双眸
「――それは詭弁だよ、慎一君」
由香利は澄明な瞳で刺すように僕を見つめた。僕は耳が熱くなったのを敏感に気づいて、思わず目線を逸らした。身体の裡に湧き上がる闘牛のような猛々しい感情が、必死になって彼女の厳然たる毒に魘されてのたうち回るような、もどかしさがあった。僕は荒々しく檸檬水をコップに注ぐと、喉を鳴らして一気に飲みほした。彼女は尚僕から目を逸らさないでいる。ふと僕の額に嫌な汗が滲むのがわかった。
「ね、慎一君。どうして君のお父さんが、君の菫のスケッチを本当だって言ったと思う?――私は実際にその菫を見たわけじゃないから、作品から読解するしかないのだけれど、この世界のすべての色彩に、貴方のお父さんは懐疑的だったんじゃないのかな」
「色彩?」
僕はサーバーの透明な水底に耽溺する一果の檸檬のぞっとするほど美しい黄色の結晶を見遣った。それから彼女の澄んだ鳶色の瞳を想い、夥しい菫の群生のアメジストの焔を想い、鳳凰の金襴を想った。そして最も純粋な経験としての翡翠の飛翔、斜陽に染まる父の頬を想った。
「貴方は無染なのよね、慎一君。でもそれは嘘。貴方も豪勢で重苦しい虚飾の鈍い光を帯びた黄金の十字架を背負ってるのよ。森羅万象が、善を装い偽りの焔を滾らせて傲慢に生きている。碌に働いたこともない人間が過労死を説き、現実から逃避することを転生だと礼賛し、身内の死んだことのない人間が身内の死を嘆くの。滑稽よね。凡ての欺瞞は色彩の綺羅に顕現する。貴方のお父さんはそう想ったんじゃないかな。貴方のその柘榴の古傷はどうして貴方と、お父さんを隔てたと思う?貴方は色彩を持ってしまったのよ。私はそれでも君を否定しない。君から色彩を引き剥がせば良いだけ。偽善者の罪深い装飾から、君を自由にできるのは私だけだと想う――だって、私も同じだから」
「君の自傷はその為にあるのか?」
僕は麻酔で痺れて愚かしいもがきかたをして倒れる猛獣の静かな昏睡前の唸りを思わせる低い声で言った。彼女は曖昧に微笑して首を横に振った。苦しいほど彼女は子供だった。僕は伸び始めた麺を急いで啜った。彼女はレンゲをスープの上で滑らかに遊ばしながらいった。照明の光を帯びて、器が鈍い光を放った。外は知らぬ間に霧雨に濡れていた。窓ガラスの所々に水滴が煌めきながら、数多の光を帯びて垂れていく。水溜まりの中を轟音を立てて急行電車が通過した。
「私はリスカすることで色彩を持つの。私は死にたいと思いながら、私の死んだ後の世界を想像して、苦しくなるの。自己撞着だって揶揄われるかもだけど、私もまだ判らない、、それさえ解決すれば私は直ぐにでも世界から消えたい。世界は怖ろしいよ。私なんていなくても世界は快調に混沌を航行する。勿論、君が居なくても世界は成り立つのよ。ね、怖いことだと思わない?平凡な理論も突き詰めれば禁忌の箱を開くのね。私はどうしても自分のことが無視されたくないの。可笑しい?誰も私のことを見てくれないし褒めてくれない、剰え悪罵もしてくれない、、。私の死骸の上をみんな踏み越えていっても気づいてはくれない、、お父さんも。それが、、堪えられないの。ね、慎一君。わかってくれるかな。きっと貴方は私を慰めてくれるでしょ、そんなことないって。でもそれは嘘。だって君は私の孤独を知らないから。それでも理解出来るっていうのなら、それは偽善なんだよ?みんな、綺麗ごとばかり。希望なんて何も意味がない。結局は死んじゃうんだから。無意味にお母さんを生かし続ける父さんも、みんな偽善者だよ」
僕は何も言えずに、ただ黙って彼女の双眸の微かな輝きをみつめた。そんな悲しい顔しないでよ、由香利はそうつけ加えるとスープを啜って、まずそうに呻いた。後から知った話だが、彼女は塩辛い食べ物が苦手らしかった。
僕は徐に立ち上がって白飯をよそいに行った。席から炊飯器までの僅かな距離を僕も由香利も欲しているような気がした。僕はどうして彼女の傷が碧く見えたのかを理解した。それは死のお遊戯でもなく、墜落する彗星の儚さでも無かったのだ。只明日を生きるための、由香利の凄絶な攻防だったのだ。激しい痛みのなかに、救いがある。痛みだけは、この一見仇敵にしか思われない人体の反応は、何よりも生命が鼓動を続けていることの証左になるのだ。それは紛れもない自然の奇蹟に違いない。ただそれでは、あまりに救いがないではないか。僕は沈鬱な気分で彼女のことを想った。何とかして彼女の力になりたいというこの想いも、偽善なのだろうか。無性に腹が空いた。時刻は深夜へ片足を突っ込もうとしている頃合いで、僕達は健康の為にこれ以上の暴食は自重しなければならなかった。だが、僕は遂にそれが出来ない。湯気の立つ固い白米にこれでもかと胡椒や豆板醤や大蒜をかけて麺が不在となって閑散たるスープに投入する。次の瞬間に僕は勢いよくご飯をかっこむのだった。疼痛がする程塩辛いスープを腹に流し込む快感は何ものにも代え難い。僕はこの一瞬すべての難題を忘れて一身に生命の大攻勢に従った。
「そんなに辛いもの飲むと身体壊しちゃうよ」
呆れたような口調で由香利が言った。僕は是非は兎も角としてすすんで死を希求するような彼女が他人の健康を慮るようなことを言うのが新鮮で可笑しく、調子に乗って飲み干すなどという愚行に走った。虚しい諧謔だった。
「仕方ない、だって美味しすぎるんだから」
僕は何気なく呟いてはっと気づいた。僕達はまるで長年の友人のように自然に会話していたのである。僕はみすぼらしい聖人の戯画のような惚けた顔で暫く彼女を見つめていたらしく、彼女の頬が仄かに紅潮するのがわかって此方も不思議に狼狽えた。器の底が渇水期のダム湖のように黒光りする隣に、未だスープが鈍い光を煌かせている由香利の器が妙に心に残った。先ほどまで醜いと思われていたそれが途方もなく美しくみえたのである。漸く掴めた筈の僕達の距離が又掻き乱されてしまうような予感が湧きたって、僕は出よう出ようと彼女を促した。
黒と濃藍が混淆する春の空を、脆弱な羊雲が将に羊飼いに追われるようにしてはやく駆けていた。雨はあがって紺色をした水溜まりに信号機の緋色が明滅していた。人通りも疎らで、質素な恰好をした人影がちらほら遠くを散歩しているくらいだった。雛罌粟の淑やかなオレンジが、葉叢の重さに堪えかねて崩れ落ちるように咲き乱れていた。僕達は駅前のベンチに腰掛けて暫く雛罌粟の花が風に揺れているのを眺めていた。
「ね、南君」
「なんだい」
「本当のことを聴かせて欲しいの」
カラスアゲハが一匹、迷子のように忙しなく青い翅を動かして飛んでいた。数多の翡翠の嬋媛な鱗粉の隙間に、息の詰まるような透明な翳がある。僕は由香利をみなかった、彼女もそれを望んでいるような気がしたから。二人の間に繋がった糸は焔に狂った蝶の乱舞に幻惑されて強く結ばれたり、また解けそうになりながら緩やかな楕円を描いていた。ぴんと伸びた蝶の触覚の先に互いの糸が結ばれているのだ。僕はこの糸が切れるのを怖れる。僕と由香利が元の文學研究会の関係に戻ることは出来ないように思われた。世界の交感は傷なしでは済まされない。友人になること、それは互いに互いを融けこませることに違いない。だから、友人でなくなる時は自己も破壊されるのだ。しかし僕は僕自身の犠牲は構わない心算でいる。寧ろ由香利の繊細で怜悧な美を毀損することを怖れる。
「生きることに意味はあると思う?死は許されるべきだと思う?」
だが僕は、僕であることをやめられないのだ。
「僕は生きることを信じるよ。その理由はわからない。でもいつか、君にその理由を伝える。だからそれまでは、君は生き続けるんだ」
彼女は初めて、朗らかに笑った。嘘、とは言わなかった。その代わり、僕の頬に少しばかり熱のこもったキスをした。
「待ってる。君が答えをみつけるまで」
黎明の瑞々しいきらきらした光を帯びた彼女の双眸を僕は忘れない。
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