目に映る色は
ぁる
目に映る色は
……♪♪♪♪……
……。
……♪♪
……。
スマホに伸ばしたその手の動きを遅ればせながら認識した。
覆い被さる闇への誘惑を払いのけ、ゆっくりと瞼を上げる。遮光カーテンから漏れ出た僅かな光だけが蠢くこの薄暗い自室が私を迎えた。
昨夜はその存在の大小、遠近を自由気ままに操り私を弄んだ天井や照明、扉に棚が、まるで何事もなかったかのように居座っている。
やり場のない怒りと嫌悪が上り詰めたが、それらはすぐに私へ向かっていった。だからこそ、私の意識が少しずつ鮮明になるにつれてその感情は理性に押し込められる。
上体を起こそうと少し動かすと、首元から後ろに引っ張られた。そこでようやく、首にイヤホンのコードが巻き付いていることに気づく。
まただ。寝ている間に絞められかけていたかもしれぬ跡に刹那の恐怖をおぼえるものの、そのような事例があるならもっと問題になっているはず、と余計な疑念を払拭する。
いや、むしろそれで意識のないまま身まかることができるのなら、いいのかもしれない。まだそんな覚悟はないけれど。
癇癪を起した壮年の女性のような不愉快なまでに高い体温、その割に自由の利かぬ体をどうにか動かしてベッドを出る。
汗を吸った部屋着が気持ち悪い。
まぁ、いつものことだ。晩酌後の机の上が片付けられているだけ、昨日の私は優秀だな、なんて。
朦朧とする意識を定めて活動を始めるために点けた照明の白が目に痛い。
やさしく覆うような闇と違って、叩きつけるような光は暴力的な刺激を与えてくる。ただ、この厳しさを受けて漸く動くことができるのだから仕方がない。
とりあえず、こんな逢瀬後のような体のまま出勤するわけにもいかないし、シャワーを浴びることとした。
まだ時間はあるはず、八時十一分の電車に乗ればよいのだから。
天井の低いエスカレーターを駆け下り、なんとか電車に飛び乗る。
相も変わらず出社するリーマン達ですし詰めの車内は、ひどく暑く感じられた。
たった十数分しか乗らないが、他人と隣り合わせでいるこの空間はそれだけで気疲れする。こんなくぐもった空気では、上がった息を落ち着けることもままならない。
下がらない体温と息苦しい空間に拘束され、次第に体が汗ばんでくる。折角入浴したというのに。
一刻も早く抜け出したいと思い、普段は聞き流している車内アナウンスに耳を傾けるも、会社の最寄りはまだ二駅先であった。
私の勤めている会社は、それなりに大きな企業の支社だ。
上場企業にも劣らないほどの規模らしいが、BtoB主体の企業なので世間からの認知は薄い。
地元志向の強い祖母は、そんなよくわからないところより地元の公務員がどうだとか言っていたらしい。
もっとも、家族とは大学在学時に帰省して以来一切顔を合わせていないので、親づてに電話口で聞いただけだが。
そのうえここの支社は、他企業が事務所を設置するのも躊躇するような治安の、歓楽街外れの裏路地に建つビルに入居しているから、何も知らない人間からすればグレーな会社と思われても仕方がない。実際、近隣にはそういった事務所らしきものがあると飲み会の席で上司が言っていた。
駅から会社へは少し離れていることもあって、歩いているとかつてのアルバイトを思い出し、気が滅入る。
空は明るく、別に赤いドレスを着ているわけでもない。何もかも違うというのに。厄介な記憶だ。
職場の人にそつない形式的な挨拶を済ますと、おもむろに自席に着く。
本社やほかの支社も配属前に訪ねたことがあるが、ここは有数の都市にある支社にしては随分と狭く乱雑とした空間である。建物自体が小さなブレジネフカのようなものだから、こんな部屋でも違和感はないけれど。
なんでも、この会社が初めて支社を展開しようとした際に協力してくれた関係がどうとか、ここに配属された際に説明を受けた。
それが本当のことなのか、表向きの理由かは知らないし、興味もない。
他の社員と席が近い点は嫌悪感が拭えないものの、無駄に整然としているよりは幾分か所在が楽である。
自分の周りだけは綺麗に整えようと躍起になっている四十路の女や、逆に倉庫のような状態なのをいいことにファイルなんかを床に積み散らかしている若い男まで様々な人間がいる。私に関わらないのなら、なんだっていい。
ともかく、いまだアセトアルデヒドの残る体を督戦し、今日もやり過ごすしかないのだ。
繁忙期を過ぎたこともあり、職務面は背負い込むほどのものではない。
ただ私の性格上、締め切り直前まで手を付けないことが多いので、追われていることは確かである。今日中に返信しなければならないメールが三通に、仕上げる報告書面が二件、応対する案件が……。
正確に吐露するならば、これは時間に関することだけではない。私の人生において物事を遂行する際は、大抵がプレハブ小屋のようなその場凌ぎであった。
それは学生であった時分から変わらず、幾人もの人に指摘され続けてきた。
だが意識したところで大きな変革を起こせるわけもなく、むしろ抱え込む精神的負債が大きくなるだけであり、その成れの果てに私はこの性格と共存することとしたのだった。
全くもって気力がない今は、「書く」や「作る」といった能動的作業よりはハードルの低い「読む」にしよう。
そう思い今日面会する相手方の資料を引っ張り出していると、左手の指先に痛みを感じた。
見れば人差し指に一筋の線が浮かんでいる。
それを見た途端に「読む」ための僅かな気力も霧散し、落ちる布のように椅子へ座りこみ、指先から血が溢れるその様をしばらく見つめていた。
わずかにぼやけた視界には十分すぎるほどに鮮やかなその
痺れるような痛みと吐き出したくなる鉄の香りが、弱った脳を支配してゆく。
力なく垂れ下げた指の先から一つの粒が滴るまで、私はインモラルな感情から抜け出すことができなかった。
漸く頭がまわるようになった頃には、もう日は頂に至っていた。
昼休憩になるや否やそそくさと会社を出た私だったが、食欲もないのでコンビニで軽食を買うとすぐに手持ち無沙汰となった。
けれど社内に戻る気にもなれなかったので、目的もなく歩いている。
ここに勤め始めて一年以上となり、もはや周辺は見慣れた光景でしかない。
私はそのまま会社のある薄汚れたビルを通り過ぎ、さらに奥に進んでいった。
歓楽街と集合住宅街、それに旧商店街が交錯する狭間では、新旧も用途も、形状に管理状態まで何もかもが雑多に並存していて、混沌とした風景がそこにはある。
実のところ、私はこれを結構気に入っている。気圧されることもなければ、気に留めることもない。
そこにいる人々は陰鬱な影を負っているものの、私に目を向けることをしない。
見ようと思えばものに事欠かないし、なにも気にしたくないときは灰色の景色としてひとまとまりにできるからだ。
昼休憩も終わり、積んだ職務に取り掛かる。
午前と異なりある程度は仕事をこなせたため仕上げに至ったのはいいものの、返信メールの文面ですら満足いかず送信できていない。
傍らにはほぼ書き上げたものの細部に悩み投げ出した書類が鎮座している。時間に追われているというのに随分と余裕なものだと我ながら思う。まぁ、これもいつものことなのだが。
ナポレオンの言葉通りなら、いつか私は惨殺でもされるんじゃないかな、なんて。
惨殺されるぐらいなら首を吊ったほうが、自分で決める分後悔しないからいいかもしれない。
でも縊首も死ぬまでは苦しいらしいし、もっと楽な方法がいいかも……。
……。
思考を振り払うために濃褐色の液体を流し込む。安いインスタントコーヒーの薄い酸味と苦さで、仕事の意識を取り戻した。
とりあえず、客人の来る十五時までにはひと段落つけよう。
結局、ビルの出入り口をくぐったときには二十時をまわっていた。
近くの歓楽街は活気に色づいている。
最短距離で行くならばそこを通り抜ける必要があったが、今の私はいつにも増してなるべく他人を感じたくなかった。
ゆえに買い足しという名目で私はそちらを避け、回り道をして帰ることとした。
夜の空気はある一種のやさしさを持っている。纏わりつくでもなく、突き刺すでもない、無関心に近いやさしさだ。
「ねね、そこのお姉さん、仕事帰り?」
だが、そのやさしさはとても弱く、他人にすぐ破壊されてしまう。頼りにならないものである。
「だいぶお疲れっぽいけど、大丈夫?そこのカフェで一息つかない?奢るからさ。」
所詮、その濃紺は最も後ろにあるものに過ぎないのだ。脇役ですらないので、それも仕方がないか。残念。
「ねぇちょっと、お姉さん?聞こえてるー?もしもーし?いい話が......」
……。まったく、運がない。
家の最寄り駅を出て、再び歩き始める。
駅前ではいくつかの居酒屋が主張の激しい光を散らし、行き交う車や人々でそれなりの喧騒が演じられている。
だが、そこから歩みを進めていくと、明度、彩度、デシベル、すべてが少しずつ落ちていく。
目に入るのは道とマンションばかりで、車通りも少なく出歩く人とすれ違うことも減る。
まもなく家に着くことを自覚すればするほどに、気が抜けていき疲れが足取りを重くする。コンビニに立ち寄ってチューハイでも飲みながら帰ろうかと思ったが、万が一スーツに零しでもしたら面倒極まりないのでやめておいた。
ほどなくして自宅のマンションが見えてきた。
力ないこの歩みも、あと少しで終えることができる。
集積場から散乱したゴミを踏まないように避け、オートロックのキーを鞄から取り出しつつ進む。
ほのかな安堵と達成感を感じながら先を見ると、エントランス前の段差に何かがあることに気づいた。
小さなそれは、近づいて見れば正体が分かった。
死に損ないの青い蝶だ。
全身に悪寒が走り、足が竦む。
揺らめく触覚に、照明に照らされ艶々とした翅から目を離せない。
先ほどまであった安堵は消え去り、恐怖と不快感がその矮小な存在から押し付けられていた。
感覚の吸われたような体をどうにか制御下に戻す。
止まった足に信号を送りつけることができた。
飛び出す様子のないことを確認し、距離をとって横を通り過ぎる。
無意識に握りしめていたキーを震える手でリーダーにかざし、開いた扉に飛び込むように向かう。
扉の閉まる音を以って、大きく息を吐いた。
タンブラーに氷を無造作に入れ、業務用のような4Lのボトルから安物のウイスキーを半分ぐらいまで注ぐ。細かい調整ができないので量は適当。
……入れすぎた。
くすんだメタルボディには冬の落ち葉のように、ウイスキーの薄い茶色に氷の白い斑点が浮く。
少し振り、口をつけて傾ける。
アルコールの刺激と残るカラメル。
それでも流れ込んだ液体は私の喉から食道を蝕み、毒の始まり乱暴に教える。
おいしいとは言えないが、安い割には飲めるので十分。数年かけて選んできたので当然なのだが。
飲んで量を調整したそれに、炭酸水をなみなみまで注ぎ、これから夕食で使う箸を突っ込んで四周ほどさせる。
雰囲気も香りもない、あるのは泡と氷の当たる音。
口に感じるのは、冷たさと、ガラスのような味わい。
酒に慣れてきたころからほとんど毎日、これを飲んでいる。
特別ハイボールが好きなわけではない。ただ酔うためだけの代物、これを片手に夕食の用意をする。
袋から出しただけの千切りキャベツ、冷凍食品の唐揚げ、パックから出してすらいない木綿豆腐。
これらを机に並べるだけで限界だった。
もうタンブラーの中には液体が無い。
新たにハイボールを注ぎなおし、商品棚からほとんど姿を変えていない食品の横に加えて並べた。
典型的なダメ社会人のようにカップ麺のみでないだけまだいい、なんて私自身ですらも求めていない自己弁護をしてみる。
もっとも、お湯を沸かすのが面倒で避けているので、それ以下とも言えるな、と自嘲に帰した。
冷凍庫から取り出したショットグラスにイェーガーを注ぐ。
霜の降りたグラスに満たされた黒蜜のような艶のある液体。彼との出会いは、実のところいい思い出ではない。
ただそんな記憶を思い起こす前に、グラスを口につけ一気に天井を向く。
流し込まれる複雑な薬の香りとわざとらしい甘みは、ほんの一瞬ではあるが意識の全て奪っていく。
明かりを落とした空間でおよそ上品とは形容できない微笑をもって堪能したのち机に向かった。
日の更新が迫るころになると、私は「食」もとっくに終え、ただ惰性でグラスを傾けていた。
傍らには、二つの穴をあけたPTPシートが転がっている。机の端にある箱には、睡眠改善薬と書いてあった。
厚いロックグラスには、純真無垢な見た目をした液体が不純な白を含んだ氷を揺らしている。
ただ彼女はその見た目とは裏腹に、抱える毒は強い。
私は酔いがかなり回っており、眠気を感じ始めていた。
まどろんだ視界の端に、積まれたままの段ボールが映り込む。
引っ越しの時からそのままで、もはや中身が何だったかも定かではなくなってきていた。
多分、小説や服が入っていた気がする。確かゲーム機も入っていたはずだ。
最近はもうゲームをした記憶がない。昔は結構やってたんだけど。
当時の友人と通話しながら夜までゲームしてたっけ。今でも連絡先はもっているけど、久しく交わしていない気がする。
懐かしさで彼とのメッセージを開こうとスマホを開いて指を滑らせると、半年前の彼の返信を未読の状態で放置していたのだった。
……いいや、もう。
グラスに半分残っていたウォッカを、氷が口に入らないように流し込む。
冷たい液体が口内に入るというのに、口より先は熱がより一層激しくなり、私の濁された思考は完全に溶解した。
グラスを乱雑に机へ置いた音にも気づかず、倒れるようにベッドへと身を投げる。
段々と耐え難くなった光を落とし、抱きかかえた毛布の柔らかさだけを感じていた。
そしてそれに包まれた私の視界は、深夜の、闇の、その黒がすべてに代わって存在していた。
まだ夜目が利かない今が、最もやさしい。
できることなら、このまま永遠に、染まっていたいと思う。
今は、ただ、
思考も、それで塗り潰して。
一夜、ぐらい、
何事もなく、
深く、
眠れると、
いいな……。
目に映る色は ぁる @alcoholist
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