富嶽Ⅰ

 富士を見たことがあるか。透きとおるような碧い光芒を。僕はない。父親が僕に富士を見せる前に死んだから。僕にとって富士とは、北斎の富嶽であり、広重の富士だった。田舎者の僕は、東京はどこからでも富士が見えると信じて疑わなかった。丁度僕が小学校にあがる頃、東京の象徴はタワーからスカイツリーに移った。快晴の日には富士も拝めるらしいが、僕はたとえ曇天であろうが偉大な富士がまるで冥邈の幽霊船のように東京の全景に浮かび上がるだろうと確信していた。僕は槍のように鋭く粛然たる富士の戴を想像する。あの戴に昔日の日に灼けた父の思想があるのだと考えると、僕は言い知れぬ興奮と畏怖を感じざるをえない。悲劇的な偶然を経て身体を老いの安定的な衰退に身を委ねる前の父を僕はよく想像した。

 ある時夢のなかで僕は父と富士に登った。殆ど崖のように峻険な冬の富士を父は何も言わずに登る。彼は寡黙でいて苛烈に戴に挑み続ける。夢の富士はある時は崩れゆく巨大な斜陽に染め上げられて猩猩緋の鎧を纏い、またある時は暴風に荒れ狂う太平洋の大波に呑まれて紺碧の十二単を纏って明滅した。だが決して僕達は戴に到達することが出来ない。気がつけば凄まじい吹雪が、途切れることのない霧の嵐が僕達に来襲し、父の姿は喪失される。僕は跳ね起きて肩を上下させながら、夥しい汗を流す。破裂音のような鼓動が耳に響く。夢の富士が胸を静謐な怒りを以て抉る絶望に僕は慣れることは出来ない。僕は北斎の悲愴なまでに鋭き富士に父の幻影をみるのだった。思春期の僕を悩ませたのは間違いなく父の存在であり、彼の思想の表徴としての富士だった。だが思春期を経験した人間にとってそれは珍しいことではないだろう。二度と越えられぬ父の背中が冷然と聳え立つ様を想像してみてほしい。僕は父の位牌を前にして膝をゆすりながら堕在するしかない。僕はよく学校から帰ると、黒い制服姿のまま主を喪った彼の部屋で、彼の座った籐椅子に腰掛けて一人で彼のための思索に耽った。白く濁る菫の群生は清冽に眠っている。

「本当のことを話す時が来たわ。慎一、連弾しましょうか」

「何を弾くの?母さん」

籐椅子に蘇った彼の依り代はきまって彼の肉体が滅びたその日から三日後のことを想起する。清純な美しさを欠片も失わず、光輝に満ち溢れた彼の母親は穏やかな口調で言うのだった。その澄んだ鳶色の瞳に淡い涙を湛えて。

「ラ・カンパネラ」




「ずっと寂しかったの。慎一君が私のこと、忘れちゃったんじゃないかって」

なだらかな坂道が延々と続く中を、僕たちは日差しを強かに背中に浴びながら歩いた。由香利は喉が渇いたと言っては自販機で水を買い足し、少し歩いては息切れして肩で息をしていた。彼女の健康状態は彼女の部屋がそうであるように酷いと言わざるをえない。初対面の時のように何もかもをこなす才色兼備の仮面は当然のように、僕の前では剥がされていた。だが額に汗を滲ませて、淡い桃色に頬を火照らせて喘ぎながら、それでもぴったり僕の隣について歩く彼女を、初対面の頃よりも親密に感じていた。

「僕を誰だと思っているんだい?誰も忘れやしないさ」

僕も彼女の前では関係の機微に亢進してつい多弁になる自分の仮面は剝がれて、幾らか寡黙な本来の僕を取り戻していた。僕は浅黄色が更に純白に日光に溶け込んで雲一つない空を手廂つくって仰いだ。遠くに見える北関東の峻険な山々の稜線が崩れて丸みを帯び、子供の画く幸せな記憶の波のように均等な起伏だった。この分だと、富士は見えるだろうと思った。夢の富士はこの透明な膜のような青空を破るだろうと想起した。破った穂先から闇が空を侵して星が降るかもしれない。まるで葡萄の蔦のように次々に螺旋を描きながら静かに堕する翳の美麗を想わずにはいられない。

「貴方が忘れたら、私を知る人はいなくなるんだから」

由香利は立ち止まって首から提げたタオルで頬を拭った。捲られたワンピースの袖から真新しい裂傷が煌いて、僕は少しばかり後悔した。

「、、僕は君のことをずっと考えているよ。正確には、君の立てた問いについて沈思黙考の日々だ」

僕は腕に滲む汗の玉が硬いアスファルトの地面に点点と落ちて行くのをみた。深手を負った牝鹿めじかが雪を被った笹を縫うように遁走する――雪を椿の真紅に染めあげる情景が頭に浮かんだ。牝鹿の逃避のずっと後、牡鹿が血痕に沿って足跡をつけるが、その獣の轍は、悔恨と懊悩のために乱れている。遂に彼は彼女を見出せずに猟師に狩られるのだ。

「慎一君。貴方の眼は常に過去ばかり向けられているよ。過去の私と亡くなった貴方の父さんに関することばかり貴方は考えているわ」

由香利は穏やかに諭すように言った。それでいて彼女の冷然たる片鱗が硝子のように脆く鋭い翼を構成してぴったりと彼女の脊に傅いていた。僕は暫く口許に手を充てて考えを巡らしてみる。僕のガラクタばかりの脳内が慌ただしく金属の擦れ合うような音を立てて動くのがわかった。

「、、人間は記憶の総体なんだ。僕達の皮膚が死骸なのと同じように、過ぎ去った事象が僕達を構築している。だとしたら僕らが生きている根拠も、過ぎ去ったにあると考えるのは当然の帰結さ」

「それでも、私達は過去にのみ生きているんじゃないわ。細胞は常に入れ替わるテセウスの船。臓器も感情もよどみに浮かぶ泡沫うたかたのように誕生と消失を繰り返している。この瞬間も私達は生きている。一歩先を歩こうとする意思は、過去のものなの?」

「わからない、わからないよ由香利さん」

「過去ばかり想起していては駄目。人間は記憶の総体だけど、記憶は過去のみに隷属しているわけじゃないよね」

「じゃあ僕はどうすれば良いんだろう?僕は預言者にはなれないよ」

陽光がきつく僕らの背中を灼いているのがわかった。由香利が喘ぐのも無理はない。だが、彼女は芯から幸福そうだったのだ。しなやかな腕は歩くたびに子供のように振られていた。数多の汗の雫が彼女を一層美しく飾っていた。僕を悩ますのは夏の烈しい熱気や、意識を混濁させる陽炎でもなかった。

「たった一つのことだけで良いの。私の瞳をみて」

彼女は白い歯を微かに覗かせて笑った。僕は息をのんで彼女の瞳をみた。僕達は脇の夥しい翠の草むらが競い合って歩道を侵すなか、互いを暫く見つめ合っていた。彼女の澄んだ鳶色の瞳は木洩れ日の穏やかな光を虹彩に帯びて、宝石のように輝いていた。この瞬間!僕は紛れもない碧い焔が燈されているのを認めた。途端に彼女の頬が真っ赤に染め上がって、彼女はそっぽを向いてしまった。

「私には君しかいないんだから、、よそ見しちゃ駄目」

彼女が途切れ途切れに紡ぐ言葉を追って僕も歩き出すうちに、もう彼女はお得意のハミングを始めた。軽やかな歩調に合わせるようにそれは可憐な舞踏のようだった。まるで揚羽蝶が飛翔しては草木にとまるを繰り返しているような、脆弱なちっちゃな真剣さ。由香利のあまりに可憐な瞳に惑わされ、茫漠たる脳裡に螺鈿のような翡翠の閃光を放って紡がれるメロディは麗しきラ・カンパネラ。




 暗闇が溶けるように驟雨が僕達に降りそそいだ。時折遠雷が響き、夜の底がぱっと明るくなった。父の搬送された大学病院の駐車場で、車のハンドルを握ったまま母は虚ろな目をして窓を流れ落ちる雨の流れや天井に打ちつけるばらばらという音を聴いていた。後部座席には僕とランドセルが並んで座っていた。僕は只母を眺めていた。病院の錆びた電灯の上に一羽の烏が止まっていた。露に濡れて嫌に羽根が艶やかに悠然と佇む姿は、父の葬送にふさわしい厳粛な純粋性を保っているように思われた。あちこちの病室に灯された光は父に必要なかった。彼は死んだのだから。僕は翡翠かわせみを想起していた。世界を薙ぎ払う怜悧の美の圧倒的な碧さに、父の命は奪われたのだと思った。僕は涙を流さなかった。それがどうしてか、わからない。その時ふと母が途切れ途切れのか細い声でハミングするのが聴こえた。母のラ・カンパネラは雨音に掻き消されるように小さかった。




僕と母はグランドピアノの黒い椅子に並んで座った。部屋に敷かれた赤い絨毯の柔らかな質感が冷えた僕の足を受け止めた。連弾を始める前、母は窓の外に繁るコナラの瑞々しい葉を眺めていた。翠の光がステンドグラスのように部屋に注がれた夏の終わりだった。蝉は暑さのためか弔いのためかもう鳴き止んでいた。不意に僕の背中を母が静かに擦った。僕はそれに促されるようにして窓の外を眺めた。ざわめく樹々の間隙に僕は純白な富士をみたような気がした。なにものをも拒絶する無染の現象は寡黙に僕らを見据えている。その寡黙は世界の交感から脱落した者の哀れなそれとは違って、静かな断絶の響きだった。僕は暫く亡霊の富士の茫洋たる稜線を眺めた。気がつけば世界はもとの平穏さを取り戻していた。静謐な空間が彼によって返還されたというような感じだった。

「さあ、始めましょう」

母の凛とした声が耳許に響いた。




「君はよく僕しか君を知らないという。君のお父さんでさえも、君を理解してくれないんだ、と」

不意に由香利のハミングが止んで、寝息のような繊細な息遣いが傍で聞こえた。歩道の直ぐ横を巨大なトラックの一群が轟音を立てて通り過ぎた。鈍い光を帯びた金属のポールに何人もの僕達が写った。彼女は頷いた。

「僕も同じなんだ。ラ・カンパネラは僕にそれを気づかせてくれた曲だ。生きている者よりも死んだ者に魅せられる人間の存在を僕は知った。母は僕を愛してくれた。父が死んだ後、僕を大学生になるまで育ててくれたのは母さんに違いない。けれど、愛されたのはじゃない。父の依り代としての僕だった」

彼女は否定も肯定もしなかった。それどころか、彼女はそのことを既に理解していたような気がした。彼女と初めて議論した日、彼女は偶然僕の作品を気に入ったと言っが、やはり嘘だったと僕は思った。誰よりも聡明な彼女はあの掌編の真意を的確に見抜いたのだ。結局誰も理解できず、僕でさえ完成当初は理解できなかった真意を。母は何故大怪我を負った僕に、「非現実的」な言葉を囁いたのか。僕は右手首の古傷を眺める。

「ラ・カンパネラは父と母の出逢いの曲だった。そして母の夢の表徴だった。傷を負った日、母さんは僕に父さんの幻影おもかげを見たんだ。が刻まれたあの日に。由香利さん、君に本当のことを話そう」

富士はまだみえない。

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