本編

 蛇口からひねり出された水の音が涼しかった。

 流れる水を腹いっぱいになるまで飲みたい、と黒崎郁人は思った。

 たとえ塩素臭く、生ぬるい水であっても、無色透明な水は美味しそうに見えた。そう見えるだけで、学校の水が美味しくないことは、すでに体験済みなのだが、こうも暑いと魔が差しそうになる。夏休みで人目がないということが誘惑を強める。

 窓を閉め切っているせいか、美術室は汗が背を伝う温度だ。

 郁人は本日最後の筆を石鹸で洗う。

 固形石鹸の白い泡がマダーレーキに染まっていく。小さな子どもが描いた夢の世界の天空の色のようだった。あるいは、いつか見た夕焼けの一部分だろうか。

 どちらにしろ、郁人が描きだすことのできない色には違いない。

 洗い終わった筆をボロ布で拭き、絵の具ともに木箱にしまう。買ったばかりの頃は浮いた色をしていた油絵の具のケースも、最近は郁人にあつらえたような色合いになってきた。

 安いテレピン油で指先についた絵の具を落とす。美術部の顧問の桂井は灯油がいいと言うのだが、どうにもあの匂いが苦手だった。

 石鹸でもう一度、手を洗う。水道水が冷たくて気持ちがいい。が、郁人は蛇口を閉める。

 隣の美術準備室にいるはずの顧問に声をかけて帰ろうとしたところ、あちらがやってきた。ドアを開けて、恰幅のいい三十代の男が入ってくる。

「何だ、黒崎。

 今日はもう終わりか?」

 桂井はちらりと教室の時計を確認する。施錠の時間までに、いま少し猶予があった。

「図書室で本を借りていこうと思ったんで」

「美術系なら、部費で入れてやるぞ。

 真面目に活動しているのは、黒崎ぐらいだしな」

「読書感想文用ですよ」

「せっかく冷たい飲み物でも買ってきてやろうと思ったんだけどな。

 もう、帰るのか」

 桂井はイーゼルに立てかけられている絵を見る。

 郁人が文化祭に向けて描いている一枚だ。サイズは50号と大きめなキャンバスの中に夕方の校庭が広がっている。人の姿はなく、ただ夜を待ちぼうけしている校舎が画面の端に描かれていた。

「Pじゃなく、Fのキャンバスの絵を描いたらどうだ?」

「風景のほうが好きなんです」

「人物はいいぞ。特に、女がいい。

 神様はよくも世界の半分を女で造ってくれた、と感謝するな。

 ルノワールだって、たくさん女を描いたんだ。

 黒崎も、女を描いてみるといい」

 握りこぶしを作りながら、桂井は言う。

「今のところ、興味ないんで。

 本、借りに行きます。

 図書室閉まったら、上り損ですからね」

 郁人は机の上に置いてあった鞄を持つ。夏休み中ということに甘えて、キャンバスと木箱はそのままにしておく。美術室に来るのは、どうせ顧問ぐらいしかいない。

「気をつけて帰れよ」



 一段上るごとに暑さは増すようだった。

 閉めきりの校内はどこも暑い。閉まっている窓をすべて開けたいと思わないこともないが、帰りに閉めて帰らなければならないことを考えると、面倒になり、郁人は黙々と階段を上るのだった。

 恨みがましく見た窓の先には、見事な入道雲。

 青と白のコントラストが目が痛い。鮮烈な色使いだ。空に雲で神殿を築くのは雷神だろうか。

 郁人の目が入道雲の輪郭をなぞる。右手が鉛筆を探すように宙をさまよって、ハッと気がつく。

 絵を描く道具は美術室に全部、置いてきてしまった。クロッキー用紙の一枚すら手元にない。あるのは罫線の入ったルーズリーフとHBシャープペンシルだ。

 それに、今日こそは夏休みの宿題を片付けようと、計画していたのだ。

 郁人は五階の図書室を目指して、階段を上る。

 ゴム底とタイルのこすりあわされる音は、うつろな校舎に色を加えるようだった。閑散としている、あるいはからんとしている。陽気な空白だった。黄色かベージュ。陰鬱な緑や青ではないことは確かだ。いっそ、イエローオーカーであたりをつけて、バーントシェイナとパーマネントホワイトで色をつけようか。もう一色は、温かみのある灰色が欲しいから……。郁人の好きなプルシャンブルーは重すぎる。もっと軽く、華やかな青を下地にして。

 頭の中のパレットで色を選んでいるうちに、図書室についた。

 ドアノブに無機質のプレートが『開館中』とぶら下がっていた。

 郁人はドアを押し開く。

 強い風が汗ばむ体を撫でていった。

 目に飛び込んできたのは、モネの「日傘の女」のドレスような白。

 糸のように細い黒と共に踊っていた。

 防炎カーテンと女の長い髪だ、とその形から知る。

 郁人は息を呑む。

 図書室には図書室の匂いというものがある。雰囲気というものだ。色にしたら枯れた茶色。幻想と現実の狭間に揺れ、時の流れに彩りを洗い流された、モノクロームになる一歩手前の色。

 そう郁人は思っていた。それが砂のように崩れていく。

 風がやみ、存在感のある黒髪は、持ち主に戻る。まるで水に流した墨のように、丸い衿のブラウスに、濃紺のベストの上に。

 ルノワールの愛した女たちのように、透明な白い肌をした女が窓際に座っていた。プリーツの揃った紺色のスカートの上に、熟れすぎた果実のような表紙の本が載っていた。

 郁人は見たものが信じられず、目をこする。

 パチンッと金具がはまる音。

 平たい髪飾りを止める音。確か、バレッタとかいうようなもので、妹がしていたもの比べるとかなり飾りげのないもので、闇を裂いたような髪が衿元でまとめられる。

 そこにいたのはよく見知った顔だった。

 同じクラスの香月朱里だ。郁人と同じように目立たない、どこにでもいるような特徴のない女子だ。話したことは何度かあったが、用件がなければ話すこともない。そんな関係だった。

 郁人は動揺しながら、奥の本棚に向かう。とにかく本を借りて帰らなければならない。どこがいいのかわからない近代の小説が納められている棚に近づく。借りないという選択肢はない。去年も絵の具代に回すために本を借りたのだ。

 国語教師が熱弁していた本を一冊引き抜く。この本で、チューブ入りの絵の具が三本買えるだろうか。そういえば溶き油がそろそろなくなる。たまにはポピーオイルにしようか。それで、夏休みの妙に明るい校舎を描いてみようか。

 貸し出しカウンターには、司書教諭の姿はなかった。

 準備室か、職員室だろうか。生徒がいるのに、長時間席を空けるとは思えない。郁人は壁にかけられている時計を見上げた。

 どうやって時間をつぶそうか。

 カウンターに借りる本を預けたまま、郁人は考える。

 窓を開け放っているせいか、図書室は他の場所よりも涼しかった。風にはためく防炎カーテン。目に見えない風がそこに凝縮しているようで、生命力にあふれている。司書教諭が来るまで、頭の中のスケッチブックを埋めていくのも悪くないかもしれない。

 郁人が夏の景色を眺めていると、声が割って入った。

「本、借りるの?」

「あ? ああ」

 郁人はうなずいた。香月は読みかけの本をカウンターに置くと、椅子に座る。司書教諭や図書委員が貸し出しをするときのように、生徒の人数分ある図書カードの入った箱に向かう。

 学年カラーである青に色づけされた図書カードの上を、白く細い指がなぞる。まるで、青い大海原を必死に泳ぐ小さな魚のようだった。

「美術部の今年のテーマは?」

「え? 今年のテーマは、内面だったかな?

 どうして、美術部って知ってるんだ」

 クラスメイトとはいえ、そこまで話し込んだ記憶はない。調べれば誰がどの部に所属しているかはすぐわかるが、普通は調べたりしない。現に郁人は香月が何部に入っているか知らない。

「いつか琥珀になる匂い。

 松ヤニ。turpentineの匂い」

 香月は図書室に相応しい声で言う。

「そんな匂う?

 気をつけたつもりだったんだけど」

 松ヤニのところで、ぴんと来る。郁人は指先をかいだ。テレピン油の匂いは、馴染み深いものだから、自分ではわからない。体中に染みついているのかもしれない。

「あれ、香月も絵を描くのか?」

 油絵を知らなければ、いくら独特とはいえ匂いの特定まではできないだろう。選択美術では、まだ油絵をやっていない。

「中学で、少し。

 今は描いていない」

 香月は箱の中から、一枚のカードを引き抜く。

 三年間使う『黒崎郁人』と書かれたカードは、綺麗なものだった。まだ一枚目で裏面まで使っていない。

「ふーん、もったいないなぁ」

 クラスメイトのつむじを見ながら、郁人はつぶやく。どんな絵を描いていたのだろう。言葉よりも雄弁に絵は人物の内面を語る。同じ静物画を描いても、色の選び方、置き方に個性が出る。

 几帳面な文字が郁人の図書カードを埋めていく。

「はい。夏休みだから、九月四日、月曜日まで貸し出し」

 香月は返却日が記入された紙片を挟み、郁人に本を渡す。

「ありがと」

 郁人は鞄に本を入れる。国語の教科書よりも厚みのある本だ。一晩では読みきれないだろう。

「あのさ。

 絵、描きたいなら、美術部に入んない?

 幽霊部員ばっかりだから、顧問の桂井も喜ぶし」

 思い切って郁人は言った。

 黒目がちな瞳が不思議そうに郁人を見る。

「特にノルマとかもないからさ。

 一回、見学とかどう?」

 芸術選択で、美術を取ったクラスにいるのだ。まだ絵に興味はあるはずだ。

 香月は視線をそらし、考え込むようにうつむく。

 もう一押しだ。

 郁人が畳みかけようとしたとき、耳に何かが叩きつけられる音が飛び込んできた。

 カーテンが風をはらみ、臨月の腹のように膨れ上がる。

 弾かれたように郁人と香月は、窓辺による。

 図書館のすべての窓を閉め終わるのと、大粒の雨が窓を打ちつけ始めたのは、ほぼ同時だった。

 夕立だ。大きくなりすぎた入道雲が雨を抱えきれずに、地面に叩きつける。雲は地を覆うように広がり、雷をまとっていた。銀の柱のような雨を降らせる。沈みきらない太陽が水滴を反射して、外は……。

 白い。

 ジンクホワイトで塗りたくったように、白い。

 ガラス越しに、その白にふれる女の手。角ばった骨を包む、ほどよくついた肉。赤みのある白。透ける静脈はほのかに青。シルバーホワイトだろうか。バーミリオンとオリエンタルブルーを少量。

 柔らかく描きたいから溶き油は多めで、制服は黒と青ではなくて、緑を混ぜて、初々しさを出す。髪はオリーブブラックあたりで、物憂げな眼差しは……、小さな頭が動く。

 磨いた水晶のように、澄んだガラス玉が郁人を見上げる。

 ふちがにじんだ優しい黒茶色の目だ。白目は青みがある。

 昼の日差しとは違う白い雨に照らされた女がいた。それは今まで見た絵画の中の女たちと同じように、美しいもののように思えた。

 郁人の目は景色ごと同級生を写し取ろうとする。

「……黒崎君?」

 唇にも青みがある。赤でも、紅でもない。どぎつくはない、もっと自然の色を探す。

 白さを生かすためにシルバーホワイトを使いたいが、ここまで青いイメージだとパーマネントホワイトを選んだほうがいいのかもしれない。シルバーホワイトと青系の絵の具の相性は悪く、黒変してしまうものが多い。

「絵は、授業だけで十分だから。

 絵を描くのは、お金がかかるでしょう?

 ……だから。

 勧誘してくれて、嬉しいけど」

 困惑を浮かべ、言う。

 郁人の興味は彼女が描く絵よりも、彼女自身に移っていた。とにかく、キャンバスに写し取りたい。強い欲求だった。

「絵のモデルになって欲しい」

 香月の手をつかむ。見た目どおり、ひんやりとしていた。郁人の指があまるほど、細い手首はサラッとしていて汗を感じさせない。

 黒茶の瞳が驚き、見開かれる。

「道具なら美術部の備品があるし、消耗品代はモデル料として払う」

「え……。悪いよ。そんなこと。

 いくら、そんな……お金、もらえないよ」

「香月を描きたいんだ。

 描かせて欲しい」

 郁人は言った。

 香月の目は泳ぎ、何度も瞬かれる。

「手、離して」

 絞り出すような声だった。

「あ、悪い」

 郁人から逃れた手首は、赤くなっていた。アザのように握られていた部分だけ、色が濃くなっている。

 それほど強く握ったつもりはなかった。が、細い手首には消えない跡が残っている。郁人は己の手の平を見た。自分の手の平には何も残っていない。ただ冷たい肌の余韻を感じるだけだった。

「お待たせ、香月さん。

 お留守番、ありがとうね。

 そろそろ施錠するから……」

 明るい声と共に司書教諭の緑川が入ってくる。

 郁人を見て、背の高い女性教諭は

「貸し出し?」

 と尋ねる。

「いえ。もう、やってもらいしました」

「あ、傘ないから雨宿り?

 職員室に傘あるから、名前書いて持っていっていいよ。

 そのかわり、ちゃんと返却してね」

 気さくな笑顔で緑川は言う。

「ありがとうございます」

 追い出そうとしているのがわかったので、郁人は机に置き去りにされていた鞄を持つ。

「この本、返却でお願いします」

 香月はカウンターに載っていた果実色の本を示す。

「わかったわ。

 読むのが早いわね」

 緑川は箱から図書カードを一枚、引き抜く。

 『香月朱里』の図書カードの右端に『14』と書いてあった。つまり、十四枚目の図書カードをいう意味だ。まだ一枚めの表であった郁人のカードとは違う。

「先生、さようなら」

 香月は機械仕掛けの人形のようにお辞儀をした。糸のような黒髪が流れる。どの構図が一番、美しいのだろうか。

 図書室を出て行くクラスメイトの背を慌てて追う。

「気をつけて帰りなさいよ、二人とも」

 かけられた声に、郁人は会釈だけで答える。踊り場のところで、香月と並ぶ。閉めきりの窓は行きと同じ。いや雨のために湿度が上がったせいか、より暑い。空気が停滞して、毛穴という毛穴が開いて、汗が噴き出す。

 階段を二種類の足音が降る。

 それだけでも校舎の色合いは変化する。ベージュよりももっと暖かい。どちらかというと軽薄なぐらいの。ときどきビビットな色が混じって。イエローオレンジだろうか。それと、急ぎ足のカドミニウムレッドライト。

 足音が一つ減り、郁人も立ち止まった。

「いつから?」

「え?」

「……絵のモデル。

 いつ、行けばいいの?」

 香月は下を向いたまま尋ねる。透明な白い肌は郁人とは違う。青く、汗の匂いがしない。代わりにもっと澄んだものの、まるで甘い清水のような匂いがする。

「そっちに合わせる。

 放課後はほとんど美術室だから、都合のいいときに来てくれればいいよ」

 同じクラスだ。頭の中でスケッチをする分には、いくらでもできる。

「引き受けてくれてありがとう」

 郁人は言った。

「美術部の備品に興味あるだけだから」

 そういうと、香月は階段を駆け下りていく。

 衿元で抑えられている長い黒髪が宙に広がる。冷たい石とくすんだ銀の手すりの間を、濃紺のスカートが埋める。

 駆け抜ける夏と、涼風。それを見送りながら、郁人は職員室に向けて歩き出した。

 夏の暑さをぬぐうように、彼女は涼しげだった。

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夏、パレットにはない手ざわり 並木空 @iotu

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