【完結】チョコミント・アイスクリーム(作品240527)

菊池昭仁

チョコミント・アイスクリーム

第1話

 俺はわたるを乗せたベビーカーを押しながら、めぐみとフードコーナーを一緒に歩いていた。


 「チョコミント・アイスが食べたい」

 「好きだな? チョコミント」

 「甘くて爽快で好きなのよ」

 「俺はダメだな? 歯磨き粉味のチョコレート・アイスを食べているみたいで」

 「あはははは 自分たちのお笑いコンビと同じ名前じゃないの? 『チョコミント・アイスクリーム』って。

 ねえ渉、パパ、面白いね?」


 めぐみはそう言って笑った。

 めぐみがこうして笑えるようになるまでの道程みちのりは長かった。




 精神科医の俺はいつも遅刻ギリギリに病院にやって来る。

 髭も剃らず、髪は寝ぐせがついてボサボサ。ネクタイもヨレヨレだった。

 そんな私を女房の香織はすっかり見放していた。他に男もいるようだった。


 

 「山本、お前、酒臭いぞ。また朝まで飲んでいたのか? ここまで臭うぞ」

 「朝までじゃなくて、朝だ」


 イケメン内科医の井上は顔をしかめた。井上とは医学部の同期だった。

 私は井上が記入した患者の電子カルテをiPadで眺めていた。

 

 「相楽さがらめぐみ、30歳か? 子供はなく現在は独身。夫は職場の上司からのパワハラが原因で自殺。それによりうつ状態となり、睡眠薬の多量摂取による自殺未遂を図ったと? 今の睡眠薬ではどんぶり一杯でも服用しない限り、死ねないけどな? それでウチの病院に運ばれて来たという訳か?」

 「そういうわけだからよろしく頼む」

 「わかった、何とかするよ」


 俺はまだ酔いが醒めてはおらず、ペットボトルの冷たい水をがぶ飲みした。


 「あー、飲んだ後の水は最高だなあ! うめえー!

 それじゃあ水谷、患者さんを呼んでくれ」

 「わかりました」


 看護士の水谷が患者さんを診察室に招き入れた。


 「相楽さーん、こちらへどうぞー」


 相楽めぐみが診察室に入って来た。それはまるで世界が終わったかのような、能面のように無表情な女だった。

 


 「おはようございます、相楽さん。精神科医の山本です。

 辛かったですよねー? 大変だったよねー? いいんですよ、悲しい時は思い切り悲しんでも。

 人間はね、嫌なことや辛い記憶はみーんな消えるように、神様が脳をプログラムしてくれているんだよ。 だからそんな顔をしないでほら笑って、スマイル、スマイル。後は時間が解決してくれるから」


 だがめぐみは笑わなかった。


 「先生、教えて下さい。人間はどうして自殺してはいけないんですか?」

 「それは死んじゃダメだからだよ。相楽さんが死んだら、あなたを愛してくれている人たちが悲しむでしょう?

 人間の命はね? 神様が与えてくれた大切なものだから粗末にしちゃあダメ、わかるよね?

 人間には天寿を全うする義務があるんだ。

 人はね? 病気や事故で死ぬんじゃないの、寿命で亡くなるの。

 だからそのプログラムを自分で勝手に変更することは神様への冒涜ぼうとくになるんだよ。これはわかるね?

 神様は人間が自ら命を終わらせることを望んではいないんだから」

 「死んだら人間はどうなるんですか?」

 「どうなるんだろうね? 僕は死んだことがないからわからないな?」

 「死んだこともないくせに、偉そうなこと言わないで下さい。

 そんな先生に私の死にたい気持ちなんか、わかるもんですか」


 俺は感情のないロボットと話しているのかと思った。抑揚のない声、彼女はすでに死んでいるかのようだった。

 人は生き甲斐がなければ生きられない、俺はこの患者を見てそれを再認識した。

 そもそも精神医学とは西洋の考え方であり、クレペリンによって精神障害が分類され、ユングやフロイトがそれを体系付けたものだ。

 だが精神科医である俺はそれに対して矛盾を抱えていた。

 うつ病だったり躁うつ病だったり分裂病だったりと、程度に差はあれ、精神疾患は誰にでもあるものだと。

 それを人は「悩み」と呼ぶ。そして悩みのない人間はいないのだ。

 昔の西洋人はロボトミーなどと称して感情を司る前頭葉を外科的に手術をして行動を抑制するかわりに、人格と知性を犠牲にしたのである。

 最近では研究も進み、精神治療は薬物治療が主流ではあるが、それで心の病は完治したと言えるのだろうか?




 相楽めぐみには感情がなかった。

 俺は今朝、愛人の葵からSEXのやり方が最近雑になったと言われてケンカになり、虫の居所が悪かったせいもあり、自分が精神科医であることも忘れ、めぐみにぶちキレてしまった。


 「ああ、わかんねえよそんなの! 

 アンタだけじゃねえんだよ! 死にたい連中なんて山ほどいる!

 そんな人たちと俺は毎日のように接して、俺の方がおかしくなりそうだ!

 年間の自殺者が何人いるか知ってるか? 2万人だよ2万人!

 自殺未遂はその何倍いると思う? そして自殺を考えた事のある人間はさらにその何十倍、何百倍にもなるんだ!

 甘ったれんなバーカ!

 誰がアンタのウジ虫の湧いた死体を片付けるんだよ!

 みんな忙しいのにやれお通夜だ、お葬式だ、四十九日だなんて、香典まで包んで迷惑なんだよ! まったく!

 旦那が死んだ奥さんなんてな? 世の中にはいくらでもいるんだ!

 ちょっとくらい美人、イヤ、かなり美人だからっていい気になるなよ! バカ貧乳!」


 するとめぐみはゆっくりと私に言った。


 「そうですよね? 私、甘えていました」

 「分かればいいんだよ、分かれば」

 「私、今度こそ皆さんにご迷惑をかけないように死んで見せます。

 今日は本当にありがとうございました。これで主人のところへ行けます」

 「オイオイ、それじゃ何にもならねえだろう?

 俺はね? だから死なないでねって言ってるの!  

 それじゃ俺が自殺幇助になっちゃうでしょうが!

 医者が自殺の手助けをしてどうすんの! 俺は患者さんの心を安らかにするのが仕事なんだから!」

 「先生のおかげでまた死ぬ勇気が湧いて来ました」

 「バカ野郎! 死ぬ勇気じゃなくて生きる勇気を持てよ! 取り合えず入院!」


 それが俺とめぐみの初めての出会いだった。




第2話

 「ちょっと! 何をぼんやり考えてんのよお! せっかく盛り上がるところだったのに! 奥さんの事でも考えてたんでしょう! コイツめ!」

 「今日、変な患者が来てさ、そのことが頭から離れないんだよ」


 俺はベッドから降りて、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、一口それを飲むとあおいにそれを渡した。

 葵が缶ビールを両手で持って飲む姿は、まるでラッコのように可愛らしかった。


 「お前、ラッコみたいだな?」

 「かわいいでしょ?」


 葵は同じ大学病院の消化器内科のナースだった。25歳。

 若いが優秀なナースだった。

 病院の飲み会からの帰り、ホテルに誘ったらそのままついて来た。それからの付き合いになった。

 まともな医者になろうとすればするほど、俺は自分が侵食されていくように感じた。

 女を抱くのもそれを誤魔化すためだ。


 「ねえ、いつになったら私を山本「葵」にしてくれるの? 奥さんとはいつ卒業するのよー」


 ふくれっ面をする葵。


 「うるせえなー。もうすぐするよ。

 慌てるなんとかは貰いが少ないんだぜ。愛があればそれでいいじゃねえか?」

 「だって愛は目に見えないじゃない? 精神科のドクターのくせに、女心ってもんがわからないんだからもうー。

 そんなこと言って、本当はもう私に飽きたのね? このエロドクター! これ、齧っちゃうぞ!」

 「馬鹿野郎、俺が葵に飽きるわけねえだろう? こんなに濡らしやがって」

 「あんっ」


 そして俺たちのベッドでの「プロレスごっこ」が再開された。


 「ごめんね耕ちゃん。またあなたを苦しめるようなこと言って」

 「俺の方こそ、貧乳ブスなんて言ってごめんな?」

 「貧乳ブス? 何よそれ! 私、貧乳でもブスでもないから! 誰と間違えてんのよ!」

 

 俺は今日、相楽めぐみに言ったことをつい、葵に言ってしまった。


 「今日、その患者にブチ切れてしまったんだ。

 俺は精神科医、失格だ」

 「どうしてそんなこと言ったの?」

 「あんまり「死ぬ死ぬ」ってわめくくからついカッとなって言ってしまったんだ」

 「精神科医だって人間だもんね? しょうがないよ」


 葵と俺はいつもこんな感じだった。お互いに気を遣わない関係だからこそ、俺たちの関係も続いていた。

 それにしても今日は最悪だった。

 私は精神科医としてあるまじき行為をしてしまった。患者に対して酷い暴言を吐いてしまった。しかも重症なうつ病患者にだ。

 そりゃあわかるよ、誰だって愛する人が死んだら「うつ」にもなる。でもそんな話はいくらでもあるじゃないか?   

 精神科医の俺でも落ち込む時はあるんだから。


 小学生の時、柴犬のゴンちゃんが死んだ時は食欲もなくなり、病院に行ったら栄養失調だと言われ、尻に大きなブドウ糖の注射をされた。

 だがそれは、俺に反省する機会を与えてくれた。



       ゴンちゃんにもっと優しくしてあげれば良かった



 人は多くの悲しみや苦しみを乗り越えて成長していく生き物だ。

 あのライゲップだって、まずは筋肉を過酷なトレーニングでズタズタにして、それによりその筋肉がより強靭な筋肉として再生させるというではないか?

 つまり、心が傷付き折れることで、心が強くなるということでもあるのだ。


 (相楽めぐみ。俺に彼女が治せるだろうか?)




 相楽めぐみが退院して一週間後、再び相楽が俺のところにやって来た。


 「相楽さん、先日はごめんなさいね? 患者さんであるあなたにあんな酷いことを言ってしまって」

 「いえ、全然気にしていませんから大丈夫です」

 「それで今日はどうしました? まだ気分が落ちているようですが」

 「先生にご相談がありまして」

 「何でしょうか?」

 「どうしたら誰にも迷惑を掛けずに死ねるんでしょうか? その方法を教えていただきたいのです」

 「そうですねえ~、では餌になるのはどうでしょう?」

 「エサ?」

 「はい。魚や鳥、ライオンとかに食べられるというのはいかがでしょうか? 神の国から火をこの世にもたらしたプロメテウスは、鷲だか鷹に生きたまま内臓を食べられたそうです。

 そうすれば相楽さんが死んでも食べた方は相楽さんが自分の血となり肉となって栄養になり、熱エネルギーとなって、あとはウンチとなって大地や海に排泄されてまた自然へと還る、つまりWin Winの関係になると言うわけです」

 「そうですか? となるとチベットか海ですね? アフリカは遠いので」

 「でもね相楽さん、先日もお話ししましたが、人は生きなければならないんですよ、命を粗末にしてはいけません」

 「先生、どうして人は死んじゃダメなんですか? 私はもう笑うことも泣くことも出来なくなりました。そんな私に生きる価値はあるんでしょうか?」

 「この世には「価値のない人」なんて誰もいません。生きているだけで人間は意味がある存在なんです」

 「それはどんな意味ですか?」


 (まずいぞ、またこの前と同じパターンになってきたじゃないか。

 ヨシ、こういう時は質問に質問で返すのが一番だ)


 「では相楽さんはどんな意味があるとお考えですか?」

 「それが分からないから訊いているのに、この変態ドクター」

 「今、なんつった? えっ?

 変態ドクターって言ったな! 確かに俺は女は好きだが変態ではない!」

 「では改めさせていただきます。セックス大好きドクター」

 「セックスをキライな人間なんていない! 性欲、食欲、睡眠欲は人間の三大欲求だ!

 アンタみたいな患者は松島トモ子みたいにライオンに食われてしまえ! 今日もこのまま入院!」


 俺はまた、精神科医としてあるまじき行為をしてしまった。 

 

 


第3話

 毎日心に病を抱えた患者たちが次々と俺のところへやって来る。

 発達障害、不安症、ジスキネジア、パーソナリティ障害、心的外傷ストレス障害(PTSD)、不眠症、うつ病、レム睡眠行動障害、双極性障害(躁うつ病)、統合失調症に適応障害、パニック障害、摂食障害に自閉症等々・・・。


 普通の医者は患者の体を診て治療をするが、精神科医は人の「心」を探り、普通の精神状態に戻すのが仕事だ。

 つまり精神科医は目に見えない「心」と向き合って治療をするのだ。

 人間の心とは海のようなものだ。いや、宇宙のように「あると思えばある」というように、どこまでも際限なく広がってゆくものだろう。心とは、



      我思う 故に我あり



 なのである。

 太陽が輝く空の下にある海は美しく穏やかでも、深海に向かって進んで行くと、闇はどんどん深くなって行く。

 健在意識と無意識の中にある潜在意識へと心の表情が変わってゆくのである。


 『ジョハリの窓』のように、人間には4つの自分が存在する。



         自分だけが知っている自分

         自分も他人も知っている自分

         自分が知らない他人が知っている自分

         自分も他人も知らない自分



 様々な精神障害と向き合っていると、患者に自分が引き込まれてしまうことがある。

 相楽めぐみはそんな患者のうちのひとりだった。

 死への憧憬。

 俺も時々彼女の世界へと引き摺り込まれそうになる時がある。



 「相楽さん、お亡くなりになったご主人とのツーショットのお写真はお持ちですか?」

 「はい」


 彼女はスマホを取り出し、俺にその待受画面を見せてくれた。

 俺は驚いた。そこには知的でやさしそうなご主人と、頬を寄せて満面の笑みを浮かべている彼女が写っていたからだ。

 

 (これがこの能面のように無表情な女と同一人物だというのか?)


 俺は彼女の顔を二度見してしまった。

 俺にはとても眼の前の彼女が同一人物だとは信じられなかった。


 「素敵なご主人ですね? それに相楽さんもとてもいい笑顔をされていらっしゃる」

 「もう主人はいません。先生、内緒で私に筋弛緩剤を注射していただけませんか?」

 「またそんなことを」

 「主人がいないこの世界で、生きることは死ぬことよりも辛いんです」

 「ご主人を愛していたんですね? でも死ぬほど辛くても死んではいけません。

 生きるのです、ご主人の分まで」

 「お願いです、私を死なせて・・・。先生、私を殺して下さい」


 私は段々この目の前の女が不憫ふびんに思えて来た。


 旦那は自宅の格子階段で首を吊って死んでいたらしい。

 それを買物から帰って来た彼女が見つけたそうだ。

 まるでサンドバッグのように吊るされた、旦那の遺体からは肛門が弛緩しかんし、糞尿が滴り、ペニスは勃起していたことだろう。

 死後硬直だと言えばそれまでだが、私はそうは思わない。

 それは自分の死にひんして、最後に自分の子孫を残そうとする「男の本能」ではないだろうか?

 電車に飛び込んだ人間はその恐怖のあまり髪の毛は一瞬で白髪となって逆立ち、ペニスは硬直している場合がある。

 本来人間は「死にたくない」はずなのだ。

 うつ病を発症する人間の殆どは真面目で自分に厳しく、常に周囲に気を遣い、完璧主義な人間が多い。

 妥協することを嫌い、他人を頼ることもせず、自分にこもりやすい性格の人で、主に女性がかかりやすい心の病だ。つまり真面目で「やさしい人」がおちいりやすい病なのだ。

 うつ病は脳内細胞で起きる脳内伝達物質、セロトニンやドーパミン、ノルアドレナリンなどの異常により引き起こされると考えられているが、未だにその起因システムはわかっていない。



       消えてしまいたい



 「何も考えない自分になりたい」と思ってしまうのだ。

 食欲不振または過食。何もすることが出来ず、気力も湧かず、無気力、無感動、無関心。

 不眠に自己否定感に被害妄想。

 そして自ら死に進んで行こうとする心理が働くのだ。

 そんな自分から逃げたいと。




 それから1ヶ月が過ぎた頃だった。俺も日々、多くの患者に忙殺されて相楽めぐみのことをすっかり忘れかけていた時、事件は起きた。



 「山本先生、相楽めぐみさんという患者さんからお電話です」

 「繋いで下さい」

 

 力の無い彼女の声だった。


 「先生、私、今、手首を切りました・・・」

 「すぐに救急車を向かわせます! 今、ご自宅ですか?」

 「はい・・・、助けて先生、私、死にたくない・・・」

 「大丈夫! あなたは死にませんから!」


 俺はすぐに119番をした。

 そしてすぐに手当が行われ、相楽めぐみは命を取り留めた。


 

 「本当に良かった、めぐみさんが死ななくて」


 俺は親近感を込めて、彼女を苗字ではなく名前で呼んだ。


 「先生・・・、ごめんなさい・・・」

 「大丈夫、もう大丈夫ですから。一緒に治して行きましょうね?」

 「山本先生、私、また笑えるようになるでしょうか?」

 「めぐみさんは笑えるようになります、きっと僕が笑えるようにしてあげます」

 

 めぐみの目から大粒の涙が溢れた。

 この時俺は危うくこの「患者」を抱きしめてしまいそうだった。


 (この患者を、めぐみを救いたい、守ってやりたい)


 俺は自分が精神科医であることを忘れた。

    

 再び俺は彼女を入院させ、カウンセリングと投薬治療を続けた。

 しかし、中々症状の改善は見られなかった。




 今日も多くの「狂人たち」の診察でクタクタになった俺は、自宅には戻らず葵のマンションに行くと、葵がテレビを見ていた。


 「あはははは あはははは」

 「何がそんなに面白いんだ?」

 「だってこのクラウン(道化師)、最高なのよ」


 そこにはパントマイムを演じている白人のピエロがいた。


 「この人ね? 昔、イギリスの優秀な外科医だったんですって。

 自分の恋人が笑わなくなってしまって、その恋人を笑わせてあげるためにドクターを辞めてクラウンになったのよ。あはははは あははははは」

 「恋人を笑わせるためにピエロにか?」

 「うん、いいお話でしょ? でもバカよね? 何も医者を辞めなくてもいいのにね? あはははは」


 俺にはこの元外科医だったという男の気持ちが痛いほど理解出来た。

 恋人の笑顔を取り戻すためにピエロになったというこの男の気持ちが。

 私の頭から、このピエロの姿が離れなくなってしまった。


 俺も医者を辞め、めぐみを笑わせてみたいと思った。




第4話

 精神科医の使命とは何だろう?

 心の病を治すことか? 心の病を完全に治すことは不可能だ。

 なぜなら心の病とは、人間の持っている特性、個性だからだ。

 物事には常に裏と表、陰と陽がある。太陽と月、コインの裏と表のようにだ。

 人間の心にも裏と表、陰と陽があるのだ。

 そのどちらかが強くなったり弱くなったりして、人間は存在している。

 悲しみと喜び うれしさと切なさ。それが人間なのだ。


 出来れば喜怒哀楽の「喜と楽」は、「怒と哀」の7割であるのが理想だ。

 そしてそれはあざなえる縄の如くに交互に訪れる。

 悲しみに沈んでいるめぐみを、俺はどうしたら笑顔にすることが出来るのだろう。

 彼女を笑顔にしたい、笑わせてあげたい。



 俺はめぐみが心配になり、自宅を訪ねてみることにした。

 その屋敷は高級住宅街にある、洋館のバラ屋敷だった。

 色とりどりのつる薔薇が咲き乱れていた。



 ピンポーン



 「山本先生? 今、開けます」


 モニターフォンを確認しためぐみが、玄関ドアを開けてくれた。


 「大丈夫ですか?」

 「わざわざすみません。心配して来て下さったのですか?」

 「ちょっと近くに用事があったので。大丈夫そうで安心しました。

 これ、私の携帯番号です。何か不安になることがあればいつでも連絡して下さい。

 24時間年中無休で営業していますから」

 「コンビニみたいですね?」

 「では今日はこれで失礼します。穏やかにお過ごし下さい。

 私が処方した薬はちゃんと飲んでいますか?」

 「ええ。もしお急ぎでなければお茶でもいかがですか?」

 「女性一人のお宅にお邪魔するわけにはいきませんから。

 「エロ精神科医だ!」なんて言われて『ミネネ屋』で報道されたくありませんから」

 「どうぞ上がって下さい。今お茶を淹れますから。それともお酒の方がよろしいかしら?」

 「それじゃあちょっとだけ」


 めぐみは俺にスリッパを勧めてくれた。

 広い玄関ホールには大きな階段があった。


 「ここに主人がぶら下がっていました」


 その下の大理石の床をしゃがんで撫でているめぐみの目からは涙が溢れていた。

 俺はその時、自分の精神科医としての無力さを知った。


 (この女を笑顔にしたい)


 心の病を治すとは「人を笑顔にすること」ではないのか?

 この女の悲しみを癒せない俺に、精神科医を名乗る資格はあるのだろうか?

 医者としての意味はあるのだろうか?

 私は思わず、そんなめぐみを抱きしめてしまった。


 「先生、私、生きているのが辛いの。このまま私の首を締めて私を主人のところへ送って欲しい、お願い、お願い先生・・・」

 「私は必ずあなたを笑顔にして見せます」

 「どうやって?」


 その時俺は葵の家で見た、あの道化師になった外科医のことを思い出していた。

 笑わなくなってしまった恋人を笑わせようと、必死に道化を演じているあの男のことを。


 「僕はお笑い芸人になります! そしてめぐみさんを絶対に笑わせて見せます!」

 「先生がお笑い芸人に? お医者さんのあなたが?

 ふざけないで下さい。私、お笑いにはうるさいですよ、ちょっとやそっとでは笑いません」

 「ふざけてなんかいません! 僕は本気です!」

 「お医者さんのお仕事はどうするんですか?」

 「辞めます。辞めてお笑い養成所に入ってお笑いを一から勉強します!」

 「誰かとコンビを組んで?」

 「ピンでやります!」

 「先生、心のクリニックに行かれた方がいいですよ」



 俺はすぐに教授に辞表を提出し、お笑い養成所に入学願書を提出した。

 確かに俺は狂っていたのかも知れない。

 だがめぐみを笑わせるために、俺は自分の人生をお笑いに賭ける覚悟を決めた。




第5話

 関口教授は俺からの辞表を見て困惑していた。


 「これは本気なのかね? 山本君」

 「はい、今までご指導いただきありがとうございました」

 「君には期待していたんだがね? 理由は何かね?」

 「医者を辞めてお笑い芸人になることにしました」

 「山本君、君は僕をからかっているのかね?」

 「いえ本気なんです。お笑い養成所に通ってお笑いの基礎から勉強しようと思っています」

 「精神科医の君が気でもふれたかね?」

 「そうかもしれません、でももう決めたことですから。

 教授、色々とお世話になりました」

 「山本君、君は疲れているんだよ。とりあえず休職扱いにしておくから少し休みなさい。

 これは僕が預かっておくから」


 そう言って関口教授は俺の辞表を机の引き出しに仕舞った。

 俺は教授に深々と頭を下げ、教授室を後にした。



 私が医者を辞めることはあっという間に病院中に広まった。



 「葵、大変だよ大変! アンタのコレ、病院辞めるんだってよ!」

 

 葵の親友のかおるは親指を立てて葵に言った。


 「まさか? そんなこと一言も言ってなかったわよ」

 「間違いないって、関口教授の秘書の礼子から聞いたんだから。

 しかも病院を辞めるどころか医者も辞めるって関口教授に言ったそうよ」

 「医者を辞めて何をするつもりかしら?」

 

 葵はまるで他人事のようにそう言った。

 葵はほくそ笑んでいた。


 (これで奥さんとの卒業は間違いないわね? いよいよ私の出番かあ。山本葵になるのね? うふっ)



 すぐに内科医の井上がやって来た。


 「今日、ちょっと付き合え」

 「早いな? もうお前にも噂が届いたか?」

 「とりあえず鮨でも食いに行こう、話はその時ゆっくり聞いてやるから」



 

 夜、行きつけの鮨屋で井上と鮨を摘みながら話をした。


 「それでどうして医者を辞めるなんて言ったんだ? 今ならまだ間に合う。辞表は撤回しろ。

 俺も一緒に関口教授に頼んでやるから」


 井上は吟醸酒を口にしてそう言った。


 「お笑い芸人になるつもりなんだ」

 「真面目に答えろ山本」

 「真面目な話だ。養成所に願書も提出した」

 「お前は関口教授からも一目置かれた精神科医じゃないか! お前が精神を疲弊させる気持ちはわからんでもないが、それはあまりに酷すぎる。助教授の五十嵐さんに一度診てもらった方がいいんじゃないか?」

 「井上、俺は至って正常だ」

 「とても正常な精神科医の行動とは思えん」

 「先日、お前から依頼された相楽めぐみを覚えているか?」

 「ああ、中々よくならないようだな?」

 「俺はどうしても彼女を笑顔にしてみたくなったんだ。彼女が腹を抱えて笑う姿がどうしても見たくなった」

 「彼女に惚れたのか?」

 「そう取ってもらってもかまわない。俺は精神科医の自分に限界を感じたのかもしれん。

 精神科医は患者を笑顔にするのが仕事だ。笑顔にするならお笑い芸人になった方が近道なのかもしれないと思ったんだ。人間の心は薬で変えられるものではないからな?」

 「香織さんにはどうやって説明するつもりだ?」

 「アイツとは離婚するつもりだ。俺たち夫婦はもうとっくに終わっている。

 後は慰謝料を払うだけだ」

 「そしてあのナースと再婚するつもりか?」

 「いやそれはない」

 「そうか。わかった、困ったことがあればいつでも相談に乗るからな? 大将、これと同じ物を。それから中トロを握ってくれ」

 「あいよ」


 井上は吟醸酒を飲み干した。



 

 井上と別れてタクシーに乗ると、葵からLINEが届いた。


 

       今夜 会いたいの



                今夜はダメだ



 俺はスマホの電源をオフにした。




 家に着くと香織は家にいた。今日は男と一緒ではないようだった。


 「井上先生の奥さんから聞いたわ。大学病院を辞めたんですって?」

 「ああ、大学病院も医者も辞めた」

 「これからどうやって生活するつもりなのよ!」


 俺は背広の内ポケットから封筒を出してテーブルの上に置いた。


 「離婚してくれ。俺のサインはしてある。

 慰謝料は出来るだけのことはするつもりだ。とりあえずこのマンションはお前にやるよ」

 「私と別れてあの看護士と一緒になるつもりね? 葵とかいう女と!」

 「それはない。俺はお笑い芸人になるつもりだ」

 「あなた気は確かなの? 狂った患者さんを診ておかしくなったの?

 しっかりしてよ! 医者のくせに!」

 「俺はしっかりしているよ。いや寧ろ正常になったと言えるかもしれない。

 俺はやっと自分の生きる目標を見つけたんだ」

 「医者を辞めることは絶対に許さないから! 離婚もしませんからね!」


 そう言って香織は自室に籠もってしまった。

 テーブルに離婚届の封筒を置き去りにして。




第6話

 病院の廊下で葵とすれ違った。


 「今夜、待ってるから」

 「肉を買って行くからすき焼きな?」

 「うんわかった」




 私は肉を買い、葵のマンションを訪れた。

 満面の笑顔で俺に抱きつく葵。


 「耕ちゃん、卒業おめでとう!」

 「もう知っているのか? 今月いっぱいで病院を辞めることにした」

 「そっちじゃなくて奥さんとお別れするんでしょ?

 もうすでにさよならしちゃったりして?」

 「腹減った。すき焼きにするぞ」

 「うん! 準備しておいたよ」



 俺たちはすき焼きを食べながらビールを飲んだ。


 「ねえねえ、これで私を「山本葵」にしてくれるんだよね?」


 俺は肉を卵につけながらそれを頬張った。


 「夕べ、女房に離婚届を渡そうとしたら拒否された」

 「何それ? 自分だって浮気してるくせに」

 「それは俺も同じだ」

 「酷い! 私はただのセフレなの? 本気じゃなくて浮気なの?」


 葵は涙ぐんでいた。


 「そうじゃない、俺は葵も好きだ」

 「葵「も」って何よ!」

 「ごめん、お前とはもう今日でお別れだ。終わりにしよう」


 すると葵は箸を放り投げ、ビール瓶を持つと残っていたビールを俺の頭にゆっくりと注いだ。

 俺の頭を伝い、ビールが床に敷かれた絨毯に流れ落ちて行った。


 「あなた、少し頭を冷やした方がいいわよ」


 俺はビールがなくなるまでじっと我慢していた。


 「相手は誰なの?」

 「患者だ。酷いうつ病の」

 「うつ病だから何! 私はもうそんなのとっくに通り越してるわよ!

 誰のせい? あなたのせいでしょう!」


 今度は髪の毛を鷲掴みにされた。

 精神障害のない人間などいない。それは俺も同じだった。

 俺は葵を平手打ちした。


 「何をするの!」

 「俺はお前を愛してる、脱げ、オペをしてやる」


 葵はうっとりとした目で着ていた服を脱ぎ捨て、全裸になった。


 「抱いて」


 俺たちは激しくキスをしてその場で行為に及んだ。

 ダイニングテーブルに手をつかせ、葵をバックから攻めた。


 「は は は・・・」

 「耕三、べ、ベッドで抱いて・・・」


 けだもののようになって俺は葵を犯し続けた。


 「好きよ好きなの! あなた、が、大好き!」

 「今日から俺はお前とここで一緒に暮らす、いいな?」

 「よろこんで!」


 俺は自分勝手にクライマックスを迎え、葵の顔に精子を浴びせた。

 葵は口の周りに飛んだザーメンを舐めた。


 「セフレはイヤ、あなたの一番になりたいの」

 「バカな女だ」


 俺はその日から葵と同棲することにした。



 

 養成所への合格が決まった。

 受験資格は18才以上の高卒ということだった。

 中卒ではついていけないほどのカリキュラムなのだろうか?

 試験は1次が書類審査で、2次が集団面接だった。



 「ほう? 山本耕三さんは精神科の医師なんですか?

 初めてですよ、そんな人がお笑いをやりたいだなんて、実に愉快」


 面接会場に羨望せんぼうの声があがった。


 「お笑いと医者の二刀流やなんて? 大谷じゃあるまいし、何考えてんの?」

 「いや、二刀流じゃない、俺は医者を辞めた」

 「オッサン、頭どうかしてるんちゃうの? まさかお笑いだけで食っていけるなんて思うてないやろうなあ?」

 「食っていくのが目的じゃない。俺はある人を笑わせたいだけだ」

 「アンタ、お笑いを舐めてんの?」

 「お笑いは物じゃない、舐められるわけがねえだろう」

 「この野郎、俺が偏差値32のバカ高の出身だからって舐めんじゃねえぞ、コラッ!」


 すると面接官とそこにいた生徒たちが笑った。


 「君たちコンビを組んだらどう? 中々いいよ、そのボケとツッコミ。

 ふたりとも合格です。あっ、先に言っちゃった。あはははは」



 入学金115,000円、年間授業料330,000円。

 それから施設使用料として55,000円を支払った。

 すべて前払いである。

 面接の時に一緒だった、大阪から東京に出て来た末永すえなが誠二とすぐに友だちになり、入学式が終わってふたりで焼鳥屋へ飲みに出掛けた。



 「驚いたよ、あんなにお笑い志望の人間がいるなんて。

 東京と大阪で2,000人もいるそうじゃないか? 教室に入り切れんのかなあ?」

 「山ちゃんは何も知らんのやなあ。1ヶ月後には半分になるんやで」

 「半分に?」

 「養成所に絶望してみんな辞めてまうんよ。天才もゴロゴロおるしな? 自分の才能を思い知らされるちゅうわけや」


 そう言って誠二は生ビールを一気に飲んだ。


 「いい商売だな? 2,000人から50万ずつ、辞めてもカネは返さない。流石は浪速の商人あきんどだ。

 年間10億のカネが入るというわけかあ?」

 「なあ山ちゃん、ホンマに俺とコンビを組んでくれへんか?」 

 「コンビかあ? 最初はピンでやるつもりだったがそれもいいかもな?

 よろしくな? 誠二」

 

 その夜から俺たちはコンビになった。

 ボケは俺でツッコミは誠二になった。


 「コンビ名はどないする?」

 「そうだなあ、食べ物がいいかもな? 最初は馴染めないが、食べているウチにやみつきになるような・・・。

 チョコミント・アイスクリームってのはどうだ?」

 「チョコミント・アイスクリームかあ? ちょっと長くないやろか? 舌を噛んでしまいそうやないか?」

 「チョコミントは普通アイスだろう? 誠二がチョコで俺がミント。

 大阪人のお前と東京人の俺、チョコミントだけじゃ差別化にはならん。

 それにチョコプラみたいだろ? いずれにせよどうせ短縮されるよ、『チョコミン』みたいに」

 「それじゃあ「チョコザット」やないかい!」

 「あはははは」


 俺たちはいいコンビになりそうだった。




第7話

 両親に報告に行った。


 「そうか? お前は子供の時からいつも事後報告だったからな?

 まあ自分で決めたことだ、がんばりなさい」


 親父はそう言っただけだった。親父もおふくろも俺に強制したことはなかった。

 医学部に入って精神科医になったのも自分で決めた。

 親父は内科と小児科のクリニックの開業医をしていた。

 おふくろは内科医だった。

 親父は教授と折り合いが悪く、万年助教授だった。

 俺が高校生の時に大学を辞め、おふくろと開業したのだった。


 「お笑いなんて面白そうね? ライブっていうの? お母さんも観にいくわね?」


 そんな両親に育てられて、俺はしあわせだった。

 だが妹の茜だけは猛反対だった。


 「お兄ちゃん、ミイラ取りがミイラになってどうすんのよ!」


 茜は小児科医だった。将来は親父たちのクリニックを継ぐつもりだった。




 誠二の言った通り、1ヶ月後には生徒は半分になっていた。


 「ええか山ちゃん、ウチの所属芸人のヒエラルキーはな? トップが3組、その次が17組、それから40組、そして残りの500組はゴミや」

 「それはピラミッドじゃなくて、大盛りのチャーハンに割り箸を刺したようなもんだな?」

 「せやから登り詰めなあかん、天下取ったろうやないけ!」


 俺は誠二と組んで本当に良かったと思った。

 誠二は野心に燃えているようだった。



 養成所は1年間だった。

 4月にクラスが決められ、相方探しが始まる。

 芸人としての基本や所作、ネタ見せがあり、幾度かの面接がある。


 ダンスに発声練習など、様々な実習訓練と、売れている芸人の講義もあった。

 入所してわかったことだが、ここは学校ではなく、芸人を発掘する鉱脈であったということだった。

 つまり一般の学校のように、いくらペーパー試験の成績が良くても実戦で使えなければ何の意味もないのだ。

 僅か数パーセントの売れっ子とその他大勢。

 俺たちは必死だった。



 誠二はいくつものバイトを掛け持ちしながらお笑いを続けていた。

 養成所は10時から21時までで1コマ、60分から140分。一日4から5コマだった。

 8月と1月は休み。


 俺はなるべく誠二に気を使わせないように、誠二の懐具合に合わせ、ネタ合わせにはカラオケルームはなるべく使わず、電車が通る川辺りの鉄橋の下で大声で練習を重ねた。

 度胸をつけるため、積極的に老人介護施設も慰問して回った。


 

 「兄ちゃんたち、面白いなあ」

 「そうでっか? 婆ちゃん? アンタお笑いをようわかってはるやないの!」

 「アンタ誰や?」


 その老婆は痴呆だった。


 「ワテらはな? 『チョコミント・アイスクリーム』やで、ばあちゃん」

 「チョコ? チョコ食べたいなあ」

 「ダメよ、ハルさんは糖尿病なんだから」

 

 ケアマネージャーの信子のぶこさんが笑っていた。


 「お腹空いた。ご飯はまだかなあ?」

 「もうー、さっき食べてウンチしたばかりでしょう?」

 「・・・」

 「あら、寝ちゃった。あはははは」


 俺は自分が精神科医だったことを思い出していた。

 ゲロを顔に吐かれたり、糞便を投げつけられたりと大変だったのが今となっては懐かしい。

 人間は生きているだけで素晴らしい存在なのだ。

 俺も誠二もケアマネの信子さんにつられて笑った。

 

 


 初めてのネタ見せでは仲間たちや講師たちの高評価を得た。


 「いいですねー? 後は少し体の動きを入れた方がいいね?」

 「はい!」

 「凄えよなあ、『チョコミン』の奴ら」

 「今度の『アホワン』のグランプリはアイツらだよ」

 「山ちゃんと誠二、いいコンビだよなあ。アイツら間違いなく売れるぜ」



 俺たちは毎日ネタ合わせをした。

 ネタは主に俺が書いた。

 

 「山ちゃん、この車掌との電車でのコントは電車の効果音を入れたらどうやろう?」

 「なるほど、より電車のイメージが湧くな?」


 俺が基本ネタを作り、それに誠二が改良を重ねた。



 

 その間にも俺はめぐみの様子が気になり、度々自宅訪問をした。


 「養成所は楽しいですか?」

 「楽しいというより、毎日が面白いよ」

 「そうですか」


 めぐみの自傷行為はなくなったが、それでも油断は出来なかった。

 それは突発的に起きる場合が殆どだったからだ。

 「死にたい、死にたい」と言っている時よりも、平常に見える時ほど気を抜くことは出来ないからだ。


 「めぐみさん、私もここに一緒に住んでもいいですか?」

 「先生とですか?」

 「ええ」

 「でもセックスは出来ませんよ」

 「ただあなたの傍にいたいんです」

 「お部屋はたくさんあるからどうぞ」


 そして俺はその日からめぐみと同居を始めることにした。




 葵にはウソを吐いた。


 「今度、誠二と暮らすことにした」

 「女と暮らすんでしょう! 女とヤルのは構わない、でも一緒に住むのだけはイヤ!」

 「すまん葵、俺たちは体の関係はない。だがいつ自殺をするかわからない女なんだ。出来るだけ傍にいてやりたいんだ」

 

 すると葵は台所から包丁を取り出し、左手首を切った。


 「バカな真似はやめろ!」

 「私だって同じよ! あなたがいないと生きていけない!」


 大学病院で処置をするわけにも行かず、俺は実家のクリニックで葵の手首の縫合をした。



 「キレイに縫ってね?」

 「困った奴だ」

 「困らせたのは誰よ?」

 「わかった、月水金土の週4日はお前と暮らす。後の火曜日、木曜日、日曜日は俺の自由にさせてくれ」

 「エッチは禁止だからね」

 「だからそういう関係じゃねえよ。はい、終わったぞ」

 「ありがとう」


 かわいい女だと思った。

 この女も守ってやりたいと俺は思った。




第8話

 妻の香織から住んでいたマンションに呼び出された。


 「珈琲でいい?」

 「ビールがいいな? シラフでは聞けない話かもしれないから」


 香織は冷蔵庫から缶ビールを出して俺の前に置いた。


 「私、もう諦めたわ」

 「そうか」

 「慰謝料の件だが・・・」

 「慰謝料は要らない。私もあなたを裏切っていたから」

 「お互い様だ。正直言って俺は今カネがない。今用意出来るのはこれだけだ」

 

 俺は通帳と印鑑を香織に渡した。


 「1,000万円ある。このマンションとこれで取り敢えず勘弁してくれ」

 「それならこのマンションだけ貰うわね? このマンション気に入っているから。

 でもお金は要らないわ、不自由しているわけじゃないし」


 香織は通帳と印鑑を俺に戻した。

 香織はそんな女だった。


 「悪いな? 気を遣わせてしまって」

 「本当にお笑い芸人になったのね?」

 「まだ見習だよ」

 「目先の利益に拘らない。それがあなたのイズムだものね?」

 

 香織は離婚届をテーブルの上に置いた。


 「さようなら」

 「男と暮らすのか?」

 「ううん、男とは別れたわ。遊びだったしね?」

 「お前は俺が惚れた女だ、需要はある」

 「もう男はいいかなあ。男なんて信じられないから」

 「男がか?」

 「男も私もよ」


 俺は香織に言った。


 「お前も飲めよ、俺との最後の晩酌に付き合え」

 「最後の晩餐じゃなくて、晩酌?」

 「俺は今でもお前が好きだ。夫婦ではなくなってもそれはこれからも変らない」

 「好きだから夫婦じゃないの?」

 「夫婦だから好きだとは限らないだろう?」

 

 香織は冷蔵庫から缶ビールを持って来てプルを開けた。

 

 「何か作る?」

 「豆腐、あるか?」

 「あるわよ」

 「お前の麻婆豆腐が食べたいな?」

 「いいわよ。ちょっと待っててね?」

 「香織」

 「他に何か食べたいの?」

 「今までありがとうな?」

 「どういたしまして。ねえ、今度あなたのライブに行ってもいい?」

 「もちろん」


 その夜、俺たちは夫婦から「親友」になった。




 今日のネタ合わせは葵のマンションですることになった。


 「・・・浪速の誠二と」

 「元精神科医、山本」

 「二人揃ってアホとアホ、『チョコミント・アイスクリーム』でしたあー。どうもありがとうございましたあ!」


 葵は大笑いしていた。

 

 「ウケとる、ウケとる。葵ちゃんにウケとるがな! 俺たちのコント」

 「あはははは あはははは ホント、いいコンビだね? 今度の『アホワン』は優勝だね?

 ところでコントと漫才の違いって何? 何が違うの? それとも同じ?」

 「コントはフランス語で「寸劇」を意味する。

 つまり役者になって演じるお笑いだ。だから俺たちのやっているお笑いはコントだ。

 今回は俺が車掌で誠二が酔っぱらいの大阪人の乗客。

 漫才とは「やすきよ」や「ナイツ」のようにボケとツッコミの自分のキャラで演じるものだ。

 元々は太夫たゆうと才蔵と呼ばれるふたり一組が、新年に家々を回って歌や舞を披露し、ご祝儀を貰うのが始まりだったらしい。それを「万蔵まんざい」と呼んでいた。

 そしてそれが昭和になって「漫才」になったと言われている」

 「ワイと山ちゃんのコントは最強やで」

 「さあ何もないけど食べて飲んでちょうだい」

 「おおきに葵ちゃん。山ちゃんはしあわせもんやで、こんなべっぴんさんに愛されてからに」

 「しあわせもんだってさ、耕ちゃん」

 「葵はワインでいいか?」

 「こらっ、話を逸らすな。あはははは」


 酒宴は深夜まで及び、誠二は泊まっていった。




 養成所でも俺たちの人気は不動のものだった。

 会社は俺たちの売込戦略と戦術をすでに練り上げていたようだった。

 『チョコミント・アイスクリーム』は絶好調だった。



 「今日もウチでネタ合わせをやるか? 葵を観客にして」

 「いや、今日は俺のボロアパートでやろうや」

 「葵は今日は鍋にすると言っていたぞ」

 「そうか、ごめん、今日はあまり食欲がないよってな」

 「体調でも悪いのか?」

 「いや大丈夫や、大したことあらへん」




 ネタ合わせも終わり、一升瓶を立てて俺たちは茶碗酒を飲んでいた。

 疲れていたのか、誠二はすぐに眠ってしまった。


 「おい誠二、布団で寝ろ」


 俺は万年床に誠二を寝かせた。

 その時、布団の下から布切れが出ていた。何気なくそれを見ると、どうも女物の下着のようだった。


 「誠二も女がいるんじゃねえか? うんっ?」


 胸騒ぎがした。

 俺がそれをそっと引き出すと、見覚えがあった。

 それは紫のTバック、葵のスキャンティだった。

 俺はすべてを理解した。

 俺はその下着をポケットに入れ、家に帰って行った。


 


 「お帰りー、ご飯は?」

 

 俺は葵の前に葵の下着を投げた。

 

 「落ちていたから拾って来た。これ、お前のだよな?」


 葵は凍り付いていた。


 「お前、誠二と出来ていたのか? いつからだ?」

 「ごめんなさい・・・」

 「いつからなんだ?」

 「あなたが悪いのよ! 寂しかったのよ私!」

 「いつからなんだと訊いているんだ」

 「1ヶ月前」

 「そうか? 誠二から口説かれたのか?」

 「ううん、私から誘ったの」

 「誠二はいい奴だ、しあわせになれよ、今度こそ」


 俺はそのまま家を出て、それからはめぐみの家に入り浸ることにした。




 翌日、俺は誠二を問い詰めた。


 「誠二、お前、俺に何か言うことはないか?」


 誠二はすでに葵から事実を聞かされていたようだった。

 誠二は俺に土下座をした。


 「堪忍や山ちゃん! ワシが悪いんや! あの子は悪うない!

 口説いたのはワシや! すまん、この通りや」

 「コンビは解消する。もうお前とは終わりだ」

 「山ちゃん・・・」

 

 俺は誠二の胸ぐらを掴んで立たせると、誠二を一発だけ殴った。


 「これでお前のことは忘れてやる。後はお前の好きにしろ。

 俺はピンか新しい相方を探すからお前もこれからのことは自分で決めろ」

 「山ちゃん、それは無理や。ワシは山ちゃんがおらなやってはいけん」

 「だったらどうして俺を裏切った! 俺は葵を寝取られたことを怒っているんじゃない、お前が俺を裏切ったことが許せねえんだ」


 誠二は項垂うなだれていた。

 俺たちの『チョコミント・アイスクリーム』はデビューを飾ることなく消滅した。


  


第9話

 「コンビを解散した? どうしてだね?」

 「色々ありまして。これからはピンか新しい相方を探してみようと思います」

 「まあ『チョコミン』は君の芸が9割だからな? あの何だっけ、あの相方は?」

 「誠二です、末永誠二」

 「そうそう、それそれ。彼はもう終わったな?」


 講師はそう捨て台詞せりふを吐いた。


 「いずれにせよ今度の『アホワン』までもう時間がない。本当に大丈夫なのか?」

 「はい、ご迷惑をお掛けしてすみません、間に合うようにします」

 「僕の方でも君に合いそうな相方を探してみるよ」



 

 講師からも何人か紹介してもらったが、どれも「帯に短したすきに長し」と言ったところだった。

 やはり誠二のように絶妙のツッコミを入れられる奴はいなかった。


 (仕方がない、ピンでやるしかないか?)




 家に帰り、部屋でネタを考えているとめぐみがやって来た。


 コンコンコン


 「どうぞ」

 「珈琲、いかがですか?」

 「ありがとうございます」


 私は作業を中断し、めぐみの淹れてくれた珈琲を飲んだ。


 「薬、ちゃんと飲んでいますか?」

 「はい、一応。でも効果はあまりないように感じます」

 「では薬を変えてみましょう。食欲はどうですか?」

 「ふつうです」

 「そうですか? なら良かった」


 だが相変わらずめぐみには表情がなかった。


 「どうです? 明日、焼肉でも食べに行きませんか?」

 「焼肉ですか?」

 「ええ、焼肉です。イヤですか?」

 「いえ、ではご一緒いたします」




 次の日の夜、私とめぐみは焼肉を食べに出掛けた。

 それはめぐみの治療が目的だった。

 自殺願望のある人間に焼肉を食べさせると、いつの間にか肉を夢中で食べることがある。

 死のうと考えている人間には殆どの場合、食欲はない。

 第一、これから死のうという人間が額に汗を掻いて肉を頬張ることは似合わない。

 俺はそれを狙った。



 初めは不味そうに食べていためぐみだったが、米沢牛の刺身を食べた時、少し表情が出て来た。

 感情が出て来たのである。

 私は厚切りの上カルビ、そしてシャトーブリアンを焼いてめぐみの皿に乗せてやった。

 それを美味そうに夢中で食べるめぐみ。

 治療は効果を挙げた。



 「たまには焼肉もいいでしょう?」

 「美味しい、美味しいです」

 「どうです? 少しビールも飲んでみますか?」

 

 私は自分の飲みかけのビールをめぐみに渡した。

 珍しいことにめぐみはそれを一口飲んだ。


 「久しぶりです。ビールの味ってこんなに美味しい物だったんですね?」

 

 私はグラスビールをめぐみに注文してやった。

 笑顔にはならなかったが、あきらかに感情が表れ始めていた。

 

 (よし、効果はあったようだ。焦ってはいけない、めぐみを笑顔にするまでは慎重に行くべきだ)




 店を出て歩いていると、道路工事をしている誠二を偶然見掛けた。

 誠二はあの後、養成所を辞めてしまった。


 へルメットを直しながら、必死にセメント袋を担いでいる誠二に胸が熱くなった。



 次の日も、また次の日も誠二はがんばっていた。



 そして雨の日の夜、俺は誠二に声を掛けた。


 「相方を探しているんだ、お前、俺とやってみる気はないか?」

 「山ちゃん・・・。ううううう」


 誠二と俺は抱き合って泣いた。




第10話

 『チョコミント・アイスクリーム』は復活した。


 誠二はあの後すぐに葵と別れたらしい。


 「葵ちゃんとは別れたんや」

 「そうか」

 「ホンマにごめんな、山ちゃん」

 「もう終わったことだ」


 誠二はコンビを解消した後も芸を磨いていたようで、滑舌がより良くなり、声量も大きくなっていた。

 ツッコミのタイミングも絶妙に進化していた。


 「なあ山ちゃん、路上ライブをやってみてはどないやろう?」

 「路上ライブかあ? いいかもしれんなあ、度胸も尽くしな? それに養成所ではなく、一般の人の生の感触も掴めるしな?」

 「路上で人が集まらへんかったら俺たちは売れへん訳やからな?」



 俺たちは早速路上ライブを始めた。

 YouTubeでの路上ライブ配信の効果もあり、5人、10人、50人と観客は増え、今では300人を越えていた。

 俺たちはウケていた。


 その聴衆の中に、いつも笑わずに俺たちのコントを一番前でじっと見ている50代位の男がいた。

 雨の日も風の日も、その年配の男性は私たちを観察しているようだった。

 

 2週間が過ぎた頃、声を掛けられた。


 「君たちのお笑いはいいねえ。テンポも発声もいいしキャラも立っている。

 関西弁と東京言葉の掛け合いも斬新だ。

 ネタも面白い。ただしこのままでは「一発屋」で終わる、今のままではな?」

 「アンタ誰や? 業界の人かいな?」

 

 するとその男は俺に名刺を出した。


 「芸能評論家、西島周次郎? あなたが?」

 「エラい有名な人やんか! 西島先生に認められたら不動の人気になる言うさかい」

 「ギャグ・コントには社会風刺がなければならない。君たちのお笑いには風刺がない。

 社会に対する反骨心がない。お笑いは時代を映す鏡であり、メッセージ性がなければすぐに飽きられてしまう。

 ドリフやコント55号のようにだ」

 「風刺ですか?」

 「そうだ、それが表現出来たら君たちは伝説になれるかもしれん。

 関西の企業に所属しているんだよな? 困ったらいつでも訪ねて来なさい」


 西島先生はその後も殆ど毎日のように俺たちの路上ライブを見に来てくれた。




 俺はネタを見直すことにした。

 

 「風刺かあ・・・」


 政治、経済、芸能、スポーツなどのスキャンダル・・・。

 そもそも風刺とは何だ?

 英語でsatire。社会や人物の罪や欠点などを間接的に批判することだ。

 だがそれを芸として表現するには高度なセンスが要求される。

 ネタ作りは難航していた。




 めぐみのうつ病は安定期に入ったようで、焼肉屋での食事以来、食欲も出て来たようで食べては寝て、寝ては食べているようだった。

 

 うつ病の定義は別として、人間は基本的にうつは備わっていると思う。

 そして落ち込んだり悲しんだりすることで精神は成長するのである。

 悩みのない人間などいないのだ。

 うつ病には初期、急性期、回復期、再発予防期の4つのサイクルが繰り返される症状である。

 急性期にはがっくりと落ち込んでしまい、自己否定感が強くなってしまう。



      自分はいなくてもいい人間だ



 そう考え込んでしまい、自分の殻に閉じ籠もってしまうのだ。

 うつ病は寛解することはない。約半分はこの症状を繰り返すのである。

 うつ病のメカニズムは未だに解明されてはいない。

 脳内神経伝達物質であるセロトニンやノルアドレナリンの減少を抑制するのが抗うつ剤だ。

 SSRI NSSA SNRI等を処方することにより、急性期の落ち込み落差を小さくしたり、その期間を短くしたり、再発予防期間を長くする効果が見込めることもある。


 人間の素晴らしい能力のひとつに、「忘却」がある。

 人間は忘れることで救われるのだ。


 ソファでうたた寝をしているめぐみのあどけない寝顔を見ていると、俺の心は和んだ。


 (めぐみを大声で笑わせてやりたい)


 俺はネタを考えるため、夜の散歩に出掛けることにした。


 


第11話

 俺はネタ作りに行き詰まり、西島先生に電話をした。


 「先生、『チョコミント・アイスクリーム』のネタを担当している山本です」

 「ああ、君か? さては行き詰まっているようだな?」

 「はい、風刺とは何でしょうか?」

 「どうだね? 酒でも飲みながら?」

 「ありがとうございます。ぜひ伺います」



 西島先生は俺を銀座の焼鳥屋に連れて行ってくれた。


 「銀座は気取った店が多い。でもな? ここの大将は銀座で商売しているとは思っていない。

 自分が銀座にいるのではなく、銀座が自分だと思っているんだ。

 わかるか?」


 (銀座というブランドに自分がすがっているのではなく、自分の焼く焼鳥が「銀座ブランド」だと言うことなのか?)


 私は自分の仮説を言うのを止めることにした。


 「いえ、わかりません」

 「君たちの芸も同じだ。今のくだらんお笑いブームとは違う。

 あの関西芸人たちの大きな声で相方をディスりまくる。あれは笑いではなくただの「失笑」だ。

 それを主流にしたのがアイツらだ。

 大御所も先輩も後輩も関係なくどつき回る無礼をするボケ役、見ていて気分が悪くなるような下品なネタを突きつけるツッコミは漫才をぶち壊し、誰をも恐れぬ傍若無人なスタイルを確立し、人気と名声を得た。もちろんカネも女もだ。ただのチンピラだったガキが天下を獲った。

 だがあれは芸ではない、「話題」だ。

 あの二人は世の中が何を求めているのか知っていた。

 そしてそのご威光を得たいと群がる後輩芸人たち。女をアテンドするやからまでいた。

 そいつらの言い分はこうだ。「そんなんどうなるかぐらい分かってついて来た姉ちゃんたちやで? そんなん知らんわ」とな? 

 後輩芸人たちにとってアイツらは絶対だった。学歴もコネもなく、大人の世界に喧嘩をふっかけた彼らはヒーローだった。

 そして破天荒だと彼らを持ち上げる芸能界。とくにテレビは彼らの人気に飛びついた。

 そして人気が人気を呼んだ。テレビに出る回数が多くなるということはそういうことだ。

 面白いように人とカネが集まって来た。

 テレビは視聴率のためには手段を選ばない。所属している芸能プロダクションも同じだ。売れればいい、カネが儲かればそれでいい。

 そして大阪漫才は「お笑い」と成り下がり、芸人は「お笑い芸人」となった。


 横山やすしや志村けんの芸ではない。差別社会に挑戦状を叩きつけて来たんだ。

 だが元々芸がない連中だからどんどん追い詰められて行った。

 そして遂には番組内で酒を飲みながら、自分のお気に入りタレントを集めてのただの「飲み会トーク番組」まで始めてしまった。

 放映するテレビ局も局だが、これはあまりにも視聴者を舐めている。

 芸で大切なものとは何だ? 山本」


 西島は酒を呷った。


 「わかりません」

 「それは「残心」だ。「残心余情」だよ。

 見終わった後の爽快感だ。風刺はそのスパイスになる。

 風刺とはすなわち「哀しみ」「切なさ」なんだよ。

 強すぎても、弱すぎてもいけない。芸には「哀愁」が必要なんだ。

 スポットライトを浴びて聴衆の喝采を浴びる。

 だがそれに風刺がないとやがて芸はすたれ、飽きられてしまう。

 レオナルド熊と石倉三郎のコント、『コント・レオナルド』は好きな芸人だった。

 俺が君たちを見込んだのは君たちの芸風が彼らをも越えていたからだよ」

 「レオナルド熊と石倉三郎・・・」

 「そうだ。たまに食べたいお好み焼きがあのなら、ご飯と味噌汁のように毎日食べても飽きないのが『コント・レオナルド』だった。

 鰻はな山椒を食べるためにある。鰻がメインではない。

 そしてこの焼鳥も美味いが、ぱらりと七味を掛けるとより美味くなる。

 それは鰻も焼鳥もしっかりしているからこその味だ。この焼鳥のように誤魔化しがない。

 俺は君たちの芸には期待しているんだ。あの高度経済成長に湧いた日本を取り戻す起爆剤になれ! 山本。

 お前たちの芸はテンポも掛け合いもネタもいい、阿吽あうんの呼吸が出来ている。

 間合いの取り方も実に上手い。

 インテリのお前、山本が品の良いネタを書いて、誠二がそれを見事に演じて見せる。いいコンビだ。

 まさにコント、寸劇なんだよ。君たちのコントは演劇なんだ」

 「演劇ですか?」

 「そうだ演劇だ。短歌や俳句は短いが、果てしない広がりがある文学であるように、人々の想像をどこまでも掻き立てる。

 だから君たちは川柳をやれ、世の中に皮肉を込めた川柳をコントで表現するんだ」


 ヒントを感じた。

 それは武道の心得だった。


      

       相手が息を吐く時は自分は息を吸い

       相手が息を吸う時には自分は息を吐く



 「先生、ありがとうございました」

 「どうやら分かったようだな? 楽しみにしているよ、お前たちのコント」



 その夜、私は先生と銀座の店を何件も梯子をした。

 気分の良い夜だった。

 

 


最終話

 「それじゃあ行って来ます」

 「山本先生、がんばって下さいね?」

 「あなたのためにやるコントです。めぐみさんに笑ってもらえるよう、精一杯お笑いをやります。

 僕の人生のすべてを賭けて」

 「せっかくですから今日は客席で応援させていただきます」

 「待っています。気をつけて来て下さい」



 大ライブ会場は立ち観も出るほどの大盛況だった。

 めぐみは最後列の席にいた。

 香織に葵、親友の井上、両親、妹の茜、そして関口教授を始め、病院のスタッフも来てくれた。もちろん西島先生も来てくれていた。



 セットは深夜のコンビニ。

 レジの店員役は俺で、大阪人の客の役は誠二が演じた。

 私が最初に挨拶をした。


 「みなさん、本日はありがとうございます。

 私は以前、大学病院で精神科医をしていました。自分で言うのもなんですが、優秀な医者でした」

 「自分でゆうなー!」


 井上が合いの手を入れてくれた。


 「私が精神科医を辞めて、誠二と一緒にお笑い芸人になったのには理由があります。

 それはどうしても笑わせたい女性がいたからです」

 「知ってるよー! 私、それでフラレたからあ!」


 あはははは


 今度は葵が叫んで会場がドッと湧いた。

 

 「その彼女はある日、笑うことが出来なくなってしまいました。

 私は彼女をどうしても笑顔にしたかった、彼女の笑顔が見たかったんです。

 精神科の医者もお笑い芸人も目的は同じです。

 


        人を笑顔にすること。

        笑わせること。



 今日はこの舞台で一生懸命やらせていただきますので、どうかよろしくお願いします」



 誠二も挨拶をした。


 「ワテがこの山ちゃんの相方、誠二です。ワテはこの山ちゃんが大好きや。

 勘違いせんといてな? ワシは女が好きや。今、流行はやりのアレやないで。手を握ったりキスもしたこともない。一度だけ抱き合って泣いたことはあるけどな?

 でも山ちゃんには男として惚れとる。そやから今日までがんばれた。

 そしてもちろんこれからもや! 『チョコミント・アイスクリーム』、ほなやるで!」

 

 

 私たちはコントを始めた。息を潜める観客たち。




 ピッ ピッ(バーコードを読み取る音)


 「スプーンつけてくれへんのか? カレーやぞ!」

 「私、関西弁はわかりません。今、通訳を呼んできます」


 あはは


 「関西弁がわからんてアンタ、ホンマに日本人かいな?」

 「私は父が埼玉県の岩槻出身で、母は秋田県の秋田市生まれの秋田美人です」

 「その割にはインド人みたいな顔やな? どう見てもカレーの顔やで」


 クスッ


 「ボクはその両親の本当の子供ではありません、お父さんがインド人の愛人に産ませた子です。

 ボクはその父を頼って日本にやって来ました」

 「なんや複雑すぎてようわからんわ」

 「ちなみに今の母も父の愛人だったそうです」


 あはははは


 「愛人が好きなオトンなんやなあ? まあそんなんどうでもええからスプーンをつけてえな、カレーは手では食べられへんからな? おにぎりやサンドイッチやあるまいし」

 「ちょっと大阪人さん、カレーだからスプーンは要らないのです。

 私の国では手でカレーを食べます。右手でカレーを食べて、左手でウンコを拭きます」


 あはははは あはははは


 「大阪人さんてお前、関西人を舐めとるんか? 何かカレーは食いとうなくなってきたわ!」

 「わかりました。ではカレーは元の場所に返して来て下さい。ではこのアイスにスプーンは必要ですか?」

 「この『ガリガリさん』は棒付きアイスやからスプーンは要らん」

 「では『ゲロゲロ君』のアイスは手で食べるわけですね? やはり大阪人のインバウンド野郎は下品です」


 わあーっ あはははは


 「大阪人は外人やないで! ちゃんとしたJapaneseやで! 人種差別やないかい! 同じ日本人やのに! 胸糞悪い! もうええから店長を呼べ! お前じゃ話にならんわ! お前をネットに晒したるでホンマ!

 それに何なんやその『ゲロゲロ君』って! ゲロを想像してしまうやないかい!」

 「先日、家族で飛騨の下呂温泉に行ってきました。

 そこで食べたアイスがあまりにも美味しかったので、ボクはそのお店のお婆ちゃんに言ったのです。

 「凄く美味しいアイスですね?」って。

 するとお婆さんは自信たっぷりにこう言いました。

 「下呂げろのアイスだからね?」と。

 その後、ボクたち家族はアイスを食べるのを止めました」

 「アイスも返品じゃ!」

 「ところで大阪人のスケベそうなあなたはまさか、18才未満ではありませんよね?」

 「見たらわかるやろ? ハゲてる高校生がおるわけないやろ? このボケ!」

 「日本の法律はよくわかりません。このエッチな本は18才以上なら買ってもいいのにお酒もタバコもダメ。みんなやっていることじゃないですか? 飲酒もタバコもコンドームなしのセックスも。

 競馬もパチンコも駄目、でも選挙権は18歳から。そして成人式は20才でマツケンサンバとバカ殿のカッコで式典会場に乱入する。

 インドではそんな法律はありません。聖なるガンジス川の、あのバッチイ川の水で、ミディアムで焼かれた死体が流れてくる川で沐浴をします」

 「お前、なんて名前や 店長に言いつけたるさかいな? 名札見せてみい!

 何々? 「民自党の悪魔」やと? お前、悪魔やったんか?」

 「ボクに魂を売って下さい、民自党に投票するか? もしくは選挙には行かないで下さい。そうすれば民自党は永遠に与党でいられますから。裏金も使い放題、不倫もパパ活も宗教活動もみんな自由ですからあ!」

 「そやけどタダではイヤやで」

 「流石は大阪人ですね? 言うことがエグいです。

 わかりました、ではこれをあなたに差し上げましょう」

 「何やコレ?」


 パッパカパンパンパー


 「忖度そんたくシート! ボク、ホリエモン~。フジテレビ買いたい~。

 これは今、22世紀で流行っている「忖度シート」です。

 これを検察やおまわりさん、税務署員さんや役所の偉い人などの国家権力に貼ると、どんな不正も見逃して許してくれます」

 「もうええわ、別のコンビニに行くよって?」

 「どちらへ?」

 「ちょこっとだけ筋トレしてカラオケやゴルフ、ネイルに洗濯まで出来るコンビニ・ジム、ちょこっと『チョコ・ミントジム』にや」

 「ボクもこのコンビニでやろうかなあ? 筋トレマシーンを置いて。

 インドカレーを食べられて筋トレの出来るコンビニ、ちょこっと『チョコ・バニラ』コンビニを」


 そして私たちは深々とお辞儀をした。

 会場は静まり返っていた。



 「『チョコミント・アイスクリーム』でしたあ! ありがとうございましたあ!」


 パチパチ パチパチパチ 


 「うおーーーー! いいぞお前らあ!」

 「最高!」

 「耕三!」

 「凄いぞ誠二!」 


 みんなが総立ちになり、会場にはスタンディング・オーベーションが沸き起こった。



 香織も葵も、親父もおふくろも、妹の茜も親友の医者、井上も関口教授も西島先生も、そして病院のみんなも泣いていた。

 その中でただひとりだけ、泣きながら笑っている奴がいた。

 めぐみだった。


 俺は舞台を駆け下り、めぐみを抱きしめて泣いた。


 「器用な奴だな? めぐみは?

 泣きながら笑えるのかよ、お前は?」

 「私、笑っているのね? やっと笑えるようになったのね?

 あ、ありがとう、山本先生・・・」




 テレビのドキュメンタリー番組でも紹介され、精神科医を辞めてまでお笑い芸人になった私は称賛された。

 誠二は葵と結婚した。そしてほどなくして私とめぐみも結婚し、息子の渉が生まれた。



 

 「ねえ、あなたもチョコミント・アイス、食べてみる?」

 「俺はいいよ、歯磨き粉を食ってるみたいだから」



                        『チョコミント・アイスクリーム』完

 




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【完結】チョコミント・アイスクリーム(作品240527) 菊池昭仁 @landfall0810

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