父と同居し続けるのには幾つか理由がある。家賃の負担が少ない、女の一人暮らしより物騒ではない、父が石になっていないか確かめられる、私が男を連れ込める可能性を潰しておける。そんなところだ。

 二十代半ばの娘と、定年間近の父親。それぞれの生活に干渉する時期はうに終わり、今ではお互いが休日に何をしているのかさえ知らない。いつの間にか、休日は一緒に食事をしないのが当たり前になった。偶然昼食の時間が重なると、二人して驚いてしまう。

 父は今でも母に会っており、時折私に彼女の様子を教えてくれた。だけど、相変わらず元気そうであること以外はよくわからない。母について話す時、父はいつもより口が重たい。自分から話し始めるくせに。


 ある日曜、私は市ノ瀬からの誘いを断って墓参りに出かけた。父は昨日から不在のまま。もしかしたら、母と一晩を過ごしているのかもしれない。

 私が向かったのはAの墓だ。今週の木曜が彼の命日で、この時期になると今もAを偲ぶファンたちが墓に足を運ぶ。週末とあって、墓前にはまばらながらも女性の姿が見えた。彼が居なくなってからもう十年以上が経っている。年々、お供え物の数や豪華さは鳴りを潜め、墓前で泣き崩れる人を目にする機会もすっかりなくなった。

 Aの墓石には、かつて彼の遺影の隣に置かれていた青い石が埋め込まれている。墓前に一人きりになった時、私はしゃがみ込んで青い石にそっと触れた。Aは宝石のように眩く輝く石ではない。長年の風雨にさらされて表面はなめらかになったものの、形は左右非対称でごつごつしている。ただそこにあるのは、色濃く無言を貫く青い青。

 ファンの誰かがかつて、この石はラピスラズリの原石に似ているとSNSで話していた。花言葉ならぬ石言葉は「幸福・真実・崇高」だと言って、ファンたちは勝手に意味を見出して悲しみに暮れたものだ。かつて溢れ返っていたAへの追悼の言葉も、今では熱心なファンの間でしか交わされない。

 この墓には、一体何が眠っているのだろう。Aの遺族は、石化した彼をどう受け止めたのだろう。いや、彼が石になったとは誰も思っていないはずだ。納得するならば、「青い石を残して失踪した」が妥当な線か。当時、死因が発表されなかったAの訃報を疑うファンは多かった。今でも時折、彼の生存を信じ再捜査を求める声が上がることさえある。それでも、彼は失踪からたった三か月で死亡したと発表された。確かな証拠があったのだろう。遺族が納得したからだろう。何かに。きっと、彼の不在に。

「すみません」

 突然声が聞こえた。顔を上げると、私と同世代に見える女性の姿が目に入る。私がそそくさと避ければ、彼女はこちらに会釈して墓石に柄杓から水をかけた。

「お墓参り来る人、だいぶ減りましたね」

 長い黒髪を揺らして彼女が言う。まるで、保育園の保護者同士のように自然で当たり障りのなさそうな会話だった。だから私も彼女に合わせる。

「さっきまで何人かいらしてたんですけど、ちょうど人が途切れた頃合いみたいで」

「ああ、そうでしたか……」

 彼女はついさっきまでの私と同じように、水に濡れて濃さを増す青い石に手のひらを重ねた。瞼を閉じて、薄っすらとした唇で何かささやいている。Aへの愛の言葉なのか、自分との対話なのか。知りもしない儀式に立ち合うような気まずさで、私はその場を去ろうとする。

「待って」

 あの夜の玄関に似ていた。市ノ瀬に呼び止められたあの夜に。彼女は私を引き留め、こちらに真っ直ぐな視線を向ける。

「Aくんはまだ生きてると思う? どこかで元気にしてると思う?」

 何を言ってあげればいいのかは嫌でもわかった。彼女が信じたい事実は、たった二つの疑問符の中に詰め込まれている。もしここが保育園で、彼女が子どもだったなら。きっと私は、彼女だけの真実に応えてあげられただろう。だけどここは墓前で、彼女はAのファンで、私は彼が石になってしまったことを知っている。Aを石にしたのは私だから。私の恋心のせいだから。

「……そうだったらよかったのにとは、思います」

 そのまま私は駆け出した。逃げるように墓場を抜け、寺の敷地を抜け、現世に走る道路に逃げ戻る。後ろを振り返れなかった。彼女が青い石に飲み込まれるのを見るのが怖かったから。

 父はその晩、当たり前のように帰って来た。私が今もAの墓参りに行くのを驚きながら、「律儀だねえ」なんて呑気に言う。

 彼を人の形で居させるために、母はどれだけ苦労しているだろう。しかし母はきっと、それを苦労だとは思っていない。数多くの恋の中に父を置き、彼を“一番の男”にしないと決めた女だ。彼女をどう思えばいいのか、私はずっとわからないで居る。



 ラブホテルで身だしなみを整えながら、市ノ瀬は他愛ない世間話のように言った。

「佳穂先生、もしかして俺みたいな男の相手に慣れていますか?」

 私が眉をひそめると、彼は愉快そうに小さく笑いながら続ける。市ノ瀬が羽織るシャツには染みの一つもなく、ついさっきまで私たちが耽っていた熱の名残などどこにも見当たらなかった。

「気を悪くしたなら謝りますよ。先生が、保育園でちっとも態度が変わらないのに感心していたんです。得意になって言いふらす人ではないだろうと信じていましたけれど、これなら永遠に続けられるでしょうね」

 だから彼は私に目を付けた。そう思うのが妥当だった。職場で浮いていて、相談や秘密を打ち明ける親しい同僚が居なそうな保育士。現状、圧倒的に有利なのは彼の方だ。もし私が彼との間柄について騒ぎ立てたとしても、保育園の全員が彼に味方するのは火を見るより明らかだった。

「この前は、何をしていたんです?」

「この前って?」

「先生が俺を振った日ですよ」

 彼の特徴のない気晴らしは、染みのないシャツと同じように私の体に何も残さない。幾分の倦怠感の他には、傷も熱も何も。その場限りの関係に名残はいらない。どこか遠くの駅で待ち合わせ、車に乗り食事をしてホテルで体を重ね、また車に乗ってどこかで別れる。私たちはそれ以上でも以下でもない。都合のいい気晴らしの相手、一人になりたくないから呼ぶ相手。首を挿げ替えれば、そんな女は星の数ほど。

 だから私は、市ノ瀬に墓参りの話をした。私に興味がない彼ならば、きっと聞き流すだろうから。

「ああ、Aか。懐かしいな。ずっと昔に失踪して死んだアイドルですよね」

「よく覚えてますね」

「覚えてると言うかー……。Aが人気だった頃は、『似てる』って散々揶揄われたんで。嫌でも忘れられませんよ」

 彼はそう口ずさみながら、呆れきった笑顔を見せた。きっと、美男子な市ノ瀬を持て囃す女の子たちに飽きるほど言われたのだろう。Aに似てる、かっこいい、市ノ瀬くんの方があたしは好きだよ。

 そうして、Aの未来のような美貌で彼は続けた。

「だから先生、俺を気に入ってくれたんですね」

「え?」

「Aと一緒に居るような気分になれるから」

「それはー……」

 そうだとも違うとも言えなかった。私は何も答えないまま、市ノ瀬から差し出されたペットボトルに口を付ける。冷えた水が喉をくすぐり、あっさり腹へ落ちて行く。

「俺をAの代わりだと思ってくれていいですよ。そんなの、お互い様でしょう」

「どういうことですか?」

「お互いに、お互いを好いている訳ではないという話ですよ」

 ようやく市ノ瀬の顔が見えた気がした。今までずっと、Aの面影の下に眠っていた彼の本当の顔が。整った顔、アーモンドの形をした目元、すらりと伸びた鼻すじ、諦め、ため息、憂鬱。偶像に仕立て上げられた男がこちらを見ている。眼前の女の顔を、思い出で上書きしながら。ついさっきまで、人の腹の上で散々乱れていたとは思えない凪いだ呼吸で。

 二人きりで会うのは、きっとこれが最後だ。市ノ瀬の美しい顔に目も心も奪われながらそう思った。瞳から飛び込んで来た雷に、脳の芯まで焼かれて焦げる。初めて見た彼の姿に、私は箍が外れたような一目惚れをした。

 出会ってしまった。恋に落ちてしまった。

 彼は私の、“一番の男”だ。


 その晩、父は帰って来なかった。何も言わずに遠出するのも、出張先で休暇を過ごしてから帰宅するのも珍しくはない。およそ、この週末も母に会っているのだろう。しかし酷く胸騒ぎがした。

 もし父が帰って来なかったらどうしよう。彼が石になってしまったらどうしよう。母が父を“一番の男”だと諦めてしまったらどうしよう。私が市ノ瀬に一目惚れしてしまったみたいに。

 そんな不安が燃え上がる度、私は市ノ瀬の姿を思い出していた。黒髪と同じ色をした静かな瞳、低いがはっきり言葉が響く声、赤信号の度に絡み付く指、市ノ瀬越しに見上げる天井と、鏡張りの空に映る自分たちの醜態。

 私はリビングのソファに座ったまま眠りこけてしまい、差し込む朝日に急かされて目を覚ました。しんと静まり返った家の中では、私以外の呼吸音が聞こえない。耳を澄ませて黙り込む。

 もし、このまま永遠に静寂しか聞こえなかったら。いつまでもこの朝が終わらず、誰も帰って来なかったら。

 その時、遠慮がちに玄関の鍵が開く音が聞こえた。私は火が点いた導火線のように飛び起きて、大慌てで玄関へ向かう。寝ぼけ眼の父は、血相を変えて自分を出迎える娘の姿に目を丸くした。

「おお、おはよう? 起こしたか?」

「起きてた。おかえり」

「え? ああ、うん。ただいま」

 父は石になっていなかった。彼の無事を確かめたからと言って、ハリウッド映画みたいに父に飛びついて大泣きする訳もない。私は二本足で歩く父の姿を確かめ、自分の部屋へ黙って戻った。父が浴室の扉を開けシャワーを使う音を聞きながら、もう一度眠りにつく。胸騒ぎなんて当てにならない。

 その後に見た夢は、私が父と母と三人で暮らしている夢だった。幼い私は、台所で二人して夕飯の準備をする両親を眺めている。リビングのソファに座って、背もたれに顎を置いて眺めている。それは無意識の幸せな光景で、幼い私はまだAと出会っていなかったし、私や母の妙な力も知らなかった。恋が石化するなんて馬鹿げた御伽話、考えようともしなかった。

 目が覚めた時、父から再婚したいと打ち明けられた。相手は母だった。

「もしそうなったら、私、一人暮らしした方がいい?」

 珍しく二人で囲む休日の食卓で、私は聞き返す。答えはわかっていたけれど、聞かずにはいられなかった。

「まあー……。佳穂だって、いつまでもお父さんと一緒に居るのは嫌だろ」

 父は思った通りの返事をした。

「最近、いい人が出来たんじゃないか? 佳穂もそういうことを考えたっておかしくない時期だよ」



 次の月曜、市ノ瀬は保育園に姿を見せなかった。朝の玄関に現れたのは、翔太の手を引く品のいい老夫婦。市ノ瀬を待ち構えていた保育士が、三人に明るく声を掛けた。期待外れな状況に拍子抜けしたのを隠すように。

「おはようございまーす! 今日は翔太くん、おじいちゃんおばあちゃんと一緒?」

 翔太は薄暗い表情で頷く。普段より厚化粧な保育士は、市ノ瀬への未練たらたらといった様子で老夫婦へ視線を動かす。その間に、私は翔太を園内に迎え入れた。今から老夫婦は、子どもに聞かせたくない話をするだろうから。

 靴を脱ぎ、荷物を自分で廊下のフックに掛ける所作を覚えた少年は得意気だった。それくらい出来て当たり前だと私は思うけれど、保育園に通う年齢の子どもにはちょっとした成果も宝物だ。

「偉いね、翔太くん。自分で支度出来るようになったんだね」

 私が愛想よく言ってやると、やっと彼の表情が明るくなった。その顔は市ノ瀬に似ているようには思えなかったし、Aの面影も見当たらない。

「翔太くん、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に来るの珍しいね」

「パパ、いなくなっちゃった」

 ああ、やっぱり。私はそう思いながら、一応に驚いた顔を作って見せる。

「居なくなっちゃったの?」

 私が驚いたのを確かめて子どもは頷く。しばらく口を尖らせたまま、彼は廊下に立ち尽くしていた。保育園は昼寝の時間を除けばいつだって賑やかだ。朝の登園時間ともあれば余計に。私たちの横を、何人もの子どもが通り過ぎる。

 沈黙で全ての喧騒を払い退け、翔太はフックに掛けた鞄の蓋を開き中に手を入れた。ごそごそと慌ただしく動いていた鞄がやがて落ち着く。

「あげる」

 彼が取り出したのは、真っ青な石だった。

 Aの遺影の隣に置かれた青い石。墓石に埋め込まれた不動の青。あれとよく似た色をした歪な石が、子どもの手のひらに包まれている。

「この石、どうしたの? お父さんの部屋で見つけたの?」

 翔太は頷く。もぬけの殻になった朝の寝室で、彼は父ではなく石を見つけたのだろう。それから先はどうしたのか。祖父母に電話を架けるなんて、今時の子どもには朝飯前か。はたまた、毎朝祖父母と顔を合わせるのが日常だったのか。

「これ、パパ」

「え?」

「パパ、せんせいのことすきだった?」

 私は眉をひそめるより先に辺りを見渡した。幸い、子どもの妄言を耳にする者は一人も居ない。もう一度翔太に向き直り、保育士の顔を彼に見せる。

「きっとお父さんが一番好きなのは、翔太くんとお母さんだよ」

「じゃあ、せんせいは?」

 子どもの真っ直ぐな視線に射抜かれた。Aにも市ノ瀬にも似ていない視線。きっと母親譲りなのだろう。病床に伏せる、私がまだ見ぬ永遠の女の。

「パパね、『だれかをすきにならないようにしなさい』って」

「どうして?」

「いしになったらかなしいから」

 たかが気晴らし相手を、市ノ瀬が特別視していたとは思えない。最後に会った時だって、お互いを好いている訳ではないと言っていたはずだ。いや、それ以前に。

「お父さんが言ってたの? 好きな人が石になる話」

「うん。いちばんすきなひとをすきになっちゃだめだよって」

 有無も言わさぬ調子で、翔太は私の手に石を押し付けた。あの夜の玄関で、彼の父親が私にしたのとそっくりな仕草で。誰が自分の父親を石にしたのか、彼だけが気付いているかのように。

「……翔太くんのお母さん、今、どうしてる?」

「パパがいしになったら、だれかがパパをいっぱいすきなんでしょ。いいことって、パパいってた。だからあげる」

 私の疑問符を置き去りにして、小さな背中が遠ざかる。駆けて行く彼は、やがて園内の子どもたちの輪に混ざってしまう。こうなると、もうどこに居るのかわからない。

 母の声がする。恋をするなら気を付けなさい。本当に好きな人を守りたければ……。

 何人も何人も、星の数ほど。市ノ瀬が母と違ったのは、私と違ったのは。彼は、自分が石になり得る男だと知っていた。

 市ノ瀬は、彼にとっての“一番の女”を守れたのだろうか。


 手のひらに残る、この世のどんな青よりも青い青に視線を落とす。よく見れば、青の中には薄っすらと白む雲を思わせる模様や、手紙のような黒が混ざる名残もあった。表面に散りばめられた銀色の光が、朝の廊下で輝いている。Aの墓石に埋め込まれた石も、こんな風に他の色を孕んでいたのだろうか。確かめるためには、もう一度Aの墓へ行かなければならない。次のAの命日まで、私がそれを覚えていられればいいけれど。

 石化した恋は元に戻らない。もう彼の顔は見られない、声も聞けない。彼と指を絡めることも叶わない。それでも今、彼は私の手の中にある。ずっと握り締めていた石は、やがて私の熱で温まっていく。現実味のない美貌、左右対称の笑顔。名残のない気晴らし、互いに都合のいい相手。

 恋心を握り締める。帰りがけに気が向いたら、河原へ放り投げよう。私は顔を上げ、そのま

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恋が石化する 矢向 亜紀 @Aki_Yamukai

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