爪を切る

ろくろわ

爪を切る

 どうにも爪を切るという行為は苦手だ。

 でもそれは自分が不器用だからとか、爪が固いからだとか、そんなんじゃなくて単純に面倒臭いからだけなのだ。でもだからといって爪を切らない訳にもいかず、俺は額から流れる汗を拭うと伸びた左手の親指から爪を切った。


 ばちん。


 乾いた音とともに厚く伸びた爪が何処かに飛んでいく。


 ぱちん。


 人差し指の爪は少し軽く、そしてやはり何処かに飛んでいった。


 ぱちっ。ぱちぃ。


 蒸し暑い部屋に爪を切る音だけが響く。

 爪切りは苦手だが、切り始めると意外と集中出来るものだ。そうして、薬指の爪まで切ったときだった。小指の爪の外側の皮膚に赤い虫刺されの痕を見つけた。いつの間に蚊に刺されていたらしい。見つけるまで痒くも何ともなかったのに、気が付いてしまったらもうダメだった。急に痒くなった小指を俺は掻きむしり、指先の爪の横なんて視界に入りやすいし、何よりも叩きやすい。背中とか手の届かない叩かれにくい所もあっただろうに、この場所を選んだ蚊は叩かれるリスクを楽しんでいるのか、或いはそんなリスクすら気にしていないのか。兎に角、正々堂々と吸血行為自分の役割を実行している蚊は、俺と違って優秀な奴だろう。なんて俺は、自分を刺した蚊の事をそんな風に考えていた。

 まさか、爪切りをしながら蚊に劣等感を抱くことになるとは思ってもみなかった。こんなくだらない事を考えてしまうのも、部屋の蒸し暑さの所為せいだろう。無理矢理に自虐的な考えを切り替えて、俺は足の爪もついでに切ることにした。


「あっ」


 思わず声が出た。

 左足の親指の後ろ。隠れるように小さく赤い虫刺されがあった。

 隠れるように、バレないようにこっそりと刺されたその痕を掻きながら、俺は蚊の中にも自分みたいな奴がいると思うと少し笑いが出た。

 結局色んな世界にも色んな奴がいる。そう思うとズボラな自分の事も少しは好きになれそうだった。

 そうして爪を切り終え、少し晴れ晴れとした気持ちになった俺は爪切りを片付けるために洗面所に向かった。


「あっ」


 再び声がでた。

 洗面所の鏡に映る自分の瞼には、こっそりとつけれた小さな虫刺されがあった。


 俺は虫刺されの痕を掻きながら、ちょっとしつこい蚊に戸棚にしまってある蚊取り線香を取り出し、火をつける事にした。



 了

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爪を切る ろくろわ @sakiyomiroku

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