■■■■(7)

 雨は翌日も続いた。

 ざあざあと騒がしいほどの大雨で、跳ねる雨粒で靴下も濡れてしまう。おまけに横殴りの風が吹くものだから、傘を差してもほとんど意味がない。

 学校に着いたとき、未來はほかの生徒と同様にどろどろになっている。

 玄関ホールで靴を履き替えようとしたときだった。


「――おはよう」

「お、はよう」

「今日は逃げないの?」


 じっとりと雨に濡れた髪を頬に張り付かせて、淵衣はどんよりと淀んだ目を覗かせている。

 今日、彼女と接触することは考えていたものの、ここだと少し人が多すぎるような気がした。


「えっと、こっちで話そう?」


 人気の少ない廊下までまで移動した。

 淵衣は思ったよりもおとなしくついてきた。


「あの、淵衣ちゃんにお話があるの」

「何? 昨日の言い訳でもしてくれるの?」

「えっと、昨日は手を振り払ったりしてごめん。それで、呪いのことなの」

「ああ、それね。今日は助けてほしい気分なの?」


 昨日のことで相当機嫌を損ねているのか、淵衣の話し方には随分嫌味が含まれていた。

 申し訳なくも感じたが、それなら都合がいいと未來はお願いを口にした。


「もう呪いのことはいいの。淵衣ちゃんは気にしないで」

「はあ?」

「ちゃんと助けてくれるヒトがいるから。もう大丈夫。心配してくれてありがとう」


 淵衣は驚いたように硬直している。その手が無防備に身体の横にあるのを見て、未來は覚悟を決めて手を伸ばした。

 淵衣の手に触れて、もう一度繰り返した。


「だから、もう淵衣ちゃんは呪いに関わらないで。危ないよ」


 心配から出た言葉でもあった。恐ろしい怪異に関わっているのなら、もう止めてほしい。手を離すと、どろりと気持ち悪い感触とともに黒い呪いが張り付いているのがわかった。

 それじゃあと話を終わらせて、未來は中央階段とは逆へ向かった。

 まだ玄関ホールは人が多すぎる。生徒があまり使っていない女子トイレにこもって、朝のホームルームのチャイムが鳴ってからこっそり学校を抜け出せばいい。

 人気のない方向へ未來が歩いていると、後ろからぱたぱたと足音が聞こえた。


「待って!」


 振り返ると、さっきまで固まっていた淵衣が追いかけてきていた。昔話の鬼女のような顔をして追いかけてくる。ひっと息を漏らして未來は走った。先生に叱られるなんて言ってられない。

 人通りの少ない廊下では電灯が点けられておらず、窓の外も雨で薄暗い。ざあざあと雨が窓ガラスに打ちつけられて、こちらを追いたててくる。

 走っていると、目的地にしていた女子トイレが見えてきた。中に飛び込もうかどうしようか考えて入口まで来たところで、複数の女子の話す声が聞こえた。未來と同じクラスの子たちが使っているようだった。

 じゃあ、別の隠れるところと言えば廊下に並ぶ資料置場となった空き教室ぐらいだ。でも、これらは大抵鍵が掛けられている。


「お願い、開いていて……!」


 一か八かと空き教室に手をかけると、あっさりと扉は開いた。驚く間もなく未來は薄暗い教室に飛び込んで、息を潜めてしゃがみこんだ。


「はあ、はあ……どこ行ったの?」


 少し遅れてばたばたと足音が近づいてきた。続いて、何か言い合っているような声も聞こえる。また、足音がして少しずつ遠ざかっていく。

 未來は汚れていないほうの手で自分の口を押さえて、じっと静かにしていた。しばらくしてがやがやとクラスメイトたちの声が近くなって、連れだって自分たちの教室へ向かっていく。雨の音しか聞こえなくなったところで、やっと未來は立ち上がった。

 サキナシさんに会いに行こう。

 今だったら、玄関ホールの人も少ないはずだった。扉を開けようと前を見たときに、空き教室の磨りガラスに未來自身の影がぼうっと映った。影の頭がゆらゆら揺れている。未來は顔に手を当てて、自分が動いていないことを確認した。揺れる。影が揺れる。影が動いて、にたっと笑った。


 ――■■■■。


 自分の口が勝手に名前を呼びそうになって、反射的に左手で口を押さえてしまった。未來の唇の上にべったりとした感触が垂れてくる。唇を噛んで悲鳴を必死に堪えた。

 上手く力が入らない身体を動かしながら、未來は学校を出た。外は大雨だった。左手で口を覆ったせいで傘を差すのが難しい。

 玄関ホールの段差でつまずき、ガードレールにスカートの端を引っ掛け、雨傘を電信柱にぶつかりながら、必死にサキナシのところへ向かった。

 がりがりとコンクリートの壁に傘の骨組みを擦りながら、未來は路地裏の奥を進んだ。

 口の中がまずい。手についた呪いが口に入ったのかもしれない。唾が飲み込めない。早く。早く、早く早く早く早く、終わらせたい。


「――よくやった、お嬢さん」


 サキナシが現れると、すぐに未來の左手から黒いものが宙でぬらぬらとぐろを巻いて離れていった。ようやく唾が飲み込めたが、何かを呼んでしまいそうで口から離せない。

 話せない未來を察したのか、サキナシが頭のない首を覗かせて、よくやったと未來の頑張りを誉めた。


「臭名帳の本体の名前はわかったか?」


 こくこくと未來は頷く。そうかとサキナシは憂鬱そうに頷いた。


「まだお嬢さんには危険なことをしてもらわなきゃならねえ。ごめんな」


 勝手に謝られて、未來を首を横に振った。

 別にサキナシに謝られても、未來の気分は晴れないし、嬉しくないし、楽しくない。抗議のために何度か地団駄を踏むと、わかったわかったとサキナシは軽く笑いを漏らした。

 しかし、すぐに真剣な声色になる。


「お嬢さんには、ここで臭名帳の名前を呼んでもらう。そうしたら、本体がお嬢さんの名前を奪いにやってくるはずだ。その瞬間にオレがとっ捕まえて、この路地裏に引きずり込む。そうすれば、臭名帳から呪いの力はなくなるはずだ。お嬢さんも解放される」


 大丈夫かと確かめられる前に未來は大きく頷いた。本当に大丈夫かと念押ししてくるサキナシのために、何度も頷いてみせる。ここまでくると、もう怖くなった。それにさっきよりもずっとマシだ。だって、ここにはサキナシがいる。

 もう一度力強く頷くと、サキナシが諦めたようにため息を吐いた。


「お嬢さんが覚悟決めてるってのに、オレがこれじゃあ格好がつかねえよなあ。……一、二の三の合図で怪異の名前を呼んでくれ」


 不思議と未來は落ち着いていた。

 一、二の三で、唇から手を離し、名前を呼んだ。


「■■■■」


 無音。耳が痛くなるような静けさ。空気の流れが止まった。

 やって来る。

 闇の中でうごめいている。沼の底にでろでろと溜まったよどの如くきたないものが、びりゃりびちゃりと近づいてくる。生理的な嫌悪が未來を襲う。でも、逃げられない。ああ、捕まってしまう。


「ここはオレの陣地だ、勝手をされちゃあ困る」


 ぎりぎりと紐を引き絞るような音ともに、名を奪いに来た■■■■が、何かに引っ掛けられて上へと引っ張り上げられた。はっと未來は止めていた息を吹き返す。

 どうやら成功したようだった。


「サキナシさん……!」


 喜びの声を上げかけて、暗闇の先でサキナシが膝を突いて蹲っているのを目にした。駆け寄った未來にサキナシは無言で首を横に振る。いつも滑らかな舌も強張っているらしい。

 サキナシの背中に手を当てると、背骨が張り詰めた弓のように浮き出ていた。


「思った以上に、きつい呪いだなあ」

「サキナシさん、大丈夫?」

「……本体を捕らえて、これで臭名帳は力を失った。だが、気を抜くとオレのほうが持っていかれるな。もしもお嬢さんがもう一度名前を呼びゃあ、抜け出て襲いかかる」

「ど、どうしよう。私、何かできることある?」

「そうだな。じゃあこうしよう……ぐっ!」


 サキナシが苦しそうに息を詰めた。ぎいぎいと紐が揺れる音とともに不健康そうな肌の色の首筋にくっきりと赤い線がつく。まるで紐で首を絞められているみたいだ。

 同時に未來の頭が急にぐらっと揺れた。思考が霞がかって、何かが黒く塗りつぶされていくような気がする。

 サキナシさんと唇を動かしたが、声にはならなかった。


「全部忘れちまえばいい。全部消えりゃあ名前を呼ぶこともない。ここに近づくのも危険だ。だから、さよならだお嬢さん。……ちょいとオレの領分を越えすぎたかね」


 何も見えない。自分の目が閉じているのか、暗闇が濃くなったのか、そもそもこれは現実なのか、わからない。

 遠のきそうな意識で未來がサキナシを探して腕を伸ばすと、鼻がつんと摘ままれた感触がした。

 それが、最後だった。

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