新月に愛を込めて

涼風 弦音

新月に愛を込めて

「賭けようよ」

 隣に座った男は、唐突に言った。もう満腹だけど、お会計を呼ぶには勿体ない時合だった。ビールジョッキの底に溜まった液体をぐっと飲み干す。ぬるくなったそれは、喉ごしもなにもあったもんじゃない。

「何について?」

「何でもいいよ。俺たち、暇つぶし仲間なんだし」

 おかわりを頼んで、さてさてと考える。正直、私もお題なんて何でもいい。だってこれは、暇つぶしだから。「どうしようなあ」なんて悩んでいる素振りだけする男に「どうしようね」なんて返していると、ビールが二杯届けられた。

「いつもビールだな」

「安定志向なの。変化は苦手だから」

 ジョッキを持つこの瞬間が、居酒屋で一番の楽しみだ。一緒の時間を過ごす契約をした気になれる。何度目か分からない乾杯をして、同時に口付けた。先ほどとは違う刺激に喉が歓喜している。

「そうだ。天気だけどさ」

 結局、酒に眩んで賭け事のお題はなあなあになったらしい。彼は、くるりと首を回した。生憎、ここは地下二階。窓なんてない。ポケットからスマホを取り出そうとすると、腕を掴まれた。

「何よ」

「外の天気を当てるっていうのはどう?」

「いいけど、外は雨よ」

 賭け事は、まだ継続していたらしい。けれど、ここ数日は雨が続いていた。勿論、今日も。

「じゃあ、月の満ち欠け。それなら雨でも関係ないでしょ」

 雲がかかっていようと月は変わらずに形を変えていく。それなら確かに天候には関係ない。随分と風流なことを考えるもんだ。

「月の形を当てた方が勝ち」

「二人とも外れたら?」

「引分けで」

 かなり引分けの確立は高いけれど、アルコールのせいで計算なんてできないということにしてあげよう。しょせんは暇つぶし。酒の肴になれば、それで充分だ。

「三日月、小望月、居待月、満月……」

 月の周期表を調べて、名称をなぞる。太陽の光を受けて、見える姿が変わる月。同じ球体なのに、毎日のように呼び名を変えられるのはどんな気持ちなのだろう。

「全部同じ月なのに変な感じ」

「人間も同じだよ。生きてきた時間や立場によって呼ばれ方が変わる」

 意味が分からず、眉を寄せる。怪訝な顔がツボにはまったのか、ひとしきり笑われた。

「小さい頃のあだ名は?」

「え? さっちゃんだけど」

「かわいいじゃん。じゃあ、高校は?」

「さっつん」

「意外。今は?」

「名字呼びかな」

 思えば、たった数十年生きているだけで色々な呼ばれ方をしている。

「でも、全部同じ人間だ。人は呼びたいように呼ぶ。関係性とか立場とか、願いを込めてさ」

 それだけ言うと、彼はビールを煽った。要領を得ないままだが、質問をしようにもビールに陶酔している姿はそれ以上説明する気はなさそうだ。

「月はどう呼ばれたいんだろうね」

 ふうと息を吐きながら、天井を見つめる。隔てた先の空に佇む月に近づける気がした。隣の男もつられて空を見ていた。その頬は、赤らんでいる。

「何日か前の月を覚えていれば、逆算できるよな」

「あ。この前、一緒に飲んだ日は満月だった」

「そうだっけ?」

 鮮明に覚えている。夜の街とは違う柔らかな光を浴びながら駅に向かう最中、零れ落ちてきた「月、綺麗だな」という言葉。そこには、文豪が翻訳したような愛の告白は含まれていなかった。跳ねる鼓動を必死に抑えて同調した。あれは、十五日前のことだ。彼のスマホを覗いて、日付を数えていく。

「だから……今日は新月!」

 我ながら名推理では! 高ぶった声が出て、反射的に身をすくめた。

「よし! 答合せするか」

 今度こそお会計を済ませて、店を出る。今夜はあの日のように月明かりはない。傘を杖代わりにして階段を上がっていく。

「なあ。もし、新月だったらさ」

 あと二段で、空の全貌が見える。なのに、一足先に空を仰いだ彼は足を止めた。きっと負けを確信したのだろう。制止を無視して、残りの階段を駆け上る。夕方までの雨が嘘だったように空は澄んでいた。散っている星々は、月の姿がないことを教えてくれる。

「ほら、新月!」

「月、綺麗だな」

「は? 新月だってば」

 彼の視線を追えども、そこに月は無い。形は見えなくてもそこにあるとか言いたいのかもしれないけれど、賭けのお題は月の有無ではない。

「月があったら、単純に月が綺麗だと思うだろ」

 スマホの画面を見せられる。そこには、今日の日付と月の形が記されていた。

「俺も恥ずかしくて悪かったけど! 前に言った時、流されたから……。だから、新月の夜なら伝わると思って」

 つまり「賭けよう」と言ったことも「月の満ち欠け」と言ったことも、初めから全部仕組まれていたらしい。

「俺は、暇つぶし仲間じゃなくて恋人と呼ばれたい」

 この問いに頷けば、きっと変わってしまう。変化は苦手だ。けれど、私は頷いていた。まるで、月が地球の引力を受けるように。

「賭けの賞品、何にしよう」

「出来レースだけどなー」

 変化は苦手だ。けれど、満ちては欠ける月のように二人の関係の呼称が変わっていくのは悪くない気がした。


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