昼月
高田馬場駅構内の柱に半ば凭れかかって落合由香利は影のなかに佇んでいた。彼女は僕の姿を見るや、虚ろに微笑して小さく手をふった。相変わらず純白で脆弱な、氷柱で出来てそうな手だった。その裡に薔薇のように刺刺しい碧い茎を潜ませているのを知るのは学内広しと謂えど僕だけだろう。その棘はいわば蝸牛の恋矢だった。由香利は日常においてそれを緻密に隠しておき、僕と二人になった途端に、僕の心臓を深々と刺し貫くのだった。それでいて、彼女は無防備に僕に身体を預けるのだった。まるで僕の小刀でみずからの胸を、あどけなさが残る起伏のない少年のような胸を刺し貫いて欲しいと希求するような切実さがあった。由香利は、燃え上がる青い生命の焔の贄によって成立しうる真の純粋な恋愛、つまり心中する相手を探しているような気がした。彼女が不可解なのは、僕のみがその使命を担うに相応しい存在だと折々に囁くところだった。彼女の願望は本当のこととは思われなかったが、本当にしろ全くの虚構にしろ、僕にその勇気はなかった。誰かの人生を左右するような関係を持つことを僕は怖れていたのだ。
「私が尾生なら、とっくに死んじゃってるかもしれない」
「狭山へ行こう。久しぶりに富士がみたいんだ。蕎麦を奢るよ」
僕は由香利の馴れっこな台詞――約束の場所に彼女が先に着いていた時の台詞には触れずに、それでいて確かに彼女の手を引いて改札へ向かった。彼女の手は仄かに温かかったので、僕は安堵した。それだけで、彼女が耽美と醜悪と聡慧と愚劣の混淆するこの世界から飛翔する意思がないことの証明に思われた。だがいずれ美は彼女を内側から破壊するのだ、その怜悧で荘厳な碧い翼で自然を薙ぎながら。
「次は富士をみよう」
あの山の帰りに父はそう呟いた。藍や紫に融け始めた薄暮の斜陽に頬を赤く照らされた父の顔に、悲愴な結末に突き進む鈍い光を帯びた焔が滾るのを僕は見逃さなかった。斜陽に重なって幾分紅潮しているようにみえる父は、あの写真に映っていた若き日を取り戻していた。鮮やかな夭折の夢が彼に燈されているのかもしれなかった。
「ほんと?絶対?」
僕はその真紅の焔に対抗しようと幼い声を張り上げて言った。父親は不思議そうに笑ったが、僕の顔を見ようとはしなかった。彼は死の甘美の虜囚となって、僕との束の間築き上げた世界をライトを消すように徐々に遮断していくのがわかって僕は怖かった。
「勿論だ。そうだな、慎一は未だ冬の富士をみたことがないだろう。あれほどの威容はない。研ぎ澄まされた美は一切の不純を許さない。友人が山小屋で働いていてね、夏の富士は幾度か登ったことがあるが、厳冬期は人間さえもよせつけない熾烈な灰色の厳格さがあるんだ。それでいて頂には白雪に覆われた天女の一瞬の微笑がある。澪、、母さんもそのようなところがある。理智的で物事にいつも厳格で冷徹だった。でもそれは、仮面に過ぎなかった。堅固な城壁に護られた百合の可憐さが、その優しさが母さんには備わっているんだ」
寡黙な父が雄弁に語ったのは、それが初めてのことだった。父が宥めるように語れば語るほど僕は不安になった。架橋の失敗は明らかだった。父は僕の依り代を僕自身から剥ぎ取って造り、開くことはない棺桶に閉じこもることに訣然と動き出している気がした。だが、僕はそれをどう表現して訴えれば良いのだろう?
「慎一は母さん似だな。特に瞳がそうだ」
父はそう言って僕を撫でた。無骨な巌のような大きな手が僕の髪をがしがし揺さぶった。その手は怖ろしく冷え切っていた。彼の微笑ははや青年のようにみえた。僕は父に感じていた頑健な唐獅子の姿はそこにはなく、あるのは茎が割れて透明な翠の滴を流す燕子花の一凛だった。碧い空に溶け込んで輪郭のさだかでない毀れかけた美の表徴――。
だらりと由香利の腕が隣を座る僕の方へ垂れる。狭山までの小旅行は、歩ける範囲までしか基本赴かない彼女にとっては長旅のようだった。上石神井をすぎる頃には既に彼女は愛らしくうすく口を開けて寝息を立てていた。僕は緩やかな線を描いて僕の現実に交錯してくる回想を振り払いながら軽快に視界を駆ける電柱の群れを眺めた。僕は現実世界の猛暑には辟易していたが、過去の記憶が丁度右手首の古傷のように疼きだして景色を塗り替えていく感覚も不愉快で仕方なかった。楽しい過去はそしらぬ顔で霧消して、あとに残るは
文學研究会は衰退が著しかった。伝統ある我が大学の中でも歴史は古く、嘗て学生会館が極左の牙城であった頃から独立して存在した栄光の帆柱は、黴に腐食されて六畳江戸間に朽ちていた。僕と由香利はそんな斜陽のサークルで出逢った。僕達新入生を交えて文学理論を討議した日、僕は去りゆく由香利とは二度と会わないだろうと思った。去り際に盗み見た彼女の可憐な鳶色の瞳は、失望や落胆を映さなかった代わりに何ら幸福も示さなかった。ただ冷然と、部室の埃を被った照明に無意味に突進する蠅を仰ぎみる彼女の澄んだ瞳は、感情の反映そのものを拒絶していたのだった。
「お先に」
藤堂部長とうわの空で話す僕に、確かに由香利はそう言った。その蜉蝣の揺蕩うような声に僕の耳は熱くなった。彼女は、僕に気づいている!彼女の死に向かって純粋に伸びた鋭い針の途中に、僕は存在していた。だが、それがどうしたというのだ。僕は槍の穂先に当たって割れる馬鹿な蜻蛉にすぎない。僕はしかし彼女――落合由香利の峻厳な死に向かって突き進む光芒に呑まれる小惑星であることを想起すると堪らなく幸福だった。僕は死にたいわけではなかった。唯、夭折の死が持つ果てしない美しさの結晶、鼓動する青い焔の放棄をもう一人の僕が執行するのだ考えると胸が躍った。だがそれは、死をお遊戯に組み込んでいるにすぎない。
――落合由香利から会わないかとメールが来たのはその三日後のことだった。
僕は不安と興奮に胸を疼かせながら、穴八幡宮の本殿から石段を見下ろしていた。楓は美しい新緑の艶やかな枝を交互に伸ばし、紅い灯篭が連なっていた。時刻は夜八時を過ぎていた。深い暗闇を静かに裂くようにして由香利はやってきた。蔭浅葱色のワンピースに白のカーディガンを羽織った彼女は満月のような豊饒で静謐な美を湛えていた。柔らかな黒い髪が風になびき、澄んだ鳶色の瞳は謹厚な光を潤ませて僕を真っすぐに見つめていた。僕は息を呑んだ。麓は夏へ駆け出しているというのに、未だ残雪を戴に残す高潔な霊峰が想起された。
「落合です。文學研究会でお会いしましたね」
真紅の鳥居の奥で漆黒の社が金色の装飾を輝かせていた。僕は由香利の清雅な美に眩暈を起こしそうになって、慌てて彼女から目を逸らした。けれど脳裡に残る彼女は、待宵に相応しい色を兼ね備えて僕を中々離してはくれなかった――彼女の碧に僕は監禁されたのだった。
「南です。落合さんとは一度話してみたかったんです、静かな場所で」
喧騒から離隔されて樹々はのびやかに枝葉を伸ばしていた。僕は流氷の間隙から呼吸する
「私も」
鯱の不意の強襲になす術もなく水底に沈んだ海鳥のように、由香利の微笑に衝撃を受けて崩れ落ちそうになった。僕は痛切に思い知った、出逢ったその時から僕は由香利に一目惚れだったのだ。彼女は恍惚として動けなくなった僕に、ついてきて下さいと言った。僕がやっと顔をあげた頃には、彼女は境内の石段をあらかた下りていた。決して僕を振り向かなかったのに、より好感を持ったのは何故だろう。彼女の後姿は数多の未熟な花托に傅かれて唯一凛咲く蓮の花のような厳粛さがあった。僕は慌てて階段を駆け下りた。
僕達は境内の欅の傍のベンチに座った。僕達は暫く他愛もない話をしてから、ふと思いついたように由香利が、
「人生は偶然の連続だって人はいうけれど、今日はそうじゃない。それって、素晴らしいことだよね」
といった。僕は小さく頷いた。彼女に誘われた理由を僕はまだ知らなかった。僕と由香利は淡い青色の波に囲まれた温恭な環礁のクマノミとイソギンチャクのような初心な交感をしていたのだった。
「とっても嬉しいことだと思う。僕でなければならないことが、落合さんに発生したわけだからね」
「そ。これは、南君しか出来ないことなの。南君以外じゃないと相談できない気がした、あの文學研究会で会ったときから」
由香利はそう言ってから、携えていた薄い厚みの封筒を取り出した。
「これ、読んでほしいの。私が初めて書いた小説」
僕は驚いて何も言えずに由香利と封筒を交互に眺めた。受け取った封筒は確かに彼女の温もりを伝えていた。まるで彼女の美しい器官の一部として息づいているような率直な感じがした。
「本当に、僕で良いの?」
僕はたじろぎながら彼女にいった。泰然たる陽の光輝を一身に浴びた
「南君、小説書いているでしょ。それも私小説」
僕は目を丸くした。羞恥のままに秘匿していたことを、どうして由香利が知っているのか。僕は確かにサイトで小説を投稿しているが、それを知っているのは近しい友人だけのはずだった。だが僕は周章狼狽してか、否定するよりも先に最も知られたくなかった秘密の隠蔽に急いだ。
「あ、あれは戯言みたいなものだよ。それにあれは私小説じゃないよ。落合さんは思い違いをしている」
藪の中から、季節外れの虫の声がした。暗闇を裂くように喧しい声を発しながら椋鳥の一群が塒へ急いでいた。
「嘘。あの小説の主人公はみんな南君の依り代。南君の小説を読むとよくわかるんだ。かしましい君の陰に潜む孤独の正体が」
「、、それはつまり」
「お父さん」
由香利は真っ直ぐに僕を見つめた。澄んだ鳶色の瞳に嘘はなく、僕の如何なる嘘も許容しない厳格さがあった。けれどそこに冷酷さは無かった。父の言った百合の可憐さとは何か僕は知った。
「それともう一つ」
一人で立ち上がった由香利は、一葉の写真を取り出した。
「今はみちゃだめよ」
由香利はゆったりと手を伸ばして僕の胸ポケットにその小さな写真を差し込んだ。一瞬驚くべき静謐が世界に君臨し、月が雲を薙いで僕たちを照らした。雲は清冽に濃藍の大河を流れていった。そして僕は見逃さなかった。彼女の手首に刻まれた生々しい凄絶な裂傷の数々を。僕は彼女の碧い焔が急激に燃えあがるのを感じた。それはあまりに峻烈で絢爛に世界を燃やしていた。そして尚盛んな焔は光に迷い込んだ一匹の蝶である僕をものみこんで最も純白かつ最も脆弱な結晶を築こうとしていた。透きとおるような碧い光芒を纏って、由香利は昼月だった。
くるりと背を向けて歩き出した彼女の幼い身体を、津波のように巨大で、不気味に黒く、鈍い光を放つ混濁の影が捕食の機会を窺って付き従うのを僕は何も言えずに見送った。彼女から受け取った封筒は、温もりを喪いはじめていた。
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