双葉Ⅱ
肩にタオルを提げながら、半袖のシャツに着替えて待ち合わせ場所の中井駅に向かうと、由香利は既にそこにいた。彼女はしゃがみ込んで線路脇に乱雑に咲き乱れる菫や雛罌粟や背ばかり高い雑草の薄弱な柔らかい葉裏を眺めながら、ショパンの「雨だれ」をハミングしていた。彼女そのものが、花達に紛れ込んでそっと美しい大輪の咲くのを待ちわびる蕾のような気がした。有望な蕾だった。それと同時に、腐ってしまうような脆さも含んで、彼女はどの蕾よりも瑞々しかった。彼女の黒靴の隣を緑に白の斑点を幾つか纏った芋虫が緩慢に行進していた。醜く縮んだかと思えば、だらしなく伸びる、その繰り返しだ。
「待たせてしまったみたいだね」
僕は極力彼女を怯えさせないように小さな声で言った。彼女はくるりと振り返り、
「私が尾生なら、とっくに死んじゃってるかもしれない」
と呟いた。僕は少し狼狽して(脳裡に彼女の手首に反抗的に連なった電線のような裂傷が過った)、ごめん、と二三謝った。
「それにしても奇特な人ね。女の子を拉麺屋に誘うのはご法度なのよ?」
ごめん、と僕は繰り返したが、彼女は悪戯っ子のように笑った。僕は途端に緊張が弛緩して、慣れない筋肉を使ってぎこちない微笑を返した。僕はあまり笑わない質なのである。僕達は互いに脇道の草木に目を奪われた振りをしながら、並んで歩きだした。空は銀線のように徒に停滞した細長い雲を境にして紺と濃藍に孤独に分かれていた。誰も喋らない。人間が友と呼べるのは、或いはそれ以上の関係を結びたいと考えるならば、この無言の間こそ本質だ。一言も喋らず、それでいて心地よい関係こそが、僕の理想である。何故なら僕は話し下手だし、何より話していると疲れるのだ。だが僕は何処か舞い上がってしまい、何言か下らないことでも良いから話したくなる。そこには間の不安もあるのかもしれない。この歳になっても、他者との関係の結び方が分からなかった。そうであるにしても僕は姦しい男であることを自重せねばならない。だが、僕はまだ彼女との関係を真に結びえないようで、ふつりと糸を解すように、高く上ずった滑稽な声でとりとめもないことを喋ってしまった。
「色々話したいことがあるんだ。先ずは君の作品について、それから君が何故僕の作品を気に入ってくれたのか、、何処にあれの魅力があるんだろう」
僕は気がつけば、気弱になって由香利に訊ねていた。あれから幾つか小説は書いたが、どれも子供騙しか、背伸びする未熟な少年のような、顔を覆いたくなるほどの気恥ずかしいものばかりが蓄積した。打開への希求を、僕は由香利の論理に求めていたのかもしれない。
「後者は簡単なこと。偶然に過ぎないよ、南君。貴方の作品を手にとったのが、偶々私だったから。そして私は偶然を捻じ曲げてまで君に会いたいと思った。でも、生涯を捧げるに値する作家に出逢う時っていうのは、そういうものじゃないかな」
僕は一層困惑してしまう。偶然が、誰にも心を開きそうにない彼女をここ迄無防備にさせるのか?僕やその他の文學研究会の人間は彼女の秘密を一切知り得なかった。則ち彼女の手首の傷跡はようやっと僕にだけ開かれていたのだ。それは何を意味するのだろう?偶然の恩寵のみが彼女をここまで駆動させるとは、僕は到底思えないのだ。ありえない、と僕は思った。奇蹟のような必然が僕と由香利とを、夥しい碍子と幾線の電線のように芯で堅く結んでいるような気がした。僕達はまた無言になって踏切を渡った。対岸の踏切までは流石都会なだけあって結構な距離があった。三本も線路を跨がねばならない。堅固な連結器が厳格に作動して何本もの線路をまとめあげているのは壮観であるが、朴訥とした徒労の坑夫も思わせた。いずれ終着がやって来るというのに。
「醤油豚骨拉麺、固め濃いめ多めで」
「右に同じく」
僕と由香利はカウンター席に座って、それぞれ檸檬水を軽快に飲みほした。店員の乾いた談笑に対比して店内は醤油豚骨の匂い店内は明るい沈鬱さに包まれていた。僕は封筒を取り出して彼女に差し出した。
「とても面白かったよ。幻想的でありながらどこか現実的な問題が顕在している。虚ろな爽快さ、とでも言うべきだろうか。けれど、分からないこともあるんだ。この寓話に込められた真意がわからない。言い換えるなら、この物語の批評者は僕以外でも良かったんじゃないかって思うんだ。君が僕でなければならないと言った理由を知りたい」
由香利は微笑してから暫く器用に髪を結んだ。彼女の手首から瘡蓋になった赤銅色の細い裂傷が幾つかみえた。生傷は増えていなようで安心した。
「じゃあ、一つ、下らない例え話をしましょう。或るところに、それはそれは美しい女性がいました。彼女はよき良人に恵まれ、一人の子供を授かった。健康的な女の子だった。その子供は、大切に育てられた。過保護なくらいにね。色々な場所に出かけたわ。山菜採りにも行ったし、海水浴にも行った。兎に角、その子は外で遊ぶのが好きだったのね。父親はそんな子供を愛していたけれど、実は妻のほうが好きなのね」
互いに拉麺を受け取りながら、僕達は割り箸を割って、手を合わせる。スープは底が見えないくらいに澱んで、ほうれん草は藻の群生した堀にかかる錆びた橋のように見えた。海苔は段々と首をもたげてまさに泥濘に沈み込もうとしている。拉麺ばかりが小麦の気勢を主張しているが、食卓の交響楽団で一人だけ統率から逸れた動きをすればどうなるかは予想がつくだろう。煩雑たる醜い演奏だった。だが僕はこれが好きなのだった。僕は黙って麺を啜った。
「彼女が高校生になる頃、その母親は事故に遭った。全身を強く打って、半ば植物状態になってしまったの。もう目覚める見込みはない、医者からはそう言われた。子供は母親を愛していたけれど、、愛していたからこそ、諦めるべきだと思った。でも、父親はそう考えなかった。頑なに、彼女を生かし続けたのよ」
僕は漸く由香利の意図を理解した。胸ポケットにはしこりのように、彼女が手渡した写真が入っている。僕は春の穏やかな傾きを堕ちていく美しい朧月に翳して、その写真を眺めたのを想起する。それは或る少女の写真だった。陽に灼けた麦藁帽の少女が椅子に座って、乳歯の抜けた幼く、無邪気な微笑。黒く小さな靴は小麦色の地面に
「ある日、その子供は母親の病室で看病していた。父親は仕事で、夜遅くまで帰って来なかった。母親だけの個室で、ぞっとするほどに漂白された部屋だったわ。窓からみえる晴天も屹度曇天に見えるような陰惨な部屋だった。少女はあらゆるチューブを繋がれて生かされてる母親を見てこう想ったの、、想ってしまったのよ。なんて醜いんだろうって。一瞬の狂気があの時子供を支配していた、そうじゃなきゃ、説明がつかないわ。正気を取り戻した少女は自責の念に駆られてその部屋から逃げ出した。彼女の心裡だけは、なんでも母親にお見通しだったから」
彼女は澄んだ瞳を崩さず、淡々と続けた。混雑していた店内は疎らになっていた。外人の店員達は大鍋をかき混ぜながら談笑していたが、暫くするとそれすらもしなくなって店の奥へ消えた。
「どうして自分は生きているんだろうって思った。この星に生れること自体、運命とか奇蹟とか、そんな曖昧な言葉でしか表されないような力学の副作用だってことは、私も分かってる。私はこの世界を恨むことはしない。出来ないの。ある人は濁世だってこの世界を罵るけれど、それは当たり前なのよ。誰かの芸術作品なら、この世界はもっと美しい。でもそれは虚構。世界は偶然によって生み出された無数の粒子が好き勝手動いて、衝突しては遊離する、その繰り返しだから。でも、考えてしまうの。どうして自分は生きてるんだろう。あの時お母さん、私のお弁当の具材を買いに行くために家を出たのよ。もし私が居なければ、事故に遭わずにすんだかもしれない。生きてるってことは、こんなにも辛いことなのね」
僕は由香利の繊細な、ともすれば毀れてしまいそうな頬の輪郭を眺めた。彼女は僕がすべてを悟ったのを感じ取って、それでも寓話を捨てなかった。僕は黙っている自分を卑怯だと思った。臆病だと思った。だが、哀れな小説家志望にかける言葉を紡ぎだせる力は無かった。僕は父親のことを想った。彼は遂に真実を何一つ喋らないまま、寡黙なまま死んでいった。粉々になった鳳凰も、薄汚れた菫の群生もそのままにして。偶然の為に深い傷を負い、その劫罰を嘗ての胸襟を開けたはずの故郷の地でも足蹴にされ、もう一人の虚ろな自分に向けて発せられた、あの父の言葉を思い出す。
「慎一、生きるということはこの白波のように愚かで、醜いのだ」
僕は濁ったスープを意味もなくかき混ぜた。海苔は降将の従順さで褪せた黄金の波に呑まれていった。僕は空になった由香利のグラスに檸檬水を注いで、彼女に渡した。彼女は美しい微笑を浮かべて、それを飲みほした。祈るときのシスターに似ていた。また不治の病を負って山籠もりに来た尼僧の浄土への転生を祈るのに似ていた。由香利の世界の大伽藍は崩れかけている。
「自分が死ねば、或いはお母さんは甦るかもしれないと思った。運命に抗ってみたくなったのよ。この世界を運行する数多の運命の歯車を狂わしてみたいと思った。お母さんを救いたいっていうのは、馬鹿な私の大義名分だったのかもしれない。死ぬためには何か理由づけが欲しいものなの。この星に理由なく産み落とされたすべての生命にとって、それだけが希望なのよ。華々しい自殺。豪奢な自殺。私は、ただ意味ある死を求めているの」
僕は由香利の清々しい微笑に恐懼に似た感情を覚えて狼狽した。彼女の油に濡れた艶やかな唇の赤さや、恍惚に少しずつ淡い桃色に染めはじめた頬ばかりがやけに目について離れなかった。違う、違うと僕は意味のない言葉を胸中に連呼した。由香利は赤い焔を宿らせるような人ではない。彼女は碧い焔に違いなかった、峻烈に怜悧に、死へ駆け出していくような生命の焔を彼女は宿していたはずだ。今の彼女の毀れた微笑はなんだ、斜陽に照らされた純粋な美の極北に由香利はいた。僕は眩暈のような幻覚に身体を囲繞されて瞑目する、滑らかな瑞々しい叢林の翠の触手、色を喪って蹲る無数のダンゴムシの乾いた転倒。灰を被った菫の群生に傅かれて、幼き日の由香利が光芒の寵姫になって可憐に幸福そうに笑っている。手首に穿たれた杭からは真新しい血潮を流しながら。しかしそれは――彼女ではない。
「ああ、私も華々しい自殺がしたいよ。慎一君」
「生きていれば必ず希望はあるよ、由香利さん。死んでも、なにも始まらないじゃないか」
僕は呟くように反駁した。何故僕たちが死に魅せられている同志であるのに、死の顕現を身体に宿した彼女の、絢爛たる光輝をかき消そうとしているのか、僕は理解できなかった。それでも僕は反論したかった。しなければならないと思った。それはなぜだろう?僕の言葉はそれを考える暇なく蒙昧なまま駆け出してしまった。だが、稚拙で馬鹿げた僕の奇襲は確実に由香利を動揺させたのだった。僕は彼女の鳶色の瞳が瞬刻揺らいだのを見逃さなかった。その夥しい鳶色の城壁の間隙に、彼女の碧い焔が燦然と輝いているのを僕はみたのだった。
「――それは詭弁だよ。慎一」
そして僕は父の聲を聴いたのだ。
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