黄色いハンカチを吊るして待っていてくれたとかは?

仲瀬 充

黄色いハンカチを吊るして待っていてくれたとかは?

「いいか青年、お前に法律を教えてやる。隣りの竹やぶの根が地中を伸びて俺んちの庭にタケノコが顔を出したとしよう。そしたら、そのタケノコは俺のものなんだ。それを柿の実に当てはめてみろ。隣りの家から枝が張り出した柿の実を取ってはいかんが俺んちの庭に落ちたら俺のものだ。すると枝を離れて着地するまでの空中にある柿の実はどうなる? いわばグレーゾーンで誰のものでもないということだ」

僕は三流大学とはいえ商学部卒だから、健さんの言うタケノコの解釈は正しくても柿の実のほうは落下しても隣家の所有物という民法の規定を知っているのだが口にしなかった。年齢は50歳ちょっと過ぎだと思うが、ホームレスの健さんは面白い。健さんに「青年」と呼ばれている僕は就職後わずか1年でリストラされて会社の寮を追い出された。そんな事情を田舎に帰って親に話すのが体裁悪くて僕はホームレス見習いとして健さんに付いて回っている。その健さんが、ある時、妙なことを言った。

「今日はボーナスの支給日だ」

付いて行くと健さんは公園の奥まったところにある神社に向かい賽銭箱の前に立った。賽銭箱の投入口は10センチくらいの間隔で斜めに板が取り付けられている。健さんは投入口の一つの板の両端に指を掛けた。昼なお暗い神社だからよく見なければ分からないが板の両端には透明なナイロンの糸が結んであった。おそらく極細の釣り糸だろう。その糸を両手で少しずつ手繰り上げると投入口の内部からハンモック状のネットが姿を現した。僕は驚いてしまった。小さなハンモックを賽銭箱の中に吊るし滑り落ちる硬貨を受け止める仕組みにしてあるのだ。投入口のスリットが斜めになっているので外からは見えない。

「おっ珍しい、千円札がある!」

健さんは大漁だと喜んだがそれでも千円札1枚と硬貨を合わせて3千円もあるかないか。

「まずいんじゃないですか、こんなことして」

非難する僕に健さんが言い放ったのが冒頭に挙げた理屈で、お賽銭は柿の実と同じだと言う。

「いいか青年、お賽銭は参拝者の手にあるうちは参拝者のもの、賽銭箱の底に着地すれば神社のもの。おれが頂くのはグレーゾーンの誰のものでもない空中のお賽銭だ」

この神社は神主が常駐しておらず賽銭の回収は半年ごとで健さんはその直前にネットを引き上げに来るという。賽銭の投入口のスリットは複数あり、全ての賽銭を横取りするわけではないので僕は目をつぶることにした。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 この1か月、健さんにいろんなことを教わった。定番のアルミ缶や雑誌や段ボールの入手先、放置ないし廃棄された自転車、スマホ、アダプターが結構な稼ぎになること、水道の水は公園ごとに微妙に味が違うことなど、挙げればきりがない。

「俺は人を殺した」

四六時中くっ付いて回る僕に気を許したのか、健さんは身の上話を始めた。

「俺はクラブのバーテンダーをやってたんだが、美咲というホステスといい仲になった。子供ができたんで所帯を持って二人で小さなスナックを始めたんだ」

「健さんがいくつくらいの時だったんですか?」

「35過ぎ、美咲は二つ下だ。店が軌道に乗り始めた頃、ろくでもない客が来た。確かそいつが3回目に来店した時だった。客に絡むわ、大声は出すわ、しまいには金はないからつけておけと言われて俺も頭に血が上ってつかみ合いの喧嘩になった」

「それ、暴力団がみかじめ料を要求する時の手口ですね」

「そのことは後で気づいた。しかし、まるでテレビドラマみたいに人はあっけなく死んじまうんだな。取っ組み合っているうちに相手がどこかに頭をぶつけたらしく動かなくなった。傷害致死というやつで4年のムショ暮らしだ」

「奥さんはどうしたんですか?」

「夫や父親が人殺しってのが可哀そうで刑務所に入る前に離婚したよ。美咲は別れないって言ったけどな」

「名前が健さんてくらいだから、奥さんは黄色いハンカチを吊るして出所を待っていたとかはなかったんですか?」

健さんは自嘲気味に笑った。

「そこは映画みたいには行かなかったな。出所後、アパートに行って郵便受けを見ると姓が変わって沢山美咲とかになってたから会いもしなかった」

「再婚していたんですね。でもまあ、奥さんと子供さんにも生活がありますから仕方ないですよね」

「そりゃそうだがあいつはよくよく男運の悪い女だ」

「どういうことですか?」

「これも出所してすぐの頃だが、5歳近くになってるはずの息子の健太の顔を見たさにアパートに行ったことがあった。そしたら、買い物バッグを持って健太と一緒に部屋から出てきた美咲を旦那が殴りつけて財布からさつを抜き取るところを見ちまった。美咲も健太も泣いてたよ。10年前のことだが、それ以来アパートには近づいたこともない」

健さんの話を聞きながら僕は寒さに襟を掻き合わせた。公園の横を流れる川に架かっている橋の下が健さんの定位置だが、12月に入ると川風が冷たすぎる。

「健さん、ここより公園のほうが寒さをしのげますよ」

「あ、今、いた」

健さんが川向うを指さした。先ほどまで夕焼けに染まっていた川向うの斜面の住宅地に灯りがともり始めている。

「ここからが一番よく見えるんだ。ほら、あのアパート、2階の一番左端の部屋だよ」

「えっ、奥さんたち、こんな近くに住んでるんですか!」

直線距離にすれば100メートルもないと思われる。元の妻と子供が住むアパートの部屋の灯りを健さんは10年の間、毎日ずっと見守り続けていたのだった。僕は感動して泣きそうになったが寒さが耐えがたくてこの日を境に僕は健さんと離れて公園内の日当たりのよいところに移った。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 野次馬根性というのだろうか、僕は健さんの元の奥さんが住むアパートに行ってみた。郵便受けを見ていると中学生くらいの男の子がアパートの階段を駆け下りてきた。続いて「健太、待ちなさい!」と呼び止める母親らしき女性が下りてきたので僕は少し場所を変えた。母親は辺りを見回していたが子供の姿を見つけきれずに戻っていった。僕は男の子が逃げた方角へ行ってみた。するとアパートの脇にある公衆トイレの陰で煙草に火をつけながら友達らしい男の子と話していた。

「しけてやがる。おふくろの財布、500円玉が三つだぜ」

僕は暗い気持ちで住宅地の坂を下り、橋の下の健さんを訪ねた。

「相変わらずここは寒いですね」

「なあに、これがあれば」と健さんは紙コップを口に運ぶ。暇さえあれば健さんは焼酎を飲んでいるが割らずに原液で飲むので体が心配になる。

「川向うのアパートに行ってみましたが、奥さん、再々婚なさったようですよ。郵便受けは沢山じゃなく松本になってました」

「そりゃ美咲の旧姓だよ。そうか、10年前の男とは別れてたのか。それならお年玉も男に取られることはないな」

「え? お年玉?」

「5年前から封筒に5千円札を入れて正月前に郵送しているんだよ」

「健さんの名前でですか?」

「いいや、差出人の住所、氏名は書かない。『あやしい者ではありません。子供さんのお年玉にでもして下さい』って書いた紙を入れるが、俺の字だと悟られないように左手で書くんだ」

たどたどしい字で「あやしい者ではありません」と書いてあれば十分にあやしい感じがするだろうと思ったが話の続きを待った。

「健太には何も親らしいことをしてやれなかったんで、せめてもの罪滅ぼしと思ってな」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 数日後に訪ねてみると、健さんは顔をらして寝ていた。

「どうしたんですか、その顔?」

「おお、青年か」

そう言って首をもたげたがすぐまた元に戻した。聞けばオヤジ狩りに遭ったと言う。

「このすぐ上の土手で二人連れの中学生と目が合った。『なに、ガン飛ばしてんだよ!』とか言って突っかかってきやがった。俺もまだ腕に覚えがあるから一人目を足払いで倒して二人目と向かい合ったが、そいつには好きなだけ殴らせてやった」

「どうしてです?」

「息子だったんだよ。5歳の時の面影が残っていた」

健さんは内出血して腫れている顔を僕に向けて言った。

「息子に殴られながら天罰だと思ったよ。美咲に苦労をかけ、息子の健太もこんな悪ガキに育っちまったかと思うと自分が情けなくてな」

寝たまま紙コップを腫れた唇に痛そうに付けて焼酎を飲むと健さんは目を閉じて微笑んだ。

「最後はうずくまった俺の頭を踏みつけていきやがった。健太は俺の顔を覚えていないだろうからほんとの親父狩りをしたとは思ってないだろうな」

余りにも痛々しいジョークだった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 1週間ほどたって年が明けた。2日の夕方に新年の挨拶に行くと健さんは寝るには早い時間なのに横になっていた。やせ細っていたがお腹だけぽっこり出ている。そして手と目が異常に黄色く元気がなかった。

「昨日、元旦に息子たち二人組が来てな」

「またやられたんですか?」

「いや、今度はカツアゲというやつだ。『ホームレスでもいくらか持ってんだろ? お年玉、くれよ』って言うんで、有り金全部くれてやったら喜んでおとなしく帰ったよ」

義憤に駆られて僕がものも言えずにいると健さんは続けた。

「青年、俺はもうだめだ。俺の親父も肝硬変で死んだからよく分かる。ほら、指が太くむくんで爪が白いだろう。それに今朝はだいぶ血も吐いた」

「奥さんを呼びましょうか?」

僕が言うと衰弱しきっている健さんが僕をきつい目つきでにらんだ。

「それだけはならん」

そう言って目を閉じると呼吸が乱れだした。1月の日暮れは早い。川向うの斜面の住宅地にも灯りがともり始めた。呼吸が少し落ち着くと健さんはうっすらと目を開けて僕に手を差し伸べた。

「青年、世話になった」

僕がその手を握るともう片方の震える手で川向うのアパートを指さした。

「灯りが…いた……」

それが健さんの最期の言葉だった。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 僕は涙に暮れる間もなく川向こうのアパートに走った。

「どちら様でしょう?」

「健さんに世話になった者です。健さんのことでお話があります」

奥さんがドアを開けて畳敷きの居間に通してくれたが、入れ替わりに息子がスマホをいじりながら部屋から出ていこうとする。

「君もいなさい」

僕の言葉を無視してスマホから目を離さずに行こうとするので、僕は袖をつかんで荒々しく部屋に連れ戻した。すると怒って突っかかってきたので、逆に1発、手ひどく殴りつけて倒し、首根っこをつかんで畳に押さえつけた。

「何をするんです! 警察を呼びますよ!」

「呼んでもかまいませんが、息子さんが逮捕されますよ」

その一言で母親も息子の健太も一瞬にして興奮が冷めたようで不審な目を僕に向けた。僕は健太から手を離した。

「ついさっき、健さんが亡くなりました」

母親は目を見開いて片手を口に当てたが健太はキョトンとしている。

「お前のお父さんだよ」

僕は二人を窓辺に誘ってカーテンを開けた。外は既に暗くなっているが公園の外灯で川に架かっている橋は見て取れる。

「健さんは刑務所を出てからずっと、橋の下のあのバラックに住んでいたんです」

健太の表情が変わった。

「この部屋に灯りがくのを毎日あそこから見ることだけが健さんの喜びでした。ここまでは歩いてもすぐですが健さんにとっては10年かかってもたどり着けない距離だったんです」

母親は両手を顔に当てて嗚咽おえつを漏らした。僕はカーテンを閉めて二人に座るように促した。

「奥さん、5年ほど前から年末に5千円入った封筒が届きませんでしたか?」

母親は涙を手で拭いながら顔を上げた。

「はい。生活が苦しいので3千円を生活費に回して2千円を健太のお年玉に。誰からか分からずに気持ちが悪かったんですけど、もしや?」

「そうです、健さんが毎年送っていたんです。息子には親らしいことを何もしてやれなかったからって」

動揺していた健太がしだいに神妙になっていく。よく見ると健太が着ている紫色の革ジャンは真新しい。さっき押さえつけた時、革ジャンの背中に手の込んだ龍の刺繍が施されているのも僕は見ていた。

「ずいぶん、いい革ジャンを着ているな。どうしたんだ?」

「今日初売りに行ってお年玉で買ったんだよ」

「ふうん。しかし、これはお母さんから貰った2千円じゃとても買えないよな?」

健太は再びおどおどし始めた。僕は怒りとも悲しみともつかない感情に襲われた。

「もう分かっているんだろう? さっき窓から見た橋の下で昨日お前が金をまきあげたホームレスのおっさんがお前のお父さんだったんだよ! そのお父さんをお前は殴り、踏みつけた!」

健太は畳に突っ伏して泣き出した。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 橋のたもとにパトカーと救急車が到着した。

「こっちです」

僕は警官たちを橋の下に案内し、健さんの遺体に手を合わせている二人を紹介した。

「元の奥さんと息子です」

警官は何やかやと調べていたが、事件性はなさそうでも一応病院に運んで検死をすることになった。救急隊員が担架を持って土手を下りてきた。隊員が健さんの遺体を担架に乗せて持ち上げた時、健太が革ジャンを脱いだ。

「父ちゃん、寒かったやろう」

龍の刺繍入りで紫色の派手な革ジャンだ。それを息子にかけられた健さんは僕の目には照れているようにも喜んでいるようにも見えた。田舎に帰ろう、僕は健さんを乗せた救急車を見送りながらそんなことを考えていた。

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