稲妻

桑野健人

翡翠

 手づから掴めそうな夏の日差し。僕は燦爛と輝く太陽へ掲げかけた手を、額を拭うのに使った。梅雨は未だあけていなかったが、照りつける太陽はより苛烈だった。雲一つない青空に蝉の鳴き声が静かに響いていた。まだ彼らは盛りに達しておらず、その声は微々たるものだった。早くも夏季休暇に到来したのだろうか、下宿先の僕の部屋のある階は俄に騒がしく、留学生が母国語で鼻歌を歌いながら身支度を整えているのがわかった。僕も郷里に帰ろうと思った。遠出の爽快さと逃避の切迫さの混淆が僕を楽しませた。東京の夏は暑い。京都の親戚が盆地の暑さを説いては東京など取るに足らないと豪語し、僕もそれにうなずいては胡瓜の一本漬けをしゃくったものだが、東京の暑さは次元を超越しているように思われてならない。僕は京都と大阪の府境のなお奥つ方の山で育ったものだから、灼熱に軟弱だった。日ざしに焼かれた蚯蚓みたいにのろのろと外へ出ては、それきり歩を進めるのが億劫で、影に身を潜めたまま額の汗を拭うのに徒に時間を費やすのが常だった。これから大学までの長い道のりを思うと、溜息はいくらでも出た。故郷の川のせせらぎを想起の渓谷に奏で、熔けるように茫洋とした景色とくっきり建っている鉄塔を見遣りながら、緩慢な歩調で駅へ向かった。ある晴れた土曜の朝だった。




 翡翠かわせみを見たことがあるか。透きとおるような碧い光芒を。僕はある。それは今日のような夏の晴れた昼下がり、父と山に登った時のことである。延々と続く新緑の覆いに鳥の囀り蝉の声が溢れるばかりに降りそそぐなかで、寡黙に進む父の背中を懸命に追った。父は不思議な人だった。温厚篤実な人だと周囲は父を讃えたが、僕はそうは思わなかった。ただ寡黙なだけなだけであった。酒が好きだという割には下戸であり、運動が好きだという割には彼が何かスポーツに打ち込んでいるようには思われなかった。父の大学の友人に当時の父の写真を見せてもらう機会があった。陽に焼けて屈託なく笑う昔日の父を、僕は別人のように感じた。事実、その旧友は「しん君が生まれてから暫くして、健二は寡黙になった」と親しげに父の肩を叩いた。父は笑わなかったし、僕も笑わなかった。

「山に行かないか、二人で」

その日の早朝、寝ぼけまなこを擦りながら起きてきた僕に父は言った。父が不思議なのは、こんなところであった。彼は唐突に僕を色々なところに連れて行くのだった。僕はインドア派であったし、この暑いときになぜ外へ出なければいけないのか甚だ疑問ではあったが、これまたどうしてか、僕ははや新聞紙に隠れた父に向って、うん、と頷いてみせるのだった。断るという選択肢は僕にはなかった。

 母が弁当を詰めてくれたリュックを背負っての登山は運動嫌いな僕には堪えた。背中はじっとりとした不愉快な汗に濡れていた。提げた水筒のなかでからから音をたてる氷だけが僕の癒しで、小枝みたく退嬰的に細く白い僕の腕が灼かれていくうんざりするような感覚を束の間忘れ去ることができた。父は滅多なことがないかぎり、僕を振り返ることも、休憩を挟むこともなかった。熱病に魘された大気は、樹々の廂で幾分ましであるとは言え、熱さに何の配慮もない父を僕は恨んだ。彼は気候に対しても朴念仁だった。その父が、ふと立ち止まった。つられて立ち止まる僕を振り返ると、

「慎一、翡翠がいる」

と独り言のように呟いた。美しい森の結晶を毀さぬように荘重な響きをもった声だった。僕は何も言わずに父の見る方向を眺めた。崖下の小川の巌に碧い宝石の輝きが見えた。それは夏が僕らにみせた一種の幻想のように光彩を放って動かなかった。僕は上気して父と翡翠とを交互に見つめた。父は何も言わなかった。ただ感嘆のままに、自然の凝縮された絢爛の瞬間を逃さぬように眺めていた。僕は侵しがたいその雰囲気に畏れに似たものを感じた。父親が僕と世界を構築せずに、或いはそれを破り棄てるほど孤独に魅せられていく不気味さに背筋に冷涼な稲妻が走った。夥しい怜悧の美は、峻烈に夏の大気を薙ぎ払い、すっと川面を滑空した。父は何もいなくなった巌の上を魂が奪われるようにして見続けていた。事実、魂は奪われたのかもしれなかった。父はその数か月後、大学の講義中に倒れ、そのままあっけなく死んだ。




 期末考査の答案を返却してから、特にすることのなくなった第二外国語の教師が、窓から空を仰いで、真っすぐひかれた飛行機雲を眺めて、それから脳卒中の話をした。脳卒中で倒れた父親が危篤になり、羽田へ走ったけれど結局死に目には間に合わなかったのだと彼は言った。唸るような音を立てて冷房が無意味な風を送り続けていた。不思議な魔法に囚われてしまったかのように、誰も何も言わなかった。涼しくもなく、暑くもない大気を孤独な蝉の声が攪拌させていた。僕は最前列で彼の寂しげで虚ろな、それでいて自嘲的な微笑を浮かべるのを眺めた。頬杖をついた僕の白い腕はまだ陽に灼けていなかった。途端に蝉が悲鳴に似たものをあげて暫く呻いたあと、沈黙した。鳥の歓声がねっとりした夏を教室に誘うのを感じた。楽しい夏休みを、教師はそう言うと殊更大きく靴音をたてて僕の前を過った。頬がこけ枯れた川の跡のように刻まれた皺の印象が重なって、美しい老いの権威の音がした。精神的恢復の儘ならない遅効性の毒が蝕み、遠くない裡に彼を死の崖に追いやるだろうと思われると、それは憧憬に繋がった。なぜそう思うのかと僕は訝しんだ。答えは出なかった。僕は未だ青い一顆の果実だった。

「どこか遠くへ出かけないか、二人で」

講義が終わって、僕は学部棟の大量の室外機の熱風を浴びながら彼女に電話した。どこか遠いところに行きたかった。梅雨あけぬ灼熱の青空は燦々と痛いほどに照りつける陽光の槍を突き出していた。薄い雲が揺曳して、時折暗い影をつくって滞留していた。学部棟を真っすぐに進んで瑞々しい新緑の銀杏並木の誰も居ないベンチに腰掛けて水玉のような汗を流した。柔らかな木蔭の風がそれを拭った。落合由香利は難色を示した。

「何なら、目白まで出向くよ」

僕はなぜ由香利を誘って遠くへ行きたいのか分からなかった。彼女が言うように、熱に侵されてしまったのかもしれない。身体を迸る生命の青い焔が、縊死を仕向けるロープのような緻密な熱の抱擁と絡み合って途絶えることなく突き進んでいた。

「アイス、、いや、昼食を奢るよ」

僕はいつかの父親の手を使った。茹だるような暑さが急に止んだような気がした。彼女は渋々ながら頷いた。ツグミがちらりと僕を見た。

 グランド坂の緩やかな勾配の真ん中の道路で、ツグミが死んでいたことがあった。まるで寝ているように二羽死んでいた。血も出ていないし、首ももげていなかった。折りたたまれた静謐な死がそこにあった。柵に阻まれて死は僕を完全に虜にすることは不可能だったが、一瞬のあいだ、僕は何か凝縮した美に頬を撫でられてその場を離れなかった。同じようにぼんやりと眺めていた小学生に、背の高い痩身の大学生が

「触っちゃだめだよ。感染うつるかもだから」

と呟くように宥めるようにいった。赤いランドセルが頷いて、彼と一緒に坂を下るのをみて途端に醒めた思いがした。怜悧な美は僕から剥離して名残惜しげに死骸に帰還した。あの大学生の肌は陽に灼けていた。紛れもなく父だと僕は思った。

――その時撮った写真を、由香利は無性に欲しがった。

「君のように純粋な子に見せるのは躊躇われるよ」

僕はきっと死骸を撮ったことを由香利に咎められると思った。彼女は純粋で無垢で倫理のしもべであるように思ったから。文學研究会で初めて逢ったときの清楚な寡黙さを僕は忘れなかった。先輩の前で上気して文学理論を捲し立てる僕をよそに、真向いで一言も話さずに作品と向き合う彼女に、畏怖に似た美しさを感じた。落合由香利というらしいその女の子と、僕は友達になりたかったが、同時に嫌われたと思った。僕は喋る人間が嫌いだった。社交的な人間も、それに擬態して失敗する人間も嫌いだった。僕は後者だった。落合由香利は僕よりも僕に似ていると、可笑しなことを思った。誰よりも真摯に文学に向き合う彼女を、僕は愛おしく思った。だからこそ、嫌われたと感じたのだった。真っすぐに学生会館から駅のほうまで歩く彼女の孤高の背中を、文學研究会の他の新人と喋りながら無意識の裡に追いかけていた。自己紹介で滔々と語る彼女の言葉が忘れられなかった。彼女の澄んだ鳶色の瞳の奥で僕は純粋な美の前に悶え苦しむ醜い一個の新梢をみた。小説家の自殺とは――彼女は惚れ惚れさせるような清廉で美しい微笑を浮かべてこう言った、人生を一個の作品に仕立てあげることだ。自分も、かくありたい。彼女は確かにそう言ったのだった。

「綺麗ね」

二羽のツグミの虚ろな生の墜落を、彼女は残酷に無邪気に祝福しているかのようにそう呟いた。本質と無機の交錯が蟠る厳粛な空間は喪失され、醜い生命の躍動は彼女の冷徹な瞳が傲然と排除していた。

「滅多なことをいうもんじゃない。僕はこの写真を撮ることに煩悶したんだ。死は怖ろしいよ。穢れているよ」

「嘘。だって、貴方は霧消するはずの死を確かに写真におさめてるから。懊悩したのは本当ね。その蠱惑的な美に魅了された自分が怖かったのよ」

すらりと僕の反駁を薙いだ彼女は、僕の真意まで当ててしまった。彼女の直感は恐ろしく正鵠を射ていた。或いは直感に見せかけた思考の堆積なのかもしれない。どちらにせよ、僕は彼女の儚い智慧を愛した。死への純粋な渇望に思考を糜爛させながら、その寡黙な呼吸が自身の生命を無条件に肯定しているアンビバレントな彼女へ湧きおこる猛烈な恋慕は、自他の壁を清純に貫いて歪んだ自己愛に結びつくような気さえした。




 灝気こうきを遍く炙る日輪は理想の巌窟への逃避を許さなかった。現実は軽い日焼けの痛みを伴って否応なしに僕に纏わりついてきた。しかし、それで良かったのだ。理想への飛翔は無理にしても、僕は鈍い光を放って静かに待ち伏せる過去へと降下するよりはましだったから。今この瞬間という現実がときに何よりも雄弁になって僕自身の顕現を肯定してくれる、この灼熱を感じるということが!熱を帯びた背中を、陽に灼けつつある首許を、耳許を嫋やかに吹く風の感覚を、脆弱な僕は必要としていたのだった。僕は大学前の道路を澱みなく車両が往来するのを黙って眺めていた。一人の方が好きだ、路傍の石に潰されてなお生き生きと葉を伸ばす雑草を視界の花瓶に生けながら僕は思った。だが人間は一人になることを許してくれない。孤独は最も死への近道になり得る。


信号が青になった。

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