しろすぎる腕

蛙鳴未明

しろすぎる腕

 昼が死にゆく、夕暮れ時の快速急行。すし詰めの車内で何とかつり革を捕まえ、安堵の息を吐いた。ふと、妙なものに目が留まる。子供の腕――がっちりと互いに食い込んだ人々々の隙間から、やけに白い細腕がすらりとこっちへ突き出ている。肘から先。私の方へ手を伸ばしているわけではない。ただ、人ごみの混沌に巻き込まれるうちにあらぬ方へ身体が持っていかれてしまった、そんな様子。私にもそういう経験がある。遠方の塾へ通っていた時分、帰宅ラッシュの真ん中で、いつも私の四肢はバラバラの方向を向いていた。きっとこの腕の持ち主も、薄い酸素を懸命に吸いながら、自分を滑稽な姿に引き延ばす自分より大きな人々を呪っているのだろう。飴か何かをその手に握らせてやりたくなるが、そんなことをすれば不審者扱いでひと騒動起きるだろうし、そもそも私だって自由に手足を動かせない。できるのはせいぜい、揺れるたびに私の身体を無作法に揺さぶる四方の重量を呪いながら、かの細腕を連帯の目でじっと見つめることくらいだ。


 二つめの駅を通過した。どうも妙だぞ、と首を傾げた。髪がこすれて舌打ちが聞こえた。首をすくめ、微かな声で謝罪する、その間も白い手は相変わらず微動だにせず、ただにょろんと伸びている。大人の身体に挟まれ、動かしようがないとしても、だ。ここまで動きを見せないことがあるだろうか。少なくとも私がこの手のようになったときは、非力ながらも抵抗し、四肢を引き戻そうとした。そうでなくとも、揺れに合わせて少しくらい身動きするものではないだろうか。ましてやこれだけ幼い腕である。持ち主も少年少女に違いないわけで、彼らの地に足着かないぶりといったらすごいのだ。それに比べて、どうだこれは。何かを握るでも放るでもない半開きの形は、電車の揺れにも上下せず、一度一ミリたりとも狂わない。これは異常だ――考え過ぎだろうか。しかし私はもう、考えないこともできないほどに、この異常に魅入られてしまっている。


 橋に差し掛かる。川面が黄金色にゆらりきらめく。目を細める。それでも黄昏は刺すように眩しいが、目を閉じることはしない。細腕から目を離してはならないという、ある種の強迫観念が、私のまぶたを固定している。温く乾いた唇を舐める。影が濃い。どこかの汗が、誰かのうえを滑って落ちた。


 白すぎやしないか――違和感が、波紋のように現れる。つり革を掴む私の手に生える産毛の一本一本は、黄金きんの硝子のように輝いている。車内広告がほのかなあかがね色に染まって揺れている。死にゆく太陽の圧力に、全ての色彩が赤みを増すなか、ただ腕だけが紙のように白い。今は夏だ。少しは日に焼け、色素を落としているべきなのではないか――子供ならなおさら、外で遊び回っている時期だろうし。


 また一つ、駅を通り過ぎた。喉が渇いた。網膜が焼けるような光線。そのただなかに、痛みすら覚える純白。それは怪物の潜む黒々とした洞窟にも似て、私はぐらりと傾いた。

 軋んだ音を聞き、つり革を掴んでいることを思い出す。かたい床にたたらを踏み、そうだ、私は電車に乗っている――しかしそれは小さすぎるBGM。私の前には、群衆にうずもれた生白い細腕。握るでも開くでもなく、中途半端な指のかたちは、何かを誘っているようにも見える。


 一際大きく揺れて、私はまたたたらを踏んだ。つり革が軋み、誰かの頭を小突く。鋭い舌打ちに身をすくめ、横目を飛ばして謝った。その一瞬だけは腕のことを忘れていた。あの腕が消えてしまったような不安に襲われ、私は急いで目線を戻す。腕は変わらずぬろんと伸びて、ただただ、白い。小ぶりな爪のかたち一つ一つが鮮明だ。


 夕暮れが窓から追い出されていく。私達はトンネルに入る。蛍光灯が明るさを増し、色彩がレッドスケールから解放されて乱雑さを取り戻す。腕の輪郭が、より濃くなったような気がする。紺のスーツに挟まれて、窮屈そうな白い腕。血管だけが微かに青い。


 腕はどこに繋がっているのだろう――ふと浮かんだ疑問があまりに滑稽で、私は思わず笑ってしまった。何を思っているんだ私は。腕の先には人がいるに決まっている。特にこんな細く、未成熟な腕の先には、少年少女の一人や二人繋がっているのが当たり前だ――いや、一本の腕につき人は一人か。んふ、ふ、漏れ出る息が冷たい。汗が流れているようだ。弱冷房でも暑くはないのに。


 ――腕の先に人がいることなど決まり切っている。だとしても、それを確かめない理由にはならないじゃないか。私はゆっくりと腕の方へ頭を寄せる。つり革を離した。人一人分もない狭い空白へ腰を折る。産毛の細かさを目の端でとらえながら、次第に太くなっていく腕の根元を覗き込む。紺のスーツと、白い腕の間にあるわずかな闇の奥の奥へと。


 雪原のような白の長さ。洞穴のような隙間の奥に、より暗いマットな光沢が見えた。白い腕は尖ったジッパーの奥に通じていた。


 どういうことだ、と考えて、ぞくりと背筋が冷たくなった。闇の奥で、白い何かがぎょろりと動いた、ような気がした。を見ている。に見られている。刺すような冷気が喉元に――仰け反るように身を引いた。全身に鳥肌が立っている。心臓がばくばくとうるさいほどに震えている。白い腕は相変わらずそこにある。何の変哲もなく、閉じもせず、開きもせず、中途半端なかたちで――いや、違う。違っている。人差し指の爪の先、ほんのちいさな赤いシミ。それが微かに盛り上がる。ゆっくりと、蛞蝓なめくじの這うようなじれったさで、一筋の赤が流れていく。私はそれに、再び顔を近づけかけて――大きな揺れに慌ててつり革を掴んだ。急減速したらしい。ホームの明るさが流れ込んでくる。蛍光看板がゆっくりと、流れる速度を落としていく。人々々がぐらぐらと揺れ、私もまたぐらついて、しかし腕は微動だにしないまま。氷のように冷たい感触が首筋に残っている。私は首筋に触れた。生暖かい液体が、指先にぬるりとついた。止まった電車の真ん中で、時を凍らせたように動かない真白き細腕は、何故か笑っているように見えた。


 ドアが開くやいなや、私は瞬く間にもみくちゃにされてしまった。幾度も振り返ってあの腕を探したが、影も形も見つからなかった。呆然と改札を出て、夜の街を彷徨った。闇に映える色白の若い手足に誘われて、幾度も奥の奥を見た。しかしあの腕の三分の一も白くはない。冷たくもない。私は首のかさぶたを剥がしながら、朝焼けを見る。昼と夜の境目は逢魔が時というらしい。ならば夜と昼の境目に私は何に逢えるのか。狭い公園の片隅で白いユリが咲いていた。私はそれに嘔吐した。誰かの舌打ちに顔を上げる。早足に立ち去る男の下げたボストンバッグ。全身が粟立った。微かに開いたジッパーの隙間。その奥の奥から、あの白さに見つめ返されたような気がした。


 ベンチに子供が座ってこちらを見ていた。朝日に照らされ、しららかな肌がなまめかしい。首を絞めたら死んだのでバッグに詰めて電車に乗った。

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