恋が石化する
矢向 亜紀
前
「恋をするなら気を付けなさい。
母にそう言われたのは幾つの時だろう。この力は、我が家で母から娘へ引き継がれて来たものらしい。祖母から同じ話を聞かされたと、母は語った。
それなら、どうして父は石になっていないのか。わかりきっていたから、幼い私は口にしなかった。
お母さんが一番好きな人は、今どこに居るの?
なんて、そんな無粋な言葉は。
数年後、両親が離婚し私は父に引き取られた。原因は母の不貞。それでも母は最後まで、「恋をするなら気を付けて」と言い続けた。
「本当に好きな人を守りたければ、他所で“一番の男”みたいな誰かをたくさん作るんだよ」
父は恋多き母の愚行を嘆いていたが、その時になってようやく、私には母の気持ちがわかった。母は父を愛していたから、どこか違う場所で“一番の男”によく似た相手を何人も作って恋を紛らわせた。
きっと、母が本当に恋に落ちた人は。一番愛していた人は。他ならぬ父だろう。
私はただ怯えていた。実感のない妙な力は、ベッドの下の怪物みたいに真っ暗で得体の知れないものだった。少なくとも中学一年の夏までは。
思春期真っ只中の私は恋に消極的だった。周りの女の子は、息をするように「誰々くんと夏祭りに行く」とか「誰某さんが男の子と手を繋いで歩いていた」と浮足立った話を口ずさむ。それを私は、別世界の出来事のように眺めていた。
彼女たちが恋をする上で気にするのは、いかに相手に好かれるか。可愛い女の子だと思われるか。ライバルに負けないか。相手が石になりませんようになんて、私以外に誰が思い悩むだろう。当然、そんなことを打ち明けられる相手は居ない。友達と分け合う恋の秘密がない私は、透明人間と同じだった。周りの女の子たちは、自然と私から離れて行く。
それでもあの夏、私は出会ってしまった。
彼の名前は仮にAとしておこう。Aはアイドルグループのメンバーで、あの夜歌番組に出演していた。テレビに彼が映った時、私の心臓は最後の一度のように大きく鳴った。画面越しのはずなのに、彼の体温が私の胸まで届き心の底を激しく揺さぶる。アーモンドの形をした目がこちらに気付き、左右対称の眩い笑顔を向ける。きらきら散った額の汗は、バラと柔軟剤の香りがした。彼の歌声は他の誰よりも澄んでいる。真っ白な歯が奏でる福音のように。一人で過ごす夜のリビング、私は息をするのも忘れAの姿を食い入るように見つめ続ける。時が止まった。A以外の全てが、私の世界から一度消えた。
きっとテレビの中の人ならば、好きになっても平気なはず。そう思いながら、私は生まれて初めての恋に落ちて行く。落下するのに気付かずに、心はやたら軽い風船みたいに宙を舞う。私の目はAだけを追い、彼の姿を認めるなり心臓は警報よろしく強く鳴る。早速私はスマートフォンのホーム画面をAの写真に設定し、彼に関連する SNSアカウントをわかる範囲で全てフォローした。
彼が行方不明になったのは、それからわずか三日後のこと。Aの訃報が報じられたのはおよそ三ヵ月後。少し前までAと一緒に歌い踊っていたメンバーたちが悲痛な面持ちでライブ配信を始めるのを、私は呆然と眺めていた。
画面に映るAの遺影の横には、何も言わない真っ青な石が置いてある。彼の遺品であるかのように。いや、彼の遺骸のように。
彼は石になってしまった。私が恋をしたせいで。
あの夏以来、私は恋から縁遠い日々を送ろうと努めた。高校も大学も女子校を選び、職場に女性が多そうだという理由だけで保育士になり、可能な限り異性との交流を絶った。
恋愛は本の中だけにあるファンタジーで、透明な硝子の向こう側で繰り広げられる夢物語だ。母のように器用になれたら、複数の相手と関係を持つことで“一番の男”を作らない生活が送れたのかもしれない。しかし、私の平凡な見目と性格でそんな芸当は無理だった。私は無を保ち、誰も石にしないよう心がけた。
ある晩、父が遠慮がちに言った。
「久しぶりに、お母さんに会ったよ」
父が母の話題を口にしたのは、何年振りになるだろう。多分父は、母や私の力を知らない。だから単純に、母に裏切られたと思い込んで生きて来た。
「お母さん、元気だった?」
「ああ。相変わらず」
幾分含みがある口ぶり。きっと今も母は、複数の恋人と過ごしているのだろう。
「相変わらず、綺麗だったよ」
父は、それでも母を愛していた。
恐怖の対象のはずなのに、私はどこか石に心惹かれてしまう。そこらじゅうで見かけるのに、次に同じ場所へ行っても巡り合えるかわからない。妙に運命じみた石ころは、ありふれた私の毎日にも当たり前のように転がっている。
時々私は、近所の河原へ足を運ぶ。なだらかな草むらの向こうに、やる気なさそうに流れる川の
まだ母と一緒に暮らしていた頃、彼女は赤い石がついたネックレスを愛用していた。眼前の夕焼けが、あの色を思い出させる。まだ母と私の厄介な力について、何も知らない無邪気な私は言ったはずだ。この石、綺麗だね。お母さんが好きな石なの?
母に何を聞いたのかは覚えていない。しかし、彼女が石についてどう答えたのかは覚えている。
「これはお母さんの初恋なの。まだ、上手に恋が出来なかった頃の」
母の恋は、透き通りながら焦げ落ちる夕焼けのような赤い石に変わってしまう。ただ真っ直ぐに恋をしたせいで、相手を石に変えてしまった母の過去。彼女は父と別れるまでずっとあのネックレスを身に着けていた。きっと今でも、赤い石は母の心臓のそばで揺れている。
私の恋とは真逆の色。母と私は似ていないから、恋の色も違うのだろう。ゆっくり夜に染まる河原で瞼を閉じる。私の恋の色を思い出す。よく晴れた日の空を掴んで、手のひらの中でぎゅっと丸めたような青。深い海の底から掬い上げ、天日干ししたような青。ツユクサの花を摘み取って、踏み潰し続けたような青。訪れたばかりの夜の空気を袋に詰めて、全ての色と混ぜた青。
見上げた空には、薄っすらと幻の星が散っている。
勤務先の保育園を訪れるのは、ほとんどが園児の母親。だから父親がやって来るだけで目を引くし、それが彼のような美男子であればなおのこと。
上背があり、誰にでも紳士的な態度の市ノ瀬が現れると、その場の空気が色めき立つ。こういう時、保育園は女の園だと実感する。普段はなりふり構っていられない保育士たちも、時間に追われて神経を尖らせている母親たちも、彼の姿を認めるなり頬を赤く染め表情を和らげ、急にぽーっと惚けてしまうのだから。同僚とそれほど親しくない私でさえ、園内の空気が甘ったるくなるのはすぐに察しが付く。市ノ瀬の姿より、誰かがいそいそと髪型を整え始める方が先に目に留まる。エプロン姿の保育士が前髪を撫で付けたところで、絶世の美女にはほど遠いのに。
「佳穂先生、こんばんは」
「こんばんは」
彼はAによく似ていた。もしAが生きていたら、石になっていなかったら、こんな男になっていたかもしれないと思うくらいに。背丈はAと比べれば高すぎるが、整った顔立ち、特にアーモンドの形をした目元がそっくりだった。左右対称の微笑みも。
私は市ノ瀬を避けていた。彼の対応をしたい同僚は山ほど居るから、私一人がそうしたところで誰にも気付かれずにやり過ごせる。しかしこんな時に限って彼の息子はぐずっているらしく、なかなか玄関に現れない。
他の保育士が翔太を説得している間、私は市ノ瀬と二人きりの玄関に立ち尽くす。誰かにこの親子を任せてもよかったはずなのに、見目麗しい市ノ瀬を前にして、足が竦んで動かない。あまりに見事な彫像と向き合えば、誰だって身動き一つ取れなくなる。
なぜか彼は、安堵のため息交じりに笑った。
「やっと佳穂先生とお話出来ますね」
「え?」
「今まで、避けられているような気がしていたので」
言い当てられた。その上で、彼の方から近付いて来た。氷の手で撫でられたように背すじがゾッと強張り、私は曖昧に笑ってから教室の方を見る。翔太が来る気配はない。
「私、翔太くんの様子を見て来ます」
「待って」
立ち去ろうとする私の手首を彼が掴んだ。異性と肌を接するなんて、一体いつ以来だろう。自転車通勤の私は、満員電車で会社員たちと揉み合いになる朝さえ縁遠い。
「これ、差し上げます」
市ノ瀬は私の手のひらに何かをねじ込んだ。横長の紙。広げて見れば、それは週末に開催されるクラシックコンサートのチケットだった。会場は、自宅から海の方へ電車で一時間ほどの場所。私は反射的にチケットを市ノ瀬に押し戻す。
「い、頂けません」
「人助けだと思って貰って下さい。別に、来てくれとは言いませんから」
どうして私なんですか、偶然居合わせたからですか? こんなの止めて下さい、あなたを私が好きになったらどうなると思って……。形のない言葉で彼を見上げたが、廊下を駆けて来る小さな足音に全てかき消されてしまった。
市ノ瀬の足に絡み付く子どもを見ながら私は思う。硬く心を閉ざしておけば、この子どもは父親を失わずに居られる。何度も何度も自分に言い聞かせる。
「それでは先生、また今度」
市ノ瀬は片方の眉を上げながら、肩を竦めて笑った。息子の頭を撫で、玄関を後にする。
今度が明日の朝のことなのか、チケットに書かれた日時のことなのかはわからなかった。
そうしなければよかったのに、私は劇場の赤い座席に腰を下ろしていた。こうしなければよかった、わかっているはずだった。それでも私はエプロンを外し、卒園式と葬式以外では出番がない黒のワンピースを着てクラシックコンサートの開幕を待つ。
隣の空席に黒い影が落ちる。それは市ノ瀬の形をしていた。
「来てくれましたね、先生」
「席に空きを作りたくなかったので……」
「思った通り、真面目な人だ」
私の隣に腰かける市ノ瀬は、歯切れよく笑いながらこちらに視線を流した。保育園の夜とは違う薄暗く華やかな劇場の中で、彼の眉目秀麗ぶりが際立っている。均衡の取れた奇跡のような容貌、上等なスーツから覗くほっそりとした手の造形は、まるで現実味がない。
「真面目……ですか?」
「ええ。あの保育園の中で、佳穂先生が一番真面目そうだと思ったんです。全員と少し距離を置いているように見えましたよ。大人とも子どもとも慣れ合わないと言うか」
見抜かれていた。それが恐ろしかった。確かに私は、同僚たちの中で浮いている。彼女たちは子どもが好きで保育士の道を選んだが、私は違う。恋をしたくないから、人を石にしたくないから。そんな理由で保育士になった私は、彼女たちとあらゆる感覚が違った。私からすれば、子どもは守るべき存在ではあれど愛でる対象ではない。
「あの中で一番気晴らしが必要なのは、佳穂先生だと思ったんですよ」
「気晴らし?」
「ええ。こんなもの、それ以上でも以下でもないでしょう?」
彼の視線が劇場をぐるりと撫でる。私もつられて周りを眺めた。幕が開く前の客席のざわめき、身綺麗な格好で着席する男女の鮮やかな色、香水と化粧の香り。
市ノ瀬は私の耳元で言った。
「今日、結婚記念日なんです」
「えっ?」
「でも、妻は来られる状態ではないので」
彼はそっと微笑んだ。硝子細工が壊れるように、小さく。
市ノ瀬家の事情は知っている。市ノ瀬の妻は病床に伏しており、幼稚園からの転園もそれが理由だった。
「奥さんと一緒に居なくていいんですか?」
「何も言わない人の隣に座っていても仕方ありませんよ。今日ぐらいは、会話が出来る誰かと居たい。気晴らししたいんですよ」
気晴らし。市ノ瀬にとっての気晴らしは、冴えない保育士とクラシックを聴くことなのか。私は呆気に取られたまま、彼の端正な顔立ちを見つめていた。目が離せなかった。市ノ瀬から立ち昇る見知った艶気に、飲み込まれてしまいそうだ。もしもAに未来があれば、こんな形をしていただろう。
彼は自分の美貌を飼い慣らしている。どうすれば目の前に居る女が自分の思う通りに反応するかを知っている。だからもう一度、私の耳元でささやく。
「俺を一人にしないで下さい、先生」
指が絡め取られるのを、私は黙って受け入れる。
次の月曜、市ノ瀬は普段と変わらぬ様子で息子を保育園に送り届け、夜になればいつも通り急ぎ足で現れた。火曜も水曜も変わらずに。私は今まで通り彼をやんわり避け、時折顔を合わせてもこれまでと変わらぬ対応に徹した。意味ありげな視線を送るでもなく、訳知り顔で会釈をするでもなく。
日常が再び崩れたのは、一か月が過ぎた頃だった。以前と同じように、偶然二人きりになった夜の玄関。保護者と保育士の距離感で、しかし確かに市ノ瀬は口にした。
「今週の土日、どちらかお暇ですか?」
「え、は、はい……」
「じゃあ、土曜の昼十二時にB駅のロータリーで待ち合わせましょう」
「え?」
「気晴らしですよ、気晴らし」
左右対称の笑みを浮かべる彼を拒めばよかった。それなのに私はぎこちなく頷いてしまう。今は亡きAの顔を市ノ瀬に重ねる。生きていたとしても、Aが私をこんな風にどこかへ誘うなんて起こり得ないのに。いや、起こり得ないから頷いた。本の中のファンタジー、硝子の向こうの夢物語。それによく似た何かに、一度くらい触れてみたかった。
B駅は山へ向かって電車で一時間ほどの場所だ。約束の時間に市ノ瀬は車で現れて、私を助手席へ導く。
「先生、蕎麦アレルギーはありますか?」
「いえ、ないです」
「そうですか、よかった」
「今日、翔太くんはー……」
「両親に預けていますよ。お気になさらず」
普段とは違い私服姿の彼は、清潔感のある白いシャツとベージュのチノパンというシンプルな格好だった。私は紺色のデニムに味気ないカットソー。恋をしたくないと願い続けた私は、自分の性別への誇りを持ち合わせていなかった。だから艶やかに着飾るのは得意ではないし、異性と二人で出掛ける時の服装なんて見当も付かない。そもそも、彼の助手席がめかしこんで座るべき場所なのかもわからなかった。
今日の意味に気付いたのは、山間にある蕎麦屋で食事を済ませ、市ノ瀬に「この後、どうしますか」と聞かれた時だった。その気になれば、私が誰かに助けを求められる蕎麦屋の席。隣に座る私を視線でさらりと一撫でしてから彼は続ける。
「俺はあなたを抱きたいですが、無理にとは言いません。この後ダムでも見に行きたければ、『ダムでも見に行きましょう』と言って下さい。でも、もし俺に応えてくれるならー……」
水が半分ほど残ったグラスを、彼は細長い指でつついた。何の後ろめたさも感じさせない仕草のままで。
「飲んで下さい。一口でいい」
だから私も躊躇わなかった。残った水を飲み干しグラスをテーブルに置いた時、空っぽになったのは自分の方だと気が付いた。
湖のそばに建つ寂れているが清潔感のあるラブホテルで、私は市ノ瀬と体を重ねた。彼は驚くほど癖のない手順で女を抱く。妙な悪癖もなければ惨たらしい振る舞いも見せず、常にこちらを気遣いながら。もちろん愛の言葉は口にしない。普段と違うのは、「佳穂先生」と私を呼ぶ声の熱っぽさだけ。名前は記号のように頭上で鳴る。
今の私より若くして石になったAも、こんな風に誰かを求めたのだろうか。Aとよく似た顔に滲む汗を眺めながら、私はAに思いを馳せる。誰と居たのか曖昧な二時間が終わり、市ノ瀬が私をB駅に送るまでの間、隣の男が石に変わることはなかった。
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