第3話
いや、消滅したわけではない。巨大な生物の口が、床材を飲み込んでぽっかりと開いたのだ。
リューは俊足で走っていた勢いそのままに、高く飛び上がって難を逃れた。その後ろを必死で追いかけていたダンジョンGは止まりきれず、先頭の一角が巨大生物の口の中に次々と落ちていった。
ダンジョンGはそもそもが臆病な蟲である。大きく育ち切ったものは翅を広げてぶぶぶと飛び、小さいものは物陰を探してカサカサと逃げ回り、あっという間に群れは散り散りとなる。
大きく口を開いた巨大生物は、食い足りなかったのか岩質の床をガラガラと突き崩してその姿を現した。
身の丈は二メートル、巨大なムカデに似た化物――これがウーバー・イーターだ。
ハンターが取りこぼしたモンスターとしては最大級のものだ。
“
ただし、こいつは肉食で大食らいなため、ダンジョンGの群れに巻き込まれた配達員が一緒に喰われる事故も少なくはない。ウーバーにとって危険な生物であることは確かだ。
ウーバーイーターは大人の胴体ほども太さのある長い胴体をずるずると引き上げて、飛び回るダンジョンGに向かって大牙を開いた。それは不幸にも、飛び上がったリューの真下であった。このまま落下すればウーバー・イーターの口の中に一直線だ。
リューはさらにスキルを重ねて発動する。
「追加発動! “俊足”!」
究極に加速した足で踏めば空気抵抗が足場になる。見えない飛び石があるかのように空気中を軽やかに走る。
これがリューのスキルの真骨頂だ。攻撃力はないが逃げ足ならば誰にも負けない。この瞬間、この場で一番素早いのはリューただ一人であった。
リューの背後で、ダンジョンGをたっぷりと咥え込んだ大顎が閉じ、そしてウーバーイーターは、満足したのか、自分が床に開けた大穴の中に沈んでゆく。
その好きにリューは大広間を抜けて階段室に飛び込んだ。遠く背後でウーバー・イーターがギシギシと体節を鳴らす音が聞こえたが、リューはもう振り返らなかった。
「おい、リュー、無事か?」
端末からの声に、短く返事を返すリュー。
「ああ、無事だ」
それだけを答えて、リューは階段の手すりに身をもたれかけた。
追加加速は心臓に過度の負担がかかる。さすがのリューも激しい動機と軽い呼吸困難によろめく。それでも背中に背負った配達バッグの肩紐は離さない。リューにだってウーバーとしてのプライドがある。
実を言うと、リューはハンターとしては最弱だ。
ダンジョン内に立ち入るにはハンターか、それに準ずる“資質”が必要となる。それゆえにウーブに従じるのは、ハンターとして第一線を退いた元ハンターや、これからハンターデビューを待つ若者が多い。第一線で活躍するほどの力はなくとも、ウーバー・イーター程度のモンスターを撃退するくらいの攻撃スキルは持っているのが普通だ。
ところがリューは、攻撃的なスキルなど何一つ持っていない。一般人と違ってダンジョン内の瘴気に耐えることのできる体と、“俊足”というスキルを持ってはいるが、ハンターにすらなれない半端者なのだ。
だがウーバーとしては優秀である。
そもそもが最速最短安全に料理を運ぶことを目的とするウーブに戦闘は必須ではない。むしろ戦闘を回避してダンジョンの目的階まで一気に駆け抜けることのできる“俊足”は、ウーバーとしては最適この上ない能力なのである。
ふっふっと幾らか深く息を吐いて、リューは呼吸と鼓動を宥めた。
「あと、たったの4階だ」
もう一度“俊足”を発動して、一気に階段を駆け上がる。ベースキャンプが張られた30階層に辿り着けば、そこは危険なダンジョンの中で、唯一の安全地帯である。
元は大手企業のオフィスがあったそこは、廊下の見通しが良くて安全が確保しやすい。みんなが自由に出入りできるパブリックスペースとしての大部屋と、元は会議室や小オフィスだった小部屋に分かれていてパーソナルスペースが確保できるというのも、ベースキャンプとして使い勝手がいい。
配達バッグを背負ったリューがたどり着いた時、ちょうどハンターたちは大部屋に集まって食事を取ろうとしているところだった。
「おー、リューちゃんじゃねーの!」
真っ先に気安い声をかけてきたのはベテランハンターのマスジさんだ。リューの“俊足”による最速ウーブを気に入っていて、わざわざ配達人指名をしてくれることもある、大得意さんだ。
ただし、今回のウーブはマスジさんの依頼ではない。
「誰よー、ウーブ頼んだのー」
マスジさんの声に、まだ若い小僧みたいな新人ハンターが手を上げた。
「俺っス」
「おおっ、もしかして初ウーブ? お前、出世したなあ」
マスジさんは新人ハンターの肩を馴れ馴れしく叩く。おっさん特有のウザったい馴れ馴れしさだ。
「いいじゃんいいじゃん、じゃんじゃんウーブ頼みなー、で、そんときはこの子、贔屓にしてやってなー」
マスジさんは馴れ馴れしさマックス、今度はリューの肩を抱き寄せてニカっと笑う。
はっきり言ってウザいが、だがリューはこの男が嫌いではない。なにしろ裏表がなくて、善人なのだ。勝手にリューを売り込んでくれているのも、裏の全くない善意ゆえである。
ここでマスジさんの言葉に乗っかって「どうぞご贔屓に〜」くらい言えれば営業として満点なのだろうが、残念ながらリューはそんなにはっちゃけた性格じゃない。むすっとした顔のまま、軽く頭を下げて、「どうも」と言うのが精一杯だ。
新人ハンターくんもちょっと反応に困ってか、「あ、どうも」と小さく頭を下げた。
マスジさんはそんな二人を笑う。
「なになに、若いのに二人とも元気ないじゃない、ほらほら、握手握手」
リューはマスジさんの強引さにちょっと苦笑した。ふとみれば、新人ハンターくんも苦笑いだ。
「なんか、すいませんね、悪い人じゃないんだけど」
「知ってる、俺の方が、あの人とは付き合いが長いんだ」
そう答えながらリューは、背負っていた四角い配達バッグを下ろした。蓋を開けば玉ねぎの匂いがあたりに広がる。
「なるほど、ハングリーバンズリーのホットドック、オニオン増しか。どうりでダンジョンGが湧いてきたわけだ」
ダンジョンGは玉ねぎが好物だ。きっと配達バックの隙間からも玉ねぎの匂いがぷんぷんと溢れていたに違いない。
「くっそ、知ってたら危険手当を上乗せしたのに!」
マスジさんがそんなリューの怒りを宥める。
「まあまあ、じゃあさ、帰りは俺が出口まで送ってあげるよ」
「えっ、いや、それは申し訳ないっていうか……」
「いいからいいから、俺もねー、そろそろ表の空気が吸いたかったのよ、だって、ここに三ヶ月も潜りっぱなしよ?」
配達バッグの中はまだ玉ねぎ臭い。人間より嗅覚の優れたダンジョンGならば、蓋をしっかり閉めていても、残り香に惹かれて寄ってくるだろう。
またダンジョンGに追われるようなことがあっても、リューは逃げることしかできない。
「いや、確かにマスジさんがいてくれると俺は助かるんですけどね、でも……」
「あー、仕事だから自分だけでなんとかしなくちゃって思ってる? リューちゃんは真面目だなあ」
マスジさんはなんの屈託もない笑顔でリューに言った。
「じゃあこうしよう、俺はさ、ここから入り口まで新たに危ないモンスターが湧いてないか、パトロールに行くからさ、たまたまリューちゃんと同じ方向に行くだけ。たまたまだよ、たまたま」
「マスジさん……」
このおっさんがウザいけれど憎めないのは、こういうところだ。
これ以上頑なに断るのもなんだか申し訳ない。リューは素直に頭を下げた。
「じゃあ、せっかくなんでお願いします」
こうして現役ベテランハンターという最強の護衛を得て、リューは帰路に着いたのである。
ウーバー・イーター 矢田川怪狸 @masukakinisuto
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