた障害共、燻る火種は掛かる火の粉となる前に潰してきた筈だ。徹底的に、手段を問わずに。

「復讐だとでも思ってる?」見透かすような言葉、否定のニュアンスに安堵よりもより深い困惑と絶望とが噴出する「二つ、お手伝いをして欲しいだけだよ。籠目隊佐久詰所実働一班の班長且つい号と級人形師であるアンタの腕を見込んでね」

「手伝い?」

「そう、簡単なお手伝い」

 初めて、男が破顔した。張り付けられた薄ら笑いではなく、心底の笑み。しかし、開かれた口にも瞳にも、どす黒い底抜けの絶望が揺蕩っているのを寺尾は見逃さなかった。いや見逃せなかった、既に呑まれている。底なし沼に足を取られるように、最早抜け出すことは能わない。

 真なる死を、死に向かう絞首台への階段を、明確に幻視した瞬間だった。

 抵抗の意志も完全に砕かれ半ば廃人のようになった寺尾を尻目に、不意に黒い男が立ちあがる。僅かに震動する携帯電話をポケットから取り出し、画面を確認すると、即座に耳に当てる。

「禍死吏が?場所は――」

 微かに瞳に光が戻る。

「へえ、それはそれは」

 男の視線が空へ、正確にはその向こう側へと向けられる。

「まあ、問題はないよきっと」気の抜けるような声、次いで「こっちの首尾は上々、万事滞りない」

 ちらりと糸の切れた人形のようになった男へと秋波を送り、

「後は任せるよ、寺尾武文班長」

 

 ◆



 禍死吏が厄介でないことなどない。

 それは自然災害であり、人の意志の介在できない、どうしようもないもの。

 そんなことは分かっている。誰に文句を言うこともできない、諦める外ない。だけど。

 

 ―――こんな最悪なタイミングで。


 行き場のない激情が渦巻く。

 日常が崩れていく。やっと掴みかけた朧げな「心地よさ」の形が、急速に汚泥に埋もれていく。

 同時に、恐ろしく冷徹な思考と怜悧な感情が、揺れ動く内心を雁字搦めに固定していく。

 発生から数秒、既にこの地域のセンサーが禍死吏の発生を察知し、一番近くの籠目隊詰所が動き出している筈だ。

 しかし時間帯も場所も最悪に過ぎる。丁度生徒が最も多い時間帯な上に、統制の取り難い朝の自由時間だ。加えて、近場で田金さんが待機していない。


『緊急放送、緊急放送。禍死吏が発生しました。生徒の皆さんは、お近くのシェルターへ落ち着いて移動してください』

『繰り返します―――』

 

 校内放送が鳴り響き、混乱と不安、恐怖と絶望の波濤が肌で感じられる。

「委員長―――」

 視線を移す。

「委員長?」

 少し俯いた委員長の顔を覗き込む。息が浅く、瞳孔が忙しなく動く。しかし表情自体は魂が抜け落ちたかの様な虚無。逃げ遅れた市民の姿が脳裏を過る。呑まれている。

 早く移動しなければ。湧が人発生してからでは避難が難しくなる。

 窓の外に視線を向ける。見渡す限り空は赤く、完全に半球状の穢土が完成してしまっている。

 もう時間がない。

「委員長!」

 強く肩を揺する。瞳の動きが安定し、現実を直視する。

「え?」

「近くのシェルターに向かうよ、歩ける?」

「あれ、空が、赤」

 息が更に浅く、過呼吸寸前の状態。禍死吏を直視した双眸が強く見開かれ、瞳孔が開く。震えが痙攣になり、繰り糸の切れた人形のように両足がくずおれ、しりもちをつく。

「あ、あ、」

 声にならない悲鳴。像を結ばぬ瞳。彼女は、ここにいない。

 覚えがある。この表情、この反応。


『―――私の母も禍死吏で亡くなりました。父は一応は生きていますが』 


 トラウマ。

 思考が巡る。最適解を探し、脳内の歯車が急激に噛み合っていく。

 俺の体力と筋力で、彼女を背負って移動することは現実的ではない。脱力した人間というのは、体重以前の問題として動かし難い。

 ここで籠城する―――無理だ。ここは一階。どこから湧人が湧いて出てもおかしくはない。最悪、委員長の傍らに奴らが現れることさえあり得る。加えて、護身用の武器類もない、パイプ椅子やつっかえ棒ならあるが、前者は振り回すほどの体力がなく後者では心もとない。

 あるものと言えば、使えるものと言えば。この指に絡まる指輪、繰り糸。

 だがそれ以前に、やらなければならないことがある。

 やるしかない。

 やらざるを得ない。

 委員長の元へ膝を折る。

「委員長、いや。三条瑠璃!」

 ごめん。

 軽く振り上げた手で、彼女の頬を張る。痛い。こんなにも、痛いのか。

「え?」

 衝撃と痛みで、瞳に光が戻る。

「過去に囚われちゃ駄目だ! 引きずられちゃ駄目だ!」

 痛い。彼女の柔らかな頬を張った掌が。自身を棚上げする言葉が。声を張り上げ絞り出す喉が。

 湧出するトラウマを阻害するように、声を張り上げる。生存本能を呼び覚ます。死に物狂いで生きようとする、人間の動物的本質を喚起する。

「生きるんだ! 行くぞ!」

 終わりだ。何もかも。このわずかな時間を彩ってくれた、彼女との日々も、関係性も。

 乱暴に抱き締めるような形で、両の腕を背中に回し、脇に力を入れて、一緒に立ち上がる。

 幸いにも、腰から足にかけて力が入っている。未だ支えは必要だが、何とか自立している。

「わた、し」

「大丈夫、行くよ」

 肩を預けてもらいながら、少しずつ歩を進める。

 半ば引きずるような形で、それでも少しずつ足取りは確かになっていく。

 一歩部室の外に踏み出すと、戦慄した空気、濃厚な死と呪いの感覚。まるで大気が粘性を帯びたかのような、濃い不快感と不安感。それらを体で引き裂きながら進む。


「案山子を出せ!」

「シェルター開けます! 誰か!」

「落ち着いて移動しろ! 大丈夫だ!」

 

 遠くに聞こえる常套句。

 委員長の体重を負担しつつ、小人を引き摺る形で最も近いシェルターへと向かう。

「武美、くん」

「大丈夫、ここにいる」

 強く俺の制服を掴む指。そこから伝わる震え。不安。焦燥。恐怖。

 それらも引き連れながら、廊下を進んでいく。

 中途で非常用の案山子を展開していく。来る。間違いなく奴らが。人間の根源的な恐怖心を揺さぶる、濃厚な臭いが充満する。委員長もそれを感じている。

 そして、最悪というのは得てして重なる。

 焦燥と恐怖とが、視線の先で結実する。

 白いリノリウムの床に、染み出す泥濘。赤と黒の溜りから、ぬるりと人型が現れる。

 先程起動した案山子は背後にある、戻るか。いや、戻れば更に道のりは遠くなる。何とか抜けるか。

 囮になる。委員長には何とかして、這ってでも自身で避難してもらう外ない。

「委員長、ここは俺に任せて、先に―――」

「嫌ッ!」

 見開いた瞳に涙を溜め、開いた口からは否定の言葉。必死の形相で、俺の提案を否定する。制服を握る指に、より一層力が入り、骨が軋む音さえ聞こえてきそうだ。痛い。

「大丈夫、ここさえ抜ければすぐに避難組と合流できる」

 なるべく穏やかに説得を試みるが、視界の先の湧人がこちらを捉えているのも確認できる。

「駄目! だめ、死ぬ。また、」

 不味い。再びトラウマが鎌首をもたげている。折角戻った朧げな意識が侵食されていく。指の力は強く、掛かる体重も徐々に重くなっていく。

 このままでは人形を繰ることさえできない。委員長を引き剥がせばその限りではないが、武装もないただの演劇用の人形では、僅かな時間しか稼ぎ出せない。彼女は歩けない。

 どうする。

 どうすればいい。

 無辜の市民が犠牲になる。それは、絶対にあってはならない。

 その間にも、湧人は着実に距離を縮めてくる。

 焦り。幾度もの禍死吏にその身を置き、どんな人形でも事も無げに扱ってきた。だというのに。

 どうする。距離が縮まる、目測で後十メートルもない。

 委員長の足から完全に力が抜け落ちる。全身で支えるも、立っていられない。へたり込む。残り七メートル。

 強い人形がなければ、俺は何もできないのか。残り四メートル。

 俺は、何の為に。残り―――


「武美! 三条!」


 轟く怒声と共に、鈍い音。

 目と鼻の先に居た湧人が、壁に叩きつけられ、ひしゃげた頭部を晒しながら壁伝いに倒れこんでいく。

「渥美先生!」

 護身用の警棒を両手に構え、肩で息をする担当教員の姿。禍死吏の中にあっても、トレードマークの赤いジャージは色褪せない。筋骨隆々とした両の腕が、俺と委員長の肩に置かれる。

「お前ら、怪我はないか?」

 手早く俺と委員長の姿を視診しつつ、努めてゆったりとした声掛け。

「怪我はありません。ただ、彼女は一人では動けないかと」

 状況報告は端的に行う。染み付いた言動。

「そいつが死んでる内に移動するぞ」ちらりと向けた視線の先。赤黒い人型が、徐々にその輪郭を失っていく。

 具体に明確な死はない。致命傷を負い活動を停止した場合、一度その体を穢土に溶かし、別の場所で何事もなく再生する。【土地還り】と言われる現象だ。加えて、死因を克服し進化していくという厄介な性質もある。

「いや、もう遅いみたいですね」

 思った以上に土地還りは早い。既に先の湧人は泥濘に溶け、跡形もなく消えている。

 そして、俺たち三人を囲い込むように溜りが発生。

 だが、先ほどまで感じていた絶望感はない。

 活路は見えている。

 上着のボタンを外す。そして、未だ俺に縋りつく彼女の指に手を掛ける。

「委員長、ごめんね」

「い、や、だめ」

 それは、最後の繋がり。俺と彼女とを結ぶ、俺と日常とを結ぶ、一本の蜘蛛の糸。

 無言で、それを断ち切る。

「あ、」

 小さな声と共に、寄る辺を失ってへたり込む彼女から目を逸らす。

 上着を脱ぎ捨てる。

「渥美先生」

 静かに呼びかける。

「俺にはやっぱり、無理みたいです」

「武美、やめ―――」

 それ以上、言葉に耳を傾けはしない。俺は人形。もしそれが命令ならば、従わざるを得ない。だから、耳を閉ざす。

「すみません、彼女を頼みます」

 背後で聞こえる怒声が―――


『人形を使う人形たれ』

「人形を使う人形たれ」

 

 ―――聞こえなくなる。

「唵」

 印を結び、駆け出す。

 あるべきところに帰る。いるべき場所に戻る。

 俺の居場所は、人形を使う人形の居場所は、いつだってこの赤い空の下。そこだけなのだから

 

 

 七人の小人が、赤く染まる校内を走り、踊り回る。

 人型に誘引される性質を持った湧人は、よりアクティブなこちらに気を取られる。

 できることは囮だけ。応戦は不可能だが、一つだけ方法はある。

 街中には勿論、一定以上の規模の施設や公的な施設にも、対禍死吏用の人形が配置されている。人形師としての資格を持つ者、そうでなくてもノウハウを持つ者、兎にも角にも突発的な禍死吏の中で、たまたま居合わせた人形を動かせる人材さえも有効利用する為の手段。

 この学校にも、二体だけ配置されている筈だ。

 そこまで走る。ひた奔る。

「こっちだ!」

 大声を上げつつ、小人の一体を湧人へと差し向ける。

 振りかぶった腕を視認し、引き戻すことで、興味を引きつつ空振りを誘発。時間を稼ぐ。

 離れすぎても良くない。ただでさえ新鮮な「人型」がそこかしこに居るのだ。俺にだけかかずらって貰わねば困る。だから駆け抜けることもできない。

 走る速度を一定に保ち、時折小人を使ってちょっかいを掛ける。

 時に声を張り上げ、俺に標的を移す。

 委員長達から離れて体感二、三分。シェルターへの避難の導線から湧人を引き離しつつ、非常用の人形の元に向かう。

 もう籠目隊が到着してもおかしくはない。

 あと少しの辛抱だ。

 上がる息を整えつつ、小走り程度の速度で走る。常に捉え続けている湧人の数は既に六体。

 階段を上る。向かうのは本館の二階、校舎の中心部分にある職員室。その前にある鈍色の箱。

 壁に、手すりに、小人が縦横無尽に張り付き、時にその脆弱な斧で具体を殴り飛ばしながら挑発する。

 階段を登り切り、二階に到着。流石に生徒も教師も見当たらない。好都合だ。窓から校庭を確認すると、遠目に籠車が見える。籠目隊も到着したようだ。櫓が展開していく。

 誘導した六体の湧人が二階に到達するのを目の端に捉え、職員室へ走る。

 既に目的の物は見えている。あそこにさえ到達できれば。

 それが油断に繋がる。

 籠目隊が到着していること、見える範囲に守るべき市民の姿がないこと、目的の物体を視界にとらえていること。

 焦燥や不安は、警戒心の基礎。基礎を失えば、どんなに強固な城郭も容易く崩落する。

「ッ!」

 一体、柱の陰に隠れている湧人が居た。

 その横を通り過ぎる寸前、その存在を認知した。遅過ぎる。

 時間感覚が緩慢になる。引き裂く大気が粘性を持って纏わりつく。

 視界に捉えた湧人は、既に腕を振り下ろしている。

 そう、遅い。もしこれが籠目隊の一般的な隊員【は号の人形師】程度であれば、反応すらできずに致命傷を受けるだろう。それより少し上、【ろ号の人形師】くらいになれば、咄嗟の防御行動で即死は免れる可能性がある。

 隊長クラスの【い号の人形師】ならば、そもそもこんなミスは犯さないだろうが。

 しかし。

 俺は【武美】だ。

 田金さん曰く、まぎれもない天稟の素質、疑いようのない最高峰の原石を、非の打ちどころのない完璧な製法で研磨した結果生まれた、百年に一度の傑物。

 神速で指が閃く。

 七人の小人が弾かれた様に方向を転換。最も湧人に近い一体を、他の数体が全力で蹴り飛ばす。

 衝撃。指が折れるかのような感覚。しかし無傷だ―――俺は。

 木片と歯車、鉤の欠片を撒き散らしながら、小人が床へと叩きつけられる。

「あ、―――」

 演劇部の何代か前の先輩が、卒業制作として残したそれが。呆気なく、壊れ。

 

『素晴らしい、もうほんと素ん晴らしいじゃないか! 武美君』『こんな特技があったなら教えてよ~』


 ―――あ


『貴方の人形繰りを見て、心奪われたんです。貴方の繰る人形達と、白雪姫を演じたいんです』『それが、私に許された夢なんです。唯一の救いなんです』


 ―――ああ、、、

 

『それでも、良いんです。今日だけでも、たまたまでも』『武美君と演劇をすると、楽しいんです』


 ―――。


 こんな日が、続けばいい。

 そんな夢は、有り得ない。


 転がる様にして具体から距離を取る。視線を戻す。右手に触れる、冷たい金属の感覚。

 蓋を開け放ち、指を差し入れる。指輪を十の指に嵌め、ノッチを調整。


「開」

 

 室内戦に特化した人形、赤き貴公子、【伊那家謹製・アンフェイフォー】が目を覚ます。


「唵」


 刹那、目の前の具体が、上半身を引きちぎられて擱座する。

 後ろの六体を丁寧に削いで、丹念に切って、容赦なく抉って、舞う様に裂いて、徹底的に潰して、衝動的に貫いて。

 土地還りなど、幾らでもすればいい。どこに居ようと見つけ出して狩り尽くせば事足りる。

 歩く。

 歩く。

 歩く。

 歩く。

 繰る。

 歩く。

 歩く。

 繰る。

 歩く。

 歩く。

 歩く。

 繰る。


 明ける。



 ◆


あの日、母は家を出ることに消極的な様子だった。

「るーちゃん、今日はね何だか嫌な予感がするのよ」膝を折り、幼い私と目線を合わせ、頬に両の手をあてながらあくまでも真面目な表情で続ける「多分、買い物に行った先で財布を入れ忘れているのに気づくだとか、目を付けた割引のお惣菜が目の前で掻っ攫われるだとか、そういう最悪なことが起きる気がするの」そして宙に目を泳がせ、何か合点がいったようにこちらに向き直り「ほら、朝の占いも最下位だったじゃない?ね?」と捲し立てる。

 母は、お母さんはいつもそうだった。節約倹約を口癖とし趣味であると公言する割には無駄な出費が多く、家の中を用途の分からない物品で埋め尽くしたり。割引シールをこよなく愛するという割には人参やピーマンの入ったお惣菜には頑なに手を付けなかったり。

 今日の朝のニュースで自身の星座占いが最下位だった時には、神妙な面持ちで「お母さん、リアリストだから。占いとか、ただの確率論なのよ」と呟いていたのに、いざ買い物に出ようと提案するとその話題を持ち出したり。

 そう、そんなごく普通のお母さんで、私はそんな母のことが大好きだった。

「えー! おはぎちゃんのポーチ欲しい! なっちゃんもりんちゃんも買ってもらってた!」

 その当時、保育園では各々がハンカチやポケットティッシュを入れるポーチを持参するきまりがあり、大好きだった和菓子モチーフのキャラクターがプリントされたものがどうしても欲しかったのだった。同じ組の女の子達が続々と用意してくるのを目の当たりにした幼い日の私は、原因不明の焦燥感に駆られていた。

 平日は母のパートが忙しく、買い物の時間が取れなかった。お迎えの時などからしきりに、もううんざりする程におねだりする私をなだめる為、「次の土曜日に一緒に買いに行こうね」という魔法の言葉を、まるで殺し文句のように言い聞かせていた母だったが、ここにきてどうにも面倒になってきてしまったらしい。いや本当のところはどうか分からない。面倒になった、という風に記憶してはいるが、蓄積された疲労感によって億劫になってしまった可能性も大いにある。

 当時から父は家に帰ることが少なく、休日もまばらで、週末に家族みんなで遠出するお友達の話がどうにも苦手だった。

 そんな中、平日はパートと家事と三人の育児。休日は溜まった家事と育児。

 どこにも逃げ場のない母が、私たち子どもに見せない舞台裏で疲れ果てていたとしてもおかしくはない。

 いざ買い物に出ようとすれば、絶賛反抗期一歩手前の健康優良不良少女の私と、まだ生まれたばかりの双子を抱えていかなくてはならない。それは確かに億劫にもなるか。赤子二人だけでも気を遣うのに、そこにお転婆盛りの娘。戦争に出るくらいの気持ちでいたとしても何ら不思議ではない。

 だが、そんなことを忖度しろと言われても土台無理だ。幼い私にとって、おはぎちゃんのポーチを一刻も早く手に入れることは至上命題であったのだ。

 私が頑として己の意見を曲げない事を察した母は、少し待っていてねと駄々をこねる私を置いて、電話の子機を手に取った。

 程なくして玄関のチャイムが鳴り、当時とても良くしてくれていたお隣の誠子さん―――確か本名は坂田さんだったか―――が姿を現した。

「すみません、お手数をおかけし」

「あー良いの良いの、気を付けて行っといで~」誠子さんは母の謝罪を中途で断ち切り「瑠璃ちゃん、良い子で行ってくるんだよ」と私の頭に手を置く。

 いつもお菓子をくれたり、母の帰りが遅い日にはお部屋にお邪魔させてもらったりと、優しいおばあちゃんだった誠子さん。古き良き肝っ玉母さんの気質で、よくお母さんと私たちを気遣ってくれたっけ。

 何にせよこれでお買い物に行けることを察した私は、現金にもすぐに機嫌を直し、お気に入りのバッグにお気に入りの小物類を詰めていった。玄関にある姿見に映る、子役タレントのようにはち切れんばかりの笑顔の私。その私の黄色い催促を受けながら、洗面所で慌てて最低限の化粧をしている母。

 そんな私たちの姿を、慈愛の表情で見つめる誠子さん。

 いつも通りの、私の日常だった。

 しびれを切らした私が玄関で腰を下ろした頃、ようやく母の準備が完了した。

「おそーい!」

「ごめんごめん」

 化粧というものに特段の必要性を感じていない年頃故の不満、それを覚えているからこそ、母の苦労については察して余りある。

 動き易い服装に最低限のメイクを済ませた母が、姿見を数度チェックした後に扉に手を掛ける。誠子さんに再度お礼と挨拶をして、私の手を取る。

 本当に久し振りの母と二人きりでのお出かけだった。

 双子の弟妹が出来てから、母の目はそちらに偏重していった。仕方ないことであると幼心に理解しつつも得心のいっていなかった私は、大好きなお母さんを独り占めにできる時間が出来たことも、筆舌に尽くしがたいくらいに嬉しかった。

 力いっぱい、手を握る。どこにも行かないように。

 少し痛がりながらも、優しく握り返してくれる母。

 それに応えるようにはにかみながらまた握り返す。

 私はここにいる、私を、私だけを見ていてほしい。

 言葉にできない、自覚もできない気持ちを乗せて。

 洗足池駅の方面に向かって歩くだけでも、心が躍った。念願のおはぎちゃんのポーチが手に入ることも、喜びに拍車をかけていた。

 母は縦方向に跳ね回る私の扱いに少々難儀しつつも、

「ポーチ買ったらさ、少しだけお茶していこうか?」

「いいの!? るーちゃん、せるびーでケーキ食べたい!」

「シェルビーね、良いよ~。お母さんもケーキ食べちゃおうかな」

 そう言って笑い合う。

 くしゃりと崩れる母のそんな顔が好きだった。大好きだった。

 そんな幸せは、唐突に現れた夜の帳に崩された。

 そこからは正直よく覚えていない。周囲に響き渡る警笛と警鐘。怒号と悲鳴、それに掻き消されてしまう自身の嗚咽と母の声。

 極大の恐怖と滂沱の涙で、視界も定かではない。

 ただただ、世界が赤く、赤黒く染まっていったのだ。空も、太陽も、そして―――

「お、かあさん?」

「大丈夫、大丈夫だからね。占いなんて、ただの確率だから―――」

 私にも、そして自分にも強く言い聞かせるような言葉。

 だけど、幼い私にも大丈夫でないことは分かる。

 心地よい温もりが指の隙間を擦り抜けていく。

 痛いほど抱き締められて息苦しい。

 視界を塞がれ、耳を叩く喘鳴。

 噛み締めた口と不協和音。

 腹部に温かい、濡れ。

 それが命だと理解。

 重い、冷たい。

 温かい。

 消。

 母は死んだ。

 その日の禍死吏に巻き込まれ、私を庇って死んだ。惨い死に方だった。

 死んだのは母だけじゃない。父も、その心も、死んだ。

 幸せな未来も、自由な将来への嘱望も死んだ。

 幼い弟妹達を取り巻く環境も死んだ。

 私のせいだ、私が。

『俺は、人形師じゃないよ』

 救われたような気がした。貴方が、あの地獄から遠いところに居ることが分かって。それが確信に変わって。

 だから、だからこそ。いや、そうだとしても―――


「嘘つき」

 

 ―――そんな言葉を掛けたいわけじゃない。

「人形師じゃないって、そう言ったのに」 

 命がけで私を救ってくれた貴方に、こんな言葉を投げ掛けたいわけじゃない。

 でも、どうしても止められない。何もかもぐちゃぐちゃだ。整えた髪も、化粧も、心も、感情も。

 あの時、縋りついた指を引き剥がされた瞬間。心のどこかに亀裂が入った様な気がした。どうしようもない喪失感。何もできない、どうしようもない無力感。

 また失ってしまうのだと、打ちひしがれた。 

 また、私のせいで。大切な人を。

「嘘じゃない。俺は人形師じゃない」恐ろしいほど冷静な言葉「人形を使う人形だから、その為だけに生まれ、育てられた」

 抑揚のない声は、台詞を読まされているかのように無機質だった。

「ごめんね、俺は君たちと生きるべきじゃない」

 感情のない、熱のない、それでも強く感じる拒絶の意図。

「それは、貴方の意志?」

「―――人形に、意志は要らない。俺は、ただ禍死吏に対応するシステムのようなものだから」

 徹底した怜悧。取り付く島もない。心が揺さぶられる。足がすくむ。

「私と、演劇をするの、楽しい、って」 

 言葉が上手く紡げない。どうしたらいい。何を言えば。

「私には、今しか、ないの。自由に、好きなことに、打ち込めるのは」

 たどたどしい言葉、もどかしい。何を言うべきなのか、何を言えば貴方が振り向いてくれるのか、わからない。

 台本があれば、どんなに長い台詞だって、歯の浮くような文句だって、淀みなく告げることが出来るのに。

「貴方となら、きっと、」

 悔いの残らない、夢の終わりを描ける。未練を残さない、人生で最高の夢の終わりを。貴方とならば。

「ごめん」

「せめて、貴方の意志なら」

 諦めもついた。

「自分で、選びもしないで、勝手に、居なくなるなんて―――」

 無責任。と言おうとして、言えない。そんなことを言う権利は、私にはない。

 そもそも勝手に期待した、彼の気持ちを考えず、夢を預けようとした。

 なのに、裏切られたかのように言うのは、余りにも傲慢だ。

「ごめん」

「―――いいえ。こちらこそ、ごめんなさい」

 そうだ私が悪いのだ。彼は悪くない。

 私があの日、渋る母を買い物に付き合わせなければ―――『母は居なくならなかった』

 私があの日、恐怖を刻み付けられてさえいなければ―――『武美君は居なくならない』

 ただ、それだけ。

「さようなら、武美君」

 踵を返す。

 暖かい雫が頬を伝う。

 この涙が何を意味するのか、私にはわからなかった。


 

 ◆

 

  

 壊れた七人の小人を持って部室に帰り、部長と副部長に対して謝罪の置手紙をしたためたところで、携帯電話が振動した。

 覚えのあるメロディ。田金さんからのメールである。

『君が無事でよかった。幸い、学校関係者に被害は殆どない。たまたま居合わせた人形師なら、表彰されるレベルの事だ』

『気に病むことはない』

『ただ、事実として君は遊撃隊だ。しばらくの間は静かに休んでほしい』

 要は謹慎。ということだろう。

 籠目隊において湧人をいたずらに撃破し、土地還りを誘発することはご法度である。次に湧き出る場所が、人形師の即応できる範囲の外かもしれないからだ。もしそこに、避難が遅れた市民が居たらどうしようもない。更に言えば、湧人は土地還りをする度に、直前の死因を克服し我が物とする。

 より強く、より硬く。

 だというのに、俺は。

 もし、避難がもっと遅くなっていれば。その避難者の導線上に、奴らが湧き出ていたら。そこに、委員長が居たら。

 早計だった。未熟だった。

 感情に振り回されてしまった。

 それは怒りだったかもしれない、後悔だったかもしれない。

 確実に言えることは、俺が中途半端に人間のふりをしてしまった事が、全ての原因であるということ。

 あの日、委員長から演劇部に誘われた時。手を取ってしまった。勘違いしてしまった。

「ごめんなさい」

 頬を伝う雫。

 手紙に落ちて滲んだそれが、何に起因するものなのか。

 俺には分かりかねる。





『本日未明、長野県佐―――』

『籠目隊佐久二区詰所所属、実働一班班長であった、い号と級人形師―――』

『国宝にも指定されている人形―――の疑いで』

『現在も行方が分からず―――』

 ニュースを聞き流す。

 琴線に触れるワードだが、意識して認識しようという気持ちさえ湧かない。


『続いてのニュースです。昨日、目黒区碑文谷付近で発生した禍死吏―――』

『穢土の範囲には区立明浄高等学校が―――』

 同様。

 堂々巡りする意識。それさえも邪魔に感じる。

 学校は未だ休校であるようだ。仕方がないだろう。禍死吏対策用の案山子や非常用の人形さえ使われている。設備や備品の修繕・補修に加えて、初めて禍死吏に巻き込まれてしまった生徒たちの心理的ケアも必要だ。

 ―――まあ、そんなことは俺が気にすることではない。

 同じことが起きた時、同じことを繰り返させないこと。

 その為にも、もっともっと。人形を繰らねばならない。

 立ち上がる。

 壱の蔵へ向かう。

『東京での禍死吏の発生件数が、今週だけで―――』



 ◆



「武美、はな。五大人形家に数えられてる」いや、と頭を振り「数えられていた一族だった」

 仲間の死を悼むかのように寄り添いあっている七人の小人を撫でながら、部長が呟いた。誰にともなく。

「人形五大家にはそれぞれ特色がある。九尾は伝統、倉上は工業、名原は技巧、伊那は外交」

 そして、

「武美は改造。それも、一族の人間をだ」

「人間、を?」

 我慢できず、疑問が口をついて出る。人形を、ではなく?

 沈痛な面持ちで、部長は続ける。

「そう。武美家が掲げていたのは【最強最高の人形遣いの生産】即ち、【人形を使う人形】を作る事」

 

『人形を使う人形だから―――』


「人間的な弱点を徹底的に省き、精密且つ緻密に人形を扱う存在を作り出す」

 人であれば必ず生ずる弱点、消せぬヒューマンエラー。それらを全て、後天的に消そうとしていたということか。

「その為に、幼い頃からの英才教育は元より、指の関節を増設する手術、ある種の暗示や洗脳といった方法さえとられていた」


『―――その為だけに生まれ、育てられた』


 言葉が幾度もリフレインする。

 神妙な面持ちが、何度も目の前へ蘇る。

 彼の指に触れた時の感触が記憶の浅瀬から返ってくる。

 冷たく、硬い感触。縦横に走る白い線は、縫い痕だったのだろうか。

「しかし、現在五大家とはいっても武美家の存在は形骸化しているといっていい」

「十年前の禍死吏、ですか」

 あの日、テーブルの向かい側で彼が語ったことだった。その時はこのようなバックボーンがあることなど、考えもしなかった。いや、違う。そうではない。考えないようにしていたのだった。

「―――そうだ。十年前、武美家を含んだ超大規模の禍死吏が発生した。近年では最大とされている、二里級の禍死吏だ」

 二里、一里が約四キロメートルだから、直径約八キロメートルにも及ぶ穢土地が出現したということだ。直径八キロといえば、碑文谷を中心としても渋谷や品川の一部を巻き込むほどの大きさだ。ここ数十年で最も大きな自然災害としても記録されている。

 十年前の出来事ではあるが、ニュースでもしきりに報道されていた事、なにより私の家からでも見えた赤黒い半球の禍々しさから、未だに記憶に残っている。

「一般的な禍死吏、この前のやつなんかが正に平均だが」

「一町級、直径約百十メートルだね」

 副部長が補足を加える。

「そして禍死吏は穢土の直径に被害状況が比例する。湧人の総数と質が幾何級数的に上がるからだ」

 日本の学生であれば、義務教育までに習う知識だ。大半の人々は、きっと忘れてしまうようなことだけれど。

「最強の人形師を抱える五大家は、単純な質量の暴力の前に全滅した」一度言葉を区切り「そう言われていたんだがな」

「部長と副部長は、知っていたんですか?」

 そのつもりはないのに、どうしても言葉尻が強くなる。糾弾するような物言いになってしまう。

 分かっている、二人を問い詰めることがお門違いなことくらい。責められるべきは、二人ではなく私の方だということくらい。

「ごめんね瑠璃ちゃん」

「すまん三条。確信はなかったし、確信を得るべきでもないと思っていたんだ」更に「武美は人形師であることを隠していた。そのつもりがあったのかどうかは分からないが」と続ける。

「ねえ、瑠璃ちゃん」

 副部長が私の肩を抱きよせながら、静かに、まるで我が子を諭すように言う。

「はい」

「武美君には、ちゃんと意志があると思うよ」

「はい」―――分かっている。

「わざわざ、部活動なんて入る必要もなかった。もし、人形だって言うなら、余りにも合理的じゃないよね」

「はい」―――きっと、その通りだ。


 本当は、分かっている。

 彼自身がどんなに誤魔化しても。

 いや、きっと彼自身も、分かっている筈なのだ。


 目線を上げる。

 力なく項垂れた七人の小人。痛々しい上半身の断面からは、鋭利な金属や割れた歯車、絡まった繰り糸が見える。

 しかし、人形は動かない。

 もう、二度と。



 ◆



「これ、が本当にそうなのかねえ」

 黒い帽子を目深に被った男が、ちらりと後部座席に目を向けて言う。

『幾度かの実証実験を行っている。お前も結果は知っているだろう』

 電話口からは、電子音をつぎはぎに合成した歪な声。性能の良くない携帯電話越しのスピーカーであることも手伝い、出来の悪いB級ホラーの様相を呈している。

「そうだね」

 視線は暗い車内の奥深くに鎮座する、古い木製の箱に向けられている。

『奴は?』

「狭い場所は嫌いじゃないみたいだ、狭い箱の中でもぐっすり」

 見えもしないのに、わざとらしく肩を竦めて見せる。

『い号と級、実力だけなら勿体ないくらいだが』

「そう」だねと継ごうとして「でもないさ。我欲に目が眩み、技術を流出させた上に、余りにも多くの未来ある人々を舞台から蹴落としてきたんだ―――」先程までの飄々とした口調が一転する「―――どうしようもない老害だ」

『間違いない、切り捨てるべき病巣だ』

 不快な電子音、抑揚のない言葉。しかし、それでも隠し切れない感情が透けて見えるように感じる。フランケンシュタインの怪物、そんな言葉が脳裏を過る。

「起動まで、まだ少しあるね」

『ああ、事後処理のシナリオも問題ない』

「流石、エリートは準備も良いね」

『―――後は任せる』

 一拍の後、通話が途切れる。

「はいはい、任されましたよ」



 ◆



 アラームが鳴り響く。

 聴覚、視覚と感覚が覚醒していく。

 どうやら、蔵の中で倒れこんでしまったようだ。慌てて携帯電話を開く。特に連絡はない。胸をなでおろす。

「根を詰め過ぎたか」

 本質を見失っては駄目だ。全てを忘れる為に、雑念を排する為に、人形繰りに没頭し過ぎてしまうなど。それこそらしくない。

 鳩歩の後、力なく伏せてしまった武士壱號を待機状態に戻し、壱の蔵を出る。すっかり日が落ちてしまっている。それもそのはず、既に夜の十一時四十分。蔵に籠ってから五時間以上が経過している。

 腹の虫が泣いている。

 遊撃隊として、常に万全の状態を期しておかなければならない。

 中庭から母屋へと上がる。既にとっぷりと日は落ちているが、中庭に面している大きな窓から、白い月あかりが差し込んでいる。それを頼りに台所へと歩を進める。

 広過ぎる台所。あの禍死吏までは、武美の一族全ての食を賄う鉄火場のような場所だった。

 皆が真剣な顔で食材を切り、炊き、焼き、煮る。出来上がった料理を試食し、盛り付け、綺麗に並べ、足早に運び出す。

 そんな情景が、全て妄想だったのかと感じてしまうくらいに、静寂が全てを包み込んでいる。

 通路から最も近い戸棚を開ける。今はここくらいしか使っていない。内部には電子レンジで炊けるパックのご飯や缶詰類、そしてインスタントラーメンなどがぎっしりと詰まっている。

 一番手近にあったインスタントラーメンにお湯を注ぎ、割り箸で封をし、客間へと来た道を戻る。

 あまり長居したくはない。特に、賑やかで楽しかった記憶が染み付いている場所には。

 足早に帰った客間では、ニュース番組が点けっぱなしになっていた。

 これといって見たいものはないし、見るべきものもない。そのまま、テレビの前のソファへ腰を下ろす。

 番組の右上には十一時五十三分と表示されている。

 取り上げられているニュースも特筆すべきものはない。

 少し早いと思うが、インスタントラーメンの蓋を開ける。ふわりと立ち上る湯気と醤油のかぐわしい香りに食欲が刺激される。

「いただきます」

 割り箸を口に咥え、割る。小気味の良い音が空しく響く。

 ぼんやりと見つめる先は、ニュース番組そのものではない。寧ろ、時間の積み重ねの方が興味深い。

 十一時五十七、五十八。

 口の中で、少し芯の残ったラーメンが咀嚼されていく。

 五十九、

 チキンの風味が強い醤油スープを嚥下する。

 零時。

 日を跨ぐ。


『き、緊急ニュースです! 東京都大田区にて禍死吏が、禍死吏が発生しました!』

 

 ―――は?


『大きいです、規模は―――え、に、二里!? し、周辺住民の皆様は―――』

 

 二里級禍死吏。側頭部に殴られたような衝撃。十年前の記憶が、濁流のように襲い掛かる。

 そして。

「委員長―――」

 


 ◆ 

 


 午後十一時四十分。

 今日も父は帰らなかった。というか最後に連絡を取ったのはいつだっただろうか。それさえ定かではない。

 一時間少し前まで騒がしかった子供部屋も、今では寝息といびきと、時折大きい衣擦れの音が聞こえるのみになっている。

 リビングのテーブルの上、広げた参考書と散乱する筆記用具。全くもって勉強が捗らない。今日だけ、という訳ではない。勉強だけ、という訳でもない。武美君から目を背けてしまったあの日を境に、何もかもに身が入らない。それを是正しようという気持ちすらも湧き出てこない。

 それは、白雪姫を理想通り演じることが出来なくなったから。

 本当に、それだけなのだろうか。

「お腹空いた」

 ぽそりと呟く。それもそうだ。既に夕食から四時間以上が経過している。身が入らないとはいえ、脳は無理やりにでも動かされていた訳で、その分のカロリーは確実に消費されている。

 いつもの私ならば、きっとホットミルクでも飲んで眠るのだろう。

 しかし、今日はそういった気持ちにはならない。

 年頃の女子ではあるし、健康上の問題もある。しかし、そういった繊細な懸念に従える程、心は穏やかではなかった。

 ある種の自傷行為、なのかもしれない。

 台所へと静かに移動し、戸棚を開ける。非常食として買い込んでいるインスタントラーメンを手に取る。

 栄養表示を無視し、電気ケトルに水を注ぎ、電源を入れる。

 正確に計量した一杯分の水は、すぐにお湯へと代わる。気泡が弾けて消えるのをジッと意味もなく見つめてしまう。今は、意味のあることに逃げることさえ難しい。

 お湯を注ぎ、付属のテープで蓋を固定する。

 ちらりと壁掛け時計で時刻を確認。十一時四十七分。完成は五十分か。

 こんな時はテレビでも意味なく点けてみるのも良いのかもしれないが、テレビは一年前、経済的困窮によりリサイクルショップに消えている。思えば、母が居なくなったのを境に随分と部屋がすっきりしたものだ。死んだ人間よりも、死んだ部屋の方が代謝が良いのかもしれない。

 所在なく携帯電話を開いてみるが、特にすることもない。いや、するべきことはあるのかもしれない。でも。

 携帯電話を閉じて、参考書をペラペラと捲ってみる。

 小さい文字の羅列、白黒の図説。解像度の低い画像を見ているような思いだ、意味を拾うことができない。

 十一時五十分、の二十秒前。

 もういいか。

「いただきます」

 弟妹を起こさないよう、ごく静かに手を合わせる。

 蓋を開くと、ふわりと立ち上る湯気が温かい。鼻腔をくすぐる醤油と化学調味料の香りが、食欲を喚起させる。

 麺を一啜り。続いてスープを一口、口に含む。美味しい。空腹にうま味調味料が染みる。それ以上に、温かい食べ物を食べると、少しだけ気持ちが賦活するのを感じる。

 一口一口を噛み締めていく。

 箸は止まらない。

「ごちそうさまでした」

 気づけばスープまで飲み干し、息をついていた。

 少しの間、余韻を噛み締めるように虚空を見つめる。視界の端の時計は十一時五十七分を指している。

 もうそろそろ寝ないと、明日に差し支える。そうだ、私の現在のコンディションに関わらず、時間は無慈悲に経過していく。明日の朝、五時三十分にはアラームと共に叩き起こされ、朝のルーチンワークが始まる。

 少し憂鬱になりながら、インスタントラーメンのカップを持って流しに向かう。

 軽く水ですすぎ、ゴミ箱へと入れる。そういえば明日は何かのゴミの日だったような気がする。

 思い出すのも億劫で、明日の自分に任せることにし、参考書と筆記用具をまとめて移動する。

 リビングの電気を消す寸前、最後に見た壁掛け時計は丁度零時を指した。

 電気が消える。

 今日が終わる。

 そして、


 赤い夜が来た。



 ◆



 物音。

 それを耳朶で捉え、男が目を覚ます。

 目深に被った帽子の向きを整え、腕時計で時間を確認する。二十三時四十分。

「流石に長野からとんぼ返りは堪えたか」

 小さな呟きは、後方からの物音に掻き消される。後部座席、大きな木製の箱が小刻みに揺れている。その動きをしばし確認した後、一度伸びをして背骨を伸ばす。

 固まった関節と筋肉から悲鳴が聞こえるが、後方からの物音に掻き消される。

 ドアを開け、車外へと出る。

 夜風が頬を撫で、優しく一息吐く。

 車外から確認すると、微震しているのが見て取れるが、

「ま、こんな場所に早々人目はないし」

 東海道新幹線と湘南新宿ラインの程近く、御嶽山駅周辺に無数に存在する公園の内一つ。その数少ない駐車場の中でも、最も人目に付きにくい木々の奥深く。まさに都会のデッドスポットともいえる場所だ。

「問題ないね」

 呟きながら車体の後部へと回り、周囲を確認した後、トランクを開ける。

 三列シートが取り払われ、二列シートも跳ね上げたことで生まれる広大な空間。その半分ほどを占有する怪しげな木箱が、実質的な体積とは別の圧倒的な存在感を放っている。

「流石に人形もあるし、手狭になるね」

 視線を移した先、木箱に隠れるようにしてもう一つ、箱が安置されている。

 しばし目を閉じ、人形が納められている箱に触れる。

 二三時四五分、携帯電話が振動する。

 目を開ける。

 箱の下、台車の四方にあるキャスターの留め金を開放する。固定が外れ、より振動と物音が激しくなる。

 全身を使って台車ごと箱を移動させる。

 トランクを開け、展開式のスロープを設置。

「よっと」

 重い荷物が転がり落ちぬ様に、全体重を箱側に預けながら、慎重に車外へと運び出す。

 台車を傾け、荷をずらし、器用に箱のみを地面に着地させる。

 かなりの重労働だ、腰に手を当てて息を吐く。

 二三時五十分、再度携帯電話が振動する。

 男は、おもむろに懐から分厚いメモ帳を取り出す。辞書のような存在感を放つそれから、瞬時に目当てのページを探り当てる。

 深く息を吐く、深く息を吸う。空を見上げる、視線を箱へと落とす。

 メモ帳のページに指を這わせながら、口を開く。

うつくしき汝夫なせみこと

「かくば、いましの国の人草」

一日いちひ千頭ちがしらくびりころさむ」

 明朗な発音、大気を振動させる音の粒が、箱の内部で反響する。

 内部音叉が規定された周波数で揺り動かされ、軋む音を立てながら繰り糸が引かれていく。

 箱が激しく揺れ動く。

「―――やはり、これは」

 何かを言いかけ、止める。眉根に深い皺を寄せながら、素早く運転席に戻り、鍵をひねる。セルモーターが電気的な泣き声を上げ、スパークプラグからエンジンに火が飛ぶ。一際大きい重低音が響き渡り、車体が大きく震動。やがて微震程度へと落ち着く。

 余裕のある時であれば、タコメーターの針が落ち着くまで待つところだが、あいにくそんな時間はない。手早くサイドミラーとルームミラーを見る、異常なし。サイドブレーキをリリースし、クラッチを踏み込みながらシフトノブを一速へ跳ね上げる。小気味良いシフトフィールを感じる。アクセル柔らかなタッチで踏み込みながら、クラッチを戻していき、発進。

 僅かな車体の振動、シフトショックの違いから、少々の焦りを自覚する。

 順調に走り出しながら、ルームミラーで後方を確認する。

 駐車場に放置された箱は、遠目にも分かるほど揺れる、というよりも跳ねるように、身をよじるように震動している。

 そして、この世のものとは思えない金切り声が漏れ出る。咽喉が裂け、血を纏った粘性の悲鳴が木霊する。

「すまないね、三条瑠璃さん」

 謝罪は、後方からの悲鳴に掻き消される。


 やがて、

 空が、赤く染まる。

 まるで、広がる血溜りのように。



 ⑨



『現在、我々は二里級禍死吏の境界線におります。大きいです、余りにも―――』

『籠目隊や救急隊が次々と駆け付けており、内部の市民の避難活動が―――』

 

 二里級禍死吏。穢土の大きさが直径で約八キロメートルにも及ぶ、超大規模の禍死吏である。

 馬鹿な、有り得ない。そもそもここ最近の発生率が度を越して偏っている。数に加えて質までとは、確率的に全く有り得ないことではないにせよ、納得できることではない。

 しかし、現実にそれは起こっている。

 衛星写真を用いた解析によれば、中心点は湘南新宿ライン御嶽山駅付近。そこから半径四キロの円状に、全てが赤黒い呪いに飲み込まれている。

 そこには当然、都営洗足池団地も含まれている。

 十年前の忌むべき記憶、記憶の奥底で封をしたそれが、徐々に漏出する。

 禍死吏の被害は、穢土の大きさに比例する。そして、二里級とは、武美家が全滅した程の禍死吏。

 内部で蠢く湧人の数は、或いは質は―――

「委員長」

 どうしようもない思いが口から溢れ出る。

 どうする。

 どうすればいい。

 あそこまで巨大であるが故に、寧ろ籠目隊の出動は迅速である筈だ。

 だが、突発的な事象。十年ぶりの現象。遊撃隊として動く大義名分は、十二分にあるのではないか。

 そう思った時、携帯電話が振動する。意識が刷新される。いつものメロディ、田金さんだ。

 やはりだ、出動はある。あるに決まっている。

 逸る気持ちでメールを開―――

「は?」


『遊撃隊の出撃はなし。引き続き自宅待機』


 頭の中で疑問符が噴出し、弾けて思考を狂わせる。短い文面であるというのに、うまく意味を咀嚼できない。出撃はなし。自宅待機。

 なぜ。

 アドレス帳を開き、目的の番号を表示、電話を掛ける。

「――――」

 数度のコールが、永遠に思える。

『もしも―――』

「何故ですか!」

 自身の口から出た声の大きさに、一瞬我に返る。

『武美君、因縁のある二里級禍死吏。その大きさと被害を知っているが故に、出撃への意欲が高いのは分かる』

 継ぐ言葉を待つ。

『しかしね、だからこそ待機だ。今回のような類稀なる重大事において、外部からの突発的な乱入は寧ろ指揮系統の混乱を招く』

 正論。

『境界線で避難誘導や野次馬の抑制を行う者も、内部で指揮を執る者も、人形を繰る者も、心に余裕がない』

 正論。

『部外者への侮蔑的な視線を向けるだけには留まらないし、留まれない。彼らの能力をいたずらに下げてしまう可能性さえある』

 正論。

「ですが―――」

『武美君、いや、武美真弘』


『これは命令だ』


 命令。命令、命令。

 力が抜ける。繰り糸を切られた人形のように。

 携帯電話が力なく床に落ちる。

 そうだ、俺に選択権はない。選び取るべきは田金さんであり、俺の手綱を握る誰かであるべきで、


『せめて、貴方の意志なら』

『自分で、選びもしないで、勝手に、居なくなるなんて―――』

 

 そういえば、あの時委員長は何と言葉を継ごうとしたのだろうか。それがどんな罵倒の言葉でも、侮蔑の思いでも、受け入れるつもりだったというのに。

 足が動く。

 そんな君は、あの穢土の中で、また身を裂かれるような恐怖に呑まれそうになっているのだろうか。

 足が動く。

 あのトラウマを抱えたまま、幼い弟妹を抱えて? 一人で動くことさえままならない絶望を携えて?

 足が動く。

 いや、父親は居るはずだ。頼りになる大人が近くに居るのならば、きっと。

 足が動く。

『私も、殆ど弟妹しかないんです』『父は一応は生きていますが』

 足が動く。まるで何かに操られるかのように、足が動く。

 本当か? 本当に父親は家にいるのか? 恐怖にすくむ委員長を、幼い弟妹達を、導き守る家族は、本当に?

 足が動く。

 勝手に、動く。


 ―――いや、きっと団地であれば相互扶助の形が出来上がっている筈。ご近所の方などが、きっと一緒に避難をしている筈だ。だから俺が、遊撃隊が出る幕ではないのだ。寧ろ出てしまえば要らぬ混乱を呼んでしまうし、そもそもあそこまで行く方法はないし。仮に仮にだ。穢土に着いたとして、俺に何ができるというのだ。田金さんの手引きがなければ、籠目隊との連携などできるわけがない。だからいかない方がいい。俺は、人形を使う人形で、そもそも人形がなければ何もできない役立たずで―――


 だったら。

 だったら、なんで。


「なんで俺は、ここにいるんだよ」


 足が止まる。

 足がすくむ。

 武美家の秘奥が眠る、そして、負の記憶の眠る、参の蔵。

『人形使う人形たれ』

 分かってる。分かってる。分かって、いる。

 だけど、分かり切れない、割り切れない思いがある。

 理論も摂理も超えて、合理に反してでも。どうしても捨てきれない思いがある。


『立て』『今日からお前が真弘となる』『アレのことは忘れろ』


 苦しい。震えが止まらず、力が入らない。


『忘れろ』『忘れろ』『忘れろ』


 無理だ、無理だった。忘れることも割り切ることもできなくて、だから苦しくて忘れたくて。

 それでも、刻み付けられたこの力に頼って生きるしかなくて。

 握りこんだ拳が、血の気を失っていく。食い込んだ爪が、噛み締めた奥歯が、記憶に苛まれる脳が、

 痛い。

 痛い。痛みが、あの日の記憶を思い起こさせる。委員長を救う為とは言え、彼女の美しい頬を、きれいな横顔を思いきり張った。

 全てを振り切りたくて、こんな時に、君にだけ痛い思いをさせてしまった罪を贖いたくて。

 自身の頬を思いきり張り飛ばした。


 衝撃と、痛み。

 そして、


『過去に囚われちゃ駄目だ! 引きずられちゃ駄目だ!』

『生きるんだ! 行くぞ!』


 反響する自分の言葉が、俺の意志が、全てを吹き飛ばしていく。

 何故、俺は父の言葉に盲目的に従ったのか。何故、その呪縛から解き放たれた後も、自らを縛り付けてきたのか。

 必要としてほしかった、愛してほしかった。人形を使う人形であれば、誰にでも都合の良い傀儡であれば。少なくとも、拒絶されることはないから。重宝してもらえるから。

 

「委員長、ごめん」あの時、必死にすがる君の指を引き剥がしてしまった。

「いま、行くから」きっと、あの時のように、君はそこで泣いているから。


 誰かに必要とされるよりも、俺には君が必要だから。

 足が動く。自身の意志で、自身の意図で、体を繰る。

 参の蔵の扉を押す。


「力を、貸してくれ」




 夜を駆ける。駆け抜ける。

 それは木馬。繰り糸を手綱に地をひた走る、巨大な馬を模した武美の秘奥が一体。【武美家伝来古傀儡たけみけでんらいふるくぐつ京極きょうごく】である。

 力強く後ろ脚で地を蹴り、前足で馬力を補正しつつ、その巨躯を軽やかに大胆に踊らせる。京極はその昔、物資の運搬等にも用いられていた、兵站や運送に特化した人形、いや古傀儡である。

 事実、跨る俺の背後には、異様な存在感を放つ木箱が積載されている。

 深夜であること、二里級禍死吏という超巨大な自然災害による交通規制の余波などにより、歩行者も車も少ない。

 それでもいないわけではない。

 極限の集中力で、高速で迫る景色を判別。印を結び、舵を取る。

 京極を嘶かせる。

 まるで馬の化け物、生物としては違和感の大きい機械的な咆哮が夜の街に響き渡り、異物の存在を知らしめる。

 オーバースピードで右折してきた軽自動車を、大きく跳躍することで避ける。

 着地の衝撃を殺しながら加速。

 軽微な渋滞を捉える。

 ガードレールを飛び越えて歩道へ、歩行者に細心の注意を払いつつ駆け抜ける。

 前方で交通規制、しかしまだ境界線までは遠い。突破する。

 京極を嘶かせる。

 誘導棒を持った警察官が、こちらを認識。ただならぬ気配を感じ取り、慌てて前方に躍り出ようとする。

 止まらない。直進あるのみ。

 ギリギリのせめぎあいだが、暴走車への対処が体に染みついている警官はすぐに身を引く。

 その横を颶風となって通り抜け、太い前足でバリケードを跳ね飛ばす。

 即座に後方でサイレンの音がけたたましく鳴り響き、俺を追走する。

 規制されている自由通りに出る。道幅は広くなり、交通規制の影響で動いている車も歩行者もなし。今しかない。

 一拍置いて、黒白に塗り分けられた車両と、真っ白の二輪車が追走する。

 正直に言えば、舗装路において現代の車両と速度勝負では分が悪い。日本の警察は体当たり等はしないだろうが、命を賭して前に出られればお終いだ。

 スピーカー越しに呼び掛けられる声を無視。そこに意識を割くほどの余裕はない。

 頭に地図を描く。最短距離で行くのならば、間違いなく自由通りをギリギリまで走る方が早い。

 一刻の猶予もないが、細い道を織り交ぜるしかないか。

 選択を迫られる矢先、警鐘。

 サイレンの音ではない、古来より変わらぬ青銅製の鐘の音。これは、

「———籠目隊か」

 現在、東京中の各詰所から応援が駆け付けている筈だ。運悪く、その一台と出会ってしまった。

 通常の警察とは異なり、籠目隊は人形への対処に秀でている。最悪、人形を使った妨害をされる恐れがある。

 どうする。

 しかし、

『真弘!』

 籠車から俺に対して呼び掛ける声。聞き覚えのある、少しハスキーな大人の女性の。

「世田三―――佐々良班長!」

「草子さん、だ」

 落ち着いた声音、並ぶ籠車から、直接こちらに身を乗り出している。

「遊撃隊が出るとは聞いていない、しかもそれは―――」

「―――遊撃隊は関係ありません!」そうだ「武美真弘、ただ一人の独断専行です」

 本来、古傀儡の使用には厳正な審査と会議の元、地方自治体の許可が必要となる。加えて、人形をみだりに公的な場で使用することは人形師の御法度である。だが、そんなことはどうだっていい。

 佐々良班ちょ――草子さんは、一瞬目を見開き。そして、

「籠車で誘導する」

 少し、笑う。

「班長!?」

「仮にも五大家の現当主に古傀儡だ、我々一介の隊員では対応しかねる。ということにしておけ」

 肩を叩かれた運転手———いや観測手の新発田さんは、こちらを一瞥し、諦めるように笑った。そして大きく息を吐きながら肩を竦めて車速を上げる。

「すみません」

「終わりよければ全て良し、頼んだぞ真弘」

「―――ありがとうございます、草子さん」



 世田三の籠車がぎりぎりまで誘導してくれたおかげで、警察に追われることもなく境界線まで到着する。

 歩道は野次馬や報道関係者で溢れており、その人波を必死の形相で押さえつける籠目隊員と警察官の姿が見える。

 当然、こちらへの視線はあるが気にする暇はない。まっすぐに進む。

「止まりなさい!」

 濃紺の制服に身を包んだ警察官の一人が、すぐさま立ちはだかる。

「こちらは神祇省直轄の遊撃隊です、応援に」

「そんな話は聞いていない。そもそも籠車もなく、人形で乗り付けるなど」

 取り付く島もない。駄目で元々、口八丁で切り抜けようと思っていたのだが、強行突破もやむなしか。

 心中で謝罪をしつつ、十の指に力を込めようとした時、

「待て」

 警察官の肩に置かれる大きな手。そこから見上げる巌のような顔面。鋭く彫り込まれた双眸が、収斂された力強い光を持って俺に向けられる。

「不動班長」

 よりによって、杉二の籠目隊がここの応援だとは。

「武美真弘」

 厄介な相手だ。横紙破りが通じるタイプではない。やはり印を結―――

「何をしに来た?」

 まっすぐに俺を見つめている。無理やりに押し通ろうという動きに、気付いていない筈はない。しかし、それも全て呑み込んだ上で、語り掛けている。

 もう虚勢を張っても、虚言を弄しても意味はない。

「助けに、来ました」

「誰をだ?」

 すかさず、言葉が継がれる。

「同級生の、女の子を、です」

 すかさず、言葉を返す。

 ―――しばし無言、無表情。いや、僅かに、ほんのごく僅かにだが、両の瞼が動いた気がした。

 ふ、と漏れ出る息。それは嘆息なのか、嘲弄なのか、或いは。

「行け、今は猫の手も借りたい」

 内心を察することもできぬままに、意外な言葉が発せられた。だがそれに驚いている暇はない。幸運だと思うことにする。

 驚愕する周囲の人間を、不動班長が眼光で制する。

 その鋭い視線が、俺にも突き立ち、すぐに穢土の方へと向けられる。

 印を結ぶ。京極が一際大きく嘶く。

 地を蹴る。

「ありがとうございます! 武臣さん!」

 あ。つい先ほど佐々良班ちょ―――草子さんを相手にしていた癖が出てしまった。

 視界の端に捉えた不動班長の顔は、きっと生涯忘れられないだろう。

 境界を跨ぐ。

 穢土へと潜る。

 視界が赤く黒く染まる。

 


 ◆



 視界が赤黒く染まる。異様な雰囲気、異常な空気、横溢する呪いの粘性が平衡感覚を奪う。

「行って、シェル、ター」

 絞り出す。

 何とか、この子たちだけでも。

 私の両脇で、肩を貸してくれる二人。藍と青、よく似ているのに正反対の二人。

 憎い、何より自分が。あの日の残影に取られるこの足が。

 なんで動いてくれないの、なんで力が入らないの。繰り返してはならないのに。本来は姉として二人を先導しなければならないのに。

 情けない。こんな極限状態に追い込まれても、私の命より、何よりも大事なものが、外ならぬ私のせいで失われようとしているというのに。この役立たずの足が、腰が、過去に捉われ思考が定まらない頭が。どうしようもなく、情けなくて。

「おねえちゃんを、一人にするわけないじゃん」

 藍が無理やり気丈に振舞う。

「お姉ちゃん、大丈夫だから」

 青が精一杯に笑顔を見せる。

 二人とも、怖いはずだ。怖くない筈がない。

 このままでは、同じ目に合わせてしまう。

 いや、それ以前に、二人の命さえ。

 あの日、母を失った。

 あの日、武美君に背を向けた。

 今日、弟妹の命を取りこぼそうとしている。

 声にならない叫び。喉を介さない慟哭。頭の中を支配する、どうしようもない負の螺旋。何とか断ち切らなければ、先に進むことはできない。

 乾いた音と共に、一瞬頭の中が真っ白になる。

 驚愕する青の顔。

 まるで反射のように、理性を超えて、私の右掌が自身の頬を思いきり張っていた。

 鮮烈な痛み、揺さぶれる脳。

 そこに間隙が生まれた。

『過去に囚われちゃ駄目だ! 引きずられちゃ駄目だ!』

 声、声が、聞こえる。思い出す。命を繋いだ、その言葉を。

『生きるんだ! 行くぞ!』

「藍! 青! 行くよ!」

 あらん限りの声を張り上げる。目的を設定し、自身に刷り込む。

 腰と足に力を込める、しっかりと地面を踏みしめる感触が伝わる。触覚は実感へと変わり、押し寄せる恐怖と、生き延びなければならないという本能が沸き上がる。

 強く頷いた二人と共に、玄関へと向かう。

「お姉ちゃん」

 呟きと共に、右脇腹に縋る小さな握力を感じる。

 無言で目を見つめ、頷き、扉を僅かに開いて外の様子を伺う。真っ赤な空、遠目に避難の列。そしてそれに追いすがる赤黒い枯れ枝のような怪異。

 幸い、二階通路に湧人はなし。

「大丈夫」

 小さく呼びかけ、二人を連れ立って外に出る。壁を隔てずに感じる、禍死吏特有の生ぬるい風。

 駄目だ、感覚に身を任せれば捉われてしまう。今は兎に角、動き続けなければ。

 音と気配、そして視界。全てを総動員し、息を殺しながら階段を下りる。

「今しかないよ、行こう」

 藍が小さな体を活かし、いつの間にか傍らを離れ、索敵をしてくれている。

 すぐに藍を引き寄せ、青と共に団地の出口へ向かう。途中にある案山子を起動しようと思ったが、古い南京錠が錆び付いており意味をなさない。

 気を取り直して、進む。

 一番近いシェルターは、団地のすぐ裏手。洗足池公園の近く。もう少しだ。

 団地の敷地を出る。徐々に足並みは揃い、移動速度も速くなってきている。大丈夫。きっと大丈夫。

 だいじょ―――

「おね、ちゃん」

「あ、あ」

 進行方向を塞ぐように、大きな溜りが湧出する。

 冷静に、周囲を確認。遠回りになっても、安全なルートを―――

「嘘」

 背後に小規模の溜り。戻るという選択肢は取れない。反対方向には、小さな溜りが目視で二つ。迂回も危険。

 そうこうしている内に、正規ルート上から、いや私たちを囲う様に湧人が這い出てくるのを感じる。見なくとも分かる。強い呪い、敵意と憎悪。視界に捉えただけで背筋に悪寒が走り回る。

 どうしよう、どうする。どうしようもない。

 気付けば、二人を強く抱きすくめて蹲っていた。

 あの日、母を失った、忘れもしないあの日とは逆。きっと母も、同じだったのだろう。万策尽きた絶望の中で、その行為に意味があるのかを精査する余裕もない中で。

 本能的に、私を守ろうとした。自身の命を引き換えにしてでも。

 理性も、本能も、恐怖も絶望も抱えたまま。この小さな命を守る為に、ごく細い蜘蛛の糸に縋りつく。

 感じる震え。聞こえる揺れ。それは、少しずつ大きくなっていく。

 固く瞼を閉ざす。闇の中で、必死に恐怖を噛み殺す。腕の中の温もりも、そこから聞こえる悲鳴も、闇の中へと溶けていく。

 震え、揺れ。地面を通して体全体に響き渡るそれは、死への足音か。

 震え、揺れ、揺れ、揺れ。濃厚な死の匂い。

 震え、揺れ、揺れ、揺れ、揺れ、揺れ、――――声?


「委員長ぉおおおおッ!!」


 明朗な声。それは、忘れようもない彼の声。

 痛快な音。それは、粘性の何かが爆ぜる音。

「おねーちゃん! あれ!」

 藍の声に吊られて、音の方向に目を向ける。

 そこには、

 

 巨大な木製の馬に跨り、こちらに潤んだ目を向ける武美君の姿があった。



 ◆



「委員長ぉおおおおッ!!」

 あらん限りの声が、咽喉を震わせる。

 今まさに彼女たちの命を刈り取ろうとしていた湧人を、急制動によって滑る後ろ脚で轢き潰す。

 間一髪とはこのことだ。冷や汗のせいだろうか、視界が滲む。

「た、たけみ、くん?」

 こちらを見上げる彼女の顔にも、強い疲労の色。血の気が引いているのか、ただでさえ色白の肌に磨きがかかっている。彼女の背に隠れている、小学校高学年程度の男女。

 軽く視診をするが、少なくとも出血を伴うような傷は見られない。

 良かった。本当に。本当に良かった。

 最悪の事態は免れた。それだけで、心の中のつかえが取れた気分だ。

 とはいっても、周囲にはこちらに近づく湧人が三、四―――六体。多いな。

「話は後だ、三人とも乗って」

 京極は運搬に特化した古傀儡。人間も詰めれば数人は楽に乗れる。乗り心地は保証できないが。

 委員長が弟妹を促し、二人は軽やかに京極の背へと飛び乗る。流石に年若い、動きが滑らかだ。体の小さい二人を先頭へ導く。

 続いて委員長が歩き出す、その足取りに不安を覚え、身を乗り出しかけたところで、彼女が首を小さく振った。そして力強い瞳で、俺を見つめる。

 彼女が傍らに着き、足を段差に掛ける。体を固定しようと動く腕を、強く掴む。体温が伝導し、体重が掛かる。その実感に胸をなでおろす。

 背後に委員長の確かな温もりを感じる。

「二人は前の取っ手を、委員長は俺の腰を―――」唵、心の中で口上を上げる「―――しっかりと掴んでいて、行くよ」

 印を結ぶ。

 目と鼻の先まで近付いてきた具体を、振り上げた前足で吹き飛ばす。

 後ろ足を起点に、上体を捻り、方向転換。常に前方の二人を視界に収めつつ、腰に強く巻き付く腕と背に感じる体温に気を配る。いや、余り気にし過ぎても良くないかもしれない。

 近場のシェルターへ向かう。

 京極が嘶く。

 景色が後方へと飛び去って行く。


 

 シェルターに近くなればなるほど、案山子は増える。そこに釣られている湧人をこちらに引き付けてしまわぬ様に、京極の跳躍力を最大限活かし、道路を無視した最短経路を往く。

 なるべく人家を壊さぬよう、塀や柵、物置を足場に、三次元的な動きで跳ねる。

 その度に、前と後ろから悲鳴、いやその内一つは黄色い悲鳴かもしれない。

 振り落とされないように、鞍をしっかりと挟み込む。着地の際は、後ろ足と前足のしなりを使って出来得る限り衝撃を殺す。

 走る、飛ぶ。

 跳ぶ、奔る。

 やがて、シェルターに続く門と数名の人形師の姿が見えてきた。

 交戦状態にないところを見ると、まだ周辺の案山子が足止めをしてくれているようだ。

 このまま人員が増え、シェルター周辺の湧人を誘導出来れば、被害は最小限に抑えることができる。

 そう、それが普通の規模の禍死吏であれば。

 周辺を警戒する人形師達が、京極の姿を捉える。【倉上家謹製くらがみけきんせい六代風丸ろくだいかぜまる】が、その隆々とした体をこちらに向ける。

「君たちは?」

「武美家現当主、武美真弘です。要救助者を発見したので、こちらへ」

「武美? 武美家は、そもそもその人形は―――」訝しむ目を向けるが、すぐに頭を振り「いや、まずは礼を言う。救助者をシェルターへ案内してくれ」と道を開けてくれた。

 話の分かる隊員だ。合理性は倉上家の特徴、その息が強く掛かった籠目隊で助かった。もし九尾の流れを組む籠目隊であれば、もう少し事態はこじれていただろう。

「ありがとうございます」

 しっかりと頭を下げ、敬意を示す。

 まずは幼い二人に降りて貰い、俺が続く。

「委員長、気を付けて」

 小さく頷き、彼女が恐る恐る京極から降りようとして、滑る。

「あ」

「ッ」

 反射的に滑落する体を抱き留める。

「ごめんなさい、安心したら、急に」

「大丈夫、よく頑張ったね」

 何も考えず、自然な流れで彼女を抱き締める。何故そんなことをしたのか、正直分からなかった。女性をみだりに抱き締めるなど、一男子として褒められたことではないが。

 委員長もまた、何も言わずに抱擁を受け入れ、背中に回した腕に力を込める。

 時間にすれば、ほんの僅かな間。警戒の為に、先程の人形師が周囲を警戒し、こちらに視線を戻すまでのちょっとの暇。

 それでも、この腕の中にある命の温かさが、心臓の鼓動が、確かな息遣いが。

 余りにも―――

「ちょっと、おねーちゃん」

「早く行かないと」

 幼さの残る二つの声に、お互いが現実を直視し、弾かれた様に離れる。

 無意識的に彼女の手を取ってシェルターの入口へと歩く。


 その時、小さな影が背後で警戒を続ける人形師たちの元へと降り立った。

 見なくとも、それが閻魔蟋蟀であることは分かる。視界はシェルター前の厚い扉に向けたまま、聴覚のみを拡大する。


『伝令! 洗足池シェルター付近の湧人に土地還りの兆候あり!』


 何だと?


『追伸! 洗足池シェルター付近で超巨大な溜りが発生! 目測―――』


 見なくても分かる。空気が変わる。肌が粟立つ。


『ッ――な!? い、一畝いっせ級! 避難を!』


 伝声管からも伝わる焦り。

 一畝級、つまり一辺約十メートルほどの溜り。湧人の大きさ、その脅威度は、概ね奴らが這い上がってくる溜りの面積に比例する。禍死吏が始まり、第一波の溜りは概ね一坪級(一辺約二メートル弱)。そしてそこから湧き出る具体は身長で言えば二メートル程。

 面積の単純換算でも、三十倍。

 来る。肌が粟立つ。背筋に冷たいものが走る。桁違いの悪寒。


 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――


 大気を揺るがす波動、地面を揺らす振動は、叫びか。怨嗟か。

 

『も、目測―――』


 観測手が必死に目視で全長を測り、脅威度に換算。


『―――嘘だろおい、に、二十メートル!? た、【高尾たかお】!』


 七階建てのビルに匹敵する大きさ。それが、人に明確な敵意を持って襲い掛かる。

 これが、禍死吏だ。

「武美君」

 痛みが走る程に、指が握りこまれる。伝わる、微細な震えから、体温の変化から、その思いが。

「委員長」

 その手を包み込む。

「俺は、絶対に居なくならない」

 諭すように、伝える。言葉だけではない、彼女の思いが触れることで伝わってきているのだから。逆もまた然り。

「俺は、」

『人形を使う人形たれ』―――いいや。

「俺は、最高で最強の」―――そうだ。

                  

「―――人形師だから―――」


 すっと指が離れていく。

「待っていますから。ずっと、ずっと!」

 そっと体も離れていく。

「必ず、帰る」

 だけど心は重なっていく。

 


 シェルターの重い扉が閉まる音を、背後に感じる。

 明らかに重みを増した大気を引き裂いて、悠然と進む。

 印を結び、京極に積載した巨大な木箱を降ろす。

 周囲の人形師からの呼びかけが、意識の外へと追いやられていく。

 箱に触れる。上部に埋没した金属製の音叉を引き出す。

 息を吸う。思考が記憶の水底へと潜航していく。

 そこには、重い重い蓋がある。いや、見かたを変えれば参の蔵の扉にも似ている。つまりは、俺の中に封ぜられた最も忌むべき思い出。

 怖いよ、正直。息を吸うことさえ竦む思いだ。だけど、そんな思いも本能的な恐れも、この心を熱くする使命感により燃やし尽くされていく。

 扉を開く。

 そこには、参の蔵を誇張したようなイメージが広がる。

 呼吸さえ困難な、水圧にも似た感覚。

 蔵の最奥に、まるで祀られているかのように鎮座する、巨大な箱。

 そして、

「お父様」

 長髪に和装、朧げな影絵のようなそれを、直視する。

 武美家の【継承の儀】。武美家を預かる当主を決定する、つまり、武美真弘を決定づける儀式。

『人形を使う人形たれ』

 声が響く。

 そうだ、それは間違いようのない事実。この歪な指も思考も身体能力も、ただ人というには余りにも歪に過ぎる。

 一歩進む。

 この人形の名は【武美家伝来古傀儡たけみけでんらいふるくぐつ悪路王あくろおう】。

 数ある古傀儡の中でも、特殊な起動方法が設定されている。

 

雷神なるかみの少しとよみてさしくもり雨も降らぬか君をとどめむ」

雷神なるかみの少しとよみてふらずとも我はまらむいもとどめば」


 声を発する。

 そう、この人形の起動方法は、【武美家の遺伝子を色濃く受け継いだ人間の声で、既定の祝詞を捧げる事】。

『今日からお前が真弘となる』

 ああ。分かっている。

 ずっと逃げてきたように思う。この日に向き合うこと、武美家の当主としての自分と向き合うこと、そして。

 貴方と向き合うこと。

「俺は、武美家の当主だ」まっすぐに、その影を見据える。

「だから―――」逃げない、貴方の記憶からも。

「―――これからの武美の在り方は、俺が決める」


 目を開ける。

 起動した箱が展開、内部機構が露わとなっている。息を吐く。視界も思考も澄み渡っている。

 靴を脱ぎ、裸足となって、箱の中へと乗り込む。

 慣れ親しんだ古木と薬品、金属の匂い。

 指輪を付ける。手と足、合わせて二十の指にぴたりと嵌まり込む感覚。

「開」

 背後で扉が閉まっていく。息の詰まる閉塞感と続く浮遊感。更に箱の外装が展開し、巨大な人型を形成していく。

 悪路王、それは身の丈二間三尺(約四・五メートル)にもなる巨大な人形。

 完全に人形師が乗り込む形で繰る、歯車仕掛けの鎧武者。

 こちらを呆然と見つめる人形師たちに向け、伝声管を使って声を掛ける。

『武美家当主、武美真弘です。古傀儡・悪路王を以て、湧人【高尾】を迎撃します』

 潜望鏡を通じ、眼前の小山のような湧人へを正眼に捉える。ここまでの固有名称を与えられる度合いの湧人との対峙は久し振りだ。

 しかし恐怖も緊張も不安も、これといってない。

 委員長の温もりが、彼女の命が無事であったという安堵が、その未来を守らねばならないという使命感が、俺の中で燃え盛っている。ずっと、燻り続けていた何かに、火が付いたように。

 負けるわけにはいかない。いや、負けるわけがない。この武美家の「現状」の最高傑作たる俺が、この程度の相手に後れを取るわけがない。心の底から、魂の源泉から無限に湧き上がる自信、それは燃え盛る使命感を更に囂々と炊き付けるガソリンとなる。

『周辺被害が多くなると思います、どうか力を貸してください』

 努めて誠実に嘆願する。僅かな間もなく、すぐに手を挙げての応答がある。やはりだ、彼らは現状をしっかりと把握し、最善手を取ってくれる。倉上の人形師たちは非常に現実的で助かる。後でちゃんとお礼を言いに行こう。

 これで、後顧の憂いは払われた。

 振動いや、震動。目の前の巨体が大地を揺らしながらこちらへと近づく。

 だが、やはり恐怖はない。恐れも、畏れもない。

 俺を雁字搦めにしていた鎖は断ち切られた。自分は、自分で繰る。他の誰でもない、俺の意志で、意図で、責任で。この体を存分に使いこなす。

『武美家当主、武美真弘―――』

 指に力を込める。増設された関節が噛み合う。

 足に力を込める。刷新された信念が鬩ぎ合う。

『―――推して参る』

 唵。

 大地を揺らして吶喊する。



 ◆


 

「悪路王、か」

 穢土と現世の境界線上にあるビルの屋上にて、若い男がそう呟いた。

 その右手には携帯電話が握られており、丁度顔の半分を穢土に埋めるような形で通話が行われている。

「予定通りさ、炊き付けた甲斐があった」

 滔々とした語り、極めて平坦な声。

「なに、問題ないさ。彼は間違いなく最高にして最強の人形師、そこにあの古傀儡さ、【高尾】程度なら歯牙にもかけないだろう。そうでなくては困るよ」

 少しだけ、声が高くなる。

 目が細められる。空を仰ぐ。

「序章が終わる。本章へ至る幕間を始めようか」

 少し、笑う。

「―――後は任せるよ、」

 穢土への侵入により、携帯電話が停止する。言葉が中途で掻き消される。

 


 ◆


 死の予感。

 振り下ろされる剛腕が、大気を引き裂き眼前へ迫る。

 真っ向から受けることは余りにも愚策。背の鞘から引き抜いた野太刀・大嶽丸を構え、いなして流す。広い刃の腹で超質量を受け流しつつ、反発力を活かして前へ出る。

 砕かれ、弾けるアスファルト。爆発にも似た衝撃と振動、飛散した破片を背に感じながら、巨大な腕の影を駆ける。

 打ち付けられた腕が引き戻される気配。全身を翻しながら肘の辺りへ、遠心力を乗せた刃を食い込ませる。

 繰り糸に繋がる指にも圧倒的な重み、多重関節が悲鳴を上げる。それを無視し、渾身の力を込めて腕を振りぬく。

 湧人を切った心地は、恐ろしいほど人間に似ている、と古い文献にはそう書かれている。まあ、少なくとも二十メートルを越すような人間は早々いないだろうが。

 体勢を立て直し、再び【高尾】を正眼に捉える。

 背後で、切り落とされた前腕が街路樹をなぎ倒し、放置されていた自動車をスクラップにする。

 引き戻そうとした腕を突如として喪失したことで、【高尾】は上体をのけぞらせている。

 今。

 更に歩を進める。

 普段の体と比して約三倍弱の体、自身が巨人となったような錯覚を上手く感覚に落とし込み、縮尺を合わせていく。

 まずは足。あの巨躯を支える支柱を打ち崩す。

 右足の指に掛かる繰り糸を主に使い、悪路王の右足を細かく制御。思いきり大地を踏み割りつつ、最適な動作で加速していく。

 急激な速度感と遠心力に揺さぶられながら、正確に繰り糸を引き印を結んでいく。

 左足で的確に地面を捉え、向上した速度を落とさぬよう、更に速度を上げられるように、体を押し出していく。その次は右、そして左。コーギーに追いすがる為に、風丸を間取りで動かしていた時と基本は同じだ。細切れにした動作一つ一つを妥協無く鋭く研磨し最適化、それを適切に繋いでいく。

 速度十二分、相対距離よし。

 野太刀を右肩に担ぐように構える、右足で大地を蹴りぬく、迫る大木のような足首目掛け―――断つ。

 腕を切った時とは異なり、吶喊速度を乗せた一太刀。伐採は容易い。

 しかし、

「ッ」

 悪寒。

 人形を通して第六感が閃き、咄嗟に進路を変更。踏み出した足で野太刀を振りぬいた力を殺さず、宙を駆ける刃に振り回されるように左方へと体を逃がす。

 間髪入れず、重低音。同時に震動と爆風。

 状況を確認するよりも、反射的に後退を選択。更に続く絨毯爆撃が、ごく数舜前に居た地面を縦横に抉り取っている。

 間髪入れず後退を続けながらも、視線を上げる。状況の把握に努める。

【高尾】の背中、いやより正確には腰部分からは、赤黒いヒレのような器官が形成されている。

 そう、湧人は土地還りを行う際、死因を克服、或いは自らのものとする進化を行う。

 あの武装は間違いない、八式館守に殺された個体の進化が反映されたものだろう。

 まるで紗幕の如く自在に形と硬度とを変えるそれは、切り取った足の代わりにもなり、また全方位に対応した盾となり剣となる。

 厄介だ。

 ただでさえ大き過ぎて速度と範囲との整合が難しい【高尾】に、自在に動くヒレ型の武装。

 ふわりと風になびくように翻ったヒレ、

 反射で結印。すぐさま後方へと飛び退る。

 瞬間、巻き上げられたアスファルトと土埃で視界が塞がれ、途轍もない速度で飛来する破片が鎧の上を踊る。

 理性が追いつく前に、更に結印、結印、結印。

 急発進、急旋回、急制動。右に左に、或いは前に後ろに、忙しなく立ち位置を入れ替えていく。

 その度に地面は抉れ、斜面は削れ、無造作に彫刻されていく。

 予想以上に、厄介だ。

 暇なく二十の指と、多重関節を稼働させながら、一抹の余裕が思考を始める。

 そもそも重く硬く柔らかい布が、自由自在に形を変えて襲い掛かってくるという事象自体が面倒に過ぎる。加えて、敵は二十メートル。長さを単純に比べても十倍以上。面積にすれば―――ああ、くそ。計算が追いつかない。

 本体は殆ど動いていない。動く必要がないのか。

 悪態が口をついて出ようとするのを、それ以上の事象に相対した体が拒否。ヒレが翻り、こちらの進路を妨害するように大地に突き立てられる。

 壁が作られる、動きが阻害される。不味い!

 一瞬、足が止まる。

 その瞬間、地面に突き立てられていた部分が一斉に跳ね上がる。

 足元を掬われる、どころではない。一部の地面ごと、空中へと打ち上げられる。

 そして―――

 目の前には巨大な拳。

 上体を捻り、遠心力まで乗せた一撃が、中空で身動きの取れない俺に迫る。

 翻る指先、咄嗟に刃を盾にする形で――――音が―――消え

 衝撃。 

 打ち付けられた体、押しつぶされた肺腑から無理やり空気が押し戻される。

 あ、音が―――聞こえ―――い。耳鳴り?

 目の前が更に赤く染まる。額か頭頂部か、どこかしらからの出血。

 痙攣する指、いや体全体か。

 走査する神経が、身体の状況を汲み取っていく。乗り込む形で人形師を保護する悪路王であること、中空という力を逃がせる場所であったことが幸いした。少なくとも四肢の骨折、多分なし。あっても動くが故に問題なし。

 臓器や背骨等、直ちに生命維持に関わるような問題もなし。

 思考、正常。感覚、正常。いや、極度の興奮状態からか痛みは鈍い。好都合。

「唵」

 結印。悪路王が上体を起こす。周辺の確認。ここは、学校か? 散乱する学習机、見覚えのある大きな黒板は飛散するコンクリート片で粉々になっている。洗足池シェルター近くの小学校か、随分と飛ばされたらしい。

 直線距離で凡そ百メートル以上か。赤黒い巨人は、こちらに興味を失いシェルター方面へ向き直っている。

 あそこにいる人形師と人形で対処は不可能。

 かといって、ここから全速力で走ろうが間に合わない。

 ―――仕方がない。奥の手を出す。

 もうここまで来たら、【それ】を使おうが使うまいが大きな違いはない。

 今までの俺であれば絶対にしなかったであろう、完全完璧徹頭徹尾言い訳のしようがない独断専行。

開扉かいひ―――」

 それは口上。

「―――天雲あまぐもに近く光りて鳴る神の見ればかしこし見ねば悲しも」

 内部音叉が共鳴する。

 印を結ぶ。


【開扉―――それは古傀儡にのみ搭載された特殊能力。古傀儡が古傀儡と言われる所以、オーパーツとして扱われる原因である】

 

 悪路王の籠手、脛当てと佩盾といった一部装甲が展開。背嚢が形状を変えていく。両肩の大袖が角度を変え、兜の角が寝ていく。いずれも、極限まで空気抵抗を減殺する為である。


【曰く、開扉とは小規模の穢土を作り上げる能力と言われる。それだけ、物理法則に反した禍死吏側の異能なのである】


「行くぞ」

 上体を低く、両足で地面をしかと捉える。野太刀・大嶽丸を再び、右肩に担ぐように構える。

 視界は固定、焦点を【高尾】へと定める。

 大きく息を吸い、止める。


【故に、現在の技術でも再現は不可能とされ、故に、その使用には様々な制約が付きまとう】


 意識を極限まで集中する。眼前に捉えた黒い人型、それにのみ思考を向け、視界を絞っていく。

「【縮地しゅくち千鳥足ちどりあし】」

 印を結――――音を――置き去り―――に、

 大気の厚い壁を切り裂く。

 凄まじい空気摩擦によって、静電気と熱が発生。衝撃波が数舜前に居た教室の一室を完全に破壊。引き裂かれた空気が甲高い悲鳴を上げながらイオン化し、オレンジ色の光を放つ。

 一瞬で、視界一面が赤黒く染まる。

 速度を殺さず、放物線を描きながら、重力加速も味方につけて無防備な背後から刃を突き立てていく。

 ヒレを事も無げに突き破り、腰の付け根から、股下にかけて一閃。刃と超速度による突進力を用いて、自身を半ば弾丸のように扱う。空気抵抗を減らすために展開した各部の装甲は、鋭利な断面を外側へと向けることになり、それ自体が刃として機能する。

 切れ味は不要、ただ硬く、ただ速くあれば、どんな巨体も意味をなさない。

 悪路王の持つ開扉、それは【韋駄天いだてん雷神なるかみ】。

 音さえ置き去りにする雷の速さ。ただそれだけである。

 この世界には摂理がある。重さと速さ、掛け合わさったそれらこそが、途方もないエネルギーを生む。

 アスファルトに着地、数秒遅れて、背後で轟音。

 腰から股下までを欠損した巨人が、力なく大地に伏していく。ように思われたが、寸でのところで踏みとどまった。

「存外にしぶといやつだ」

 腰から股下部分を両断され、その周囲も鎧によって引き裂かれたのだ、既に両脚は使い物にならないだろう。しかしヒレを代替とすることで、しぶとくも姿勢を保っている。

 大部分を痛々しく欠損したヒレ、だが腐ってもそれは館守の自慢の武装だ。名原家の傑作たる機構を忠実に受け継いでいるが故に、虫の息であっても体を支え、俺という天敵に一矢報いようとしている。

 お前たちは一体何なんだ。人型を殺し尽くすという存在意義も、あらゆる攻撃に適応進化していく厄介さも、余りも不可解だ。

 だが、そんなことを考えている暇はない。

 ヒレの動きにキレが増している。俺との戦闘で、間違いなく動きが洗練されている。

 まるで粘土細工の如く、ヒレの余剰部分が引き延ばされ、裂け、研ぎ澄まされていく。

 先程の様に、大きな布一枚を叩きつける様な雑な攻撃ではない。

 それでは遅い。いたずらに面積を増やしても、空気抵抗によって速度が落ちる。

 俺程度の大きさの蠅、すばしっこい蠅を叩くだけであれば、一枚の面よりも数千の針が効果的。

 そういう風に思考が最適化されたのだろう。

 赤黒い空を埋め尽くす、細かい針と化したヒレ。それらが群れを成し、こちらに向けて殺到する。

 空気抵抗の激減によって、その速度は先程までの比ではない。

 また、一枚の面攻撃ではなくなったが故に、軌道の自由度が高い。全方位から、逃げ場のない配置。点により実現する面攻撃といった所か。

 確かに厄介ではある。逃げ場のない攻撃は盾にもなる。回避行動に専念している間には攻勢に転じることはできない。

 だが、

「遅い」

 そう一言吐いて捨てる。腕を振るい切って捨てる。

 韋駄天・雷神が発動しているこの悪路王を、音速さえ超えられない程度で並び立とうなど片腹痛い。

 一度後退。それだけで、それまで立っていた土地が放射状にひび割れ、亀裂が入る。一度の跳躍、ただそれだけで刹那の間に五十メートル程距離を取る。如何に面攻撃といっても、結局は俺一人という点を狙っている。

 標的が動けば、それに合わせて軌道の修正が余儀なくされる。標的が離れれば奴から見た面は小さくなり、それだけ的を絞らねばならない。

 あとは簡単だ。

 最短経路、すなわち直線での接敵は確かに難しい。ならば、気が遠くなるような大回りをすれば良い。

 充分に針の群れを引き付けた後、悠然と横方向へ走り出す。急激な方向転換についていけず、針の一部がアスファルトに突き立っていく。針山のように成り果てた民家の壁を尻目に、脳内で地図を描きながら足を動かす。

 減速、或いは大回りで方向転換を終えた針が、ようやく悪路王を追走する。が遅過ぎる。

 横走りを停止、針の状況を見つつ確信。体を【高尾】へと向ける。軽く腰を落とし野太刀を担ぐ。

 結印。

 脚部の発条を最大限に使い、一直線に踏み出す。

 対して【高尾】は、伸ばし切った針の途上から別の針を分岐させ、こちらを直接的に狙う。正解だ。ただ、こうなってしまった以上その手以外は有り得ないのだが。

 こちらのおおよその速度を掴み、進路を予め塞ぐように殺到する針。だが、本体部分から中途で分岐させたが故に、本体よりも質量は圧倒的に低くなっている。

 つまり、仮に追いついたとて何の意味もない。

 まさに鎧袖一触、鎧の各部から展開した刃が、それ以前に堅牢な装甲が、真正面から針を粉々に砕いていく。

 砕かれた針の残滓と撒き散らされる赤黒い粘液が、悪路王の巻き起こす乱気流によって微粒子レベルにまで寸断され、透明な空気に溶けていく。

 凄まじい風圧によって、潜望鏡の視界は寧ろクリアに保たれている。

 眼前に迫る巨躯。

 ふ。ほんの少し息を吐く。

 結印。勢いをそのままに、跳躍。僅かにこびりついたヒレの残滓が、まるで尻尾の如く、宙に軌跡を描いていく。

 腰の僅かに上を横一文字に切り抜ける。

 雷の速度近くまで加速された刀身の前には、最早物理的な硬度は意味をなさない。まるで豆腐を切るかのような柔らかい抵抗感。

 糸が切れたように、【高尾】の下半身が瓦解していく。ヒレは制御を失い、地面への自由落下を始める。そして巨大な上半身もまた、支えを失って崩壊していく。

 このままでは二十メートルの巨体が倒壊する。上半身が倒れた先にはシェルター。ヒレの落下地点にはシェルターの守護に集まった人形師たちの姿もある。

 しかし、心は穏やかだ。

 超集中状態の加速した思考、それに追従する改造された体、指先。

 それらの要素が、最適なタイミングで、絶妙な感覚で、かちりと噛み合う。まるで精緻にデザインされた機械時計の様に。全ての歯車が俺と悪路王を一つにする。

 神速で閃く指、結印。

 針の落下地点、人形師たちの元へは目測で約二百メートル。目と鼻の先だ。今の俺と悪路王であれば。

 考えるよりも先に、地を割りながら悪路王が駆ける。

 視界の端で【高尾】の上体が落下を開始する。

 吹き荒れる暴風となって、瞬時に距離が縮まる。針の落下にようやく気付いた人形師たちが、退避行動を取ろうとする直前、制動の為に左手と両足で地面を抉り取りながら、火花と衝撃波、割砕いたコンクリートとアスファルトの砂塵を纏って到着する。

 事態の理解が追いつかな彼らの退避は待てない。少しばかりの失禁や失神については勘弁してもらう外ない。

 既に、青写真は描けている。

 赤熱化する装甲が冷めるのさえ待たず、瞬時に二十の指が印を結ぶ。

 上体を落とし、野太刀・大嶽丸を腰の横で引き絞る。踵に仕込まれた鉤が地面を縫い留め両足を固定。そして―――

「【抜刀ばっとう雷霆らいてい】」

 閃く。 

 十二分に力を蓄えた両腕が解放され、音を置き去りに、光に近づく速度で野太刀を振るう。

 切っ先が光速に近づけば近づくほど、質量は無限大に増大していく。刃は重く、重く、重く。しかし関係はない。この穢土地においてのみ、この禍死吏という世界でのみ、開扉は物理法則を凌駕し得る。

 振りぬく速度は、遂に質量の軛から解き放たれる。

 凄まじい摩擦熱と衝撃波とが周辺の大気を掻き乱し、焼き尽くす。

 巨大な空気の刃が、エネルギーの放射そのものの暴力が、上方に迫っていた針の大群と、今まさに倒れ伏さんとしていた【高尾】の体をいとも容易く引き千切り、触れたものを悉く滅相する。

 天を射す膨大な運動エネルギーと熱エネルギーの奔流が、穢土そのものに亀裂を入れた様にも見えた。

「―――丁度、時間か」

 息を吸い、吐く。

 身体の力を抜く。

 開扉が閉じ往く。

 禍死吏が終わる。

 赤い夜が明ける。

 そして朝が来る。



 ⑩ 後日談



 大田区を中心とした二里級禍死吏。

 連日どの放送局でもひっきりなしにこの話題が飛び出してくる。時間も局もテレビもラジオもお構いなし、そればかりかインターネット上や市井の会話と、耳に入らない日はなかった。

 それだけの大事。それだけに、大事。

 正直、人形師資格の剥奪や追放くらいはされるかと思っていたが。 

「お咎めなし?」

 そんな上手い話はないだろう。いや、上手いとか不味いとかそれ以前に、あそこまでの独断専行に対して何の制裁も加えないというのは示しがつかないのではないだろうか。

 怪訝な視線が突き刺さったのを自覚したのか、田金さんはつらつらと経緯を説明していく。

「まず、人形を使っての独断専行については【かねてより構想されていた遊撃隊構想を大規模禍死吏においての超法規的措置とした】ということになっているわけさ」

 一呼吸置き、

「神祇省としては、最近細々とした不満を向けられていたことも受けて、市民の為に新しい試みを常々構想していた。加えてこれを多少強引にではあるけれど実用化し、しっかりと実績を残した。という功績が必要だったんだよね」

 そういえば、いつぞやのテレビ討論において、槍玉に挙げられていた神祇省のお偉いさんが居た気がする。

「ま、古傀儡の使用に関しても無理やり説明をつけているけど、前例を作ってしまったこともあるし、他の五大家から圧力があると思う。近い内に古傀儡の使用に関する条項も修正を余儀なくされるだろうね」

 それは、そうだろう。俺が均衡を破ってしまったということになる。手順を無視した古傀儡の使用を後から正当化してしまった事で、有事の際の古傀儡の無断使用を認めざるを得なくなる。そうなれば今までの煩雑な手順は見直されるだろうし、この機会を逃すほど五大家は甘くはない。必ず、自分たちに都合が良いように各所に根回しをするだろう。

「つまり、遊撃隊は前回の禍死吏を機に正式な籠目隊として認可された」

 そして。 

「同時に、古傀儡の使用が容易になり、五大家の発言力が更に強まる」

「そういうこと」

 田金さんが鼻で笑う。やけに上機嫌な気がするのは気のせいではないだろう。この風通しの悪い籠目隊という界隈において、遊撃隊というコンセプトを提唱し、正式な認可の為に東奔西走してきたのだ。どのような形であれそれが実現したのだから嬉しくないわけがないか。

「今まで以上に、五大家関連の派閥争いなりが激化しそうですね」

「おいおい、もう他人事じゃあないぞ。武美家は正式に五大家として復権することになったよ」

「はい?」

「形骸化していたものを見直したってだけだけどね。そもそも武美は潰えていないわけだし」

「……」

「大丈夫、面倒事はこちらで対処する。五大家の影響力が更に強まることを受けて、こちらにも少しばかり抑止力が欲しいのさ」

 確かに、他の籠目隊とは異なり遊撃隊には後ろ盾となる五大家が実質無かった。言っていることは理解できる。しかし今の武美家にそれだけの価値があるのかは甚だ疑問ではあるが。

「武美君もさ、私の命令を無視できるくらいになったんだから、武美家現当主としての意地を見せてもらわないとね」

 いつもの飄々とした笑顔でそんなことを言い放つ。

 それを言われると何も言い返せない。

 ただ、後悔はない。ただの一つも。

「ここで良いです。また何かあったら連絡を」

 過ぎ去る景色が、徐々にその歩みを止める。完全に停車したのを確認し、降車。

 内心を読み取れない笑みを浮かべる田金さんに会釈をし、学校へと向かう。


 


「武美!」

 部室の前で、部長と副部長に声を掛けられた。

「もう退院して大丈夫~?」

 俺の頭の先から足の先までを視線が何往復もしている。随分と心配をかけてしまったようだ。

「ええ、頭頂部を数針縫ったくらいで、後は打撲くらいなので」

 敢えていつもよりも声を気持ち高く、そして淀みなく説明する。心配をしてくれるのは素直に嬉しいが、やきもきさせてしまったのは忍びない。

「部長、副部長」間髪入れず二人の顔を順番に見て「今回の件、本当に申し訳ありませ―――」

「全くもって気にするな!」

 謝罪が遮られる。

「そうそう、何より二人が無事で良かったよ。瑠璃ちゃんを守ってくれてありがとう~」

 副部長も言葉を継いでくれる。

「しかし―――」置手紙で全てを断ち切ろうとした不躾が。

「良い」力強い断言「前に言っただろう。何があっても、お前は俺たちの後輩で―――」

「演劇部のメンバー、ですよね」

 負けじと言葉を繋ぐ。忘れるわけもない、事情も実情も二の次にして、それでも純粋に俺のことを受け入れくれた。

「分かってんじゃん~」

 副部長の肘がわき腹に突き刺さる。なんて事はないお遊び。だが、そのなんて事はない関係性が、俺にとっては余りにも大きくて、ありがたくて。

 だからこそ、意を決することが出来た。

「部長、一つ提案させていただきたいことがあります」

 まっすぐに見つめる視線を、そのまま受け止めてくれる。

「あの―――」



 ⑪ 後後日談



 時間はあっという間に過ぎていく。

 あの二里級禍死吏から、既に一か月近くが経過している。時は十一月、既に残暑の面影はどこへやら。本格的な冬将軍の足音が少しずつ聞こえて来ている。

 目の前には舞台袖に切り取られた舞台。

 そう、遂に演劇部の晴れ舞台、白雪姫の本上演が始まっている。

 禍死吏に対応している時とも、針のむしろのような籠目隊に合流した時とも、委員長と二人きりで歩いたあの時とも違う、異質な緊張感で咽喉が詰まりそうだ。口内が異様に干上がっていく気もする。

 しかし何とも言えない満足感にも包まれている。この舞台があること、それは彼女の夢の礎を作れたということの証左でもあるから。だからこそ、失敗はできない。

 既に演目は佳境に入るところだ。

 舞台上では、魔女に扮した王女が毒リンゴを持って白雪姫を尋ねているシーンである。

 次は七人の小人の出番、そして王子との邂逅からエンディングだ。

「武美」

 背後から不意に声を掛けられる。しかし見知った声、部長?

「部長?」

 振り返るとそこには薄暗い舞台袖にあってさえ際立つ青白い顔。

「きん、緊急事態だ。俺は今、今生始まって以来、一番の岐路に立たされ―――」絞り出すような言葉が、嗚咽と共に奥歯で擂り潰された音が聞こえる。

 小刻みな振動、抑えられた腹部が嫌でも目に入る。

 事態の理解と共に、混乱と焦燥とが脳内を席巻する。

「後は頼む、すまない」

 絞り粕のような言葉を、王子役の衣装と共に俺に託し、闇の中に消える部長の背中。背後から聞こえる各種の音が、視界の端に捉える光の明滅が、逼迫した状況を自覚させようと踊り狂っている。

 時間はない、そして他に手もない。

 与えられた状況、手札、やることは一つだ。外ならぬ委員長の為に。繰り糸を引き絞られた使命感が鎌首をもたげ、脳内を埋め尽くす困惑や恐怖感を焼き尽くしていく。反比例して、思考は急激に冷静さを取り戻す。

 幸いにもこの後の流れは頭に入っている。加えて、俺自らが修繕と改修を施した七人の小人であれば、王子役として出演しつつ、片手間での演技くらいは十分に可能だ。

 そう。改めて部長と副部長に迎え入れてもらったあの日。俺は七人の小人の修繕を申し出たのだ。

 正直な話、それが正解なのか、贖いとして最善のものであるかはわからなかった。伝統のある卒業制作の品、それもあの手の込みようを見れば、下手に手を加えて良い物なのかどうかどうにも答えが出なかった。

 しかし、

『是非やってくれ。確かに伝統や慣習は大事なものだが』

『囚われ過ぎてちゃあ勿体ないからね~』

 と即答し、どうせ誰も繰ることはできないしね、と笑いあう二人。その言葉に、その雰囲気に、どれだけ救われたことか。

 ああそうか。この状況は、ある意味で本当の贖いになるのかもしれない。贖い、などと言えば大仰ではあるし、気負うことはないとも言われるかもしれない。しかし、外ならぬ俺が、俺自身を許す為のイニシエーション。神が俺に与えたもうた絶好のチャンス。

 なれば、一層に気も引き締まる。 

 渡された衣装を見よう見まねで着込む、薄暗い舞台袖、姿見もないが、それでもなるべく真っ当に。

 七人の小人の指輪と繰り糸を調整する、薄暗い舞台袖、急な仕様変更、それでもこれだけは完璧だ。

 早鐘を打つ心臓に、手を添え、その時を待つ。

 それからの記憶は正直に言ってかなり曖昧だ。

 自らが舞台に立つ。眩しいを通り越して皮膚を焼くような照明、その恩恵として薄暗い客席。

 目の前に迫る委員長の寝姿、無意識に動き出す七人の小人。

 目の前に迫る委員長の寝顔、意識的に呼び出す王子の台詞。

 

 必要に駆られて、不自然なことは承知の上で委員長を抱き起す。心臓の鼓動は最高潮に達し、最早なにをしているか分からなかった。女性をみだりに抱き締めるなど、一男子として褒められたことではないが。

 流石の委員長は、演じる人間の変化を耳朶で捉えているというのに、眉一つ動かさず、状況を受け入れている。

 時間にすれば、ほんの僅かな間。白雪姫が目を覚ますまでの、ほんのちょっとの暇。

 それでも、この腕の中にある命の温かさが、心臓の鼓動が、確かな息遣いが。

 余りにも―――

 余りにも―――

 余りにも―――愛おしくて。


 この瞬間、俺は初めて、恋をした。


 終

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カラき夢みし繰り人よ ~カラクリ~ 詩川春 @HalZeonLunch

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