とんだ白昼夢

ウヅキサク

1

 ヴーッ、ヴーッ。

 一人暮らしの狭い室内に響く、最早何度目かも分からぬやかましいアラームを、手に握りしめたスマホの電源ボタンを押して止める。

「うぅ……」

 汗ばんだ肌に張り付くタオルケットを蹴り飛ばして寝返りをうつ。夏特有の茹だるような熱気は、安物のカーテンなど容易く突破して室内の温度をじりじりと上げ続けていた。

 寝苦しいけどまだ大丈夫、このまま二度寝すればまだ誤魔化せる。

 などと考えながら微睡みに身を委ねようとした時、もう一度アラームの大音量が耳元で響いた。今度もすぐに音を止めたが、今のアラームで微睡みはしっかり霧散してしまったらしい。無理矢理二度寝に入ろうと往生際悪く目を閉じたが、こうなってくると肌に触れるシーツの感触も、何もしていないのに全身に滲む汗も、手の中のスマホが異様に熱を持っているのも何もかもが気に障る。再度アラームが鳴るのに合わせ、私は大人しくベッドから身を起こしてスマホの画面を見た。

 表示された時刻は十二時の少し前。アラームは十時半でかけた筈なので、スマホは一時間以上起きぬ主のため律儀にアラームを鳴らし続けていたようである。

 大学生の朝は遅い。にしても寝過ぎた。

 あくびと共にだるい身体を引き摺って洗面所に行き、顔を洗う。

 今日は特に授業は無いが、今週末までの課題は終わっていない。大学図書館でやろうと昨日までは思っていたんだけど、とリビングに戻った私は窓の方に視線を向ける。

 外をじりじりと焦がす日差しは、カーテン越しに見てもそれが殺人級だというのが一発で分かる。

 こんな天気の真っ昼間、外に出る気になんて到底なれない。

「うぁっち~……」

 とりあえずこの熱気を追い出そう、と扇風機を点けて、眠気の名残で開かない目を擦りながらカラカラと窓を開けた。

「よっ」

 聞き覚えのある声がした。

「え?」

 顔を上げると、ベランダの手すりの向こう側から、人の頭と腕がのぞいていた。その顔は私に似ているけど、私とは違い二重で小顔でおまけに羨ましくなるほど完璧な場所に泣きぼくろのついている、あまりに見慣れた。

「……ねーちゃん?」

「やで」

「…………なんで、私んとこに」

「わたしも分からん」

 姉はベランダの手すりの上に腕を組むようにして、その上に顎を乗せている。そしてだらりと垂らされた手の先には何故か大きなフライパンを握っていた。

 いや、フライパンは当然気になるが、それ以上に気になるのは。

「ねーちゃん、あのさ、ここ四階だよ」

「ま、それ含めてさ、ちょっと中入れてくんね? 暑いのよ外」

「……分かった」

 網戸を開けて姉に中に入るよう促すと、姉は軽々手すりを乗り越える。ベランダの向こうから現れたのはなんと純白のウェデイングドレス。花だのレースだのがふんだんにあしらわれたボリューミーなそれが、ありがと、という軽い言葉と共に私の後横を通り過ぎ、部屋へと入っていく。

 ああ、神様。突然花嫁衣装でフライパンを持った姉の襲来を受けるなんてとんでもない仕打ち、昼まで惰眠を貪った罪の罰としてはあまりに重すぎやしませんか。

 アレか、クーラーか。電気代ケチってクーラーを付けなかったのがいけなかったのか。溜息をつき、からからと開けたばかりの窓を閉めた。

 ――まったく、とんだ白昼夢である。

 リンゴーンとお昼の十二時を知らせる放送がやかましく鳴り響いた。


 私はクーラーをつけるとベッドの上に胡座をかき、床に座り込んだ姉をジッと見つめる。私の住む狭い六畳一間の一画を、ぶわぶわと広がる白いウェデイングドレスが埋め尽くしていた。

「アンタさぁ、もうちょい真面目に片付けと掃除しなさいよ。掃除機持ってんでしょ?」

「ねーちゃん」

「しかもこれ! こんっなヨレヨレの下着まだ使ってんの? っは~、信じらんない!」

「あのさ、ねーちゃん」

 二度目の声かけで姉はようやく私の部屋ではなく私へと視線を移し、気まずそうに目を逸らした。

「ねーちゃん、何? どゆこと?」

「……いやぁ、うーん」

「順番に行こか。まず何、その服」

「服はこれ旦那が買ってきたのよ。ド○キのコスプレ……あれ、なんか豪華になってる? ってやだ、これわたしが結婚式で来たやつじゃん! なんで?」

「じゃそのフライパンは」

「あー、料理の途中で」

 姉は言いたくないことを誤魔化すとき手首の黒子を弄るクセがある、というのは多分親ですら知らない姉の特徴だ。案の定手首の黒子をひっかきだした姉に、

「ねーちゃん、このトンチキな状況見て? 今更もう何誤魔化したって無駄なんだから全部ちゃんと話してよ」

「……よくわたしがウソついてるって分かったねぇ」

「そりゃまあ、伊達に二十年近くねーちゃんの妹してませんし」

「生意気ンなっちゃって」

 姉は暫し視線を彷徨わせ、はあと息を吐くと、

「フライパン、これね、……これで旦那ぶん殴ってきた」

 ぶおん、と物騒な風音を響かせながら姉がフライパンをバットのように素振りする。

「は? ぶん殴った?」

「うん。まあ色々ありました」

「……ま、ぶっちゃけねーちゃんならいずれやると思ってたよ」

「何それ」

「ねーちゃんの血の気の多さは知ってるからね」

 あンだって? とドスのきいた声を出す姉を無視して、私は壁にもたれ天井を見上げながら口の中で声に出さず呟く。

 ――私、あいつ大ッ嫌いだったし。

「ひとまず最初っから振り返って良い? 私はあの人嫌いだったけどねーちゃんはあの人大好きだったじゃん」

「は? 嫌いだったの? 初耳なんだけど」

 やっべ、そういやこれは姉には絶対言わないでおこうと思ってたことなのに。口を滑らせた己の迂闊さに臍を噛みながら、とりあえずそれは置いといて、と両手で目には見えない箱を持ちそれを横に移動させる。

「ねーちゃんは四年前……だか五年前だかにあいつと結婚したと」

「そうだねぇ。若気の至りって怖い」

 姉は乾いた声音で言う。

 姉は私が高校生の時に結婚した。旦那が彼氏の頃から姉は何度か家にあいつを連れてきていたし、姉が結婚してからは、姉と仲良しだった私はよく姉達の家にもお呼ばれしていた。

 姉の話によれば、姉旦那は姉の職場の先輩で今をときめく出世頭なんだそうだ。姉が惚れて猛アタックをしかけたのが付き合うきっかけだったんだとか。

「そんでねーちゃんは結婚後暫くして仕事を辞めたと」

「辞めなきゃよかった。マジで」

 苦々しく姉は答える。

『ねーちゃん、本当に仕事辞めんの?』

 私は姉にそう聞いた記憶がある。

『まーね。わたしは家庭に転職です~』

『なんだよぅ、私が就活の時はねーちゃんのとこにコネ就職させて貰おうと狙ってたのに』

『ンな舐め腐った態度の新人、仮にわたしが職場残ってても絶対入れねぇわ』

 姉は冗談めかしていたが、正直長年の憧れが叶う、と内定を貰ったときの姉が泣きながら喜んでいた姿を見ていたから、結婚後に仕事を辞める、という選択をしたのは私にとってかなり意外だった。けれど姉も姉旦那も両親も『まあお嫁さんになったんだしねぇ』とニコニコ笑っていたので、内心では古臭、と舌を出しつつまあでもそういうものか、と思うだけだった。

「ほんで専業主婦とやらになったねーちゃんは私をよく家に招くようになったと。たまにあの人も一緒に三人でご飯食べてたよね」

「……楽しかったな。アンタと話してるときは」

 不穏な言い回し辞めてよ、と言いかけて口を閉じた。それを言って、姉から何か決定的な言葉が出たら耐えられる気がしない。私はできる限り平静を装い、口調を変えずに、

「いや私もしょーじき新婚夫婦の家に入り浸るのはどーかと思ってたんだけど、ねーちゃんもあの人も是非遊びにおいでって言うから」

 それまでも姉とは時々会って遊んだりご飯を食べたりしていたが、姉が仕事を辞めてからはもっぱら私は姉の家に通っていた。

『はー、結婚は人を変えるって本当だねぇ。あのがさつなねーちゃんの家がこんなきれーだなんて』

『そりゃわたしと旦那の家だからね。頑張って綺麗にしなきゃ。わたしだってやりゃあ出来るのよ』

『全部押し入れに突っ込んでるんじゃなくて?』

『しっつれいな! 大体アンタも大概汚部屋の民でしょうが。人のことやいのやいの言う前に自分の部屋なんとかしな』

『はぁ⁉ 汚部屋は言い過ぎでしょ!』

 などとやりあったのも懐かしい。実際、姉の新しい家は実家での姉の姿からはとても想像のつかないような家だった。常に綺麗で、美しく整えられた二人の、姉曰く『愛の巣』。その言葉を聞き、だっさ、と面と向かって言った私はおでこに強烈なデコピンをくらった。

「そこで好き勝手アンタを呼べる分、実家とかには帰れなかったんよ」

「あー……なるほど」

 実際嫁いでからの姉が実家に寄ることは殆ど無かったと言っていい。お互いの家はそれこそ高校生の私が電車で気楽に行ける程近くにあったというのに。ほんの時々、買い物帰りだと言って顔を出すことがあったが、それも母が『買ったものが痛んだらどうするの』と言って早々に追い返していた。

『そいやねーちゃん今年の盆はどーすんの? お母さんが今度会うとき聞いてこいって』

『あー、ごめん、今年も旦那の方だわ』

『やっぱね。お母さんもそうだろうけどって言ってた』

『じーちゃん達によろしく言っといてよ』

『おっけー』

「でもさねーちゃんはあの人の事大好きだったじゃん。それこそずぼら直して料理教室かよってとかするくらいにはさぁ」

 私の言葉に姉は答えずただ渋い表情を作った。

『アンタ今日も夕ご飯食べてくの?』

『もちそのつもりで来た。マズかった?』

『まさか。任せな。ねーちゃん特性手料理作ったるから』

『えぇ~! ねーちゃん料理ばか下手じゃん! 寿司食べたいよ寿司。姉に会いに来た可愛い健気な妹に寿司を奢ろうって優しさは無いの⁉』

『姉の家に来て寿司をたかる妹は乾くも健気でもねーっつーの! 安心しな、ここ暫くでわたしの料理スキルは抜群にレベルアップしてんだから』

 そう言われて出された料理は確かに姉作とは思えないほど美味しかった。ただ、この料理は旦那の好物でね、これは旦那の好きなもの使っててこれは義両親直伝レシピで、と食べてる横でのろけを炸裂させられるのには随分と閉口した。

「ご飯の後とか酒入ると必ず旦那の惚気言ってたじゃん。聞いてるこっちがげんなりしてくるくらいにさ。何度ベロベロのねーちゃんの惚気聞かされたことか」

 ……だから、私は。

「旦那の浮気を笑って許すくらいに好きだったんでしょ。ならなんでフライパンなんかで」

「許してないよ」

 低い声が私の言葉を遮った。姉に視線を向けると、体育座りで膝に顔を埋めた姉が、前髪の隙間から私を見上げていた。

「味方がさ、居ないってしんどいんだよ」

 私は黙って姉の次の言葉を待つ。下手な反応をすると、姉はすぐにこの話を茶化して軽く流し、二度と語ってはくれなくなるからだ。深刻な話ほど姉はすぐに茶化して大したことなんて無い、という風に振る舞う。姉は、家族も友達も、一番仲の良い妹の私ですら見抜けぬほど巧妙に自分の傷を隠してしまう。昔から、そういう人だった。

「旦那はちゃんとした人だったよ、とてもちゃんとした人。お金稼いで妻を養って出世して、間違った事なんて何一つしなかった。旦那が唯一した間違った事が浮気だったけど、でも一度だけ、それまで間違った事の無い清廉潔白の男をどうして許せないって。あなたは妻として全く至らなくて全然しっかりと出来てないのに、それを毎日許されてる身じゃないかと」

 何が清廉潔白、と唾を吐きたくなるのを我慢して私は黙ったまま姉を見つめる。

 通知表には必ず『元気で活発』と書かれ、がさつで豪快でちょっと無神経で色々と粗っぽくて、でもそんな全てが魅力になるような姉だった。そんな姉が大好きだった。

「ちゃんと出来ずに叱られるのはいつもわたし。旦那はわたしを怒らないんだ。手を挙げたりもしない。叱るんだよ。叱って諭すんだよ。良い旦那でしょ?」

「良い旦那じゃなかったから今ねーちゃんはそうなってんでしょ」

 堪えきれず言い返す。あねは空虚に笑い、

「あ~、そっか。わたし、誰かにずっとそう言って欲しかったんだな」

「……なんて言われてたの」

「あんないい旦那捕まえたのに文句言ったらバチ当たるよ、恵まれた環境で何甘えたこと言ってるの、家柄の良いおうちにいれてもらったんだから努力しなきゃ、何それ自慢? あなたも沢山我慢して貰って合わせて貰ってるんだから少しは相手に合わせたら、旦那もお前の為に毎日仕事頑張ってるんだぞ、あー……後は思い出したくねぇな」

 立て続けに姉が上げた言葉の中には、聞き覚えのある言葉もあった。姉と電話してる親の発していた言葉だ。

「でもさ、全部間違っちゃいないのよ。本当にその通り。わたしが甘えてるだけなんだわ。わたしが好きって言って釣り合わない相手のとこに無理に押しかけたんだから、私が旦那に釣り合うよう合わせられるよう努力しないと、って」

「そんで掃除もえらい丁寧になったし料理も教室なんぞに通ってたし資格の勉強とか言ってたのね。合点がいった」

「そーゆーこと。……あ、そういうこと」

「何、それまさか言葉遣いも?」

「当たり前じゃん。会社の人を接待するときにその妻がだらしない言葉遣いしてたらみっともないでしょ」

「……どうせアレでしょ。あの人は『君を愛しているからこそ俺に相応しい女性になってもらいたい』とか抜かしたんでしょ。もしくは『俺だってこんなこと言いたくないよ。でも君が何度言ってもちゃんとしてくれないから』とか」

「アンタさっきからエスパー? どっちも言われた」

「最っ悪」

「なんでよ」

「典型的なモラハラの手口じゃん。全部を相手のせいだって事にして罪悪感抱かせてコントロールするやつ。しかもヤツは周囲を味方にして取り込む術に長けてたと。でもねーちゃんそんなモラハラに屈するタイプじゃなかったと思うんだけど。一言われたら十言い返して口喧嘩で相手泣かすのなんかしょっちゅうだったじゃん」

「やーめてよそんな中学とか小学校とかの話持ち出すの。それに、言い返してもダメ。君はすぐそうやって感情的になる。感情的になった人とは話す意味がない。頭を冷やせって言われるから」

「うわぁ」

 聞けば聞くほどモラハラだ、と私は盛大に顔を顰める。

「暴力は振るわなくても無視とか舌打ちとか扉をわざとデカい音立てて開閉するとか溜息連発とかしてただろ」

「舌打ちはしなかったよ。旦那、やっぱ育ちがよくてちゃんとした人だったし」

「舌打ちは? じゃ他は?」

 姉は黙って体育座りの膝に顔を埋める。他は全部やってたんかい、と殺意が湧いた。殺意が湧いたところで姉の持つフライパンに視線が行き、慌てて目を逸らす。

「しっかしならそれ私に言ってくれれば……」

 つるりと口が滑り、私は慌てて言葉を止めた。さっきから自分の口の軽率さに嫌気がさす。それが出来るような姉じゃないのは知っている筈なのに。

「……だって、言って、アンタにまで他の人と同じような事言われたら耐えらんなかった」

「ねーちゃんの特別になれてたようで光栄だわ」

 姉にとって私は色々な意味で最後の砦だったのだろう。そう思うと同時に、姉が私には旦那ののろけしか言わなかったことの理由が腑に落ちた。

 最後の砦たる私が、姉の惚気を聞いて姉の旦那を持ち上げ、姉の環境を羨ましがり、姉の結婚を祝福する。これが姉にとって自分の環境は幸せなものだと信じ思い込むための麻薬だったのだ。自分は幸せだ恵まれてると声に出して何度も唱え、そしてそれを私が復唱することで暗示の様に自身に刷り込んでいく。あの惚気は、姉にとってそういう役割を担っていたのだろう。今更ながらにそのことに気がつけなかった自分の鈍さに腹が立った。

「アンタと話してるときは楽しかったけど、アンタ途中から受験で来なくなっちゃったし、受験終わったと思ったら別の県の大学行くし」

 私は黙って姉から目を逸らした。

 私が姉の家に行かなくなったのは受験のせいじゃない。姉旦那の所為だ。

 いつものように姉が私を呼び出し、酒と共に惚気るだけ惚気て、しこたま呑んで酔い潰れた後、いつものように姉旦那は私を車で家まで送ってくれた。

 姉旦那はいつものように車の中で『姉に代わり』と姉の醜態を詫び、『いつも勝手な付き合わされて大変だね』と同じ悩みを共有するもの同士のように私に話しかけた。

 姉旦那は一般よりかなり顔が良い部類の男で、姉の好みと言うことは姉と好みの似てる私の好みであった。しかも『年上のかっこいいおじさんではないけどお兄さんよりも更に上』という絶妙な塩梅。

 正直なところお年頃の脳味噌が恋愛で八割埋まってるような時期真っ最中だった私は姉旦那に憧れを多分に含んだ好意を抱いていた。最低最悪に気持ち悪いのは自分でも分かっている。もしタイムマシンがあったらあの時の私の頭をハンマー持ってぶん殴りに行くだろう。けれどそんな感情を抱きながらも私はそれ以上に姉が大好きだったし、その気持ちをどうこうするつもりは一切無かった。強いて言うなら将来姉旦那と似た顔の彼氏捕まえて姉夫婦との写真撮りたいな、などと思っていたくらいだ。……今思うとそれも大分気持ち悪いが。

 うちの姉がー、うちの妻がー、という話で車中は大体盛り上がっていた。今思えばそういった姉トークの大半は姉旦那が姉の欠点を上げて私がフォロー。そして私が姉の欠点を言い姉旦那が同意、という形だったな、と思い出す。

 いつもは家の前で下ろして貰ってハイ、サヨナラだったが、その日は違った。

 姉旦那は『今夜桜が綺麗なとこがあるんだ』と普段とは違うルートを通り、車を運転しながら、

『いやぁ、しかし君も随分お姉さんには困らされてきたんだねぇ』

『わはは、まー、姉妹喧嘩なんてしょっちゅうでしたしねー。未だにホワイトデーに貰ったチョコ食われたことは許してないです』

『はは、それは酷い』

 とたわいない話をしていたが、

『今度君ともゆっくり話をしてみたいな。いつも妻が君を独占しているから。そうだな妻が家に居ない日にでも家に来ないか』

 何気ない口調で、目は真っ直ぐ前に向けられていたし、両手はハンドルを握っていた。けれどその発言が飛び出た瞬間車の中の空気が粘度を持ち、私に絡みついたような気がした。

 これは、ダメなヤツだ。

 脳味噌の八割がピンクに染まり、一面『彼氏』だの『恋愛』だので埋め尽くされているお花畑高校生でもそれは瞬時に理解出来た。

 私は視線を前に固定し、車を避けるように後ろへ流れていく桜並木に意識を集中させた。

 力じゃ敵わない相手、しかも姉の旦那で社会的地位も信頼もある相手と密室に二人きりという状況に思い至り、背筋をイヤな汗が伝うのが分かった。

 正直あの後なんて返事をしたか覚えていない。とにかく当たり障りのない返事をして家に帰り、そのまま風呂にも入らず自室の布団に飛び込んだ、という事だけぼんやりと覚えている。

 このことを誰かに話した事はないし、姉旦那もそれ以上何か言ってくることは無かった。けれどその日以降私は受験を言い訳に姉の家には行かなくなり、姉との距離も遠くなってしまったのだ。

 だから姉旦那が浮気をした、というニュースに両親が蜂の巣をつついたような大騒ぎをしても、私はやっぱりな、としか思わなかった。

「あー……あんま行かなくなったのは、それは、ごめん」

 言おうか言うまいか迷い、とりあえず今は言わないことにする。私も現状十分キャパオーバーだが、姉もこの状況でそんなこと言われたらキャパオーバーどころか怒りのあまりフライパン片手に包丁まで装備して旦那の所にとんぼ返りしてしまいそうだ。

 そこまで考え、フライパンに触れない訳にはいかんよな、と私は大きな溜息をつき、

「……そんで、諸々積み重なって我慢の限界が来た末にフライパンで旦那をスマッシュしてもーたと」

 姉は無言でこくりと頷いた。

「初心に帰ろう、って急に旦那がウェデイングドレス買ってきてわたしに着せて、そんで……察しろ、アンタもいい歳だろ。でも格好だけ若返ってももう全然ダメだな。なんだこの手入れを怠って醜く歪んだ身体は、的なことを言いまくられ……」

「最低、死ねカス。ねーちゃんが殴ってなかったら私が刺してた」

「仕舞いにゃ『母さんも言ってただろう。女は男の為に常に気を抜くんじゃありません。あなたが気を抜いたから旦那に浮気されたんでしょうって。主婦の先輩として母さんの言葉は大切にするようにって言ってたのにもう忘れたのか』って」

「地獄でもっかいころされろ……と、言いたいけどさ」

 私は姉の膝に手を置き、

「殺しはダメだ。マジで。それだけは私、擁護しないよ。ねーちゃんそんなクソ野郎の為に手を汚さなくたって。なんで殺しなんて」

「いや、殺しちゃいないよ?」

「へ?」

 あっけらかんとした姉の声に私は涙の溜まった目を上げて姉を見た。

「いやあ、フライパンぶん回したはいいけど当たったの肩でさ。そしたら反撃されて結婚後初の拳が出て、そこで意識ぷっつんして」

 そう言った姉は西洋人の様に肩をすくめて手を広げたが、私はそれどころではない。膝に置いた手に力を込める。

「じゃ何、旦那殺して自分も死ぬ的なアレじゃないの」

「わたし、死んではいないっぽいよ。ほらこれ見て、なんか紐繋がってるし。意識不明とか? てかヤだよわたしあんなのと心中するなんて」

「……っ! 死にかけの幽体離脱して最初にすることが私に愚痴吐くことか、このバカねぇーッ!」

 人生で一二を争う大声が出た。カラオケですらこんな声を出したことはないだろう。

「いや、だってさぁ」

「だってもヘチマもない! はよ帰れ! 通報と救急車私がする! 今すぐするから! バカ、私、ねーちゃん死んだと思って、覚悟決めなきゃって、ずっと……!」

 涙が詰まって嘔吐き出す私の頭を姉が撫でる。それを振り払い、

「手遅れになる前に帰れっての! お願いだから!」

「だーいじょぶだって。分かるんだ、そういうの。しかし私は姉想いの妹がいて幸せだねぇ」

「ノンキ言ってんじゃねーっ!」

 再び叫び、呆れた顔ではいはい、と外に出ようとする姉に、

「そうだ、そのウェデイングドレス脱いでって」

「は?」

「あんなのと結婚した時の記念なんか着てる必要無い。まっさらのまっぱで帰ってそのまま離婚しちゃえ」

「……変態」

「目覚まして元気になったら殴る」

「こっわ、暴力妹はんたーい」

 危機的な状況を一切感じさせない声と、小さなありがと、を残し、姉の姿が霧散する。部屋の中にはウェデイングドレスがまるで脱ぎ捨てられた蛹の様に残っていた。

「これ、脱いでけって言ったはいいけどどーしよ」

 呟きつつ警察と救急に電話し、一息ついて振り向くと、ウェデイングドレスは影も形もなくなっていた。


***


 あの後、私の通報よりも先に意識を失った姉に怖じ気づいた姉旦那が先に通報を済ませていたらしい。姉旦那の肩は打撲と脱臼、姉は脳震盪を起こしているが命に別状はないとのことだった、というのを病院に駆けつけた私は親から聞いた。

 姉の離婚騒動はかなり揉めたらしいが、一先ず財産分与のみで離婚成立となったらしい。親も姉も私には詳しい事を教えてくれなかったのでよく分からないのがとても気に食わない。私はもう大学生だっての。

 姉は私の所に来た時のことを何一つとして覚えていなかった。ウェデイングドレスでフライパン握りしめた幽体の姉が私の所に来た、と話したら、姉は真顔で、

「……大丈夫? アンタ、頭打った?」

 と聞いてきた。とりあえず私は

「頭打ったのはねーちゃんの方だろ」

 とツッコミ、それ以上姉にそのことは話さなかった。多分、あの時姉が私に話してくれたことは、姉にとって隠しておきたかったことも多く含まれていただろうと思うから。傷が癒え、この結婚話を姉が笑って話せるようになった時に、あの日の話をまた姉に話してみようと思った。私もお酒を飲めるようになったことだし、酒を入れて話すのもオツだろう。


 でも、姉が危機的状況に陥ったときに頼った相手が、親でも友達でもなく妹の私で、姉が私を特別に思っていた、という事実がとても嬉しかったと言うことだけは、絶対に姉には黙っていようと思っている。それを姉に知られるのは、なんとなく癪に障るので。

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とんだ白昼夢 ウヅキサク @aprilfoool

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