柘榴

 僕は人の善意を何一つ信じない無染むぜんの白い現象だった。すべての人間が豪勢で重苦しい虚飾の鈍い光を帯びた黄金こがねの十字架を背負っているようにしか思われなかった。僕という世界の城壁は初め、羽化したての蝉の麗しいグリーンアメジストの翅のように脆弱で、父の築き上げた厳格かつ堅固な壁のなかで護られていた。けれど僕はそのことを知らなかった、父という峻厳なる世界のことを。透明な檻の中で僕は人間すべての世界が、まるで慈愛に満ち溢れた海のように受け容れてくれるものだと信じていた。僕は誰も拒まなかったから。だがそれは間違いだった。父の死がそれを知らせてくれた。この世界に人間の芯からの善意など存在しない。すべての存在は偽証に過ぎない――その裡に蠢動する愚かしく醜怪な白い焔。




 僕の手は大きかった。父からの遺伝だった。母親譲りの林檎の露のように澄んだ瞳と、父親譲りの無垢な高原のような僕の手は、両親を慕ってやってくる訪問客によく褒められたものだ。僕は誇らしかった。決して僕は美しい容貌の祝福を受けてこの世界に誕生したわけではなかった。だが、それで良かった。僕には澄んだ鳶色の瞳と、傷一つない美しい手を持っているんだから。訪問客の一人に、一人息子を亡くした父の旧友のピアニストが居た。夏の盛りで、避暑とばかりに山奥の僕の家を訪ねた彼女は、僕を一目見て、「いずれこの子はリストのようになるかもしれないわ」と言った。僕はまだ幼かったので、リストが誰かは知らなかった。だが薄く頬を紅潮させて僕の手をひたすら労るように撫でさする彼女をみて、どうも褒められているらしいと思って僕はまた誇らしかった。遠い世界の偉人と僕は愛に満ちた父の援けによって繋がったように思われた。父も嬉しかったようで、その朽ち始めた鈴蘭のような彼女に、僕のピアノの指南を願い出ていた。あの頃の父は快活だった。彼もまた、醜い白の焔を纏って老い始めているというのに。樹々が鳥たちの囀りの音色に乗って瑞々しい木洩れ日の風を運んでいた。




 僕はアスファルトの舗装がされていない、腐葉土の山道を黄色い観察ボードを首から提げて散策するのが好きだった。あらゆるものに興味を抱いた。この小さな観察者は、あらゆる緑を、あらゆる可憐な昆虫たちを、あらゆる艶やかな鳥たちの翼を真っ白な紙の上に記録せねば気がすまなかった。丁度幼稚園に通う子供が、道端に落ちているがらくたをポケットに突っ込むようなものだった。だが僕はそのような乱暴なことは出来なかった。ある時ダンゴムシをポケットに入れて帰宅したことがあった。ポッケからそっと取り出したは既に丸まったまま二度と動かなかった。僕という世界の関与によって、初めて別の無垢な世界が身体ごと毀れてしまったのだ。ダンゴムシの世界は僕を受け容れてくれたのに――僕と同じ柔らかな世界の壁で。世の中は無垢を神聖化しすぎている。子供の持つ無垢とは、無邪気とは時に暴虐の鉞となって他者の世界に修復不可能な傷を与える。それは血潮に染まった掌に気づいた加害者までもやがて侵していくのだ、その罪の意識の萌芽によって。大人になるとは、こういうことなのだ。大人という存在は、自覚的に罪をなすか贖罪羊の寛大さを示すかのどちらかに離隔するのだ。幸いなことに最も幼き頃から僕は生命を殺めることの愚劣さに悟性よりももっと奥底で反応した。それは螢の淡い輝きの明滅のように、延暦寺の白い燭台のように、僕の真理の地底の泥濘に途絶えることはなかった。それから僕は紙に描くことを始めた。紙に描くことで僕の世界は決して他者の世界を侵すことなく、誅することなく他者の世界と連環するのだった。純真な子供の土壌は陶冶され、悟性が芽吹いたのだった。

 僕はなだらかな山道の路傍に一列に並んだ菫の花を発見した。幼き観察者はその旭を受けて輝く紫の耽美な美しさに目を輝かせて駆け寄った。僕の世界は早速外交官を派遣する――硬い深緑の鉛筆で、精緻に菫の模写を始めた。菫のすべてを零してしまわないように慎重に何もかもを紙に描きうつした。花弁に刻まれた奈落に駈け落ちる皺も、茎から垂れる露も、それに溺れる蟻も。過激な濃い僕の筆圧が漆黒の醜い錯綜を始めた。いつも鉛筆は舞踏を失敗する。花弁の漣のような緩やかな曲線は忽ち洪水のような憤怒に揺れ、淑やかに垂れる細い花梗は斬首される者の首に描かれた。距は醜く花弁の特権を簒奪しようと急ぎ、葉柄がこれに対抗しようとせりあがる。僕は醜い晦闇の花が次々に咲いていくのを後悔と焦慮に苛まれながら追いかけていた。汗が何滴も滴り落ちては斜陽貴族の捺印のようにいつまでも残った。いつからか腕についた砂利と胸の奥底から湧き上がった敗残兵の涙がこれに加わった。僕のすべてを見透かす澄んだ鳶色の瞳は、この世のあらゆる生きるものの姿を醜く描かせた。つまり僕に美は不可能なのかもしれない。僕の世界の港に繋ぎとめることもなく揺曳されていく美しい僕の菫たち。あの日の僕は幼かったので、言葉で表現することも出来なくて、唯直観のままに生命の焔の美しさを生涯かけて描くことも、まして触れることさえ無理なのだと悟ったのだった。

 泣きべそをかいて来た道を戻る頃には、淡い菫の群れは少年の乱獲を可憐に拒絶して風の愛撫を受けていた。僕は涙でかすんだ視界に、幾つもの菫がアメジストの焔を一斉に滾らせて燃え上がるのがみえた。純真な生命の輝きは無数の鋭い結晶となって光の澱を砕き、やがてそれは瑞々しい森の息吹と混淆してアジュールの灝気を染め上げていく。僕は感動と恍惚の入り混じった奇妙な感情で色彩の諧調が天高く昇るのを眺めていた。遂に紫雲は斜陽を簒奪して薄暮に君臨した。僕はもう泣かなかった。生命とはあれほど美しく碧いのだ――幼年時代の大発見だった。

 ぼんやりと光る玄関先で僕の遅い帰宅を叱責するべく待ち構えていた父は、僕の涙で赤く腫れあがった瞳と、それに似合わぬ晴れやかな顔つきと、首から提げていた菫のスケッチをみてひどく驚いたのか、何も言わなかった。暫くして、僕から鷹揚に菫のスケッチをとると、父は

「慎一には菫がこういう風にみえるのか」

と呟くように聞いた。僕は普段の――といっても寡黙になる前の父ではあるが、朗らかな声とは裏腹の低く寂しげな声だったので驚いた。

「ほんとのすみれは、僕には書けないよ」

僕は父に叱られるのが嫌で、正直に言った。父は虚ろに微笑して首を振った。

「いや、よく書けているよ。本当の菫はこれなんだ。額縁に飾ろう」

僕は曖昧に頷いた。父の真意が理解できなかった。父はどうして無染の亡骸の菫を本当だと言うのだろう。ついに生命を描けなかった僕を褒めるのだろう。僕はいつか父をあの菫の群れを見せなければならないと思った。


その日から父の宝物は二つになった。一つは恩師から貰ったという純金の鳳凰の像。そして、もう一つは僕の菫のスケッチだ。




 僕のピアノは一向に上手にならなかった。抑々僕は不器用だった。左右の手が異なる指使いをするとか、愚鈍な僕の頭が追いつけるわけもなかった。僕は命令に従わない鍵盤を恨んだ。だが恨みごとを言う度に老境の女教師は僕を叱りつけるのだった、「こんなに貴方が不器用では、その天賦の手が可哀想やわ」との言葉を添えて。僕は自分の手が褒められるだけでも幸福だったからつい笑ってしまうと、甲高い京都弁で彼女は僕を泣くまで怒鳴りつけるのだった。何度も初歩で躓いてはやりなおしを命じられた。僕の手が朽ちはてた灌木を想起させる滲みったれた彼女の手に押さえつけられて、彼女の意のままに乱暴に鍵盤を辷る時間が嫌いだった。僕という小鳥は翼を縛られて悲鳴をあげていた。ああ、可哀想な僕の天賦の手。神からの授かりもの!僕は部屋の隅で漆黒の鯨のようなグランドピアノを仰いでは、顔を大人しく三角座りしている膝のなかに埋めた。その時だけは僕は敷き詰められた絨毯でさえも憎悪した。僕は巨躯を誇る傷一つない貪婪な黒い鯨に、片手を呑まれてしまうかもしれないと考えると、黒い怪物の口腔に規則正しく並んだ牙のような鍵盤に二度と触れないぞとさえ決意するのだった。それは虚しい決意だった。

「泣いていてもなにも始まらないのよ、南君」

最愛の息子に先立たれた憐れなピアニストは溜息をついて言った。




僕はただ一点だけ彼女――楢橋久美子に感謝しなければならない。僕は彼女が弾く『幻想即興曲』の巧緻によって音楽の世界を知ったのだ。花弁の底を鬱金うこんに染め始めたヒヤシンスのようなドレスを着て鍵盤を自在に踊る彼女の皺の克明に残酷に刻まれた指はその時だけ途方もなく美しかった。その悲運も欷歔ききょも絢爛たる昔日の栄光も一身に背負って時には乙女として、時には騎馬に乗って、或いは斜陽を眺めるように厳格に鍵盤を跳躍する。僕は彼女の指が窓からの木洩れ日をうけて碧く輝くのをみた。それは或いは彼女の身につけていたタンザナイトの反射かもしれなかった。ともかく僕は光も空間も時間も彼女の豊饒な諧調が統括するその瞬間が好きだった。見事に弾き終わったあと、部屋の隅で感嘆の声を我慢する僕を見遣る彼女の瞳はいつも潤んでいた。




 ある日僕が何気なく部屋から階下のリビングを覗くと、母に縋って楢橋が嗚咽しているのがみえた。僕はその空間が何となく怖くて地蔵尊のように動かず聞き耳を立てるだけだった。そして僕は彼女が

「もうあの子を教えるのは無理や」

といつもとは比べ物にならぬくらい若い声で言ったのを聞いた。僕は固唾を呑むのさえ躊躇われて只管黙っていた。何も言わずに彼女の背中を撫でさする母が見えた。死んだ彼女の一人息子は、ピアノがとても下手な泣き虫だったという。




 楢橋が去って暫くした夏のある夕方のことである。僕は焔に導かれる蝶のように、入ることを禁じられた父の部屋に入った。何か奥底で輝く螢の淡い輝きがより果敢に燃え盛るのに僕は逆らえなかったのだ。僕は夏の新緑の樹々たちの夕闇に部屋が若干碧く染まるのが好きだった。僕は本棚の上に荘重な額縁に飾られた菫の群れを眺めた。僕はゆっくりと地面の栗鼠を狙う梟のように菫のスケッチを眺めた。今の僕の焔を碧く滾らせるには、あの絵を降ろさねばならないという使命感にも似た感情が湧き上がって、僕は本棚を仰ぐ――まさに僕の菫は、高嶺の花であった。遥か天井には斜陽を蔽う軍艦の紫雲がたなびいていた。僕は慎重に本棚を登りはじめた――幼き僕にはそれしか方法がなかったのだ。僕は何故父が漆黒と純白の混ざり合った醜い菫の群れを褒めたのか知りたかった。何故父の本当の菫はあのように悲惨なものでなければならないのか、僕は知りたかった。漸く最後の段になって僕は初めて父のもう一つの宝物を見た――黄金の鳳凰。その鳥は煌びやかに僕を睥睨していた。それはすっと怜悧な翼を靡かせ、鋭く湾曲した嘴は僕の澄んだ鳶色の瞳を狙っていた。まぎれもなく父であった。瞬間、巨大な本棚は磊落に揺れ、一瞬の轟音のうちに僕はその下敷きになった。宙に落ちていくさなか、僕は鳳凰が轟音を立てて夥しい怜悧の美を纏った碧い翼で飛翔するのをみた。




 鳳凰の嘴は僕の瞳を刺しつらぬくかわりに、落ちた衝撃で無数の黄金の鋭い結晶となって僕の右手首に激しい裂傷を残した。身体を本棚に挟まれ、頭を強く打ち血を流して朦朧とした意識のなかで、僕は美しい右手首が柘榴のように赤く染まり半ば潰れているのを眺めていた。途端に扉は開かれ、母がやってきた。僕はもう助かったと、父の禁を犯した劫罰に身を委ねたまま目を閉じた。母の腕のなかで救われた僕は碧く輝く自らを信じた。そうか、生命の碧い焔は柘榴の赤で現実を侵せば顕現するのか。そうだ、すべてを僕の金襴の装飾で塗りつぶそう、この世界の美醜すべてを!

 母は、興奮のあとの痛みに悶え始めた息子を励ますのでもなく、欷歔するでもなく、嗚咽するでもなく、その怜悧で清澄な声で唯、

「いつかラ・カンパネラを連弾しましょう」

と言うだけだった。

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