第6話
森の中を飛ぶように移動をするフィルは、銀色の月明かりに浮かぶ紺碧の海と、その上を滑るように移動をしていく船影を丘の上から目を眇めるようにして眺めた。頭上に降り注ぐように瞬く星々は、緩やかな時間をかけて渦を巻くように天を動き、その輝きは光の粒となって海に落ちていく。
アルメロの孤児院はブレタ山の麓に位置しているのだが、その孤児院からは離れた高台にアルメロ島を統治する領主の館が建てられている。
島が攻め入られた際には最後の砦となるのがこの領主の館であり、館まで続く斜面には敵を遮るための壁が幾つも設らえられている。急斜面のその上に邸宅が構えられている為に、港と領主館の間には無数の蛇行をした道が続いている。そのいずれの道にも途中で遮断が出来るような細工が施されているのだった。
エレスヘデン群島は女神が作り出したとも言われているが、実り豊かな島だけに占領を企む輩がやたらと多い。この外敵からの攻撃を阻むために、何処の島でも様々な工夫が施されている。
「アーノルド・・アーノルド・・」
木々の間を移動して無数の壁を乗り越えたフィルが、灯りのついたままの窓を外から軽く叩いていると、やがてこの島を統治するアルメロ島の領主が現れた。
顔中を髭で覆われた大男は窓を開けると、ぴょんと飛ぶようにして部屋に入って来た少年を見下ろしながら、
「久しぶりだな親友、その様子だと何かあったってことだな?」
と、言い出した。
アーノルド・ヴァン・アルンヘムはリェージュ大陸からの敵を迎え撃ったファルマの海戦での勝利者であり、英雄と肩を並べるほどの豪傑とも言われる人である。御年四十四才の当主は自分の息子ほどに若いフィルにブランデーが入ったグラスを渡すと、フィルはそのグラスの中の液体を一息に飲み干した。
「アンが神官に攫われた」
「おやおや」
「本島にやってくる神官には気を配るように言っておいたよな?何故、このような事態になっている?」
大男とまだ年若い少年との逢瀬のはずなのに、少年は目の前の領主を睨みつける。領主は領主で怒られた犬のようにしょんぼりとした。
「お前らのことはどうしたって関わると頭の中がぼんやりする。頭の中がぼんやりする中でも気をつけるようにはしていたのだが、関わった神官の方が一枚上手だったということになるんだろうな」
「どういった男なんだ?」
「最近、本島からやって来たマルクという名前の神官で、年齢は確か二十二歳だったかな。ここ二十年、巫女が降りないということで王家も神殿も必死になって巫女探しをしているし、この若造の神官は熱心な信者だったっていうことなのだろうさ」
フィルは思わず舌打ちをする。
「まあいいだろう、ようやっと時が動き出したということなのだから」
アーノルドはそう言って執務机の上を片付けると、呼び鈴で執事を呼んで、今すぐ船を用意するように命じた。
「今の王家のやり方には俺も飽き飽きしていたんだ。占い師だか何だか知らないが、女神の怒りを解くために妻を何人も娶っては、子供をどんどんと作っている。今の王宮はまるで豚箱みたいなもんなんだが、お前だってそろそろ豚の見学にでも行きたいと思っていただろう?」
「冗談じゃない、誰が豚など見たいものか」
「だがな、冗談じゃなく豚なんだ」
アーノルドは自分の鼻を指先で押し上げながらブヒブヒと言った後に言い出した。
「ベルナール王も、姫巫女ヘンリエッテも、完全なる豚だ。本当にお前も一度は見ておいた方がいいと思うんだがな」
風が部屋の中に流れ込んで来たかと思うと、すでに窓が開いていてフィルの姿は部屋の何処にも居ない。
「はあーっ、本当に豚ちゃんなのに」
アーノルドは大きなため息を吐き出しながら窓を閉めると、着替えるために従僕を呼んだ。
「何が豚だ、馬鹿馬鹿しい」
フィルは吐き捨てるようにしてそう言うと、木々の間を飛ぶように移動をしていく。
アンが船で攫われたと言うのなら、追いかけるためには船が必要となってくる。その船を動かすために領主のところを訪れたが、不快な思いだけが広がっていく。
フィルとアンがアルメロの孤児院に引き取られたのが五年前のこと。二人は記憶に障害があり、恐らく親に捨てられたのだろうと判断される。髪色と瞳の色が同一なことから、たとえ面立ちに似通ったところがなくても、兄妹なのだろうと判断された。
アンの方が幼く見えるからフィルの方が兄でアンの方が妹、と、されてはいる。
フィルとアンの年齢不詳の拾われた兄弟、孤児院に預けられて五年と言われているが、実は二十年の時が経過をしている。女神の呪いによって子供のままの姿となった二人は、歳を取らずに日々を送る。
恐らく成人を迎えるだろうという年齢まで過ごすと、再び皆の感覚では保護したばかりの兄弟という扱いへと変わるのだ。五年経過して年長組として働くようになって一年が経つと、不思議なことに、皆の感覚では保護された子供という扱いに戻る。こんなことをもう四回も続けているため、呪いを受けてから二十年が経過したということを思い出す。
成人を迎えたと皆が判断し出すと、いつでも厄介ごとが起こるようになるのだが、今回は特別に酷いようにフィルは感じていた。遂に膠着していた呪い自体が動き出したのか、それとも女神の意思という奴が働いたのかは分からないが、呪いを受けてからアンが島を出たのはこれが始めてのこと。
しかも神官はアンを連れてアルンヘム本島へと移動をしているのは間違いないのだ。
「あ!フィルがいた!フィル!フィル!」
港まで行くと、デボラとクルトが飛びつくようにやって来る。
「領主様が船を出してくれるんでしょう?」
「俺たちもアンを助けに一緒に行くよ!」
フィルは思わずため息を吐き出した。
いつでも五年目を迎えて、成人後の話題が出てくると、フィルの周りでいざこざが起こることになる。有望格のフィルを射止めて自分こそが妻となろうという女がいつの時でも現れるし、いつでも妹扱いのアンが邪険に扱われて、酷い目にあうことだってあるのだ。
「二人とも、アンのことは気にしなくてもいいよ」
フィルが手を翳すと、二人はぼんやりとした表情で立ち止まる。
「お前らがアンを大事にしてくれていることは知っていたし、それには感謝をしているんだ。だけどもう気にしなくて良い。孤児院に帰って寝たら、何もかもを忘れているだろうから」
そう言うと、二人はぼんやりした表情で孤児院の方へと戻っていく。
時が動き出したというのなら、アルメロの孤児院はもう、アンとフィルを保護しないだろう。そのことだけは、何故かフィルにははっきりと理解出来たのだった。
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