ある時期の紛争の特徴と、ある直角三角形の内接円の半径

紫鳥コウ

ある時期の紛争の特徴と、ある直角三角形の内接円の半径

 論文を書くために論文を読んでいると、冬子に後ろから抱きつかれて、「大丈夫ですか?」とささやかれた。むかしなら、もっと違う言葉で甘えてきただろうに。

「伸びをする回数が増えたから、お疲れじゃないのかなって」

「えっ、そんなにしてた?」

 冬子は、首筋に唇を押しつけてきた。

 作業の前に作っておいたコーヒーは、一口も飲んでいなくて、もう冷めきっているようだった。指をさして「飲む?」といてみると、耳たぶを甘噛あまがみされてから、ふーっと息をふきかけられた。こそばゆくて、ひくひくしてしまう。

「なにを読んでいるんですか?」

「冷戦が終結したあと、アフリカの国の紛争がどんな風に変化したか……みたいなことを論じている論文」

「アフリカってエジプトとかですか?」

「アフリカ研究では、あまりエジプトとかは対象にならないよ。この論文でもそう。北アフリカは、中東と同じくくりにされることが多くてね。僕たちがアフリカというときは、サハラ砂漠より南の国々のことを指すんだよ」

「ちょっと、言い方に腹が立ちました。いまから、直角三角形の三つの辺の長さを言いますから、その内接円の半径を求めてください。できなかったら、罰ゲームです」

 椅子を後ろに引いて、冬子を前から抱きかかえて、「ごめんね」と素直に謝った。すると冬子は、「合格です」と言って、ニコッと笑った。


 僕は数学については、なにも知らないといっても過言ではない。中高のときに覚えていたことなんて忘れてしまったから。だから直角三角形の三辺の長さを言われたところで、その内接円の求め方なんて分からないし、なんなら、その姿形すがたかたちすら想像できない。

 知らないことに対しての好奇心は、もうそちらの方面にはなくて、いまは、冷戦終結後のアフリカ諸国の紛争の特徴を論じた論文を読んで、うなずいたり首をかしげたりするところにある。

 なんでみんな、英文で書くんだろう、みたいなジャンルもあるけれど、幸いなことに、この分野に関しては、日本の研究者がたくさん日本語で書いてくれている。英語も読めるのだけれど、まずは日本語のもの全部に目を通してから挑んでいくのが、英文読解の近道だ。

 多くの研究者や国際機関が指摘している通り、一九九〇年代のアフリカでは、紛争の数が急激に増加した。その規模や形態も変化した。

 それはなぜか? なにが要因となっているのか? どのような条件が重なりあって、そうなっているのか? 研究者たちは、いろんな問いの立て方をして、様々な分析を行なってきた。

 僕はそうした先人たちの「肩の上に立ち」ながら、ずっとこうして研究をしている。

 論文も数本出したし、学会発表もした。しかし、一冊の研究書みたいな、長大な文章にまとめるには、頭の中がぐちゃぐちゃとしすぎている。

「ここに内接円があるとしたら……ここが直角になりますよね?」

「なんで、ここが直角になるの?」

「それを説明すると、長くなりますよ?」

「というか、ここが直角だとして、三辺の長さしか分からないのに、どうやって半径を求めるの?」

「この状態で分かっているのは、三辺の長さだけじゃないですよね?」

 直角三角形の内接円の半径を求めることをテーマにしたこの会話は、「?」を付け合うものになっている。教えられる側が教える側に訊き返すのは分かるけれど、教える側が「?」を付け続ければ、回答にはたどり着かない。

「もうムリだ。あたまが爆発するかもしれない」

「うーん……じゃあ、ハグをしてくれたら一時中断してあげます」

「はい、ハグ」

「もう少しぎゅっと……あっ、ちょっと強いです……そう、それくらいで」

 すっかり冷めきったコーヒーとココア。カップはこつんと合わさっている。冬子を抱きしめながら、このふたつは、そっくりな色とは言いづらいのに、似たようなものに思えるのはなぜだろう、なんて考えていた。

「わたしは、幸せです。幸せですよね?」

「幸せだとしたら?」

「とてもとても、幸せです」

 ぎゅっと抱きしめては、ぱっとゆるめて、もう一度ぎゅっとする……というのを繰り返していたら、背中に甘く爪をたてられてしまった。


「これ、なにを読んでるんですか?」

「S、RES、……と、なんかの数字」

 S/RES/××が記されている部分を指し示すのも、億劫おっくうだった。

「あっ、教えるのが面倒なときの受け答え方の典型ですね」

「いまのは安保理決議の文書番号」

「もっと分かりやすくお願いします」

「SはSecurity CouncilでRESはResolution……あれ、違ったっけ。あれ?」

「眠いんですね」

「眠くないよ」

「じゃあ、どうしようもなく、つらいんですね。はい、ここへどうぞ」

 冬子の太ももは柔らかかった。なんだか泣きそうになった。でも涙を流すと、いままで積み重ねてきたものが崩れ落ちてしまうのではないだろうか。そんな不安でいっぱいだった。

「努力は四則演算しそくえんざんじゃありませんから。奇跡だったり運命だったり、必然だったり、偶発的な衝突だったり、その方途ほうとはいろいろです。そして! こうして、わたしの胸の中で泣いたりすることだって、実は努力なんですよ」

 一からやり直そう。このまま突き進んでも出口はない。それを認めないといけない。答えにたどり着くためには焦ってはいけない。研究とは、そういうものじゃないか。

 ぼくは冬子の胸の中で、しくしくと泣いた。嗚咽おえつだけはしなかった。そこだけはゆずれなかった。


 直角三角形の内接円の半径を求める問題を習ったのは、中学高校のどちらのときだっただろう。そういえば、中高のどちらとも、彼女がいなかった。彼女を作ることはできなかったけれど、片想いは何度もしたし、いま振り返ると、両想いだったのではないかと思うものもある。

 ある時期のアフリカ諸国の紛争の特徴について考えはじめたきっかけは、はっきりと分かっていて、それは大学四年生のときだ。そして大学院に入って半年で、学部生の冬子と付き合うことになり、一度別れたのに、一年後にはまた一緒のふとんにもぐり込むようになっていた。

 数学の得意な冬子は、高校を卒業してから五年くらい経っているのに、直角三角形の内接円の半径を求めることができる。ずっと、このことを考え続けてきたのか、なにか印象的な想い出がくっついているのか、どちらなのだろう。

「高校のときに付き合っていた先輩が、数学が得意で、よく一緒に勉強をしていたんですよ」

「ならもう、直角三角形の内接円の半径なんて、どうでもいいよ」

「ほんとうに、嫉妬深いですよね。そっちも、半年くらい、同じ研究室の子と付き合ってたじゃないですか」

「彼女は……なんの研究をしていたかなあ」

「あのとき、別の彼氏を見つけようかなって思っていたんですけど、すぐにわたしのところへ帰ってくるって、そんな気もしたんですよね」

 CMが終わり、ドラマの続きがはじまった。後ろから冬子を抱きしめる。いつも気になっているのは、耳にピアスの穴があることだ。ピアスをしたところを見たことがないのに。

 冬子の耳たぶを甘噛みすると、「そんなことするんなら仕返ししますよ」と、太ももをぎゅっとつねられた。



 〈了〉

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