ただそこに咲く季節
@___mugi
ただそこに咲く季節
都内近郊。雑踏から少し離れた場所にある少し広い公園。外は蒸し暑いけれど、私は時折こうして散歩をする。空調完備で快適なはずの家に帰りたくないのはなぜだろう。梅雨の多湿な外気より胸に重い、あの部屋の空気。私の持ち帰りすぎたストレスが、うようよと溶け込んでいるみたいだ。
いつもの自動販売機でいつものボタンを押す。するといつもの飲み物が出てくるから、私はその蓋を開ける。140円の
どこに座ろうか。よく冷えたコーヒーを一口流し込み、あたりを見回す。見ごろを迎えたであろう紫陽花が鮮やかに咲き誇っていた。普段より人が多いように見えるのはこのせいか。私は少し歩いて、広場から外れたベンチに腰掛けた。空はぐずっとした灰色で、綿の圧し潰されたような分厚い雲が広がっている。入道雲、いわし雲、羊雲。この雲にも何か名前があるのだろうか。私はそれを知らないから、ただ、ぼんやりと眺めていた。
――──カチャリ。
脚を組み替えようとしたとき、爪先に何かが当たった。黒くてかどのあるそれは、見覚えのない形状をしている。何かの部品だろうか? その時、カメラを持った男性が紫陽花の写真を撮っているのに気づいた。おそらく、あのカメラの部品だ。正直なところ、ベンチの上に置いて移動してしまいたい。こういうイレギュラーな出来事は苦手だ。私の安寧が……。心の声が漏れないよう注意しながら、彼に声をかける。
「あの、これ落としていませんか?」
彼の視線はゆっくりとこちらを捉えた。その瞬間の温度はまるで、雨の降りだす直前のようにひんやりと、心を掠めていくようだった。
「ああ。助かりました、ありがとうございます」
落とし物と引き換えに、彼はハンカチを差し出した。
「手が汚れませんでしたか?」
苦手なタイプだ、と思った。にこりと受け取ってさっさといなくなってくれたらいいのに、新しいキャッチボールが始まってしまった。
「お気遣いありがとうございます。汚れていないので大丈夫です」
わかりました、とハンカチをポケットにしまうその表情からは、何も読み取ることができない。快も不快もなく、ただそこにいるだけ。スピリチュアルな物言いをするなら、生命エネルギーというものが感じられない。これは悪口だろうか? そんなことを考えていると、彼が口を開いた。
「綺麗ですね、この紫陽花」
その視線はカメラのモニターに注がれている。盗み見るつもりはなかったが、自然と追従してしまう。
ほんの数秒間、意識が吸い込まれたようになって、言葉を出すのに時間がかかった。
「綺麗……」
青の濃淡が瑞々しい。葉の質感を一層美しくさせているのは、曇天の柔らかい光だろうか。目の前にある実物の紫陽花よりも美しく見えるのはなぜだろう。写真なんて現実を切り取るツールでしかないと思っていた私は、いたく心を揺さぶられた。
「紫陽花がお好きなんですか?」
彼が私にたずねる。
私にはわからなかった。何が好きとか嫌いとか。心に波風が立つことなく、穏やかでいられることが大切だから。いつもと同じ自分を被って、いつもと同じ状況で覆って。それを穏やかな日々と呼んで時間をやり過ごしている。だから、彼の質問には上手く答えられなかった。
「わからないです」
ファインダーを覗いていた彼はカメラから顔を離し、こちらを見据える。
「紫陽花は毎年、違う色を見せてくれるんです」
花言葉は、移り気。
そう呟く彼をAIみたいだと思った。無機質で、一定で。私の振る舞いで影響が及ばない。いつも通りを貫く必要がない安心感に、私の心はやや軽くなる。さっき飲み込んだ思考を口に出していた。単なる興味本位。初対面の人間にこんなことを言われて困るだろうという
――──パシャッ。
その濁流をせき止めたのはシャッター音だった。
「え?」
呆気にとられる私を横目に、彼は撮れ高を確認している。
「一週間後のこの時間、またここに来てください。来られたらで構いません」
ゆっくりと帰り支度をして去っていった。一体何だったんだろう。ベンチにかけられたままの傘が視界に入る。結構どんくさいんだな、と思った。
走ればまだ間に合いそうだけど……。ぽつりと手の甲が濡れたかと思えば、あっという間に小雨が降りだした。
ああいう人はやっぱり苦手だ、と思った。
一週間はあっという間に経ち、私たちは再会を果たしていた。
「あの……こんにちは。この傘忘れませんでしたか?」
「こんにちは。ありがとうございます、助かりました」
またハンカチでも差し出してくるんじゃないかと睨んだが、そんなことはなかった。傘ありがとうございましたとか、言うべきだっただろうか。彼は今日も無表情だ。
「これ、よかったらどうぞ」
手渡された封筒。恐る恐るあけると、二枚の写真が入っていた。一枚は私が感動した綺麗な紫陽花の写真で、もう一枚は……陰気な顔で俯きながら何かをぼやいている、一週間前の私の写真だ。
「からかうために呼んだんですか?」
どやしてやろうと顔を上げると、視線が交差した。
「人生も紫陽花みたいに移り変わっていくものです。今日のあなたは、一週間前と違う」
混じり気のない青。瞳はまっすぐ私を捉えて、心がじっとりと汗ばむのを感じる。彼はカメラを差し出した。
「使ってみませんか?」
驚きながらも、ほぼ反射的にカメラを受け取る。断るという選択肢は浮かばなかった。手渡す両手から、このカメラの重みが伝わってくる。単なる重量ではなく、彼にとっての価値のはなしだ。使い方を教わったあと、私はまた迷っていた。どの紫陽花を、どんな風に撮ったらいい? 彼はしゃがんで何かを拾いながら、
「ゆっくり使っていてください」
と呟いている。そして折れてしまった紫陽花の枝を片手に立ち上がると、その香りを確かめるかのように口元のあたりへやった。
私は無意識にカメラを向けていた。彼がこちらに気付いた瞬間、シャッターを切る。早々と視線を逸らす姿から動揺が見え、私は少し嬉しくなっていた。
「これ、必ず現像して持ってきてくださいね」
ありがとうございました、とカメラを返す。彼は両手でそれを受け取り、淡々と私を褒めた。
「決定的瞬間を捉えるのは簡単ではありません。カメラマンとしての素質があるかもしれませんね」
こうして私たちは、徐々に打ち解けていった。
6月も終盤に入る頃、私たちはいつも通り公園で顔を合わせていた。別の場所で会おうと言い出すことはせず、暑さを避けるために夜遅い時間の約束に変わっていた。私たちはようやく自分自身の話をするようになり、彼がフリーのカメラマンであることを知った。
だいぶ話し込んだ頃、雨が降り始めてしまった。彼は公園の駐車場に停めてある車へ私を案内し、ハンカチを差し出す。私はそれを受け取ると、彼の頬についた水滴を拭いていた。
「……」
その挙動の異質さに気が付くと同時に、彼への好意を自覚した。心に波風が押し寄せる。こういう自分が嫌でしかたないのに。フロントガラスを叩く雨音がうるさい。シートに置いてある彼の左手に、右手をそっと重ねる。驚くことも拒むこともない彼に落胆し、安堵し、この関係の余命が短いことを悟る。
言葉はなかった。青い眼差しが陰って、唇が触れた。ほんの数秒。これだけですべてを壊してしまえるのだから、キスとはもはや小さな呪いであり、その矛先はいつだって自分自身だ。
「こんなふうに誰かと話す日々は久しぶりでした」
「僕もです」
楽しかったですね。その一言を飲み込むのに時間がかかる。いつの間にか泣き止んでいた空は濃紺に明け、やがて朝陽が射しこみ始めた。駐車場の隅に群生した紫陽花に目を奪われる。木陰をすり抜けた光が花弁をまばらに照らし、それはまるで藍色の宝石のようだった。
彼は車のエンジンをかけた。何を考えているか結局わからなかったな。ただ、私の気持ちとほんの少しでも同じだったらと願った。いつからだろう、それが押しつけに変わっていったのは。窓ガラスの結露が取れるまでのあいだ、車内には音楽が流れていた。陽は少しずつ高くなり、紫陽花は彩度を増していく。私はいつかこの季節を思い出すんだろう。彼のいた季節を。それはきっと時間が経てば経つほどに都合のいい色へ変わり、鮮やかになっていく。何も明らかにならないまま。
「やっぱり自分で帰りますね」
自宅まで送ると言ってくれていて私もそのつもりだったけれど、こうするのがいいと思った。車を降り、互いに別れを告げる。
「あの――」
歩き出した私を彼が呼び止めた。
「写真。現像できなくてすみません」
そんな言葉が聞きたかったわけじゃないのに。軽く会釈をして駐車場を後にした。
数年後。都会の雑踏の中を歩いていた私は、ふと街角のカフェに立ち寄っていた。7月だというのに気温は40℃近くまで上がり、不要不急の外出は避けるようになどとアナウンスが流れている。そんなこと言うなら会社も休みにしてよ、と心でぼやきながらアイスコーヒーを飲んでいた。キンと冷えた液体と氷の音は救世主そのものだ。
ふう、と一息ついて汗を拭いていると、流れてきた音楽に手が止まる。どこかで聴いたことがあるような曲。耳を澄ませる。
「あの曲だ……」
あの日、彼の車内で流れていた音楽。キラキラとした音色の、切ない旋律。私の心は一瞬にしてあの季節に呼び戻された。紫陽花の青さ、雨音、そして彼の視線。逆らっても無駄だ、目を閉じてその記憶に浸る。記憶がデータみたいに簡単に消えないのなら、せめて、何か一つでも彼の姿を手元に残したかったかもしれない。なんて、受け取ることのできなかった写真のことを思った。
コーヒーを飲み終えて、また炎天下へと繰り出す。最近舗装された道路は艶があって、照り返しが一段と眩しく感じた。
桜のように華麗に散ることも、椿のように
ただそこに咲く季節 @___mugi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます