波濤の昏き人魚

小野塚 

人魚の唄う宵


空に月はない。




寄せては返すさざなみが、其処がもう既に

みぎわである事を暗に示唆していた。

陸である砂浜と、暗い色に溶けている

海との、曖昧な陌間はざまだ。

 新月ならば岬の神社の千本鳥居に

篝火が焚かれるが、では

雲に隠され、闇に紛れてしまう。



昼間、岬の岩礁に死体が上がった。



水死体というと、膨張した上に海の

水で漂白しろくふやけたを想像する

が、その死体は半身を岩礁に挟まれて

陽射しを浴びて真っ黒に腐り果てた、

一見してとは分からない代物だった。

黒々とした髪が岩場に絡み付き乾涸ひからびて

辛うじてそれが 女の死骸 であると

知れたのだった。

 実際、怖さよりも おぞましさ が

先立った。尊厳も何もない、只々不快な

悍ましいモノ。


人は、結局なのだ。


くいう自分も又、人生にみ疲れた

酷く頼りないではあった。



かつて、この岬では 人身御供ひとみごくう の風習が

長きに渡り続けられていたという。

江戸から明治へと年号が変わり、それを

境に禁じられる事となったのだ。

当時の風俗からすれば、武士は帯刀。

ましてや無礼打ちなども平然とあった

事だろう。そんな時代の因習だった。

 奇しくも、それを潮にして今迄の様な

豊漁は、次第に鳴りを潜める結果と

なった。

それに因果関係などないのだろう。

勿論、不漁の原因は 乱獲 にある。


ひなびた町からは人が減り、一方で外から

曰くを持った マレビト が来る。




相変わらず、空に月はない。




昏い海を見つめても何も見えやしない。

只、波の音だけが去来する。

「……?」寄せては又、退いて行く

波の音に混じり砂浜を行く音が確かに

聞こえてきた。だが、灯りはない。

 ザッ、ザッ、ザッとり足気味に歩く

足音は海の方へと近づいている様で、

それでいて曖昧に遠ざかって行く。




 海の底には 何がある 昏い煉獄れんごく

綿津見神わだつみの國  にしん来たぞと 

 猫が鳴く 



「…!」突然、背後から歌が聞こえた。

驚いて振り返るが、そこには寂れた浜の

宵闇があるばかりだ。


     女の声 が。



 あかい鳥居の その先の 昏き波濤はとう

底深く 往きて戻らぬ 道行は

 泡となりたる 死出の旅



「!」今度は海側から。波の音に紛れ

昏い歌声が聴こえて来た。

思わず振り返ろうとしたが、辛うじて

理性が押し留める。足元に波が掛かり

それを発条ばねにして走り出した。

海から出来るだけ遠く離れた所へ。



この海は嫌いだ。



それでも離れ難い 何か が、自分の

心の奥底にあるというのだろうか。

寄せては退く波の音は 常世とこよの國 への

誘いだと誰かが言った。昏く深い海へと

誘うのは、一体何なのか。


月のない夜に唄うのは多分、人魚だ。

そうでなければ、幽霊だろう。


どの道、決して善いものではない。




国道沿いに歩く。「…。」後ろから

大型トラックのヘッドライトが光る。

自分の影に重なったが。一瞬の

光に  を結んで消えて行く。


   そして、又暗闇が。



この町の、夜も嫌いだ。



何故か不安を抱かせるのだ。波の音が

耳に着いて離れない。



 寄せては返す 波の音 深き海淵

玄々くろぐろと 出て集いし 魂呼たまよば

 月の無い夜  猫の声







翌朝は、穏やかに晴れていた。だが、

朝起きて絶句した。フローリングに

布団を敷いただけの六畳の部屋の中は

潮の匂いが満ちていた。

「…何だ、これは。」途端に不快感が

頭をもたげる。布団の周りが水で濡れて

いたが、これは海の水だ。

と、思っていた所で携帯が鳴った。

「ッ?!」二度も驚かされて、もう既に

眠気は吹っ飛んだ。

「…はい。」電話は上司からだった。

最近、こっちに来たばかりの若い男だ。



「いいから今すぐ、外に出ろ。」



電話の声は切羽詰まっていた。意味は

わからなかったが、彼はもう既に

この家の前まで来ているという。

取るものも取り敢えず、表に出た。



その、途端に。




 猫が鳴く  猫が鳴く  猫が鳴く

   猫が鳴く   猫が鳴く

       猫が鳴く  猫が鳴く




「…オマエ、何かやらかしたのか?」

何とも言えない複雑な顔の、上司が。



いや、それよりも。


     目の前には猫が。


ザッと見ただけでも十匹は下らない程の

猫達が。所狭しと群がっている。


「…え。」しかも、妙に磯臭い匂いが

辺りに充満している。

「…あ!」部屋の惨状を思い出して

踵を返そうとした。「まて。」「?」

「何やらかしたんだよ?何をどうすれば

こんなに猫を集められるんだ?」

上司は、少しだけ羨ましそうに言う。


もしかしたら、夜の海から良からぬ

モノにいて来られたのかも知れない。

かつて、仄暗い海の藻屑となった女の

無念か。それとも昨日、岬の岩礁から

上がった女の幽霊か。どの道、夜の

海辺で聞いた唄は、だった。



「昨日?そんな話は聞いてねえけど。

そもそも、昼間はずっと本部の奴らと

打ち合わせだったろ。缶詰状態で、

昼飯もデリバリーだった筈だぞ?」

「…え、そんな馬鹿な!」



ならば、あのは一体、何だ?

あの岩場に放置されて腐乱し果てた

女の遺体は…。


「ちょっと、見てくれ!」俺は上司を

連れて室内へと戻った。

「朝、起きたら布団の周りが海水で!」

「どこに?」上司の端正な顔が、更に

凄味を帯びる。「確かに、此処に!」

布団の周りを何かが這ったような跡は

忽然と消えていた。潮の臭いも海水も

まるで嘘の様に消え失せている。

「……。」いや、そんな馬鹿な。そう

思いつつ俺は、上司の無駄に整った

顔を見る。これ、お祓いとか必要な

奴なのか?!

 …それとも…どうしたら!!




「人魚って、騙して来るらしいからな。

騙されたんだろうよ。見た目と違って

オマエ、優しいから。」


彼はそう言って微笑わらった。









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波濤の昏き人魚 小野塚  @tmum28

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