富嶽Ⅱ

 誰かをここまで愛し、かつ愛された男ほど幸福なものはない。樹々の枝葉が風に微かに揺れ、その狭間に束の間聳えた夢の富士は、幸福の劫罰として悲劇的な結末を遂げた一人の男の燃え尽きた生命の焔を滾らせた燭台に融けた蠟に違いなかった。彼は彼を最も愛した女性の奏でる慈愛と慟哭のこめられた悲しい旋律を寡黙に聴いている。彼はかつて希望を託した傍らの息子をもはや認めることはできない。

 南健二は地方の名家に生れた。幼い時に母と死別し、叔母に育てられ、やがて神戸に移った。彼は並々ならぬ才気の持ち主であったが、高校受験に失敗し、県で一番の高校に入ることが出来なかった。それまで彼は天賦の才のみで生きていたが、この時に才能を真に生かすためには刻苦勉励が不可欠であると悟った。彼はその日から清廉恪勤の限りを尽くし、京都大学に進学した。彼の父親や本家の一族はみな法学部を勧めたが、彼は断固として文学部に進学する決意を歪めなかったという。彼の決意に賛意を示したのは彼の叔母一人だけだった。半ば父親から破門された健二だったが、時の教授に大いにその才能を認められ、気がつけば彼は文学部首席のまま大学院に進み、若冠三十五にして教授の座に就いた。彼は栄光の象徴として金色の鳳凰の像を授かった。彼は孤高に飛ぶ燕のような爽快さで悠然と人生を進んだ。

 彼は明るい快活な男であったが、学業に対しては真摯かつ厳格で真面目な男だった。その頃には親族の期待の星として崇められ、出世の道をひたすら進み続けた。国許から縁談の話が幾つか持ち上がったが、彼は学問に支障をきたすと言って決して受け入れなかったという。その態度は彼の父が早くに亡くなって分家の跡を継いだ後も変わらなかった。彼は愛されるとは何かを知らなかったし、愛を知らぬ自分が誰かを愛すことは出来ないと考えていた。この誠実な姿は内外を問わず評判となり、彼の大学での地位は益々盤石なものになった。彼は地位名誉とか巨額の財産だとかに関心がなかった。ただ自らの精神が安んぜられる場所で静かに研究に勤しむことが出来るならそれで良かったのである。彼は父の遺産を用いて京阪のある山林を購入し、そこに邸宅をつくって一人住んでいた。その地域は図らずも富豪や有名人が多く住んでいた。彼は様々な人間と交流を持った。彼の邸宅には大学時代の登山部の盟友や、著名な音楽家夫妻や俳優なども顔を覗かせたという。この壮大で絢爛たる輪の中心には何時も彼が居たというから、その人柄が窺える。

 彼は登山が趣味であった。彼は深田久弥の信奉者であり、故深田氏の提唱した百名山の大半を踏破したという。彼が最も愛したのは富士であった。彼の手記には、「初めて登った時の神秘的体験は忘れることが出来ない。偉大なる自然の意思が複雑怪奇な混沌を統括し、このように美しい山を築きあげたことに感嘆の声がやまぬ。富士は怜悧の象徴だ。山頂に登った時太宰のいうことは尤もだと思ったが、僕はやはり北斎の富嶽を信じる心算だ」とある。山頂で仲間と共に撮った彼の容貌は晩年と比べ物にならないくらいに美しかった。彼は富士を愛したが、富士という自然からも大いなる恩寵を受けていたことを知らなかった。

 南健二の半生に翳りが見え始めたのは、彼が五十になった頃であった。彼の友人であった楢橋國夫が妻の主催するピアノコンクールに、彼を誘ったのである。健二は楢橋の一人息子を実の息子のように可愛がっていたから、彼の晴れ舞台を見るためにも喜んで誘いを受けた。静かな老いと共に邸宅に籠もりがちであった彼にとって珍しいことであった。彼は音楽が好きであった。とりわけクラシックはよく聴いた。彼の研究室では日替わりでショパンやベートーヴェン、バッハなどが流れた。彼はとりわけ『悲愴』の第一楽章を愛した。これを聴く度に彼は激動の学生時代を想起するらしかった。

 楢橋の息子の演奏が終り、早々に立ち去ろうとする彼を國夫が留めた。

「次のお嬢さん、大層優秀で大学は健二のところを目指しているそうだよ」

楢橋はまるで孫でも褒めるように少女を絶賛した。彼は単なる興味から、聡明であるというその少女の演奏を聴いてみることにした。彼は遥か下方の舞台上のグランドピアノを眺めながら言った。

「名前は?」

「柄谷澪君というそうだよ」

途端に天井の照明が落とされ、ぱっと舞台上が明るくなった。観客の拍手があがり一人の少女が純白のドレスを着て歩いていく。南健二はその生涯で唯一、誰かに目を奪われる瞬間を経験した。夥しい怜悧の美が一見可憐な容姿に凝縮している。その澄んだ鳶色の瞳はあらゆる腐敗を薙ぎ汚濁を退け、生命の碧い光芒を溢れるばかりに放っていた。それは真珠のような純粋に象徴化された絢爛だった。彼は身を乗り出して彼女を追った。

 全くの対比だった。柄谷澪が鍵盤に触れたとき、そのグランドピアノは漆黒の貪婪な抹香鯨のようにみえた。彼は思わず彼女がその巨躯に制せられるのではと思ったくらいであった。しかし彼女の穏やかな指が鍵盤を辷るが如く自在に動きだす時、彼は彼女の中に醒めた槍の姿をみた。ラ・カンパネラは彼女の船だった。大波は何度も彼女を呑みこもうとしたが、その度に彼女は鮮やかに身を翻し飛魚のように透明の鰭を展開したかと思えば、峻烈に音楽の海神を刺突するのだった。灝気は遍く彼女の麗しい諧調の支配下にあった。彼もまた彼女の穂先にその生命の焔を、醜く朽ちてゆく老残の焔を捧げたく思った。その時彼は不意にという言葉を想った。それは逆説的な生命の恢復だった。昼月のように儚い想像だった。演奏が終わってお辞儀する澪に拍手を送る彼の目から涙が溢れているのを、楢橋はぎょっとして眺めた。静謐な泉に白椿が失墜して絶え間ない波紋を拡げていく。一目惚れだった。彼はそこから崩れるように悲劇的な末路を辿り始める。悪徳の双葉が緩やかに咲いていく。

 五年後、彼の研究室には一人の若い少女の姿があった。彼は自ら正常な路を踏み外していく感覚を自覚しながら決して後戻りしようとは考えなかったことが、不思議であった。彼は国文学と民俗学の架橋として柳田の方言周圏論に取り組む傍ら、彼女の戦後文学研究を手づから指導した。南健二と柄谷澪の許されざる恋はこの時に芽生えたのである。健二は初めて愛を知った。時は融解し、彼は一個の初心な大学生に戻ってしまった。過ちを彼は悲しい無邪気さで気にしなかった、それは自らの純情を疑うことが出来ないでいながら、相反する欲情に抗しえずに煩悶する若者の未熟な姿に違いなかった。翌年、彼女は子供を身籠った。厳格な教授が教え子と行為に及んだ事実は急速的に彼の立場を危機的なものに追い込んだ。学内での彼の信用は失墜し、あらゆる非難や罵声を浴びせられた。当然であった。だが彼は柄谷澪の殉教者として生きることを誓ったのだった。困難はより二人の愛を深めさせた。彼の精神が崩れれば崩れるほど彼は澪を溺愛し、彼女もまた彼に愛情を注いだ。彼は人生の終盤にまるで線香花火の火花のような昔日の激しい碧い光芒を放ったのである。澪が大学を卒業すると同時に彼は結婚を断行し、間もなく息子が誕生する。彼は自らと同じ道を歩まぬように、「慎一」と名づけた。生涯で決して出来ると思われなかった一人息子を、彼は愛した。

「時が来ればすべてを慎一に話そう。だが慎一がすべてを理解できるまでは、僕らの恋路は隠して置こう」

彼は年の離れた若き妻に言った。彼女は従順に彼の言を守った。そして彼が亡くなるまで、彼との秘密を守り続けたのである。

 寡黙がちであった彼の生活は澪と結婚し慎一が誕生したことによって一変した。彼は朗らかな性格を取り戻し、時に邸宅が昔日のように華やぐこともあった。だが彼のあやまちが霧消したわけではなかった。彼の富豪の「ご友人」達は彼の堅実からの逸脱に敏感であった。醜聞の種は一片たりとも揉み消さねばならない。彼等は徐々に橋桁を降ろして失態を演じた彼との交友を解消した。後に残ったのは何人かの登山仲間と、一人息子を事故で喪った楢橋夫妻だけだった。彼は非情だとも酷薄だとも思わなかった。単なる摂理に違いなかった。澪からの愛があれば彼は構わなかったのである。そしてその象徴としての慎一の存在は彼の純粋な再生の路を約束させたかに思われた。だが愛らしく無垢に育った慎一は、彼が固く禁じた書斎に入って大怪我を負ったのだった。栄光は牙を剝いて彼と妻との愛の象徴に劫罰の印を刻んだのである。病院に駆けつけた彼が初めて慎一に手首の傷を認めたとき、彼は計画の失敗を悟った。彼は精神が肉体を離れ、焼かれて灰に染まった自らの身体が懇願するように跪いているようにみえた。闇は病室の固い扉の底から彼等の精神の居城を悉く侵した。黒光りするその触手が彼の背に取り巻いて湿地の泥濘のような不愉快な温さで撫でさすった。彼は慟哭の狭間に稲妻に濡れる赤富士をみた気がした。

「澪、、。やはり僕と君の愛は処罰を免れ得ないんだ。慎一は僕の生まれ変わりになるはずだったんだ。彼は未熟であったが確かに純真だった。だが世界は転生を許してくれない、僕のように彼は醜くなるんだ。柘榴の傷はその証だ、慎一は僕達の秘密を掴んでしまったんだ」

「この世界に美しいまま死ぬ人間なんていないじゃない。卑俗な生物に過ぎない私達が世界を思い通りに構築するなんて考えは僭上よ。不可能な妄想だわ。でもそれが人間という生物なの。醜い側面の一切ない人間を人間とは呼ばない。慎一は人間になったのよ、貴方の生まれ変わりとして生きる為に」

彼は何も答えなかった。彼が寡黙になったのはそれからのことである。澪は彼をそう慰めたが、彼は転生の失敗を確信していた。彼は生きる意味をもはや喪失してしまった。実のところ彼は澪を愛していないのではないかという疑念が彼を恐懼させた。愛がこのように容易く毀損することに彼は驚いていた。それでも彼は愛を信じなければならなかった。たとえ虚飾に溺れる愚かさを人間が本質が持ち合わせていたとしても、生命が醜悪な存在に帰結するという絶望が彼の目の前に聳えていようとも。

「僕は慎一、お前を信じている。その澄んだ鳶色の瞳は、何よりも美しく輝いているからだ」

彼が亡くなる年、生命の醜悪さを認識していながら、それでも生きることを彼は信じた。彼の濁り始めていた双眸に映った一人息子の鳶色の瞳に、翡翠の光芒を信じたのである。

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稲妻 桑野健人 @Kogito

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