パナケイアの温室

三浦常春

パナケイアの温室

れ薬が欲しいんです」


 草花の生い茂る温室の中、紅茶の向こうで一人の少女が口を開く。彼女の訪問から、およそ一時間は経とうという頃のことだった。


「この家には『魔女』が住んでいるという噂を聞きました。あなたが本当に『魔女』なら、惚れ薬の作り方だって知っていますよね」


 責め立てるような厳しい口調に相対するのは、淡い金色の髪を垂らす人物だ。黒を基調としたワンピースはフリルをふんだんにあしらい、どことなく古めかしく格調高い雰囲気を感じさせる。


 まるで人形のような、というこすり倒された表現がふさわしい。


 だが、その口から洩れ出るのは、見た目にそぐわぬハスキーボイス。まさか人形のごとき『少女』から発せられたものではあるまいと、多くの人が顔を見合わせることだろう。


 『魔女』から発せられる声は明らかに男のそれであった。


「……まあ、知っているけど」


 小柳こやなぎパナシィは『魔女』である。怪しげな儀式や薬草の知識を駆使して、ほんの少しだけ『奇跡』を手助けしている。伝承よりも親切で、創作よりもできることが少ない。人畜無害な、ただの物好きだ。


 そんな彼の元を、うら若き一人の少女が訪ねてきた。これは一大事だ。魔女の存在をどこで知ったのかという疑問もさることながら、いかにして住処を見出したのかとプライバシー上の問題も浮上する。


 何せパナシィの家は田舎にある。バスが通らず、最寄の駅まで、車で三十分はかかる田舎に。Googleマップにはかろうじて映るかもしれないが、悲しいことにパナシィの家は一見すると廃墟である。


 いったいどのようにやって来たのかと、雑談じりに問うてみたら「魔女の家に行きたいとタクシーに伝えたら」ときたものだから、過去の自分を恨むばかりだ。


 さて。彼女が求める『惚れ薬』とは、恋の進展を助ける薬だ。


 誰かを好きになってしまったが、その人は振り向いてくれない。そんな時に、相手に何かしらの形で薬を摂取させると恋が成就するという夢のような代物だ。かつては媚薬とも呼ばれ、興奮剤の一種として数えられていたが、近年ではとして半ば形骸化している。


「惚れ薬を作るのは構わないけど、どうしてそれが必要なのかな? 雑賀さいがさん」


「それ、どうしても言わなきゃダメですか?」


「薬を作る上で必要なんだ」


 正確には、パナシィが魔女の資格を剥奪されないために必要な情報と言えるだろう。


 何せ彼女が所望する『惚れ薬』は対象の心を動かす薬だ。よからぬ事件に発展しようものなら薬の調合者、つまりパナシィ自身に害が及ぶ。そうなれば、代々続く魔女の家系はついえる。


 血筋や家系に興味はないけれど、軽率な判断で路頭に迷うこともしたくない。そういう思いからの問いだったが、どうやら彼女――雑賀結奈さいがゆいなはじっとティーカップの中身をにらみつけたまま、口を開こうとしなかった。


 眉のあたりでパッツリと切られた前髪。うなじでピッチリと結んだ後ろ髪。制服のブラウスもジャケットも、ボタン一つ余すことなく閉められている。きっと彼女の足を隠すスカートだって、ウエスト部分を巻いて丈を詰めた痕跡すらないのだろう。


 絵に描いたような優等生。雑賀に対する印象は『それ』であった。


「……誰かを好きになったことが、ないからです」


 長い沈黙の末、少女の頬は赤く染まる。まるでそれが恥ずべきことであるかのように。


 随分と可愛らしい理由が出てきたものだと、パナシィは眉を動かす。惚れ薬を求めるやからのほとんどは「恋を成就させるため」とさえずるものだが、目前の少女は違うらしい。


「高校生になると、周りが浮ついた話をしだして……。彼氏がどうのこうの、好きな人がどうのこうの、別れだだの何だのって」


「つまり、焦ったわけだ」


「焦ってなんか……!」


 声を荒げた雑賀だったが、パナシィの言葉に心当たりでもあったのか、しおしおと縮こまってしまった。


 彼女の前に置いた紅茶は、すっかり白煙を潜めていた。


「今のご時世、Xジェンダーとか無性愛者アセクシャルとか、多様性が叫ばれていることは知っています。そういうのが受け入れられつつあるってことも。でも、周りの子は決まって誰かを好きになって、その人と惚れた腫れたをり広げている。私はその話についていけない……」


「うん」


「幼稚園の頃に好きだった人、小学生の時に気になった人、中学生の時に憧れた人……誰もいないんです。もちろん、友達として『好き』だった人はいますけど、恋愛としての『好き』は一つも心当たりがない。そう話すと、みんな、つまらなそうな顔をするんです」


「恋バナをしたい人にとってはそうだろうね」


 雑賀の話を聞きながら、パナシィは己の学生時代を思い出していた。


 確かに当時も、誰に惚れただの誰が気になるだの、浮ついた話を聞くことはあった。もちろん、誰と誰が付き合っているとも。だが、その多くはたわむれであり噂であり、一種の非現実的な話として聞き流していた。


 交友関係が異なれば見える世界も違う。おそらくは、パナシィが交流してきた層とは違う層と交流を持っていたら、次は我が身とウキウキすることもあったのだろう。


 雑賀のようなタイプはパナシィと似た層と交友していそうなものだが、どうやら彼女の周りは、生物としての職務を果たさんとする人物であふれているらしい。未来は安泰だと喜べばよいのか、思春期特有の背伸びだと危惧すればよいのか。大人になった今でも分からない。


 同年代同士で健全なお付き合いをしているのであれば、周りが口を出すものではない。それこそ野暮というもの。


「どうして雑賀さんは恋愛をしてみたいのかな」


「どうしてって……してみたいから、じゃダメですか?」


「まさか! 興味があることはいいことだよ」


 雑賀が欲する惚れ薬を提供することは、もちろん可能だ。


 伝統的な惚れ薬は軟膏であることが多い。目蓋まぶたに塗る形で使用するのだが、即効性が強く、目が覚めて最初に見た人を好きになってしまう。


 今でこそ『目が覚めてすぐに』という強力な薬を作ることは難しいが、それに準ずる薬を調合することは可能だ。材料だって在庫がある。副作用は軽度な倦怠感くらいだし、学業にも支障をきたさないだろう。


 薬を貰って満足するならば安いものだ。思春期の悩みに少しだけ手を貸してやろうじゃないか。


 パナシィは立ち上がる。温室の一角、白色の机と三脚の椅子を並べたスペースに、黒色のワンピースが広がった。


「それじゃあ、試してみる?」


 雑賀の目が、大きく瞬いた。



   ■   ■



 惚れ薬は効果を期待する一時間前に服用すること、空腹の状態での服用は避けること。一般的な『薬』と同じような用法を説明して、日が沈みかけた下界に少女を返す。パナシィの家は田舎も田舎にあるから、最寄の駅へ軽トラで送り届けることも忘れずに。


 彼女に渡した惚れ薬は、極めて弱いものだ。古代より豊穣の象徴であったブドウをベースに、香辛料や薬草を少々。レシピにならうならばワインを入れたいところではあるが、未成年への薬だから自重する。


 パナシィが作った『惚れ薬』は、厳密には『惚れるためのもの』ではない。『恋』と似た現象、あるいは『恋』によって引き起こされる微小の変化を感じやすくするための薬だ。きっと、雑賀結奈が求めるものとは全くの別物だろう。しかし、これでよいのだと、パナシィは目を伏せる。


 思春期の少年少女が持つ心の振り子は、大人のそれよりもずっと敏感だ。軽く触れるだけで、右へ左へと大きく揺れる。動きが鈍ければ、ほんの少しだけグリスを塗ってやるだけでよい。そうすれば、いずれ解決する。それがどのような形であっても。


 急ぐ必要はない。人生は長いのだ。たかが十数年、『恋』と呼べるものをしてこなかったからと言って悲観することはない。


 ひょっとしたら明日、登校中にパンを咥えた生意気な同級生にぶつかるかもしれないし、新たな価値観を呼び込む転校生と出会うかもしれない。出会いとは、別れと同様に唐突だ。彼女が『恋』を知る日も近いかもしれない。


 大丈夫。子供は、大人が思っているよりも強くてしなやかだ。いずれ『魔女』のことも、恋を欲していたことも忘れる。


 パナシィと少女の縁は終わりを迎える。そう思っていたのだが。


「惚れ薬、効きませんでした」


 今日も今日とてタクシーを手配したのだろうか。ご苦労なことだと、パナシィは半ば呆れながら温室の入口を見やる。そこには、雑賀が――服装こそ私物に変わっているが、確かに雑賀結奈その人が立っていた。


 表情は暗い。垂れ下がった髪もあいまって、まるでホラー映画の冒頭だ。


「どうして偽物を渡したんですか? あなた、本当は魔女じゃなのでは? 惚れ薬なんて、最初から作れないんじゃ――」


「あれは惚れ薬だよ。材料も分量も伝統を汲んだ、正真正銘の惚れ薬」


 錯覚を現実へ。その手助けをするものが魔女の薬である。錯覚がなければ現実にしようがない。雑賀の自己分析は正確だったようだ。彼女は確かに恋をしたことがない、あるいは恋をしていないのだ。


 恋をしていないのに惚れ薬が欲しい、などという物好きには会ったことがない。世界規模で見れば一人や二人はいそうなものだが、少なくともパナシィの前に現れた数奇者は雑賀結奈ただ一人だ。


 魔女は己の成果を論文にしたためないし、唯一言及がありそうな日記やメモ帳はおおやけに出回ることがない。当然、パナシィの目に留まることもない。


 つぼみのないところから花は咲かないように、恋心のないところに恋は芽吹かない。なるほど、これは厄介だ。まるで頓智とんちではないか。


「私はずっと、恋ができないんですか?」


「できないかもしれないし、できるかもしれない」


「それは困ります!」


「どうして?」


「してみたいからです、恋を!」


 伝えたはずでしょう、と雑賀はこぶしを震わせる。顔を真っ赤にして、ともすれば今にも泣きだしてしまいそうな顔で、少女は――不安に引き倒された少女は叫ぶ。


「私は、恋が、したいんです! こんな……機能不全のまま、『異常』のまま生きていくなんて嫌です。恋をして、家族を作って、老後や死後の心配とか、そういうのとは無縁のまま生きていたい。ただそれだけなのに、どうしてそんな簡単なことすらできないんですか? 私はずっとこのまま、恋を知らずに生きていかなきゃいけないんですか?」


「……さあ?」


 パナシィに言えることは、それだけだった。


「あの……何か勘違いしているようだけど、ここは人生相談室じゃない。ボクは、あなたの言う『魔女』は、奇跡を手助けすることしかできないんだ。奇跡を起こす力も持っていない。もっとも、悪魔と契約した正真正銘の魔女なら話は別だろうけどね」


 叫びこそが、雑賀の本心なのだろう。


 彼女のような年頃は、学校こそが『世界』だ。『世界』で起きること、限られた人間関係が全てであり、順応と同調という強迫観念にさらされる。大人になったパナシィからしてみれば、「周りと同じように恋をしてみたい」という願いは可愛らしくありながら窮屈に感じる。


 『惚れ薬』を提供した手前、もはやパナシィも共犯のようなものだが、今となっては憂いを向けざるを得なかった。


 気まずい沈黙が流れる。ウェーブの取れかかった髪を撫でて、いかに諦めてもらうかを考えていると、不意に雑賀が口を開いた。


「……悪魔と契約すれば、正真正銘の惚れ薬を作ることができるんですね?」


 おや、とパナシィは眉を持ち上げる。話の流れが変わった。それも、悪い方向に。


「えっと……一応、魔女の中にもルールというものがあってね。現代の魔女規則では悪魔との契約はタブーとされていてね……」


「じゃあ、悪魔と契約せずに、もっと強い惚れ薬は作れるんですか?」


「できなくはないけど――」


「それなら作ってください!」


「嫌だよ、お金かかるもん!」


「自分で作ります!」


 パナシィはほとほと困り果ててしまった。


 とてつもなく面倒な方向に転がってしまった。


 惚れ薬を渡して、それを服用しても効果がないと分かれば諦めると思っていたのに。若さゆえの行動力なのか、それとも元来持ち得る好奇心の賜物たまものなのか。


 彼女のことは知らないし知るつもりもないが、厄介な人物に目をつけられたものだと、頭を抱えることしかできなかった。


「魔女になるためには、魔女試験というものに合格しなくてはならない。仮に自分が飲むだけの薬を作るのだとしても、正しい知識を身に着けて試験に合格しないと認められないな」


「あれもダメこれもダメって……お母さんみたいなこと言うんですね」


「ダメとは言ってないだろ! 魔女になりたいのなら、ちゃんとした手順を踏めって言いたいんだ」


「手順を踏むためには勉強をしないとですよね? 大学とか、それとも資格の勉強みたいな感じ……?」


 魔女試験では、一般常識のほかに魔術や薬草学など、幅広い知識が求められる。教本もなくはないが、町中の本屋ではまず手に入らないだろう。稀に、モラルのない魔女や『裏の顔』を知らない親族によって古本屋に出回ることもあるそうだが、多くは良心ある魔女によって回収される。


 奇跡が起きて入手できたとしても、待ち構えるのは『暗号』の数々。知識がなければ材料を知ることすらままならない。


 残酷な現実を知る魔女たちは、自分たちの身を守るために幾重もの安全策を講じてきた。それによって知識が途絶えるとしても。


 長きに渡る秘匿の歴史は、一般人が易々と手を伸ばせるものではないのだ。


「基本的には従事することになるのかな。アシスタント兼弟子として働きながら魔術の知識を学ぶんだ。近頃は世襲が多いから、わざわざ師を探すなんてことはしないけどね」


「なら、私を弟子にしてください」


 パナシィはますます困り果ててしまった。


「待ってくれ。ボクはまだ見習いの身だ。弟子を取れるほどじゃない」


「私にとっては先生です。それに、教員免許を持っていない大学生も塾で教鞭を執っていますよね。それと同じなのでは?」


「う~ん……」


 同じと言われると、その通りのような気がしてきた。教えることで理解が深まるとも聞くし、存外悪い話ではないのかも――と流されかけたところで、ハッと我に返る。


 違う、そうじゃない。拒むべきなのだ。魔女の世界は甘くない。世間の目だって冷たくなる。山や森に引きこもって、半ば自給自足の生活を強いられることになる。恋との出会いだって失われる。それでは本末転倒だ。それを理解しているのだろうか。


「……どうしてそんなに魔女になりたいんだ」


「恋をしたいから、ですよ」


 何度も言わせないでください。恋に恋する乙女の目は決意に満ちていた。



―了―

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