双葉Ⅰ

 鰯雲が千畳の絨毯のように敷かれた淡い浅葱の暁闇に月が沈みはじめていた。窓からみえる冴えた色をした瓦屋根に幾つか青い果実が転がって虚ろな影をさしている。自在に幹を伸ばす樟の葉は艶やかな新緑を淡く輝かせている。僕は清潔に保たれた質素な木製の机の上に、由香利からの封筒を広げた。封筒には便箋が一枚同封されていた。僕は初めて落合由香利の端正な字が雅馴に清冽に並んでいるのをみた。それにしても、、僕は彼女の手首に刻まれた生々しい裂傷を忘れることができない。それは昼月が顕にする碧い表面を醜く抉る陥没クレーターのようだった。僕は溜息をついた。彼女を醜いと瞬刻でも思ったのは意外だった。それは生命の佳境で焔を潰えることを切望する僕と彼女の共有する理論の崩壊の兆しであるように思えた。畢竟そのころの僕は未だ自傷を、死のお遊戯だと捉えていたのである。

「南慎一君へ 

 貴方の『柘榴』という作品を読んで、非常に感銘を受けました。何故初対面である私が貴方の作品を読んでいるのか、屹度貴方は訝しんでいることでしょう。尤もなことです。ですが、それは簡単なことなのです。貴方はI君を通じて大学新聞主催の文藝賞に応募しようとしましたね。しかし、思いの他I君や御学友の反応が芳しくなく、断念せざるを得なかった。貴方は『柘榴』をサイトに投稿したまま、当の原稿そのものをI君に預けたままにしていた。それを、大学新聞に在籍していた私が発見しました。私が『柘榴』を知ったのはこういう経緯です。I君はあの作品の終盤を、現実から逸脱して貴方らしくもない、幻想へ堕落させたと散々な言い様で批判していましたが、私はそうは思いませんでした。現実を非現実に転化させ、自ら強いて煩悶して愉快を貪ることこそ、小説の本質であると思うから。唯一点、思うことを除けば、完璧な作品に違いありません。

 本題に移りましょう。私は貴方の『柘榴』を私小説であると考えました。貴方はそれを否定するかもしれませんが、I君も概ね同意見でした。だからこそ彼は幻想への逸楽を批判したのかもしれません。私は貴方のお父様が亡くなられていることを知り、初めて文學研究会でお逢いした時にみた右手首の傷跡で確信しました。私の小説を託せるのは貴方しか居ないということを。それが何故かは、私の小説をご覧になれば、おのずとご理解いただけるのではないかと思います。何卒ご一読いただけますと幸いです。

 追伸 今度感想をください。一度南君とはゆっくりとお話がしたいのです。 落合由香利」

僕は学生会館の隅で埃を被ったままの原稿を想起した。由香利が何気なく拾い上げ、丁寧に埃を払い、錆びはじめて軋んだ音をたてるパイプ椅子に腰かけて読みはじめることを思った。番いの雲雀が鳴きながら酷く無機的で空虚な人工建築の巨塔の間隙を縫っているなら尚良かった。僕は彼女の小説の題をみた――『双葉』。簡潔な題に僕は好感を抱きながら、少女の儚い傷跡と碧い光芒を想起した。「おのずとご理解いただける」という言葉が僕に重くしかかる。




『双葉』

 崖から駆け下る牡鹿の跳躍を輪郭に雲が揺曳している。私は薬草を入れるポシェットを肩から提げて叢林に分け入る。樹林は緑の簾を永遠に掲げていて、落剝した光の粒が僅かに堆積して、私の頬を温めた。私はこの先に本当に秘薬の結晶が大人しく繁茂しているのか訝しんだ。だが実際――双葉の薬草が見つからなかったとしても――母親は生き返らないだろうという昏い確信があった。私の母親は魔物に呪術を掛けられて昏睡したまま目を開かないでいる。愚かな父親は彼女が再び目を開けることを信じて、私を叢林に遣わしては、恢復の秘薬を求めるのだった。私は父の気持ちが分からないわけではない。最愛の人を、突然の魔物の襲撃で奪われたのだから。けれど私は、人は過去ばかり悔やんで、それに囚われて無意味に拘泥するのは間違っていると思う。しかし私はそれを父親には言えない。それは則ち、母親を我が手にかけることと同義なのだから。私は虚ろに俯いて父の妄信に従順であるように努めては、凍てつく風が樹梢を苛烈に揺らす叢林を目指しては、一瞬の希望の幻視を一歩に加えて探索する。もはや見つかることはないのだという諦観に私の身体が妖しく震えるのを、私は必死になって抑える。尤も純真な解決方法は、探索の途上で不幸の死を遂げることである。父は母を諦め、私の忠義或いは子供らしい無垢な希望に涙を流すだろう。自分よりも清浄であることを疑わない、小さな私に。私だって母親の死は恋しい。けれど、人間は自然の摂理に縛られて生きるしか許されない。科学の進歩はすべて人間が自然に支配されていることを覆い隠すための虚構だ。私は虚構に縋りつくことを拒否する。

 灌木にびっしりと苔が生え、その小さな緑の群集に露が宝石のように妖艶に輝いていた。灌木は傲然にそれら勲章を提げて動かなかった。私は滑稽な忠義を嘲笑されているように思って、私の本心を見抜かれたかのような不可思議な動揺に卑屈に顔を歪めて耐えるしかなかった。私も愚かだった。もしも薬草が見つかったとして、私はそれを腐らせてしまうような気がした。三年振りに起き上がった母親が、感謝に咽びながら私を抱いてくれる時、私は同じように泣くのだろうかと思った。私は果たしてどちらの方が私を救ってくれるのだろうかと思案した。私が死ねば、一番良いと思った。だが私は勇気が無い。例えば闇雲にこの叢林を駆け抜けて出逢った飢えた虎の家族の為に、その身を捧げようとする。だが私は怯えで動けなくなるだろう。何ゆえか、それは虎への恐懼のためもある。けれど尤も奥底にある本能的な第一の感情、つまりは生命の投棄が、あれほど嫌悪していた自然への叛逆に変わりないことを知って怯えているという方が正しい気がした。だから私は死ななかった。かといって生きようとも思わなかった。偶然の死が、私を襲えば良いのに。

 そう願った瞬間、烈しい風が横から強かに私を打ち、私は灌木から転げ落ちた。灌木は丘陵の戴に位置していたから、私はころころ勢いよく転がり落ちて行った。暫く意識が飛び、また蘇ったかと思えば、勢いのある闇が螺旋状に私を飲み込んで意識を失った。気がつけば、私は窪地に落ちてしまっていた――腕を枝に貫かれて血は鮮やかに噴き出していた。私はその痛みと、脈打つ度に湧き上がる血潮に歓喜した。その裂傷は私の薄い肌からも透けてみえる翠の静脈に沿って駆けくだっていた。血潮が熱く私の白い腕を満たすのが心地良かった。掌はあおくなり、なだらかな直線を描く私の腕は段々と赤く染まっていった。激しい痛みのなかに救いがある。生きたいと願うほど私は死に近づいている。ああお母さま、私は先に神の御前に立ちます。肩からは翼を生やし、最も清純な者として祝福されるために。

 朦朧とした意識の狭間に、双葉は美しい翼を伸ばして、私を迎えてくれる。




 踏切が鳴って、轟音と共に急行電車が駆け抜けた。夥しい商店の電飾が辺りを淡く穏やかに輝かせていた。高田馬場から二駅先の中井は、僕の庭である。入試の為に初めて上京した時の宿泊先がここだった。こじんまりした駅前はどこか郷里を思わせたが、流石大都会なだけあって人の賑わいは絶えない。宿泊先を探した時も、こうして由香利を飯に誘った今も、悩みを忘れて束の間の休息をするにはもってこいの場所である。彼女のバイトが終わるまでまだ時間がある。僕は軽く伸びをすると、近くにある錆びた街中の銭湯に寄ることにした。まだ季節は春から梅雨にかけての頃で暑さは控えめではあったが、僕は幾分潔癖症であるから、人と出逢う前に時間があるなら汗を流しておきたいという質なのだった。それに銭湯は気分が何だか晴れやかになる。商店街を彩る電灯のもとを塒へ急ぐ雁の群れのような自転車集団が走る。その賑やかな歓声が去るのを、僕は心地よく眺めた。




 上京した時は金が無かった。入試前日はまだ郷里にいて、父の遺影に手を合わせてから、大きなキャリーケースを曳いて大阪駅に向かったのを憶えている。JRの夜行バスの東京行きに乗り込み、バスタ新宿へ向かったのは23時を過ぎた頃で、気がつけばビル群が屹立する大都会のど真ん中をバスは走っていた。朝のバスタ新宿は、大勢のスーツ客とそれに小石のように混じる純朴そうな制服青年が行きかっていた。受験日を考えるなら、彼等は僕の敵であった。僕は上京して直ぐの田舎者がよくやるように左右を振り返り、背の高いビルを一々仰いでは嘆息を漏らした。生まれは大阪とはいえ山の中である。初めてみる途切れることのない黒山に僕は辟易しながら、零れ落ちまいと必死にキャリーケースを曳いて新宿駅へ向かった。大通りを得意そうに鳩の番いが飛んでいた。胸を丸々肥え太らせて慇懃無礼な成り上がり者の傲慢さを生きていた。僕はその日から鳩嫌いになった。

 入試日程は三日間に及んだ。初めは文学部で一日空いて教育学部だった。僕はそのどちらも自信があったが、倍率は過去最高を記録する勢いだったが為に少々気弱になっていた。大学の正門は厳めしい装いで受験生を迎えていた。聳え立つ講堂に吃驚し、総長の銅像に胸裏まで震えて、どこかあの日の僕は可笑しかった。そして――今思えば不思議な気もするが――落合由香利もそこに混じっていたわけである。彼女は実家が近いから大方朝は優雅に起床し、少しも慌てることなくバターを塗ったパンなんかを食べ、短めのシャワーでも浴びてから大学に向かったのだろう。対して僕は、喧騒の朝に寝惚けまなこでバスから叩き下ろされ、半ば充血した眠い目を仰天させる数々の都会の風景に疲労困憊し、ゼリーを啜りながら正門を潜ったのであった。そんな男が合格するわけがない。僕は散々に打ちのめされて――それも得意な日本史で――鎌倉幕府滅亡後の落ち武者のように俯きながら宿泊先へ向かった。受験生の反応を見、今回の文学部の試験は概ね易化であったとの講評をみて絶望した。希望は残されなかった。僕は特殊な遍歴の果てに大学を受験したので、ここをしくじると立場としてはかなり不味いことになる。その恐怖が、冬の乾いた寒さに関わらず僕に汗を流させた。僕ははや暗くなった夜空を間近に照らす中井の商店街を歩きながら、起死回生の一手は教育学部の合格であると腹を据えて、それでも押しよせる不安感は拭えずに、父のことを想った。博学才穎の父は、凡庸な僕の塗炭の苦しみなど全く分からずに、振り返ることなく道を進み続けるのだろう。彼を躓かせたのは一かけらの偶然と、病という天運だけだった。もし父が生きていたなら、屹度僕に憫笑を向けるだろうなとか思うと、無性に腹が立ち、僕は立ち止まって細い雲に遮られて明滅する一番星を睨みつけた。そして僕は偶然にも、そこに銭湯を発見したのだった。




 こうして銭湯の旧式の蛇口を捻ねって髪を洗うと、あの入試後の焦燥を思い出す。もしあの日僕が銭湯を見つけ、立ち寄るという選択をしなければ、屹度僕はいつまでも気分が晴れずに、教育学部も巻き添えで不合格になっただろう。運命とは分からないものだ。けれど結果として大学に合格した僕は、さらに大きな難題と邂逅することになったのだった。則ち落合由香利という問題が、僕の脳裏からいつまでも離れなかった。彼女の裂傷。それから手紙、そして『双葉』。激しい痛みの中に救いがあるとは、どういうことなのだろう。僕は彼女の澄んだ鳶色の瞳が、ナイフで自分の手首を割く瞬間に、どのように歪むのか分からない。或いは輝くのだろうか――あの昼月のような紺碧に輪郭を溶け込ませた儚い光芒を。

「僕は君に比べたらよっぽど単純な現象なのかも知れない」

泡を流しながら、視界が純白に占領されるさなか、僕は嘆くように呟いた。冷徹に物事の摂理を捉え、有象無象を歯牙にもかけぬ彼女が、時折みせる幼い儚さは僕を困惑させた。由香利の世界とは、リンスを泡立てながら考える。昔日の僕のように果てしなく脆いのではないか。その棘は、世界の外側に整然と並べられた天部の武なのかもしれない。僕たちはそれを城壁だと誤解しているが、実のところそれは蜃気楼のようなもので、濃霧の中を確かな光芒を宿して進めば見えて来るのは脆弱な壁ともいえぬ壁なのかもしれない。それを越えた先には、囚われの姫として由香利が存在する。激しい痛みは救済であるという檻に手首を傷だらけにしながら。僕は自らの右手首を眺めた。柘榴のような古傷は依然として醜く白い輝きを担っている。彼女の手首も同じように醜いはずだった。けれど、その光輝は確かに碧かったのである。僕は溜息をついた。僕は由香利と透きとおるような紺に散りばめられた月長石ムーンストーンのしぶきたつ太平洋に行きたいと思った。澄明な水は他者との世界の城壁を微妙に溶かしてくれる。適切な関係の糸がそこに生れる。鷹揚に靡く海風は僕と由香利の脆い関係性を繋ぎとめてくれるだろう。僕は身体中の泡を洗い流して湯船に浸かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る