第6話


 その年は夏の暑さも厄介だったが、連発して訪れた台風により受けた被害も甚大だった。

 あの日、土砂崩れで道が塞がれたと瑠璃子が吐いた嘘は、その台風によってものの見事に現実となり、焦る瑠璃子とは対照的に倫治は笑ったものだった。そういえば電話線を切ったというのも嘘で、実際は根本のモジュラージャックを抜いていただけだった。倫治も見て確かめればすぐに分かることだったのに、やはり暑さで呆けているときに、まともな判断は期待できないらしい。

「若いもんがよく固定電話線の抜き方なんか知ってたな」と倫治が言うのに「実家の電話がそうだったから」と瑠璃子は肩をすくめて見せた。種は明かされてしまえば大したことはない。

 ついでに、おはぎに仕込んだ毒というのも、やっぱり嘘だった。ただ、一つのおはぎに風邪薬と痛み止めを砕いたのを混ぜ込んではあったらしい。そんなものを食っていたら意識も飛んだろうなと倫治は苦笑した。

 土砂崩れの撤去作業には実際のところ予想より時間が掛かった。

 だが、ふもととの行き来がなくとも、そうそう死にはしない。本当に困ったなら峠を越えて隣県に出る道もあるのだから、そちらへ抜けてゆけばいいのだ。そう倫治が言うと、瑠璃子は「えええ」と信じられないくらいに子供っぽい間の抜けた顔をしたので、倫治はまた笑った。実際、城里にいる田山と村越の爺婆は軽トラでそうしている。なんならあちらの二世帯は親族が隣県の方にいるので、むしろふもと側との関りは倫治たちより薄い。

 蝉の声は大暑を過ぎてから、とたんに姦しくなった。また、台風の抜けた後の気温の下がり方が急激だったので、紅葉の変化は目が覚めるように鮮やかだった。

 畑で倫治がさつま芋の蔓を切っていると、瑠璃子が茶を持ってきた。

「おいもさん、どう?」

「今年は水はけにずいぶん手を掛けたからなぁ。よくできとってもらわんと困る」

 畝のあいだに立ったまま水筒を受けとり、中身を干すと、瑠璃子は穏やかな顔で畑を見た。秋風が少しばかり伸びた瑠璃子の髪をなでてゆく。

 道が直ると同時に上嶋がやってきた。ふもとと不通になっていたのは二週間ほどだったのだが、復旧すると同時に押し掛けてきたのである。まだ早朝と呼べる時刻だったので、倫治が玄関先で困惑しつつ応対していると、背後から「倫さん?」とまだ半分寝ぼけた瑠璃子が顔を出したものだから、上嶋ときたら口をあんぐりと開けて、もう何も言えずに帰っていってしまった。瑠璃子の恰好も随分なものだったので、さすがに状況を察したようである。

 あとから電話を掛けてきて、ねちねちと文句を言われたが、横から瑠璃子が受話器をかっさらうと、訥々と上嶋にあれこれ話してガチャンと通話を終わらせた。以来すっかり干渉してこなくなった。

「私もいい加減、自治会さんにはイライラしてたから、ちょうどよかったのよ」

 と、瑠璃子は立ち上がった。倫治の襟元の弛み切ったTシャツを一枚着たきりで、姿勢によっては隙間からやはり乳が見える。下着はつけていない。最近はすっかりだらしなくなった。倫治に影響されたのか、もしくはこれまでずっと緊張しきっていた生活から解放されて弛緩しているのか。なんにせよ悪い表情はしていないから、まあこれでもいいのかと倫治は見過ごしている。

 季節は変わる。気温が変わる。オリンピックは終わり、世界情勢はまたきな臭くなってきた。だが城里にいるとそれらのことも遠い。畑の世話をし、飯を作り、夜には二人差し向かいで晩酌をする。風呂をつかって、同じ布団で寝る。さすがに最近は万年床も日向で干されるようになり、匂いと手触りが変わってきた。が、さすがに冷え込みが深まってきている。今日はこのあと瑠璃子の家へ出向き、布団と骨壺を取りに行くことにしていた。服やら日用品やらは既に運び込まれている。最後の二つは、言ってしまえば最後の砦のようなものだった。

 倫治が風呂で泥を落とし着替えて出てくると、瑠璃子は既に玄関先に立っていた。

「行くか」

「うん」

 頷くと瑠璃子はガラガラと引き戸を開けた。秋の香りが流れ込む。倫治は目を細めつつ、瑠璃子のうなじを見つめた。

「お前さんは、このままでいいんか」

「え?」

 光と影のあいだで、瑠璃子は呆けたような眼差しでふり返る。

「倫さん、今何か言った?」

「お前さんは、約束とか、関係性を確認するとかいうことに頓着がないし求めんな、と思ったんだ」

「ああ。形とか、口先だけのどうこうは、私はもういいのよ。そばに実際にいることのほうが、よっぽど大事」

 家に居つくのを許して、布団の持ち込みまで許して、確かにもう今更なのかも知れない。約束や、泣くための表情造りより、実際がもうそこにある。倫治も手順がどうこうより、今そこにある、手で触れられるものを頼りに生きる方が性にあっていた。

 一緒にいて息がつまらないこと。本当に、それだけで十分なのかも知れない。

「それにね」

 瑠璃子は少しだけうつむき加減にしながら、完全に表に出た。

「私そういうところは、お父さんに似たみたい」


   *


 瑠璃子には、倫治に告げていないことがある。

 早苗は、SNSでこんな言葉を綴り続けていた。


「お父さん。どうしてあたしを引き取ってくれなかったの? あたし、お母さんとなんか暮らしたくなかった。

 お父さん、お仕事で忙しかったからあんまり遊んでもらえなかったけど、いつもちゃんとあたしの目を見てくれてたよね。

 お母さんは、あたしの顔なんか見ないのよ。自分のことばっかり。」

「お母さん最低。最低。大嫌い。」

「ねえ、あたしはお父さんの子だよねぇ?

 あたしのこと、お父さんだけは愛してくれてたよね?」

「やだ。あんな男になんか似てない。こんな顔いやだ。あたしはお父さんの娘だもん。」

「全部お母さんのせいだ。あのババアが浮気なんかするから、お父さんはあたしのこと娘じゃないかもって疑ったんだ、きっと。ババアの癖に女出してキモイ。ゆるさない。全部根こそぎ奪ってやる。」

「全部失って死ね死ね死ね。お父さんを誘惑したババアもその娘も全部ぐちゃぐちゃになれ。人生潰れちまえ。あたしだけこんなひどいのおかしくない?」

「全員、くたばれ。」


 早苗と母親の家を訪ねた直後、瑠璃子は匿名のアカウントを作った。そして、早苗のSNSアカウントにこんな言葉を残した。一週間後、二人がダムから上がったと聞いたので、アカウントごと消した。


「托卵整形の不倫ドブスが人間から愛されるわけないじゃない? かわいそうなあんたの代わりに、私がめいっぱいお父さんに身も心も愛されてあげるから、あんたは安心して沼の底に沈んでな。」


                            (了)

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水芭蕉咲く沼地にて 珠邑ミト @mitotamamura

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