本を燃やす

サトウ・レン

そばにきみがいた。

「月が綺麗だね。ユリ」

 私が呟くと、ユリがちいさく笑った。それは告白の言葉ですか。厳密には笑っていない。だってユリには目も口も鼻もない。声の調子はいつも平板だ。だから笑っていると判断するのは、本来、不可能なはずなのだが、私には分かってしまう。分かってしまえるほどに、私たちは互いをよすがにしてきたからだ。


「また、変な知識を覚えてきたんだね」

 覚えようと思って、覚えてきたわけではありません。気付けば知っていただけです。まるで受動的な知識は虚しい、とでも言いたげな反応だった。ユリが体を波立たせる。その仕草、ってエロいよね、とむかし、ユリに伝えたことがある。人間の感じる官能性に私を当てはめないでください、とその時は返ってきた。嫌だった? いえ別に嫌ではありません。好悪の感情など私にはないのですから。ただ無駄だ、と思っただけです。無駄に意味を見出せるのも、人間らしさ、なんだよ。


 ユリがアメーバ状の体を広げて、本を抱く。

 それらの本はすべて私の書斎にあったものだ。正しくは、父の書斎なのだが、数十年も前に、ユリと出会うよりも前に死んでいて、私とユリ以外、誰も使わないのだから、もう私の書斎兼ユリの食糧庫ということでいいだろう。反論する者なんて誰もいない。いるのなら、逆に出てきて欲しいくらいだ。そうしたら私は喜んで反論される。


 ユリは本を食う。本を食う、というか、文字を啜る。似ているけれど、ちょっと違う。生きるために、文字を自身の体に取り込む。取り込み終わった本は空っぽになる。文字が本から消え去るのだ。そしてユリは知識を得る。だから、覚えようと思って、覚えてきたわけではない、なのだ。ユリは欲しくて得たわけではない。最初は言葉さえも知らなかったユリが、月が綺麗、なんて言葉に反応を見せる様子には、感慨深さもある。


 初めて会った時のことを思い出す。

 突然の出来事によって、家族を失った私は孤独だった。誰もいない夜の繁華街を、私は歩いていた。寂しさを紛らわせるように、大声で歌ってみたりもした。むかし流行った曲だ。若くしてこの世を去ったシンガーソングライターの表現した詞はあまりにもストレートだった。


 繁華街を過ぎて、住宅地に入ったところに、ユリはいた。その時はまだ、私がユリと名付ける前で、ただのアメーバ状の化け物だったのだが。ユリは地面を這って、なめくじのように、ゆっくりと体を動かしていた。あの……、と私は声を掛けていた。無視をすればいいのに、気付けば。きっとあの日でなかったならば、父と母と妹を、そして親友を、同時に失ったあの時でなかったならば、私は何も言わずに、通り過ぎたはずだ。いっそこの化け物に殺されたい、とそんな投げやりな気持ちがあったからかもしれない。ユリは何も返さなかった。あの頃は言葉を知らなかったからだ。ただ震えているだけだった。その姿を見て、怯えているんだろうか、と私は思った。いま思い返せば、それはただのユリの癖で、実際は何ひとつ怖がってなどいなかったのだ。そんな思い違いも重なって、私はユリを家へと連れ帰っていた。ユリを抱いた手はべとべとしていた。


 そして私はアメーバ状の化け物に、ユリ、という名前を与えた。

 ぱっと浮かんだ名前がそれだったのだ。男か女かも分からない性別にふさわしい名前だったのかどうか、いまも分からない。ただ私は男性だったのに、女っぽい女っぽい、とよく言われることがあったので、男らしさ、女らしさ、みたいなものにこだわりはひとつもない。


 生き物なんだから、何かは食べるだろう。私は野菜や果物、生肉や卵などを置いてみた。すこし緊張感はあったのだ。人間なら普通に食べるものでも、他の動物ならば劇薬になってしまうこともある。ユリが口にした瞬間、死んでしまうのではないか、と。それでも何も食べずに死なせてしまうわけにもいかない。頼りにできるひともいないので、自分でユリが食べる物を見つけなければならなかった。結局、食べなかった。仕方ないので、虫を捕まえてきて、置いてみた。食べなかった。兎ならばいけるだろうか、と兎を捕らえて、置いてみた。食べなかった。何も食べない。一週間くらい経った。衰弱する様子はなかったが、私から見えているユリの様子が本当に正しい保証もないので、突然死ぬかもしれない、という不安はつねにあった。私はその日はカエルを捕まえてきて、とりあえず串に刺して、皿の上に置いて出してみた。食べる様子はなく、ゆっくり待つか、と父の書斎から持ってきた一冊の文庫本を読んでいた。アンナ・カヴァンの『氷』という何度か読んでいる小説で、いまの気分にも合いそうな気がしたのだ。数ページ読みながら、ユリの様子を見る、という行動を何十回か繰り返すうちに疲れてきて、私は喉が渇いたな、と水でも取りに行こうと、その場所を離れた。文庫本はその場所に、屋根の形をさせて、置いた。常温の生温いペットボトルを持って戻ってくると、ユリが文庫本に抱きついていた。じゅーじゅーと謎めいた音がする。音がやむと、ユリが本を捨てるように地面に置き、本から離れる。そして生まれたての赤ん坊のような泣き声をあげた。泣いているわけではなく、ただの奇声で、泣き声、という表現は正しくはないのだが。私が初めて聞いた、ユリの出した音だ。


 ユリは本を食べる。食料には困らない。父はそれなりの愛書家で、多くの本が部屋にあったからだ。


 ユリは本を食べ、言葉を覚え、知識を得た。その知識を、私に対して以外、使うことはなかったのだが。


 それから私は、数十年の月日を過ごした。数十年生きたユリの寿命は何歳なのだろう。ただ寿命はどうあれ、こんな慣れない環境で、生き続けたことは本当にすごいと思う。ユリに伝えると、だから人間の感覚と一緒にするのが間違ってるんですよ、と言われてしまった。褒めてるんだから、素直に受け取れよ。素直に受け取った結果がこれなんです。ああ言えば、こう言う。


 これと言って特別なこともない、つまらない会話ばかりだ。でもそんな会話が、私の孤独を癒してくれたことは間違いない。もしもユリがいなかったら、私はとっくに死んでいたはずだ。ユリと出会ったあの日にもう、私は死んでいたかもしれない。


 孤独が好きだ。そう言葉にする人間は、それなりにいる。私の周りにもいた。その時はあぁそうだよな、とか思っていたが、あの『孤独が好きだ』は、人間がいる世界で、たまにひとりになるのがいい程度のものなのだ、きっと。私もそう考えていた時期はある。だけど地球上に人間が自分ひとりになった世界で、孤独でいるのは苦しい。あまりにも苦しい。もうここには私以外の人間は誰もいない。突然、消え去ってしまったからだ。


 もちろん世界中のすべてを周ったわけじゃないので、もしかしたらどこかに、私と同じ境遇のひとがいるかもしれない。でも私ひとりで、日本から海の向こうまでは行けないので、確認するすべはない。挑戦すらしていないのに、行けない、と決め付けるわけにもいかないが、挑戦さえしなかった私には同じことだ。すくなくとも私の生活範囲には、ひとりもいない。


 ユリがいなければ、ここにいる人間はすべて消え去ってしまっていたところだ。仮にユリが、この災厄を引き起こした元凶だったとしても。


「愛してるよ、ユリ」

 それは親愛のほうですか。親愛だよ、もちろん。それ以上でもそれ以下でもない。敢えて後ろにそういう言葉をくっつけるのが嘘くさいですね。あぁこういう下らないやり取りが本当に好きだ、と私は思う。


 でも私に残された時間はあとわずかだ。

 自分の身体のことは自分が一番分かっている、なんて言う気はないが、それでもある程度、確信の持てる予感というものがある。


 私はもうすぐ死ぬだろう。


 気がかりがあるとすれば、それはユリのことだけで、他には何もない。だってここにはそれ以外、何もないのだから。


 私たちはいま海岸にいる。夏も終わりに近付いていて、夜気は冷たい。闇色の中で、水平線の上に昇る月だけが鈍い光を放っている。鮮やかになりきれない光が、その時の私には、何よりも美しく見えて、つい口から漏れてしまったのだ。


 月が綺麗だね、ユリ。

 それは告白の言葉ですか。

 また、変な知識を覚えてきたんだね。

 覚えようと思って、覚えてきたわけではありません。気付けば知っていただけです。


 あぁ駄目だ、と思った。また私たちはこんなつまらないやり取りをしている。こんなことをすれば、名残り惜しくなるだけなのに。


 ここできみと別れようと思ってるんだ、ユリ。

 なんでですか。

 だって私はもうすぐ死ぬからだよ。肉体が限界に近付いているんだ。死ぬ前に周りの物を捨てていく、これは人間にとって普通のことだよ。

 物、と言った時、声が震えていましたね。

 そういう時はわざと聞き逃すのが、礼儀なんだよ。

 人間の感覚を、私に当てはめないでください。

 まぁとりあえず、お別れだよ。いいじゃないか、それで。ちゃんときみは書斎に置いていくから、好きなものを好きなだけ食べればいい。

 そこに好きなひとがいないのが寂しいですね。

 それはたいした愛じゃないさ。どうせすぐ忘れる。

 それが親愛でも、ですか。

 親愛でも、だよ。

 お願いしてもいいですか。

 お願い、って。

 書斎の本はすべて燃やしてください。

 なんで。

 一緒にいきましょう、ということです。私だって、食べるものがなければ、そのうち、死にます。同じタイミングになれないのが、すこしだけ寂しくもありますが。

 ……分かった。


 そして私は書斎にあった本をすべて燃やした。外で燃やしていたって、咎めてくれる人間は誰もいない。


 それから一ヶ月が経った。先に動かなくなったのは、ユリだ。急に、何も言わずに、動かなくなってしまった。


 胸の苦しみを感じて、私は這うように、ユリのもとへと向かう。声を掛けても、返事はない。馬鹿馬鹿しいやり取りもしてくれない。


 今から、そっちに行くよ。

 私ももうすぐ眠るから。

 ユリ、きみのお陰で。

 長い人生になった。

 本当にありがと。

 また向こうで。

 なんて……。

 無理かな。

 じゃあ、

 ねっ。

 ユリ

 。

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