飛燕

 扉は開かれて陽炎の壁が津波のように僕たちを攫った。由香利は涼やかに伸びをすると、ホームの自販機に駆け出していった。幾らか冷房の効いた車内で寝たからか、彼女の機嫌は良いように思われた。僕も腰に手を充てて鷹揚に伸びをしたあと、由香利が逡巡する自販機まで歩いていった。線路脇の固い砂利の隙間を縫って延々と雑草が伸びて、それを踏みつぶそうとして逆に神輿にされてしまったというようなペットボトルが所々に落ちていた。所沢の夏は盛りだった。ここから目的地の狭山湖までは、一旦西武池袋線に乗り換えて小手指まで向かい、そこからバスに乗ったほうが近道だった。だが、自販機でミネラルウォーターを半分まで飲んでから僕に手渡したあと、意外にも由香利はその案を却下して徒歩で行こうと言った。

「市街地が歪んで溶けているように見える程の暑さだぜ。それでも良いのか」

そう言うと僕はミネラルウォーターを飲み干した。不思議に柑橘系の味がしたのは、僕の新たな発見だった。身体を瞬刻の間純粋に冷ややかな槍が臓腑めがけて貫く心地良い感覚のあと、早わきあがった頬からの汗がひいていくのを感じた。

「誘ったのは貴方なんだから、少しの我が儘は許してもらわないとね」

僕は正直敢えて労苦に身を曝すのを良しとしない、楽な道があれば其方に傾くような男だったが、彼女がそう言うのであれば、従順であるのが健全だ。この暑い時に煩わしい諍いを起こすほど無駄なことはない。それに、僕の父は由香利のように労苦を敢えてするような人だった。僕の夏に侵されて鈍重な臓腑に依然のこる課題を解決するためにも、効果を発揮するかもしれない。逍遥は発想のもとである。

「その前に、腹ごしらえをしなきゃ駄目だね」

僕は彼女の古傷の果てに新しい傷さえ拵えて大層ざらざらした手首をひいて歩き出した。由香利は逆らうでもなく唯黙ってついてきた。こういう場合、彼女は結構腹が減っている。

 去り際に振り返ったホームの端に蝉が仰向けになって細かに脚を動かしているのが見えた。夏の到来を告げる夭折の使者はその碧い刺繍の施された羽衣を、醜く白く照る蟻どもの蹂躙から覆い隠そうとしてもがいているようだった。僕は別段憐れとは思わない。何故なら昇天の後に魂の消え失せた肉体なんて美には必要のないものであるから。そしてそれは僕たちとは離隔された世界だった。




「生前、父が生きることは醜いことだとよく言ってたんだ」

僕たちは駅前の蕎麦屋に入った。長閑な郊外の街で美味しい蕎麦を食べるまでの幸福なひと時にはおよそ似つかわしくない会話であるが、僕と由香利の関係は寧ろそれを欲した――主に由香利がそうだった。

「それは『柘榴』のあと、貴方がお父さんから世界をされた時の話ね」

「いや、概ねはそうなんだけど、、」

僕は一枚板の欅のテーブルの上で、おしぼりで手を拭きながら言った。潰れた柘榴のように放射状に伸びた右手首の古傷を僕は見遣った。

「初めから僕は父と世界を構築出来ていなかったんだ。父の世界が、飼いならしていた僕の存在を必要としなくなった、唯それだけのことなんだ。僕は音楽を通して母の世界に繋がれて、父は死んだ。『柘榴』はそのことを書いたんだが、君以外の友人ウケは頗る悪かった」

「要するに幼年時代の貴方は世界を持たなかったのね」

僕は頷いた。卓上の調味料が照明に反射して艶やかに光った。テレビでは陽気なキャスターが別段面白くもない冗談を言い放つのを、カウンター席の男たちが黙って聞いていた。コップに注がれた水は結露に流れる自由な仲間を思って微かに揺れていた。

「父が死んだ年の初春に、松江の大叔母が死んだ。随分可愛がって貰ったとかで、父の落胆具合は凄まじかったよ。でも、僕が生まれる頃には父と大叔母の関係は疎遠になっていてね、年に一度松江で採れた蜆と、簡素な年賀状が届くくらいで、僕なんて大叔母の顔も知らないくらいだ。だから、松江行きを父から持ち掛けられたときははっきり言って悲しみよりも困惑のほうが大きかった。親戚とはいえ、僕にとっては世界の裏側で亡くなった人間を弔えというに等しかったから。けど、父の悲しみ方は尋常ではなかったから、僕は大叔母を弔うというよりも、父の崩れかけた精神を支えるために松江行きを承諾したんだ」

割烹着を来たおばあさんが二人分の膳をもってやって来た。

「冷やし茄子天おろし蕎麦と梅ひじきご飯にかき揚げですね。あとは茶そば」

僕たちは礼を言ったあと、互いの膳を見交わして手を合わせた。僕は慎ましく倹約して茶そばのみにしたというのに、由香利は旺盛に三品も頼んで悪びれもしなかった。僕はそういう彼女が好きだった。遠慮もなく率直に奢りに乗るというのは、並み大抵の関係では出来ないことだった。僕は澄んだ鳶色の瞳を輝かせながら割り箸を割る由香利を微笑ましく眺めながら、江戸特有の濃いつゆに蕎麦を浸した。彼女はかき揚げを小さな口で食べ進めながら、話の続きを促すように手をほんの僅か差し伸べた。

「松江には南家の本家があってね、僕は初めてその広大な屋敷を訪れた。門前には数多の弔問客が虚ろな長蛇の列を作っていた。みんな虚飾の悲しみを背負って、その重さを競っているみたいに足取りは重かった。中には純白のハンカチで目元を抑えながら慟哭している人なんてのもいた。父ほどの沈鬱さは感じなかったけどな。僕と父は最後尾で暫く並んだんだが、そこで事件は起こった」

僕は勢いよく茶そばを啜ると、コップの水を飲みほした。彼女はどさくさに紛れて自分の器に盛られた山葵を僕の器に移した。彼女は凡そ痛覚を刺激するような食べ物が苦手だったから無理もないが、自らの手首を傷つけて平気な彼女が、少し舌を痺れさせる程度の山葵を嫌うとは些か滑稽に思われた。哀しい滑稽さだった。

「父は弔問を許されなかった」

僕は箸をのばして、半分残してあった彼女のかき揚げを攫って一口で食べた。平凡な味だったが、海老の芳ばしい旨さに僕の咽喉許は喜んだ。由香利はむっと頬を膨らまして僕を睨んだが、何食わぬ顔で続けた。

「僕はその時、父に感じていた違和感に気づいたんだ。父は屋敷の人と幾つか言葉を交わしたけれど、遂に許されなかった。彼らの罷りならんの連呼は、今でも耳に残っている。父は殆ど懇願に近い訴えも退けられて項垂れながら屋敷を去った。鈍感な僕でも父が嫌われていることを悟った。僕は俯いて波止場に向かう父を黙って追いかけるしか出来なかった」

穏やかな賑やかさの店内で僕らだけが寂寞のさなかにあった。由香利は静かに蕎麦を啜ったあと、コップの水を飲みほして僕に差し出した。ついでこい、と言うことなんだろう。





 昼下がりの曇天の海が厚く大気を蔽い、烈しい白波が波止場に何度も襲来しては不気味に口を開いていた。時折振りかかる潮は頬や首にばらばらとあたり、僕は何度も顔を顰めながら父を追った。父は憑かれたように無言で、錆びて赤黒くなった梯子を上った。父は僕を振り返らなかったが、投げ槍じみた放埓な歩き方には僕の言葉を誘うようなものもあった。父は薄墨色の世界で孤独だった。黒のスーツを隠すようなベージュの外套は波の粒の反射を受けて白く輝いていた。窶れきった彼の白髪が茨の冠のように見えて醜かった。僕は梯子を上りきると、波止場の端で競りあがるように積まれた灰色の消波ブロックの前で佇む父の昏い姿をみた。鴎が一羽鳴きながら曇天の中に塵のように消えては泛んでいた。眼下には広く不気味に開けた白い日本海が聳えていた。太平洋のような寛容な広大さ、新天地への希望をその脊に輝かせるようなところではなかった。ただ平坦に下降していく終末の静謐な絶望が父を撫でていた。それは緩慢な死の予兆だった。急激に上昇したと思えば、屹度反転して墜落していく飛燕の清澄な瞬間は許されず、揚力を喪った機体が滑空しながら段々に落ちていくような惨めさがあった。全身が痙攣し無闇に飛ぶことしか出来ない晩夏の蝉のような惨めさがあった。

「慎一、生きるということはこの白波のように愚かで、醜いのだ」

父がふと振り返って僕を見つめた。苛烈に痛めつける潮の来襲に脅かされて、父の目はその皺の中に隠れているがごとく半ば閉じられていた。痩せた彼の身体にもはや昔日の快活さは戻らないだろうと僕は思った。だがその引導を手渡したのは僕に違いなかった。父の部屋に忍び込んだあの日、粉々に砕けた鳳凰は黄金の輝きを帯びて在りし日の父までもを薙ぎ払ったのではなかったか。だがあの碧さはなんだ。あれは鸞ではなかったか。新たな僕たちを象徴するかのような蠱惑的な生命の輝き、あれは父を鼓舞するものではなかったのだろうか。そのラピスラズリの尾の飾り羽は総毛立ちて波間の渦のように円環を重ねて僕たちの世界を統括するのではなかったか。僕はどうして父がこのように醜く白く衰えたのかが分からなかった。

「慎一、僕は生命がどうして醜いままに果てるのかが分からなかった。本来生命というのはあらゆる絢爛さえも凌駕してみせるほど尊いものだ。それがどうだ。世界は醜く晩節を穢している、、それは産声をあげた瞬間から腐敗を始めているのだ。僕は生命が美しく輝く瞬間とはつまり愛ではないかと思った。澪はそれを果たしてくれた」

「じゃあ父さん、、」

父は僕をそのしわがれた腕で制止した。樹海の確かな双葉の成長を阻害する灌木のようだった。風が一斉に僕に靡き、酷薄な潮の粒が僕の頬を削るように撫でた。

「それはこの関係で築かれた世界という強大な生命の、一個の癌細胞に過ぎなかった。慎一も見ただろう、あのあしらい具合を。叔母さんだけが僕と澪の理解者だった。彼女ももう亡い今の世界は僕たちの排除に躍起になるだろう。僕はそれを確信した」

彼はすべてを蔑むように二三度笑うと、ポッケから煙草を取り出して火をつけた。醜い白の囲繞のなかでほんの小さな淡い黎明の輝きは直ぐ煙に覆われて見えなくなった。暁闇の一条の光明は潰えた。そして音もなく紫煙を吐き出すと、毀れて所々に陽の白い輝きを抱く曇天を仰ぎながら、

「この僕をみろ。生きること、人を愛することとはこのように愚かで、醜いことなんだ、慎一」

と父は言った。僕は何も言えず、一切の発言を許されなかった。だが僕はその時滔々と流れゆく思考回路のなかであることを直観的に思った。それは酷く逆接的で、諧謔でさえあるような気がした。

「子供とは本来純朴であるべきだ。僕と澪が手づから育てたお前は、あの日まで純真無垢に育ってくれた。だがそれももう無い。その愚かしい手首の傷跡が僕たちの咎の表徴だ。だから僕はお前の一切を澪に委ねることにした。自然とはこのような悲劇を往々にして招くものだ。だが僕は慎一、お前を信じている。その澄んだ鳶色の瞳は、何よりも美しく輝いているからだ」

僕は逡巡のはてに言うべきだったのだ、その苦悶の表情を泛べる父は今までのなかで最も美しかった、と。




 会計を済ませて外へ出ると、烈しく音を立てて熱気を放つ店の薄汚れた白い室外機に凭れて、由香利は煙草を喫んでいた。僕は彼女の大胆な違法行為に苦笑しかこぼれず、ただ路傍に均等的に並んだポールに腰掛けた。メビウスの鋭い青の輝きが彼女のポッケに消えていくのを見遣った。由香利の手首の古傷は瘡蓋を連ねて、まるで孔雀明王の割面のように新しい由香利を築きあげていた。彼女は自分が半ば喫んだ煙草を指で遊ばせながら僕に手渡そうとした。僕は大仰に肩を竦めてみせて拒絶した。煙草なんて喫んでもむせるだけである。

「貴方はほんとうに臆病ね。出逢ったときからそうでした」

「臆病なくらいがちょうど良いよ。生きるためにはね」

今度は彼女が肩を竦める番だった。彼女はこうして定期的に肺臓を傷めつけ、手首を抉っていた。由香利は由香利なりの思いがあってそれをしているのだろうが、僕はどうしても彼女の美を毀損しているようで嫌いだった。僕の死へ駆け出すものは美しいという理論に依るならばそれは一見矛盾した考えであったが、寧ろ僕は自傷という行為を、死ぬためにではなく、生きるための行為だと考えたのだった。死に燃え上がる生命の碧に叛逆する赤黒い傷の漣。未成年が煙草を喫むことの沈鬱さを、由香利はどう解釈しているのだろうか。彼女がそれを峻烈な死への飛翔だと考えるならば僕は彼女の行為を拒絶しなければならないだろう。

「僕は父の言った醜い生命という考え方が、君の問いを解決するための鍵のように思うんだ」

由香利はやや訝し気に微笑を浮かべた。それから子供のように無邪気に、まだ熱い煙草の吸殻を傷ついた自身の腕に押しつけようとした。必死になってそれを止めようとする僕を、彼女は爽やかに笑った。

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