あなたが彼女に似てたから。

割箸ひよこ

第1話

「あれ、星空瀬梨香じゃない?」

 昼休み。喧騒の中に聞こえた声につられて廊下のほうを見ると、確かに「噂の」星空瀬梨香が歩いていた。

 黒くてしっとりした髪から覗く横顔は嫉妬すら抱かせてくれないほど、女の私ですら見惚れてしまうほど、綺麗だ。それだけ綺麗なのに、彼女はいつも無表情で、憂いを帯びたような、そんなオーラを漂わせている。長いまつ毛はいつも下を向いているから、その瞳は黒曜石のように鋭くて、いつも光がない。

 彼女は私の視界からフレームアウトした。私はくるりと彩りのあるお弁当に視線を移す。その中でも一際彩りのあるミニトマト。そのへたをつまんだ。

 彼女の何が噂なのか。それは。

 星空瀬梨香は、人殺しらしい。


 放課後。星空瀬梨香とすれ違う。横顔はさることながら、正面もあまりに綺麗だった。彼女の清潔感のある、それでいて人間らしさのないような無香料の香りが私の鼻をかすめる。これから家にでも帰るのだろうか。あるいは。

 同学、女子高という閉鎖された空間では根も葉もない噂話が絶えないし、少なからずそれを娯楽にしている生徒も少なくない。この高校に入学してばかりの私にはどれが嘘でどれが真実かはわかりかねるが、どうせ大抵は嘘だ。

 彼女の噂も例に漏れず嘘だと思う。印象や外見では確かに人を殺していそうな気もしなくはないが、それでも人殺しだなんて馬鹿げている。もし本当に彼女がそうなら、今ごろ彼女はここなんかよりももっと閉鎖された空間にいるはずだ。

 そして、私は彼女の何者でもない。彼女も私の何者でもない。ただの同級生。それ以上でもそれ以下でもない。でも。それなら、そうわかっているのなら、どうして。

 どうして私は星空瀬梨香の噂で、胸が高鳴るのだろう。

「神城さん」

 不意に、私の名前が呼ばれた。低くて、重たくて、細い声。びくりと足が止まる。私は声のほうへ振り返ることができない。

 星空瀬梨香に、私の名前を呼び止められたからだ。

 彼女は私の隣のクラスだ。よほどのこと、それこそ噂があるから私が彼女を知っているように、私にくだらない噂でもない限り私の名前を覚えているはずがなかった。彼女はいつから私を知っていたのだろうか。

 心臓がうるさい。手に汗が滲んで、居心地が悪い。

「……なに?」

 私は努めて冷静な声を出して、振り返る。すると、彼女の手には私のネームプレートが収まっていた。どうやら彼女が私の名前を知ったのは、ネームプレートを拾ったためらしい。

 この高校は制服の胸ポケットにネームプレートを付けるのがきまりだった。なんでも、生徒になにかあったときに、名前を知らない先生がすぐに名前を確認できるようにしているらしい。もちろん、彼女の胸にも「1年B組 星空瀬梨香」とある。

「すれ違ったときに落ちた」

 彼女はそれ以上でもそれ以下でもない、ただの事実を口にして、私に手を伸ばした。

「ありがとう」

 ネームプレートを受け取る。触れた彼女の手のひらは体温を感じた。

「ねえ星空さん。あなたがどんな噂されてるか知ってる?」

 私はこのチャンスを逃すわけにはいかない、と思った。隣のクラスの彼女と話す機会は、滅多にない。

「何急に。知らないし、どうでもいい」

「そう?」

 私はネームプレートを胸ポケットに差し込んだ。その隙に、彼女はすたすた玄関の方向へ歩みを進めていた。

「星空さん」

 私が彼女をもう一度呼び止めると、彼女の制服が揺れて、上履きの鳴らす音が止まった。彼女は首だけを横に向けて、刺すような眼差しで私を見る。

「星空さん、人殺しだって噂されてる」

 私は彼女に二歩近づく。窓から降り注ぐ光のレースに、私は目を細めた。

 私は噂を微塵も信じていない。だからもしこの噂が本当なら、彼女にとって触れられたくない話題だということは無視して、単刀直入に聞いた。

 彼女が人殺しだという突拍子のない噂が立つのも改めて頷ける。それほど彼女の表情は暗い。暗いを通り越して真っ黒だ。喜怒哀楽のいずれの色も飲み込んでしまうような、この世界に絶望しきっているような、そんな表情。だからきっと、この噂が真実なら私は信じてしまうだろう。彼女の内面も知らないで、外見だけで決めつけて。

 彼女は表情に色を足さず、真っ黒のまま私のいる光の中に入ってきた。黒曜石の端が少し青く透過する。ここまで近くで彼女を見るのは初めてで、私は息をのむ。

 肌のきめ細かさ、不揃いなまつ毛があること、その奥の虹彩、産毛。彼女の人間らしさを至近距離に感じる。

「私は誰を殺したの? 家族? 友だち? 全く知らない人? どうやって殺したの? 凶器を使って? どこかに突き落として?」

 彼女は私の制服のリボンの結び目を、細い人差し指でなぞる。胸が熱くて、息が苦しい。

「首を、絞めて?」

「っ、」

 きゅっと締めつけられるような感覚が、首元から、胸から、私の未熟なところから伝わる。実際は絞められていないのに、星空瀬梨香という謎めいた人に命を握られている不思議な感覚。

 苦しくて、気持ちがいい。

「噂だから、そこまでは知らない」

 私が喉から声を絞り出すと、彼女は真っ黒の表情に初めて色を足した。

「神城さんって、気持ち悪いね」



 昔から、私は歪んでいた。

 細かいところまでは覚えていない。とにかく私がまだ小さかった頃、食べ物を喉に詰まらせたときだった。

 窒息、嗚咽、生理的な涙、不安、恐怖、苦痛。


 気持ちよかった。


 そのときその場にいた両親が吐き出させてくれて助かった。でも、実際は助かっていなかった。知らなくていいことを知った。

 そこから私は取り憑かれたかのようにその歪みの虜になった。自分を苦しめる行為は苦しくて、気持ちがいい。

 けれど、自殺願望があるわけではない。ちょっとだけ自分のことが可愛いから。ただ、自分の快感を満たすためだけにしている行為。それだけだった。

 その行為以外に快感を得る方法を知ったけれど、未熟だからだろうか。そこを刺激して自分を慰めてみたって、あの気持ちよさに比べたら全く大したことではない。首を絞められながらするセックスが世の中には存在するらしいが、メインディッシュは確実に前者だ。別に後者は必要ないと思う。

「ぅ、ぁ」

 制服のリボンで、自分の首を絞める。星空瀬梨香が触れたそれは、ぎりぎりと私から酸素を奪っていく。

「か、はっ」

 彼女の石みたく温かみを持たない冷たい瞳で、でも少し温かい指で、辟易色で塗りたくられた表情で。

「っ〜〜、」

 苦しい。気持ちいい。苦しい。気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。

 ふと、姿見に映る自分が目に入った。唾液をこぼして、目を涙を浮かべて。

 笑みを、浮かべていた。

「……がほっ、げほ……はぁ、はぁ、はぁ…………」

 私は絞めていた手を緩めた。浅い呼吸だけが私の部屋に虚しく響く。

 足りない。

 私の自慰は達することができない。達するところまですると文字通り天国へと行ってしまう。これだけ汚れた私の場合は地獄かもしれないけれど。それは不本意だ。ただそれは、自殺に限った話だ。

「あのうわさ、否定、しなかったよね……? 星空、瀬梨香」

 彼女に私を絞め殺してほしい。

 彼女に私をいかせてほしい。

 この歪みは、この気持ちは、彼女に対する好意なのだろうか。



 昼休み。また星空瀬梨香を廊下で見かけた。教室のドアから見かける彼女は相変わらず真っ黒な宝石みたいだった。

 彼女に気持ち悪がられた私が彼女に近づく方法は今のところない。私が能動的に接近したって、何を話したらいいか全くわからない。そもそも彼女は何が好きで、何が嫌いかなんて知る由もないし、当たり障りのない会話を彼女がしてくれるとも思えない。

 私はミニトマトを噛む。ぐちゅっと汁がはじけて酸味が広がった。美味しい。

 私はもう一つ手に取ろうとしたところで、止める。

 これを噛まずに飲み込めば――。

「……」

 流石に学校ではしない。周りのクラスメートに心配されるだろうから。

 そういえば、彼女に友達と呼べるような関係の人間はいるのだろうか。いるのなら、その子から外堀を埋めた方が得策な気がする。

 私は席を立つ。1年B組へと向かった。

 1年B組の教室をそれとなく覗くと、窓側、一番後ろの席に彼女は一人で座っていた。あの様子から見て、少なくてもクラスに友達はいないらしい。

 人殺しなんて噂が流れていれば、当然か。

 彼女は、噂のことや、クラスに友達がいないことなんて至極どうでもよさそうな顔で文庫本を読んでいた。趣味は読書なのかもしれない。それを知ることができただけ良しとする。



 放課後の教室にひたひたと影が伸びる。星空瀬梨香の姿はない。帰ったのだろう。

 星空瀬梨香のことが知りたいと思う。別に人を本当に殺したのか、その殺害方法が絞首だったのか、セックスしたことがあるとかないとか、自慰はするのかしないのか、するならどれくらいの頻度なのかみたいな、私の欲に関することだけじゃなくて、本当に些細なこと。身長、体重、好きな食べもの、性癖、読書以外の趣味、スリーサイズ、重い方か、軽い方か。

「……」

 気づけばまた、思考がそっちの方に流れていた。人はこれを変態というのだろう。

 私の場合、性的指向は性別に依存しないと思う。私の首を絞めて快楽を与えてくれればそれでいいし、別に愛されてなくなったって構わない。同学に通っているけれど、むしろ男の方が強く首を絞めてくれそうだと思う。でも、どうしてだろう。それは彼女にしてほしい。彼女でないと駄目とすら感じてしまう。

 これは、彼女に対する好意なのだろうか。

 私は誰もいないことを確認して、1年B組、窓側、角の席へと近づく。机の中を覗く。そこには今日読んでいた本も、教科書も、何も入っていなかった。私は空の机の上に座る。窓の外には、下校する生徒がちらほらとまだら模様を作っていた。

「手がかりはなし、か」

 私は窓を背に席を立った。

「なにしてるの」

「っ!」

 冷たくてどこまでも暗い声が響く。声の持ち主は。

「星空…………さん」

 星空瀬梨香だった。入り口からじっと私を見つめるその瞳は、夕日にあたって鋭く輝いている。私はその瞳を見て、心臓が跳ねた。

 なんて運が良いのだろう。

 彼女と話すきっかけを向こうから作ってくれるなんて。それに、今の行動を全て見られていたとしても私の第一印象は「気持ち悪い」で、地に落ちきった最悪だからなんの問題もない。

「そこ、私の席」

「そうなんだ。良い席に座ってるね」

 彼女にまつわる常識を今初めて知ったみたいに、私はとぼけた。

「なにしてたの」

 ああ、冷たい。彼女の疑念が、嫌悪が、冷たくて、痛い。苦しくて、気持ちがいい。もっと私に浴びせてほしい。

「待ってたの。あなたのことを」

 私は咄嗟に、とってつけたように嘯いた。

「そう。何の用?」

 彼女ははぁ、と溜息をついてスクールバックを廊下に置き、腕を組んだ。

「私、あなたと友達になりたいの」

「嫌だ」

 彼女に即答される。私は特に驚かない。それもそうだ。首を絞めて、と言われて笑う女とは付き合いたくないだろう。

「じゃあね。えーっと、」

「神城」

「ああ、神城さん」

「待って。ここに用があって来たんじゃないの?」

 忘れ物を取りに来たわけではないはずだ。机の中には何も入っていないから。単純に彼女がこの教室に何をしに来たのか気になった。

「友だちでもないあなたにそれを言う必要ない」

「冷たいんだね、星空さん。でも、そういうの嫌いじゃないよ」

「私は嫌い。二度と私の席と私に近づかないでね」

「それならさあ、最後にあの噂のこと」

「教えない」

 そう吐き捨てて、彼女は私の前から消えようとした。

「……でも」

 星空瀬梨香は足を止める。

「この前、あなたの首に絞められたような跡があったから首を絞めてって言った。そしたらあなたが笑って『気持ち悪い』って思った」

 私は彼女が何を言いたいのかわからなくて、黙って続く言葉に耳を傾けた。

「でも、もしかしたら虐待とかいじめを受けていて、その防衛反応で笑ってたんじゃないかって、後から思った」

「え……」

 彼女は全くの勘違いをしている。

 私は虐待もいじめも受けたことなどない。親には愛されて生きてきたと思うし、周りから浮かない、かといって友達がいないというわけでもない、いたって普通の学生生活を送ってきた。ここでもそうだ。私が私の意志で、しかも気持ちよくなるためだけに自分の首を絞めているだけ。

「だから、それについて足を踏み入れるわけじゃないけど、ごめん。あんなこと言って」

「……いや、別にいいよ」

 私はとりあえず彼女の憶測に乗ることにした。彼女は自分で首を絞めて慰めるような人間の存在を想定していないらしい。幸運だ。

「あなたにとって後ろめたいことだと思うから、私にとって後ろめたいことを一つ教えてあげる。これで対等ね。教えたらもう私と二度と関わらないで」

 星空瀬梨香の今の表情の色の名前は、黒が強くてわからなかった。それとは対照的に、私の心は、快晴のような青色だ。

「それって、私が聞かなかったらずっと関わっていてもいいってことだよね?」

 私が声を弾ませて言うと、彼女の表情は曇った。

「……やっぱり、神城さんは気持ち悪いね」



「ね、星空さん」

 昼休み。星空瀬梨香を呼ぶ。返事はない。彼女のクラスメイトはひそひそと私を見ている。

「一緒にお昼どう?」

「……」

 彼女から返答はない。否定しないということはここで食べてもいいらしい。私は包みを開いてお弁当箱を開けた。今日もおかずとごはんと一緒にミニトマトが彩りを作っている。赤くてつやつやで、美味しそうだ。

「だんだんあったかくなってきたね〜。窓際だと気持ちよくて授業中寝ちゃいそう」

「……」

「ちゃんと授業聞いてる?」

「……」

 彼女は私のことが見えていなければ声も聞こえていないらしく、ずっと、黙々と本を読んでいる。無視が得意なのか、これだけ私が話しかけても表情は透明な黒だ。唇はミニトマトのように赤くてつやつやしているけれど。

「いただきまーす。星空さんはもうお昼食べ終わったの?」

「……」

「冷たいなー。でも、そういうの嫌いじゃないよ」

「……」

「ねえ、フル無視してないでそろそろ私と喋ってみたりとかしない? それ、そんなに面白いの?」

 私は今読んでいる本に指を刺す。彼女の目は上から下、上から下へと動いている。本当に読んでいるみたいだし、黒曜石は本当に私と会話するつもりは微塵もないと雄弁だった。

 それにしても周りの人達の視線が気になる。どれだけ避けられてるんだ彼女は。私が視線を向けた子に視線を返して微笑みを作ると、ぱっと目を逸らされた。

 まあ、そんな有象無象はどうでもいい。私が興味あるのは、目の前の星空瀬梨香、ただ一人なのだから。

「ま、次体育だしそろそろ戻ろうかな。また明日ね、星空さん」

「うん。もう二度と来ないでね」

 彼女は真顔のまま言う。今日初めて彼女が会話をしてくれて私は心がとても弾んだ。


「星空さん。一緒に帰ろ?」

 放課後。私はすたすた歩く星空瀬梨香の隣に並ぶ。石けんのいい香りが私を心を泡立てた。

「ねえ、神城さん」

「え! なに?」

 私は彼女から話しかけられる。隣の彼女は目を合わせてくれない。でもついてこないでとか言われるに違いな――。

 バン。

「え……?」

 彼女は人がそこそこいる廊下で、私の顔の横に右手を突き出した。いわゆる壁ドンというものをされる。星空瀬梨香の顔が近い。

「私、ほんとにあなたと、いや、他人と関わりたくないから、さっさと後ろめたいこと教えさせてよ」

「……意外と大胆なんだ、ね」

 彼女は私の髪を掬う。通行人の黄色い声が聞こえてくる。きっと、私以外の人がされたらこの女に簡単に落ちてしまうだろう。私は壁ドンされたことに驚きはしたものの、ドキドキはしない。私は毅然と構える。この至近距離で首を絞めてくれるのならドキドキすると思うけれど。

「嫌かな。私は星空さんと関わりたいよ?」

 私は逆に、彼女の髪に触れた。黒くて冷たくて、さらさらしている。

「堂々巡りじゃん」

「うん。ずっとこうやってもつれながら一緒にいようよ」

「嫌」

「それならさ」

 私は私より少し背の高い星空瀬梨香のリボンに触れる。

「私に嫌われればいいじゃん。私の嫌いなことしなよ。そう――」

「首を、絞めるとか」

 嘘だ。本当は好きで、好きで、好きでたまらない。

 首を絞められたら私は星空瀬梨香のことを一生離さないくらい、好きすぎておかしくなってしまう。沸々と歪んだ癖が頭をもたげて、顔が歪むのを止めることができない。

 きっと、私今笑っている。

「そこまでのことをするわけないじゃん」

「あたっ」

 彼女は私の額を中指で弾いた。じん、と痛みがはしる。

「もっと自分のこと大切にしたら。じゃあね」

 彼女は人波の中に消えた。


 週明け、放課後。私は日直当番だったので、日誌をつらつらと書き終えて職員室に出しに行こうと席を立つ。

 黒板を消すとかはまだわかるけれど、学級日誌なんて書く必要がはたしてどこにあるのだろう。1〜6限の授業内容なんて書く必要はないし、クラスの様子なんてものも書く必要がまるでない。

「なんて、考えてるうちは私も子供なんだろうなあ」

 昼休みと違って閑散とした教室は、どこか暖かくて、切なかった。

 1年B組の教室を覗く。星空瀬梨香チェック。その姿はなかった。流石にもう帰ったか。

 日誌を提出して玄関へ向かう。すると、混じる喧騒の中に、私は確かにその単語を聞き取った。「星空さん」と。

 上履きを脱ぐふりをして、その声の持ち主とその人の会話を聞くことに注力する。

「えー、どうしたんだろうね〜」

「ねー。ほんとに驚いちゃった。まさかあの星空さんが」

「泣くなんて」

「は、泣いた……?」

 私は聞き耳を立てていたけれど、上履きにかかとを入れなおしてその声の方向へと向かう。廊下で話している二人組を見つけた。たぶんあの二人だ。私はその間に割って入っていった。

「ねえ、その話ほんと?」

「きゃっ。あなたは……?」

「Cの神城」

 胸についたネームプレートをくっと持ち上げて見せる。その子――B組の佐藤さんは怪訝そうに首を傾げた。そういえば、教室で一度目が合ったことがあるような気がする。

「それでそれ、ほんとなの?」

「え、ああ、うん」

「状況は?」

 隣にいる友達はあたふたしている。会話を遮って悪いとは思うけれど、そんなことがどうでもいいと思えるほど、私は知りたくて知りたくてたまらなかった。

 あの、いつも真っ黒な星空瀬梨香に何があったのか。

「なんか、現文の先生が突然『大丈夫か? 星空』って言って、それで星空さんの方を振り向いたら、ぽろぽろ涙してて」

「それで?」

「それで星空さん、最初目にゴミが入ったんだと思いますって誤魔化してたんだけど、どんどん涙止まらなくなってて。先生が気を使って保健室に連れて行ったきり、早退したよ」

「え……」

 私は事実に愕然として、言葉が出なかった。

 なんで?

 その理由は?

 どうして急に?

「……あの、神城さん?」

 私ははっとして、ぼやけていた世界の中の、佐藤さんに焦点を合わせる。

「あっ、ごめんごめんぼーっとしてた。私あの子とちょっと仲良くて、早退した理由気になってたんだ。ありがとね」

「うん……」

 私は佐藤さんとその友達に手を振って自分の靴箱へと向かう。

 授業中、授業に支障が出るほど泣いたことはきっと彼女にとっても相当後ろめたいことの一つだ。

 私があの契約――私の知りたい星空瀬梨香の後ろめたいことを一つ教えてもらうという契約を履行すれば、泣き出した理由を知ることができる。

 知りたいけれど、それを履行すれば、私と彼女は。

「……いや」

 私はなんとなく、知らなければならないと思った。



 翌日の放課後、私が急いで1年B組の教室を覗くと、荷物をまとめている星空瀬梨香を発見した。私は駆け出して、彼女の手を取る。

「ねえ、星空さん。この前のことなんだけど」

「なに?」

 彼女は私を見ないで黙々と教科書をスクールバッグに詰めていく。そのすらりと伸びた手先は震えているように見えた。

「あのさ、その、教えてほしい。どうして泣いたの?」

「どうしてあなたが知ってるの」

「噂だけは、広まるのが早いみたいで」

「まあ、いいけど」彼女の手がぴたりと止まって、横目で私を見る。

「私と関わりたくなくなった? 私は嬉しい限りだけど」

「違う。違うけど、あなたが人を殺したかどうかなんてわかりきったことよりも、知りたいことが増えただけ」

「そう? じゃあ話すから、話したら私と二度と関わらないこと。約束して」

 彼女は無表情で言う。どうして彼女は私を、いや他人をここまで拒絶するのだろう。

「…………いいよ」

 私はたっぷり間を取ってから、頷いた。

「正直私にもわからない。気づいたら泣いてて、止まらなくなって、苦しくて」

「それは」

 彼女は私を制止する。

「まだ終わってない。私には大切な人がいたの。かけがえのない、本当に本当に大事な人。私はその人に捨てられた。わりとその人以外どうでもよくて、よかったのに、その人にとって私はそうじゃないんだなって。今はずっとその人にもう一度だけでも会うことばかり考えてる」

 私は彼女の瞳をじっと見る。他人にまるで興味のなさそうな彼女にそんな人がいることにひどく驚かされて、相槌すら打つことができない。それに、彼女にそこまで言わしめる人間がどんな性格で、どんな容姿をしているのか、すごく気になる。

「いつものようにその人のことを考えてたら、なんだか急にさみしく、悲しくなってきて。ああ、私捨てられたんだって。そしたら絶望ばっかりになって、よくわからなくなって、気づいたら泣いてた」

「……今みたいに?」

「え……?」

 彼女が瞬きをすると、まつ毛が濡れて涙が零れ落ちた。

「あ……まただ……」

「ああ……つむぎ、つむぎっ、つむぎつむぎ」

 星空瀬梨香は堰を切ったようにわあっと声をあげてその場に崩れた。スカートがへたりと萎れている。彼女の痛い、子供みたいな泣き声と雨音だけが教室に虚しく響く。

「……そっか」

 よく考えてみればそうだ。

 表情が真っ黒だったのも、他人に興味ないのも、拒絶をしていたのも。

 この子も、星空瀬梨香も、私とは少し違うけれど。

「歪んでるんだ。瀬梨香も」

 彼女は鼻をすすり、地べたに崩れている。時々つむぎ、つむぎと誰かの名前を呼んでいた。私は彼女彼女その様子を見下ろすように眺めていた。

 私は隣にしゃがんで、彼女のなだらかな背中を撫でる。

「私、勝手に喋るから聞いても聞かなくてもいいよ」

「ごめん。瀬梨香。首を絞められた痕のことなんだけど、あれ全然後ろめたいことじゃなくって、その」

 彼女からは相槌の一つもない。雨の匂いがぱたぱたという音とともに濃くなっていく。

「最初は瀬梨香のことが知りたくてあんな嘘ついたけど、まさかここまで瀬梨香が心に傷を負ってるなんて知らなくて、だからその、ごめん」

 彼女は顔を伏せているから泣いているのか泣いていないのかわからない。私の話を聞いてるか聞いてないのかもわからない。それでも私は言葉を紡ぎ続ける。

「ここまでのことを知ったのに、私からも何も後ろめたいことを言わないだなんて、瀬梨香のいう対等じゃないと思うから、私から伝えさせて」

「私、あなたに首を絞められたい」

 びく、と泣いていた彼女の背中が跳ねた。

 私はトマト缶を開け、フライパンに全てぶちまけるように、全て吐露した。私の、彼女への、赤くて歪んだ気持ち。

「は…………?」

 彼女はぱっとまつ毛を上向かせる。涙を浮かべて赤くなった目は綺麗だった。

「これが、私の後ろめたいこと」

「いや、じゃああのとき笑ってたのは、普通に笑ってたの?」

「自覚はない。でも」

「いや、するわけないでしょそんなこと。したらつむぎに本当に会えなくなる」

 星空瀬梨香は震えた涙声でそう言った。

 本当に会えなくなるだなんて、そのつむぎって子に捨てられたくせに。

 そのセリフは雨音の裏に隠した。

「瀬梨香はさ、死にたいって思うときある?」

「ないわけない。今も、つむぎにいなくなられたときならずっと、ずっとずっと死にたいって思ってる。もう人と関わりたくないし、このまま消えてなくなりたい」

 彼女は涙を零しながら私にぶつけてくる。理性が吹き飛んでいるのか、本当によく喋ってくれる。それが私にとってはかなり心地がいい。けれど、同時に、胸の奥のざわめきが心地悪い。吐き気すら覚える。

「でも、つむぎに会えるなら、また会えるかもしれないから、私は」

「諦めようよ」

 私は瀬梨香の両肩に手を置いて。

「やめて」

「――させてくれたっていいじゃん?」

「いいわけないでしょ」

 私は彼女に止められた。

「私はあなたの首を絞めない。つむぎのことも諦めない。あなたとも関わらない」

「瀬梨香」

「触らないで。名前も呼ばないで」

 彼女は涙を零しながら気丈に振る舞う。ある程度まで進行したジェンガみたいに、歪んだところをとんと押したらすぐにガラガラと崩れるのに。

 可愛い。壊したい。

「そのつむぎって子さ、あなたにとってどんな人なの?」

「教えない」

「もしかして好きな人? 女の子好きなの?」

「教えない。帰る」

 彼女は力なく立ち上がって、スクールバッグを手に取った。私は彼女の前に立って退路を塞ぐ。

「つむぎちゃんとは付き合ってたの? ハグは? キスは? セックスはした?」

「教えない」

「付き合ってたらなに。してたらなに。あなたになんの関係もないでしょ? もう関わらないで」

「あなたがつむぎちゃんのことを諦めないように、私もあなたと関わることを諦めない」

「ううん。諦めさせてあげるよ。つむぎちゃんのことがまだ好きだから辛いんだもんね?」

「……」

 彼女からの回答はない。そういう反応も可愛い。きっと図星だ。窓を泳ぐ雨の粒が多くなっていく。

「瀬梨香。私のこと好きになりなよ」



 終わった。

 私はズキズキと気持ち悪い感覚にいつまでも浸されていた。制服は脱ぎっぱなし。リボンは解いて手に持ったまま。ベッドに大の字に転がる。

 私は瀬梨香に取り返しのつかないことを言った。告発されたら三者面談、反省文、最悪退学。

「あーあ」

 少なくても私と瀬梨香の関係は終焉を告げた。鳴り続ける雨音はカーテンコールさながらの勢いだった。

 むきになった。感情が昂った。胸の奥が気持ち悪くて、むかむかして。初めての感情が後味悪くまとわりついている。

「ああ、そっか」

 すとん、と私の中で答えが落ちる。

 私の言葉で表せなかった感情の名前。

 嫉妬だ。

 多分、つむぎという女の子に嫉妬した。

 あれだけ瀬梨香をぐちゃぐちゃにできて、めちゃくちゃにして、二度と忘れられないようにキスマークみたいな印をつけて。

「……うらやましいんだ、わたし」

 瀬梨香の終わっている性格を考えれば、きっとつむぎも積極的に人と関わるタイプの人間なのだろう。少なくてもあの瀬梨香からアプローチしにいくことは考えにくかった。

 私とつむぎ。一体どこが違うのだろう。

 私は首を絞めてもらえるのはおろか、お近づきにすらなれないというのに。

「はー」

 とりあえず明日の学校が先生に怒られるところからスタートするという事実だけで、私はげんなりとした。

 瞳を閉じると、まぶたの裏に瀬梨香の泣き顔が投影される。

「瀬梨香とキス、してみたかったな」



「神城。ホームルームが終わったら理科準備室に来るように」

 終わった。

 私は「は」と細かく息を吐く。まあ、予想通りだ。

 この学校に入学してたら三月も経っていないのに、もうこの有様か。まあ、星空瀬梨香という人間に執着しすぎてはいたし、つむぎに嫉妬した私が悪いのは明白だった。

 今日のミニトマトは味がしないだろうな、と思った。

「入れ」

 理科準備室をノックすると、高圧的な声が聞こえる。あんまり覚えてないけれど、多分学年主任だ。

「失礼します」

 ドアノブを捻ると、そこには学年主任らしき女と、星空瀬梨香が向かい合って座っていた。

「私の隣に座れ。神城」

「はい」

 うざ。

 おばさんというほど老けきってはいないが、白髪とそれを染めた境界線が目立っていて、気持ちが悪かった。

「さて、昨日の件についてだが、神城。お前は彼女に何をした?」

 星空瀬梨香はじっと俯いたままだ。被害者面は随分と上手らしい。

「話をしてたら、星空さんが突然泣き出しちゃって、それでびっくりして、背中をさすりました」

「それは目撃した生徒の話の通りで、嘘ではないな。その生徒からは神城が『泣かせている』との通報だったが、星空。授業中に突然泣き出して早退したことがあったな?」

 上辺だけでよくいう。実際私は瀬梨香を泣かせたわけじゃない。瀬梨香は本当に勝手に泣いたのだ。

 ……というか、周りを全く見ていなかったからわからなかった。瀬梨香が直接チクったわけじゃないのか。彼女は被害者面をしていたわけではないらしい。

「はい」

「それと関係あるのか? 神城とどんな話をしていた」

「授業中にどうして泣いたの? って神城さんに言われたので、理由を説明しました。そしたら過去がフラッシュバックして、涙が出ました」

「その過去とは?」

「言いたくありません」

 彼女は食い気味に答える。主任の眉尻がぴくりと動いた。

「言いたくないか。何かと多感な時期だろうから気持ちはわかる。が、神城には教えたのだから、私に言わない道理はないだろう」

 正直に「好きだった女の子が忘れられなくて、泣きました」だなんて言えるわけがない。瀬梨香がどうするか、私はじっと見ていた。

「神城さんとはちょっとした約束をしていたので言いました。不本意ですが」

「不本意? 脅したのか神城」

「断じて違います」

 私は瀬梨香を睨む。無表情、俯き加減なのは変わらない。私に話題を振らないで欲しい。

「脅して過去を詮索したのなら問題だぞ? 正直に言え。脅したか? 星空は脅されたか?」

 一芝居打つか。私も俯いて、小さく咳払いをする。

「脅してませんっ」

 声をわざと振るわせる。瀬梨香がちらっと私を見たような気がした。

「実は私、虐待を受けていて。首に痕があるんです。それに星空さんが気づいて、そしたら、『詮索してごめんね』って星空さんも傷ましい過去を教えてくれたんです」

 こんなところか。

 私は恐怖しているふり、怯えているふりを混ぜて声を震わせた。主任は馬鹿なのでまるっきり信じたかのように、溜息混じりで「そうか」と言った。

「虐待については触れないでおく。神城は星空のどんな過去を知ったんだ?」

 私は瀬梨香を見る。目は口ほどに物を言うとはまさにこのことだ。

「星空さんも、中学生の頃にいじめを受けていたみたいで、それを……」

 私は声をさらにか弱くして言った。学年主任はそれを聞いてから、「なんで黙ってたんだ」と瀬梨香に一つ強めに浴びせてから、パイプ椅子に雑に座った。

「事情はわかった。どうやら神城が星空を泣かせたというのは事実無根だったようだな」

「とはいえ、お前たち二人の内部事情には触れないし触れられないが、他の生徒からすれば神城が星空を泣かせているように映っていたのも事実だ。以後疑わしいようなことはしないように」

「はい」

「はい」

 私達の小さな返事が偶然重なった。

「以上。戻っていいぞ」

 私たちは二つ返事とお辞儀をして、その場はお開きとなった。

「さっきの嘘、ありがとう」

 二人で教室に戻る途中、瀬梨香は目を合わさずに言った。瀬梨香のミントの香水が香る。

 私は瀬梨香の過去を捏造までして庇ったのに、たったそれだけ。たったそれだけのことなのに、それでもすごく胸が弾んで、ミニトマトはやっぱりいつもより味がしそうだった。


 放課後になっても、瀬梨香の元へ行くことはしなかった。それどころか、帰る気力もなくて自分の席に伏せたまま、動くことができなかった。

 契約は終わった。だから、今日の面談を最後に、瀬梨香との関係も終わった。瀬梨香にとっても、私と一緒にいる理由も意味も必要もない。もっともっと嫌われただろうし。

 これは、恋だったのだろうか。

 これまで、特定の誰かに首を絞められたいと思ったことはなかった。瀬梨香を除いて。

 瀬梨香が人殺しだから? 瀬梨香が可愛いから? 可愛いのに、その表情は真っ黒だから?

 そもそも、私は瀬梨香に首を絞めてもらうことで、もっと好きになって、瀬梨香とどうなりたいのだろう。

 友達か、首を絞めてもらう関係なのか、恋人か、セフレか。私の場合、後者の意味するところは変わってくるような気もする。

 そして、瀬梨香と一定の関係を築くことができたとして、私は瀬梨香とどんなことをしたいのだろう。

 放課後デートとか、映画を観るとか、家にいくとか。人には見せられないこと、とか。

 きっと、どれも違う。

 どれも違うから、恋なのだと思う。

 この痛みなら、瀬梨香と分け合えることができるかもしれない。それを諦められない気持ちなら、瀬梨香とわかりあえるかもしれない。

 星空瀬梨香にとってはつむぎ以外はただの他人だ。もちろん私も例外なく他人だ。彼女にとっての特別になることを彼女は何人にも許すことはない。それでも、星空瀬梨香のいう「他人と関わりたくない」の他人に、私を含めないでほしかった。私が歪んでいたとしても。

 初めて知る痛み。初めて知る息苦しさ。

「…………気持ち悪い」

 自分の心臓を押さえる。その拍動を感じるたび、痛みも増していく。

 初めて知る失恋の痛みは、最悪だった。


「……ん」

 ゆっくりと瞳を開ける。畳んだままのプリントと、熟しきっていないトマトみたいな夕日と、どこからか聞こえてくる吹部のメロディー。ゆっくりと海へと流れていく下流のような、穏やかな放課後。私は現実へと引き戻された。

「帰ろうか……な」

 私が椅子を引いたところで、少しだけ躊躇う。

 どうしてだろう。嗅いだことのある、ミントの香りがどこからかする。

「え」

 予感がしてふと横を見ると、なぜか瀬梨香が隣の席で本のページを捲っていた。

「起きた? 神城さん」

 パタンと本が閉じられた。

「あ……寝顔、見られちゃったかな」

 私は平静を装って、もう一度机に体を預ける。机には私の体温が残っていて、その反射を感じられた。

「瀬梨香は、どうして、ここに?」

「今日はありがとう。でっちあげてくれて」

 寝顔には言及しないんだ。

「いいのいいの。でも無視は悲しいな」

「用件はそれだけ。じゃあね」

「待って」

 私は本をかばんに押し込めて席を立とうとした瀬梨香の手を絞める。

「離して」

「ありがとうを言うためだけに私のこと待ってたの?」

「そうだけど」

「ふーん、まじめなんだね」

 一瞬だけ、瀬梨香の瞳が揺れた。

「……まじめなら学年主任に呼ばれたりしない」

「あはは、それもそうだね」

「さよなら」

「ねえ、本当に、本当にそれだけ?」

「そう」瀬梨香は素っ気ない返事をして席を立つ。私はもう一度呼び止めて瀬梨香の手首を強く掴む。

 このまま瀬梨香を行かせてしまうと、知り合い以上友達未満のクラスメイトのように、私は瀬梨香ともう二度と関わることができなくなるような気がしていた。それは、絶対に嫌だ。

「なに?」

「あのさ、違うよね?」

 立ちくらみがして、少しふらついた。少しの頭痛と、心地いい息苦しさと、夕焼けと、目の前の星空瀬梨香。今の状況がよくわからなくて、笑みが漏れた。

「対等、でしょ?」

 私がその単語を口にすると、瀬梨香は少し揺れた。

「私がさっき瀬梨香を庇ったから、瀬梨香はそれと同価値のことを私にするためにここにいたんじゃないの? だって、私と関わってくれたときはいつも対等を気にしていたから」

 自分でも驚くぐらいしっくりくる言葉を、私の口が自分の脳を介すことなく滑らかに話した。自分で言っておきながら、確かにと感心する。確かに瀬梨香は対等にこだわっていた。

 瀬梨香は溜息を吐いて、「手、放して」と真っ黒なまま訴えかけた。私は瀬梨香の言われたとおりにする。

「そうだけど、お礼を言ったから、それで終わり」

「それなら、廊下でも言ってくれたでしょ。今もう一度言う必要はなかったんじゃない?」

「あのときは時間がなかっただけ」

 瀬梨香が私に背を向けるから、私は彼女の手首をもう一度掴む。

「なんでもいいけど、それだとまだ足りない。瀬梨香が私にしてくれることを私に決めさせてよ。あのときの契約みたいに。そうじゃないとむしろ対等じゃない」

「たとえば? 私はあなたに何をすれば対等なの?」

「前はずっと関わっていたかったから契約をなかなか履行しなかったけど、今回はすぐに対等にしてあげる」

「それは?」

 瀬梨香の表情は私の言葉では全く変わらない。私も同じ表情でありたいけれど、心臓がうるさくて、同じ色を出すことが、きっとできていなかった。

「…………絞めてよ、私の、ここ」

 がた。瀬梨香は椅子から立ち上がって、私を覗き込む。前に壁に押し付けられたときは何も感じなかったのに、今は平静を保つことができなかった。

「っ、」

 瀬梨香は何を考えているか全くわからない。冷たくて、真っ黒。

 だから苦しくて気持ちいい。だから好き。

「神城さんって、やっぱり気持ち悪いね」

 そういうと瀬梨香は長い爪を私の喉元に突き立てた。

 背筋がゾクゾクする。肌が粟立って、汗が滑り落ちる。

「……でも」

 私は瀬梨香の肩を押す。前髪に私の吐息が触れて、瀬梨香は少し離れた。

「瀬梨香にその意思がないのは知ってる。だから、別のことをしてもらおうかな――」

「いいよ」

「えっ」

 星空瀬梨香は私をひどく冷たい目で刺してから、もう一度私の喉元に爪を立てた。

「絞めてあげるよ。神城さんの首」


 自分でもよくわからない。

 学習机、シングルベッド、レース、カーテン、カラーボックス。何十年も過ごしてきた私の部屋。特別好きだとか、理由は特にないのだけれど、なんとなく生活感があまりない部屋にしたくて、両親から買ってもらう家具は全て白で統一していた。曇りのない色。そこに、一点の黒色がぽつんと立っている。

 星空瀬梨香が、私の部屋にいる。

「そこ、座っていいよ」

「ありがとう」

 私は学習机とセットになっている椅子を指差した。瀬梨香は素直にそこに座る。背筋はぴんと伸びていて、膝と膝はきっちりくっつけられている。

 遡ること数時間前。瀬梨香はあろうことか私の首を絞めることを、承諾した。

「絞めてあげるよ。神城さんの首」

 そのセリフを聞いたときから、瀬梨香と無言で歩いた通学路、私の家まで、私は何度も自分の頬をつねったり引っ張ったりした。けれどしっかり痛くて、これは夢ではないことを思い知った。

 私はこれから、瀬梨香に首を絞められる。

 頭がおかしくなりそうなほど緊張していて、興奮が止まらなくて、心臓がうるさい。手先がわずかに痺れる。

「早く終わらせよ」

 瀬梨香はじっと私を見ている。黒くて、綺麗だ。

「待って。その前に、理由を聞かせて。どうして、承諾、してくれたの」

 喉が勝手に震える。瀬梨香は真っ黒な表情のまま、両手を組んだ。

「それをあなたに話す必要がない」

「でも、私は絞められる側なんだからさ」

「私に首を絞められたいだけでしょ? なら、黙って絞められていればそれでいいんじゃない」

「それは」私が続きを言おうとしたところで、瀬梨香がゆっくり席を立つ。一歩でベッドに座っていた私に近づいて、両肩に手を置いた。

「どうやって絞めればいい?」

「……好きにして」

「そう」

 ぐらりと身体が傾く。瀬梨香に頭が枕にくるように押し倒されて、ベッドの上で二つの身体が跳ねた。瀬梨香は私の腰あたりに馬乗りになって、瀬梨香の少し長い髪が私の視界から光を奪った。

「顔、赤い。ほんとうにこういうことされるの好きなんだ」

 私の浅い呼吸が、白かった部屋に響く。瀬梨香の言葉一つ一つが、行動一つ一つが官能的で、嗜虐的で。

 気持ちいい。

 私が何も言えずにいると、瀬梨香の両手がするすると私の首に巻きついた。

「やっぱり気持ち悪いね。天音は」

「あっ」

 名前を呼ぶなんて、ずるい。

 そう思う間もなく、瀬梨香の両手に力が加えられたのが、私の喉の圧迫感から伝わった。酸素の供給が極端に少なくなっていく。

「ああ、あ」

 私、今、好きな人に、瀬梨香に首を絞められている。

「せりか、せり、か」

 声を必死に出しながら、力のこもった瀬梨香の両手首を、私は掴む。瀬梨香の表情は相変わらず真っ黒だ。瞳が濡れたようにしっとりと光っているけれど、目の奥にはなんの感情もないように見える。それが、気持ちいい。

 苦しくて、気持ちがよくて、気持ちがよくて、苦しくて、脳に酸素がいかなくなって、思考が単純になっていく。ひたすら純な、私の気持ちが浮き彫りになる。

「せっ、りか。せりか。好き。好き」

「好き。瀬梨香が、好き」

「…………」

 瀬梨香は力を抜いて、私の首から両の手を離した。

「はっ、はっ、はっ……せ、せりか……?」

「おしまい」

 どうして。そう言おうとすると、瀬梨香は私の乱れた髪を直してくれた。初めて見せる優しさとか、たまに垣間見える律儀さみたいなもののせいで余計にわからなくなる。

「私、それだけじゃ足りない」

 私を無視して、瀬梨香は私のベッドから降りた。

「私はやっぱりつむぎのことを諦められそうにない。そして、あなたのように跡がつくほど強く絞めるだなんて、やっぱりできない」

「そんなこと、最初からわかってたはずでしょ? それならどうしてここまで来たの?」

 瀬梨香は「はあ」と冷たく息を吐いた。私の言葉は瀬梨香にはまるで届かないことを、象徴しているみたいだった。私がどんな色の言葉をかけても、それがたとえ黒色でも、黒色の瀬梨香は影響されずに黒のままだ。

「知りたい?」

「教えて?」

「それはね」

「――」

「! …………」

 瀬梨香は私の耳にそっと――たった一言をさらりとささやいた。いつまでも耳に残りそうな、呪いの色をした言葉。黒色ではない私の心が、瀬梨香の色に侵食されていく。

「だからここまで来たの。さよなら。お邪魔しました」

 瀬梨香はあっさりと私の部屋から出ていった。私は止めなかった。いや、止められなかった。

 それから階段を降りる音が聞こえて、さっきよりも大きめのお邪魔しましたが聞こえて、玄関の開く音が聞こえて、閉まる音が聞こえて、瀬梨香がさっきささやいた言葉が聞こえてきた。

 ああそうか。

 瀬梨香は暗いとはいえ、顔はあまりにもよかった。そんな瀬梨香が女子高でも告白されないだなんてこと、あるはずがなかった。そして彼女自身も好きな人に心を壊されている。だから、血も涙もない、確実に相手の心を壊す言葉を知っているし、好意を持って積極的に近づく人にその呪い色の言葉を使っていた。そうするうちに、人殺しだなんて噂が流れて、敬遠されるようになったのだ。

 ――そういうところが、好きな人にそっくり、と。

 ――あなたが好きな人に似てるから、近づいたの、と。

 その言葉で、片想いしてきた相手を殺してきたのだ。

「星空瀬梨香は、確かに人殺しだ…………ふ」

「はは、あははっ」

 私は次第にこらえなくなって、思いきり笑った。

「ほんと、瀬梨香って最低で、面白い」

 私は乱れた制服を整えて、急いで玄関へと向かう。玄関からあたりを見回しても、そこに瀬梨香はいなかった。

「瀬梨香。私、あなたのこと諦めないから」

「あなたに絞殺されるまで、あなたに殺されたりしないから!」

 ローファーに手をかけようとしたところで、薄汚れたスニーカーに変える。瀬梨香がどこへ向かったかなんて勿論しらない。でも、私なら瀬梨香がどこにいても見つけられそうな気がした。

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あなたが彼女に似てたから。 割箸ひよこ @Wrbs145

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