■■■■(8)
未來はこの数日の怪異に関する記憶を全て失った。
記憶だけではない。サキナシのメモを写したノートも、記憶と同じように真っ黒に塗りつぶされ、手掛かりは全て消えてしまった。
あれはハシタコさんの呪いではなく、サキナシの力だった。
『ところが、その黒く塗り潰されたノートがハシタコの呪いと結びつけられ、結果的に娘を再び路地裏に向かわせた』
劣化して黄ばんだ紙の上を黒いみみずのようにうねりながら文字が列ねられる。
癖のない美しい文字なのに、まるでこちらを嘲笑っているかのようだった。
『もともと娘を追い詰めるためにハシタコの話を広め、暴れさせる計画だったが、予想外に上手く事が運んだ』
ハシタコさんは自分の陰口を言ったものを呪う。淵衣がわざわざ口にしなければ、誰も呪われなかっただろう。
それは、逃げた未來を追い詰めるために行われたものだった。
『銭洗爺や旧鼠の怪異の噂を流し、騒動を大きくした。怪異の問題が起きれば、路地裏に行くんだとわかったからな』
不審者の話も、華の怪我も、思い出してみれば淵衣のほうから怪異だと言い出していた。
それでみんなが不安になり、その様子を見て未來もどうにかしなければと思ってしまった。
『知恵を教えるばかりでなく、自らの霊感が欲しいと願われたので、さかしまこけしを渡した。お陰で一時的に力は得たようだが、今や力は枯れ果てて何も見えやしない』
さかしまになるとだけ教えられた淵衣は、正しいこけしの使い方を知らなかったが故に失敗した。本体を失った臭名帳は図書館の本に擬態してまで未來を誘導し、そして怪異の目論見どおりまんまと路地裏に来てしまった。
未來を怪異の事件に巻き込んで、何度も路地裏に向かわせた目的。それは、■■■■を思い出させて、もう一度名前を呼ばせるためだ。
裏で全ての糸を引いていた臭名帳は、笑うようにぱたぱらと勢いよく
『でも、許してあげてほしい。彼女は君を救いたいがために愚かな行為に走ったのだから。良い娘だった。名は
淵衣は気を失って路地裏で倒れている。未來もいっそのこと気絶してしまいたかった。名前を呼ばないように両手で口を押さえることに必死でそれどころじゃない。
■■■■。
やけに頭に■■■■響いてくる。どうしても■■■■未來に名を呼ばれたい■■■■らしい■■■■。
『もう君たちに打つ手はない。私を先伸ばしにしたところで、苦しみも長引くだけだ。受け入れればすぐにでも終わる――』
未來の指を引き剥がそうと言葉を羅列する臭名帳の表紙が、見えない何かで無理矢理ばたんと閉じられた。
苦しそうに地面に蹲っていたサキナシが、肩を激しく震わせて首を真っ赤にしながら威勢よく罵倒する。
「やかましいな……婦女子に好かれるのは、聞き上手な野郎だって知らねえのかい」
『君こそ無い舌でよくそこまで無駄口を叩けるものだ。策を打つ頭がないのを無駄口で誤魔化しているのか。そんな強がりもそう持たないだろう。既にほとんど私に侵食されているからね。』
「……うるせえ、黙ってろ。ジジイの長話ほど聞き苦しいもんはねえぞ」
サキナシが
苦しませているとわかっていても、未來は駆け寄ることも■■■■できない。■■■■近づけば、必死に止めてくれているサキナシの■■■■努力を無駄に■■■■して■■■■しまう。
『低級怪異ごときに耐えられるはずもない。乗っ取らずにやったのは、ただ君の粗末な名前など欲しくなかったからだ。――だが、仕方あるまい。』
闇の中で蠢いていた■■■■が動きを止めた。そして、まるで逆流するように黒い澱がサキナシのほうへと流れていった。サキナシの白いシャツが泥を被ったように黒く染まっていく。
思わず手を伸ばし掛けた未來の目の前で、サキナシは激しくもがいて首を横に振った。
『人間は怪異の闇を照らし、物陰を暴き、秘した本性を解剖する。ならば、怪異が人間の光を陰らせ、正道を誤らせ、美徳を穢したとて誰が責められるだろう。君は怪異の癖に、人を助ければ自分の本性を変えられると勘違いしているのか。』
「本当に、うるせえなあっ! ……オレが人の道理から外れてるのは、わかってんだよ。取り憑きたいほど妬ましいが、腕を伸ばせば伸ばすほど触れがたい。憧れて、何が悪い……!」
絞り出すような声だった。しかし、汚水を喉に流しこまれたかのように苦しみはじめ、全身が穢れで覆われて、糸が千切れたようにサキナシは無様に地面に伸びた。
息を殺して見守る未來の前で、倒れていた身体が跳ね上がるように立ち上がる。
腕や足の関節をぎしぎしとぎこちなく動かしながら、こちらへ近づいてくる。
「あ……」
サキナシ■■■■■■■■さん、じゃない■■■■。
どろりと濁った水のようなものをぼたぼた肘から垂らして、腕がこちらに伸びてきた。ここで死んでしまったら、サキナシの気持ちを裏切ってしまう。華にも怒られる。倒れた淵衣も助けられない。両親の顔も頭に浮かぶ。
でも、逃げられない。
未來が強く目蓋を閉じた。
ばちんと静電気のような音がした。
そろりと目を開けると、サキナシが黒く汚れた腕を不思議そうに眺めている。
再び未來に腕を近づけてきたが、ばちんという音ともに穢れた腕は弾かれた。
「ああ、そうか」
呟いたサキナシの声は穏やかだった。
それとは反対に、ばさばさと臭名帳が暴れるように
「未來なのか、お嬢さんの名前は」
「……はい」
不意に呼ばれて、思わず未來は返事をしてしまった。
覚えていないけれど、もしかして一度もサキナシさんに名前を教えたことはなかっただろうか。お嬢さんとしか呼ばれたことがない。
サキナシの
「先がないサキナシには、未来は奪えない。オレに侵食した結果、お前もお嬢さんには手を出せなくなったってこった……ぐっ」
「サキナシさん!」
口を押さえていた手を離しても何ともない。未來は苦しそうなサキナシを支えようと近づいた。ばらばらと五月蝿かった臭名帳を蹴飛ばしてしまったが、どうでもいい。
具合を確かめようと顔を上げた未來の鼻が、きゅっと摘ままれた。荒い息を吐きながら、優しく別れの言葉を告げてくる。
「結局、オレは助けてやれなかったなあ。まあ、所詮ひとでなしのサキナシだから仕方ない。……もう大丈夫だ。お嬢さんはそろそろ表に帰りな」
「違うよ、ねえサキナシさん……待って!」
ずっと助けられていた。まだお礼も言えていない。未来じゃなくて、今ここで言いたいことがたくさんある。
でも、指の感触は離れていく。
「今度こそ、さよならだ。元気でな」
ぷつんとそこから先は闇の中に消えてしまった。
□ □ □ □ □
未來のクラスでは集団ヒステリーというものが起こったらしい。
恐慌状態になった生徒、体調不良になって保健室に行った生徒、怪我をして病院に連れていかれた生徒、興奮状態になって学校から抜け出した生徒など。多感な時期である学生にはしばしば起こることらしい。何かあれば相談しましょうねと言われて、私たちは学校カウンセリングの案内がプリントされた紙を配られた。
ヒステリーを起こしたらしい未來は、自分が学校を抜け出したときのことを覚えていない。クラスメイトたちもみんな記憶があやふやらしい。
病院に行ったクラスメイトは、ひどい怪我ではなかったが、出場するはずだった大会には参加できなくなったという。
未来と一緒に学校を脱走した淵衣も何も覚えていないらしい。あれ以来ひっそりと黙ってしまい、教室の隅で一人でいる。
本来なら声をかけるべきだろうけれど、未來はできなかった。理由もなく何かに怒りたいような気持ちになって上手く話せない。仲直りには少し時間が必要だった。
集団ヒステリー事件のせいで、教室には居心地の悪い空気が流れるようになった。
それが気詰まりとなった華が、放課後になって突然言った。
「ねぇ、今日寄り道しよう。駅前近くに新しくかわいい雑貨屋さんのできたらしいよ。前に未來にストラッププレゼントしてもらったし、今日は私が買ってあげる」
今日は日差しが暑く感じるほど良い天気だった。青空には陰りの一つもない。
華は少し先をずんずん歩いて、未來は黙って後ろをついていく。ちらりと振り返った華が、からかってくる。
「今日は本当におとなしいじゃん。魂でも抜けちゃってる?」
「ちゃんとあるよ」
「それならいいけどね。楽しみすぎて、魂だけ先に言ったのかと思った」
からかう言葉は事件以来落ち込んでいる未来への励ましだということはわかっていた。おかげで華と話していると、何かが欠けて虚しいような気持ちも少しずつ元気になっていく気がした。
いつかこの虚しさも満たされて、何かがあったことも忘れてしまう。
未來はそれが少し寂しかった。
「お店はあっちにあるらしいよ」
「うん。……あ」
未來の足が止まる。中華料理屋と古い学習塾のビルの間。
大通りの明るさとは対照的な薄暗く細い路地があった。
怖いような、不安のような、悲しいような、期待のような、複雑すぎて言葉にできないもどかしい気持ちが未來の鼓動を鳴らした。
一歩近づいたところで、生温い風が路地裏から勢いよく未來の顔に吹き付けた。
きゅっと鼻を指で誰かに摘ままれた、気がした。
「未來、こっちだよ!」
「……うん!」
風で乱れた前髪を整えて、未來は華の元へ駆け寄った。
なぜかクッキーが作りたい気分だった。
路地裏のサキナシ 運転手 @untenshu
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