ベル・エポック

おおきたつぐみ

ベル・エポック

 私は重い女だ。

 最初は好意を持たれて始まる恋が多いのに、いつしか私のほうがのめり込み、相手が苦しいほどの感情をぶつけて束縛してしまう。初めての恋人もそのせいで逃げたし、その後の恋も最後は私が振られて終わっていった。

 二十代も後半になり、もうそんな不毛な繰り返しから抜け出したくて、決まった恋人を作らないことにした。割り切って楽しむためと明らかにして出会い、デートをしたり身体の関係を持ったりする。

 今、私の横で裸で眠っている真白ましろもそんな相手の一人だ。

 どこかで誰かを強烈に愛し、愛されたいと思いながら、私は無表情に漂う海月のように生きている。


 スマホが光り、画面にメッセージ到着の通知が浮かび上がった。真白を起こさないように背中を向けると、タップしてアプリを開く。

 高校時代の五人グループ内の会話が始まっていた。明日はその中の一人、楓の結婚式の日だ。私も出席するので、高校卒業以来に五人が顔を合わせることになり、活発にメッセージが飛び交っていた。

 春先に愛美あみから連絡が来た時は驚いた。

 愛美の部署に私と同じ大学出身の人が異動してきて、彼が私を可愛がってくれた先輩と同級生だったので繋がったのだ。

 正直、高校時代の友人たちにはもう二度と会わないと思っていた。

 特に、高校一年から付き合い、卒業してすぐに振られた初めての恋人、なつみとは。


「……ん、早紀さきさん起きてたの? 元カノ?」

 真白が寝返りを打って眠たげな声を出した。

「ごめん、起こしちゃった?」

 頭を寄せてきた真白が画面を覗き込んでくる。彼女は別に恋人ではないから、なつみたちと連絡を取っていることを私も隠すつもりはないし、悪びれもしない。もちろん真白も責めたりはしない。

 真白は前の会社の後輩だった。二年前、転職のため退職すると発表したら声をかけられて二人で飲むようになり、やがて誘われて関係を持つようになった。 予め、恋人は作る気がないと言うと、真白も束縛されるのが嫌なので最初の一人以来誰とも付き合っていないと言った。さばさばして気が利き、リスを思わせるような愛らしい子なのに、恋愛の噂がないのはそういうことかと納得した。

 もともと何度か一緒に仕事をして人柄は知っていたし、会社が別になった気楽さと、身体の相性の良さで真白とは続いているけれど、会う相手が彼女一人になることは避けるようにした。真白も常に私以外とも繋がりはあり、新しくデートする相手がどちらかに出来ると一時的に連絡が途絶え、そのうちまたどちらからともなく連絡が再開されて会う、そんな間柄になっていた。

「なんで今日移動しなかったんですか? そしたら元カノさんともゆっくり会えたでしょうに」

「そうなんだけど、結婚式前に二人で会おうとか言えなかった」

「いつも強気の早紀さんが弱気になるなんて、よほど好きだったんですね」

「うん、まあ。振られた身としてどう接したらいいのかわかんない」

真白がふうん、と頷きながら唇をとがらせる。興味がある時の癖だ。

「でも結婚式の後なら誘えるかもって下心でホテル予約しているんですね」

 にやにやしている真白に私はむっとして言い返した。

「そこまで狙ってないよ、楓が一泊取ってくれるって言うから」

「はいはい。うまくいくといいですね」

 私の動揺も知らず、トークルームの中でなつみは明日の服装について話している。

 なつみとはグループ内でだけ会話し、個別ではやりとりをしていない。

 でも、彼女の名前が画面に見えるといつもドキリとする。

 グループトーク内容は天気や、仕事などの他愛もないやりとりで、プライベートの深い話に展開することはなかったから普段は気軽に楽しめた。

 だけど、時折高校時代の思い出の話になると、胸が痛くなった。

 なつみだけを思い、なつみだけを見ていたあの日々。好きすぎて求めすぎて自分だけのものにしたくて、自ら壊してしまった関係。

 せっかく友だちとして再会できたのだから、もう失いたくない。

 

 大学に入ったばかりの時、なつみに去られた痛みからどうにか立ち直るために私が出来たのは、彼女の存在や恋の思い出を封印することだけだった。

 折々のプレゼントや手紙、なつみ一人を写したり一緒に撮った写真や画像、お揃いで買った洋服など、彼女の痕跡が残るものは全て捨てた。

 何年も考えないようにしているうちに本当に忘れたと思っていたのに、こじ開けられた心の底からなつみに聞きたいことがどんどん溢れてくる。

 恋愛対象は女性のまま?

 決まった恋人はいる?

 ――あの時、どんな思いで私を捨てることを決めたの?

 本心を隠し、ただ昔の友人を懐かしがる風を装いながら、私は短いメッセージからなつみの本意をなんとか読み取ろうとしていた。

 だから真白との行為にはいつもどおり満足したのに、彼女が寝落ちた後もスマホを眺めていたのだ。

 物思いにふけっていると、ふいに真白が私の耳たぶを甘噛みし、舌を耳孔に差し込んできた。ざらざらした音と熱い湿り気が脳を貫き、乾きかけた下半身を再び疼かせる。

「せっかく二人で起きたんだし、もう一度しよ?」

 その甘い声も表情も、言葉より雄弁に私を誘っていた。

 明日の朝早いのにと頭の片隅で思ったけれど、私も無言で真白を組み敷いた。


 五月初旬の東北は春の肌寒さと、初夏の暑さが日々入れ替わる。

 飛行機で降り立った彼の地は見事な五月晴れだった。

 今朝、まだ薄暗いうちに真白の横からそっと抜け出して準備をしていると、いつの間にか真白も起きて着替え始めた。

「日曜だしゆっくり寝ていてよ。鍵置いていくから忘れずにかけていってね」

「鍵を預かるなんて恋人じゃあるまいし、私も帰りますよ」

 それもそうかと思い、一緒に自宅を出た。

 駅の改札で真白と別れ、私は空港に向かった。

 一時間半ほどのフライトで飛行機は懐かしい街の外れにある空港へ着陸した。

 ゴールデンウイークが終わった到着ロビーは人もまばらだった。バスで市街地へ移動し、楓が用意してくれたホテルに荷物を預け、持参したグレージュのパンツスーツに着替えてメイクを直した。いつもより明るい紅色の口紅を塗り、大きなパールのピアスを付けた。

 準備を終えるとぶらぶらと歩きながら、なつみ、琴子との集合場所である駅へ向かう。街は新しい建物が増えていたが、鮮やかな新緑を広げる街路樹だけは変わらなかった。

 大学進学のために上京した後、福岡の父方の祖父が倒れ、父は介護しながら仕事ができるよう九州支社への転勤願を出した。両親の引っ越しを手伝った時、この土地と縁を切るつもりで誰にも言わずに去った。

 だから、愛美が結婚式招待状を元の実家の住所に送り、楓もなんとか私を招待しようと探してくれたと知って、感動すら覚えた。


 仲良しの五人グループだったとは言え、たまたま最初の掃除のグループから始まったこともあり、私はみんなのいかにも十代の女の子という賑やかなノリについていけない時が多かった。もし、相性で友だちを選んでいたなら、私は彼女たちと一緒にはいなかったかも知れない。それでいてなつみと付き合い、独占したのだから、彼女に片思いをしていた琴子は私を恨んだだろう。挙げ句の果てにそのなつみにも振られたのだから、四人は私など存在しなかったことにしていると思っていたのだ。

 でもメッセージグループでは、みんなが高校時代の明るさに加え、大人としての気遣いのある距離感で接してくれた。過去を捨ててきたと思っていたけれど、懐かしい友だち、なかでもなつみとの関わりは想像よりも私の心を弾ませ、あの頃へと引き寄せた。楓の結婚式の招待に喜んで応じたのも、なつみと再会できるからに他ならない。

 そうは言っても、もう一度なつみと恋する可能性はないだろうと思った。

 なつみ相手なら私はまた歯止めが利かずに重くなってしまいそうだし、第一私をなつみが再び好きになるとも思えない。

 そしてもし何かあって別れたら、もう二度と関わることはできないだろう。なつみとも、他の三人とも。

 あの頃をお互いに懐かしめる関係になれたら、それでよかった。


 駅の中の待ち合わせ場所には琴子となつみがすでに到着していた。

 艶やかな黒髪をアップに結い上げ、紺色の細身のワンピースを着て黒いパンプスを履いている――なつみだ。遠くからでも、後ろ姿でも、何年経っても、すぐにわかる自分に驚かされる。

 一気に緊張が高まり、足が止まってしまう。

 髪は風で乱れていないか。メイクが崩れていないか。もう一度トイレに行って鏡で確かめてから――

 その時、なつみが振り向いて目が合った。

 あの頃のままの大きな焦茶色の瞳が見開かれる。

 互いに固まったまま見つめ合っていると、琴子が気づいて笑顔になり、大きく手を振りながら走り寄ってきた。

「早紀! 久しぶり」

 なつみも少し迷った後、琴子を追いかけてきた。

「琴子も……なつみも綺麗になって」

「あははっ、早紀ったらお母さんみたい」

 琴子が弾けるように笑う。水色のシフォン素材のワンピースにカラフルな石があしらわれたピアスががよく似合う。昔と変わらない笑顔に華やかさが加わった。

 横でなつみが少し気まずさを滲ませながら微笑む。高校時代の透明感はそのままに、年齢相応のしっとりと落ち着いた美しさに見とれてしまう。

 やはり私の恋愛の原型はなつみで形作られたと思い知らされる。

 結局似たような人を求めて付き合い、振られてきたのだ。


「名古屋に比べたらここは寒いでしょう?」

 なつみに聞かれてはっとする。

「そうだね、一応薄手の羽織物持ってきたけれど、今日は暖かいね」

「楓の結婚式だもんね、晴れてよかった」

「あ、愛美がもう着いたらしいよ、私たちも行こう」

 スマホを確認した琴子に促され、タクシーで会場へ向かった。

 あまり話をしない私となつみに気を遣ったのか、琴子がさっさと助手席に座ったので私たちは後部座席に乗り込んだ。なつみの綿菓子のような甘い香りがふんわりと漂い、また動悸を感じる。

「愛美は結羽ゆうちゃん連れてくるんだって。なつみは会ったことがあるんだっけ」

 琴子がスマホを片手に振り向きつつ尋ねる。

「うん、まだ赤ちゃんの頃と、あと去年も一度ね。愛美に似て可愛いよ」

 話が弾む二人を見て、意外に思った。

「なつみと琴子はずっと連絡を取り合っていたの?」

「ううん。琴子が三月に帰省した時に愛美の結婚式以来に会ったの。四人で飲んだ後、二人で二次会して初めてちゃんと語り合ったんだよね」

「私も大学からそのまま札幌だし、ほとんどこっちに戻らなかったから」

 その割に親密な空気が流れていると思ったが、それ以上は聞かなかった。まるで嫉妬しているように思われてしまうだろう。

「そうだ、彼女は東京で元気にしてるの?」

 なつみが尋ねると、琴子が泣きそうな顔で振り向いた。

 琴子、彼女がいるんだ――と思い、高校時代のなつみへの気持ちは本物だったのだろうと改めて確信する。

 同時に、かすかに疑っていたなつみと琴子の関係が杞憂に終わり、ほっとした。

「うん、ゴールデンウィークに会いに行ってきたけれど、付き合ってからは会社でもほぼ毎日会っていたから、今は寂しくてたまらないよ」

「彼女、同じ会社の人なの?」

 琴子が頷く。

「一つ年下の後輩で、昨年のクリスマス近くに付き合い始めたばかりなのに、四月異動で東京本社に行っちゃって、もう遠距離。ひどすぎない?」

「もともと片思いされていたんだから、もっと早く琴子が彼女の気持ちに気づいていたらよかったのにね」

「そりゃ私が鈍感だったのが悪いんだけどさ。……ね、早紀は恋人いるの?」

 琴子が何気なく尋ねてくる。なつみも無言で私を見つめた。

 なんと答えるべきか。

 少し迷った後で、私は正直にこう答えた。

「何年も決まった相手は作ってないけど、それなりに会う相手はいる感じかな」

 ――もう私は重たい束縛女じゃないの。

「早紀、カッコいいお姉さんだしモテそう……」

 琴子が笑顔で言ったけれど、なつみは黙ったままだった。

 ――なつみは恋人、いるの?

 聞こうとして言葉が喉に引っかかっている間にタクシーは会場に到着し、そこで話は終わった。


 邸宅風の結婚式会場に入って受付を済ませると、花嫁姿の楓と新郎が自ら出迎えてくれた。柔らかなチュールを何重にも重ねたアンティーク風のウェディングドレスに身を包んだ楓は、輝くばかりの美しさだった。

「早紀! ようやく会えたね。今日は遠いところを来てくれてありがとう」

「こちらこそ、招待してくれてありがとう。本当に綺麗だよ、幸せになってね」

 スタッフからウェルカムドリンクのシャンパンを受け取り、琴子となつみと一緒に案内された控え室に向かうと、愛美と娘の結羽に合流した。

 チャペルでの結婚式のあとは披露宴だった。招待客は五十名ほどで、どこからでも新郎新婦の姿が見え、アットホームな雰囲気だった。私たちは一つの小さなテーブルで、愛美・結羽の隣になつみ、私、琴子の席順だった。なつみと私はなかなか打ち解けて話ができないままだったけれど、おしゃべりが盛んな結羽がいてくれたおかげで正直助かった。

 幸せそうな楓と新郎の様子を見て、琴子がぽつりとつぶやく。

「結婚っていいなあ。好きな人と二人で生きていくってことを、親や友だち、みんなに祝福されて認めてもらえて」

「……琴子も彼女と結婚したい?」

 なつみが優しく尋ねると、琴子は何度も頷いた。 

恋人を作らなくなった理由の一つが、これだった。どんなに真剣に付き合ったとしても、同性どうしでの結婚が日本で認められない以上、お互いへの愛情と誠実さだけで繋がるしかない。いつか結婚しようねという約束すらできない。確固たる未来がない――だから、バランスが少しでも崩れたらもろいものだ。

 人と人の関係性において、いつまでも蜜月が続くことはない。必ず熱情は冷めていき、穏やかな愛情に変化したとしても大小の綻びは生じる。一緒にいるただひとつの理由など簡単に変化し消えてしまうのだ。それならば、いっそ誰かと真剣に向き合うことをはなから諦めたほうが気が楽だった。

「そうだよね――わかるよ」

 そう琴子に言ったなつみの心には誰がいるのだろうか。


 二時間後に披露宴は終わり、私たちは楓夫妻に見送られ、夕暮れに近づく外に出た。

「この後どうするの? 私はもうすぐ結羽のお風呂だから帰らなきゃだけど」

 愛美が寝てしまった結羽を抱きながら言うと、琴子も残念そうに続いた。

「私も明日仕事だから、このまま空港に行って札幌に帰るよ。早紀、せっかく泊まるのにごめんね」

「ううん、元気でね。またメッセージで」

 迎えに来た愛美の夫の車に琴子も乗って去って行くのを手を振って見送った。

「二人になっちゃったね……なつみ、どこかでお茶でもどう?」

 なんとかさりげなく誘うと、なつみはいいねと微笑んだ。

駅に向かう坂道の途中に見つけたカフェに入る。

「……すごい久しぶりだね、こんな風になつみと二人きりで話すのって」

 向かい合って席に座りそう言うと、なつみは突然頭を下げた。

「早紀、あの時は急に連絡を絶って本当にごめんなさい」

 そう絞り出すように言ったなつみの顔が実に辛そうで、彼女もまたずっと苦しみの中にいたことがわかった。

「謝らないで。私もなつみを束縛して苦しませていたよね。結局自分で二人の関係を壊してしまったんだって思ってる。だから私こそごめんなさい」

 目頭から溢れた涙をなつみが細い指で拭った。

「早紀からすごく愛されていたのはわかっていたけれど、大学に入ったら自由になりたいって気持ちが強くなったの。でも、ずいぶん乱暴な方法で別れてしまったから、ずっと申し訳なさと後悔があって。ちゃんと謝りたかった。ごめんね」

 声を震わせてなつみが言う。胸が痛かった。

「そう言ってくれてありがとう」

「うん、ようやく謝れて私もほっとした」

 私たちは泣きながら目を合わせて微笑みあった。ここまでなんて長い時間がかかったのだろう。

 アイスティーを飲んで落ち着くと、涙を綺麗に拭いたなつみに尋ねた。

「……今、付き合っている人はいるの?」

「ううん。早紀と別れてから、付き合っても長続きしたことがないしね」

 なつみは自嘲気味に言う。すっかり大人っぽくなったなつみに見つけた、高校時代と変わらない表情だった。

「そうなの? 私もよく振られちゃうんだ」

 思わずそう言って、言わないつもりだったと慌てたけれどもう遅かった。

「意外。早紀はカッコイイし会社も大手だし、振られる要素なさそうなのに?」

 目を丸くしたなつみに私はため息をついた。

「ほら私、好きになっちゃうと重たくなりがちだからさ」

 なつみも笑いながらわかるわかると頷く。

「そこで笑わないでよ」

「ごめん……もしかして、それが理由で決まった相手と付き合わないの?」

「まあそういうのもあるかな。何度振られてもやっぱり辛いし。最初から恋人にならなければ別れもないからね」

「そっか……」

 空気が微妙に気まずくなったのを感じ、私は伝票を持って立ち上がった。

「そろそろ出ようか」

「早紀ははるばる来たんだし、せめてここは私に払わせて」

 気づいた時には指先につまんでいた伝票をさっと取られていた。

 真白とならもっとスマートに振る舞えるのに、なつみ相手だと緊張してしまうのか、どうしてもぎくしゃくしてしまい、いつもの調子が出ない。

 支払ってくれたなつみにお礼を言い、カフェを出て二人で駅に向かって歩く。

 三日月が昇る藍色の空の下、外灯や建物の光がきらめく。

「月……綺麗だね」

「……そうだね……」

 なつみは何か言いかけて黙った。

 この後、お酒に誘っていいのかだろうか。それとも、笑顔で手を振って別れたら「高校時代の友だち」として思い出を共有しあう存在になれるのだろうか。でも、琴子となつみは二人で飲んで語り合ったというし――

 正解がわからない。失敗はしたくない。

 迷っているうちに駅の入り口に着いてしまい、私たちは立ち止まった。

「……なつみは明日仕事だよね」

「うん……」

「それじゃ、今日はもう帰った方がいいよね」

「そう……だね。早紀、ごはんとか一人で大丈夫?」

「さっきの披露宴のコース料理でまだお腹いっぱいだよ」

「確かに。今夜は食べなくていいね」

 なつみは困ったような笑顔を浮かべて頷く。大きな瞳に映った私もまた、同じような表情だった。

 名残惜しさに負けていつまでもそのまま言葉もなく見つめてしまいそうで、私は思い切って言った。

「それじゃあ元気でね。またメッセージ送るよ」

 背を向ける視界の隅で、彼女が手を振るのが見えた。

 そう、これでいいのだ。これが正解なのだ。私たちはこうしてただの高校時代の友だちに戻る。

 突風のように心を通り過ぎる寂しさに気づかないふりをして、私は振り返ることなく、早足でホテルに向かった。


 ホテルの部屋に戻ると、スマホのライトが点灯していた。もしかしてとつい期待しつつ確認すると、真白からのメッセージだった。

〈元カノとうまくいきましたか? 素敵な夜を過ごしてくださいね〉

 素敵な夜どころか、私は一人だよ。

 鼻で笑ってスマホをベッドに投げ、パンプスを脱ぎ散らして私自身も倒れ込んだ時、スマホが震えて着信を知らせた。

 液晶画面になつみの名前が浮かんでいるのを見て、心臓が跳ね上がる。

「なつみ? どうしたの」

 なんとか普段通りの声でそう言ったのに、聞こえてきたのはなつみの荒い息づかいだった。どうやら走っているようだ。

「ホテルの部屋番号、教えて」

 言われるままに告げると、通話は切れた。

 痛いほどの鼓動を身体中で感じながらパンプスを再び履いて待っていると、チャイムが鳴った。ドアスコープから覗くと、やはりなつみだった。

 なつみは私とどうしたいのだろう。――私はなつみとどうしたいのだろう。

 答えが出ないままドアを開けると、なつみが肩で息をしながら入ってくるや否や、私の首に腕を回して抱きついた。

「私たち、もうただの友だちなのかな」

 耳元で囁かれ、全身が雷に打たれたように衝撃が走った。

 ほんの少し上体を反らしてなつみの顔を見ると、目が潤んでいた。

 このまま――このままキスしてベッドに押し倒せば、何かがまた始まる。

 なつみもそれを望んでここまで来たのだ。衝動に身を任せればいい。

 細い首筋から放たれる綿菓子のような甘い香りにめまいがする。


 だけど、これって。

 なつみと私が何年も苦しんだ末に掴みたいものなのだろうか。

 この衝動の先には一体何があるというのか。


「なつみは私を好きなの?」

 そう問うと、なつみがびくりと身体を震わせた。

「私、なつみ相手だと演じきる自信がない。また重たくなって、なつみを束縛したくなるかもしれないよ。それでも逃げない?」

 なつみの綺麗な顔がゆがみ、涙がこぼれ落ちた。

「……わからない、わからないよ……」

 ――聞く前からわかっていた。私はなつみを幸せにできず、なつみも私を幸せにはできない。

 高校時代から変わらないその現実を、私たちは改めて理解した。

 大丈夫、私から手放すから。もう二度と傷つけないから。


 だから最後に一度だけ。


 私は涙をこらえながらなつみの唇に口づけた。

 開き始めたばかりの薄い花びらを撫でるように、そっと、可能な限り優しく。

 愛しくて、柔らかくて、甘やかで――でもそれは、過去のもので。

「ようやく会えて懐かしくて、私たち幻を見ちゃったんだよ。でももう私のことなんて忘れて、ちゃんと自分の幸せを見つけるんだよ、なつみ」

 蝶の初めての羽ばたきのように、なつみが涙で濡れたまつげをこわごわと開いた。

「見つけられるかな、早紀以上に私を愛してくれる人」

「うん。なつみを心底愛してくれて、なつみが心底愛せる人をきっと見つけられるよ。これからは、友だちの私がついているから」

 ふふ、となつみは涙で瞳を光らせながら笑った。

「じゃあ、早紀も早紀らしさをそのまま受け止めてくれる人と幸せになってね。ドライな関係を演じるなんて、早紀らしくないから」

「そうだね、わかった」

 ――好きだったよ。私の全てを懸けて壊してしまうほど好きだったよ。

 でもそれは過去の想いだから。もう囚われないように、言わないよ。

 今までで一番愛した人の顔がドアの向こうに消えていくまでなんとか笑顔を保ち、そのまま閉じたドアを背に座り込んで長いこと泣いた。

 これで私となつみの初恋の呪縛がようやく解け、お互いのことだけを見ていたあの日々を、良き時代ベル・エポックだったと共に懐かしめる。そして彼女のこれからを友だちとして見守っていける。

 これでいい。もう二度となつみを失うことはない。もう迷わない。


 翌朝目覚めると、目が腫れていた。まあ、誰に会うわけでもないし、構わない。

 昨晩泣いたあとにシャワーを浴びたけれど、ホテルの窓から街並みの夜景を見ているとまた泣けてきた。

 スマホを何度か確かめたけれどなつみからの連絡はもうなかった。

 アプリを操作して真白からのメッセージを再度確認する。

 彼女の体温が恋しいと思った。今すぐここで抱き締めてもらいたい。今日の出来事を全て話して、まあそんなこともありますよね、と軽く笑って抱いて欲しい。

 そしてそう思い始めたということは、真白から離れる時が来たということだ。彼女は束縛されるのを嫌い、恋人関係になることを避ける。なつみを手放した私が真白に依存した結果、彼女にまで振られるのは耐えられない。このまま連絡を絶って終わりにしよう、と思った。

 真白とのメッセージを全て消去すると、冷蔵庫に備えられていたビールを喉に流し込み、私は無理矢理寝たのだった。 

 あとは午後のフライトで帰るだけだ。食堂で朝食を食べながら、バスに乗って高校を訪ねるのも感傷的な旅の終わりにいいかもしれない、などと考えた。

 ゆっくりと準備をして十時少し前にチェックアウトのためにロビーに下りると、――ソファに真白が座っていた。

 私を見て飛び上がらんばかりに立ち上がると、真白は怒った顔でずんずんと近づいてきた。

「な、なんでここにいるの」

「早紀さんこそ、なんで一人だったのにメッセージ既読無視したんですか!?」

「なにそれ、重っ!」

 私が一人でエレベーターから下りてきたのを確認し、ひどい顔を見て昨夜一人で過ごしたとわかったのだろう。思わずそう言うと、真白の顔が真っ赤になった。

「そうですよ、私は本当は重たいんですっ! 早紀さんが恋人は作らない主義だって言うから、合わせてドライなふりをしてきただけです!」

 呆気にとられて真白を見つめる。

「――あなたってそんなキャラだったの?」

「悪いですか? 私の本当の性格なんて知ろうともしなかったでしょ」

 白い手でぐいっと涙を拭いながら真白が私を睨みつける。こんなところで泣かれては恥ずかしい。私は慌ててロビーの隅の人目につかないソファに連れて行き、座らせた。

「あの、つまり、真白は私のこと好きなの?」

 涙をぬぐいながら真白は素直に頷いた。やっぱりリスのように可愛い。

「もともと一緒に働いていた頃から、早紀さんのことは憧れていたんです。二人で会うようになって、どんどん好きになりました。早紀さんはいろんな子と出会おうとしていたけれど、なんだかんだいっても一番側にいるのは私なんだろうと思って、私も誰かと会っているふりをして待っていました」

 会っているふり――。真白こそ私に束縛されたくないのだろうと思っていたのに。

「でも、元カノさんが出てきてから早紀さんが変わっちゃって。もしかしたら本気で私を切って元カノさんとやり直すつもりなのかと思うと怖かった。だけどそれが早紀さんの選択なら仕方ないから、実際に二人でいるところを見たら諦められるかもと思って今朝の飛行機で来ました。引きました? 引きましたよね」

 膝に置かれた真白の手がぎゅっと握りしめられている。

 そこまで私を想っていてくれただなんて。

 いつからか私にも確かにあった――気づかないふりをしていた真白への愛しさが溢れそうになる。

「引かないよ。何なら嬉しいくらい。だって私、本当は好きになったらかなり重い女だもの。好きになって重たく思われて毎回振られてきたから、誰のことも好きにならないように決まった相手を作らなかっただけ。私が全力で好きになったら、むしろ真白が引くかも知れないよ」

 真白が縁を赤くした目を見開く。

「引きません! もう二年近く早紀さんのこと好きなんですよ、私」

 真剣な表情をしなきゃと思うのに、嬉しくてどうしても頬が緩んでしまう。

「私、もう振られたくないの。だからずっと私と一緒にいるって約束してくれる?」

「だから、それが私の望みなんです――って、あれ?」

 きょとんとした真白の頬に素早くキスすると、彼女は再び真っ赤になった。

「私も真白が好きってこと。覚悟してよ、私の愛は重たいよ」


 ややあってぱあっと顔を輝かせた真白が私に抱きついた。

 しっかりと彼女を抱き締めながら、フライト予約を変えなきゃ、と思った。

 私の恋人に、私の故郷の素敵な場所をたくさん見せるために。

  

(終わり)

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