雨
石田くん
雨
全てを焦がすような太陽の熱線の中、男が歩いている。砂漠の上を、静かに。砂はポップコーンになってもおかしくないぐらい熱く、そこかしこに陽炎を立ち昇らせている。白い装束に身を包んだ男は、蒸し焼きになりそうな様子で、ぼやぼやした足取りの上に何とか身を載せて、元気だった頃の残り香で、ふらつきながらも前に進んでいる。
ゆらゆらと、男は歩く。靴を隔ててもなお焼けそうなほど熱い砂の上での歩行にはもう慣れた。もうずいぶん前から歩いているのだから。あれ、いつから歩いているのだっけ。考えようとすると、その思考が脳の中を血液と一緒に移動するのが感ぜられて、熱い頭の中が焼けそうになる。やめた。つまり、もういつから歩いているのかは思い出せない。とにかく、歩いているのだ。歩くこと以外は、何もできない。もう、何もできない。じわじわと、焼けるような痛みで。
(ゆらゆらと、男は歩く。陽炎の中に取り巻かれた男は、上から見ればずいぶん歪んで見える。ははは、なんだか滑稽だ。しかし、どこか悲しくもある。僕も人である。)
ゆらゆらと、男は歩く。歩き続ける。確かに不確かな足取りをもって、左右にぐらぐら揺れながらも、まっすぐ歩く。暑い。そろそろ汗も出なくなった。いよいよ蒸し焼きになりそうだ。装束の中で、腕のじりじり痛むのを感じる。もう中まで焼けている。もう取り返しがつかない。男と死人との違いは、もはや歩いているかどうかしかなかった。歩いていれば男で、歩いていなければ死人である。太陽の光で、焼けて死んだ死人。死なないために、歩いていた。
ゆらゆらと、男は歩いていた。砂の上を、足跡をつけて、歩いていた。暑いなぁ。瞬きをするのも、まぶたの熱さが感ぜられて好ましくない。まぶたが付いた瞬間、その一瞬間の、眼球がジュっと蒸し焼きになるような感じが、好ましくない。それ程熱い。瞬きをすると、涙が出そうなほど熱い。しかし、もう涙は出ない。どうすればいいのか。わからなかった。ただ、歩いていた。
そういえば、目的地はどこだっけなぁ。気になってしまった。その思考が頭の中を駆け巡って、次第に頭蓋の中で反響して、脳を貫き続ける。跳ね返る銃弾のように。あぁ、もう。だめだ。考えてはいけない。さっきもこれをやったじゃないか。考えてしまっては、脳が痛い。暑いんだから。とてつもなく。
男は歩き続けた。もう疲れて歩くのが下手くそなので、細かな砂の上でも一歩ごとにサラサラと音が鳴る。なんだか空しくなった。存在証明のように、サラサラと音が鳴っていた。もうなんだかやけくそになって、強く踏みしめて、出来る限り激しく動いて、大きな音を鳴らしながら歩いてやった。なんだか空しくなった。あーあ。なんだろう、なんだか寂しいな、いや、寂しくもないな。いや、とにかく、空しいんだな。いや、しかし、うん。あれ、いや、あぁ、あっ、考えてしまった。頭がグワングワンする。揺れは脳みそから始まって、すぐに体全体に広がった。あぁ、だめだ。もうおしまいだ。死ぬかもしれない。血管が揺れる、筋肉が揺れる、皮膚が揺れる。しかし、なんとか足取りを保ったまま、男は歩き続けた。
男は歩き続けた。もう揺れるほどの力もない。体力がなくなって、却って洗練されたようにも見えるその動きで、前に歩いていた。もうほとんど力は残っていない。杖かと思わんばかりに腕は地面すれすれにまっすぐ垂れ、それが少し揺れながら動く。もうどうしようもなくなった。先程からどうしようもなかったが、もっとさらにどうしようもなかった。あぁ。しかし、男は歩き続けた。俯いているので、視界にはもう砂しかない。前は全く見えてもいない。砂の照り返しが顔にじりじり刺さるが、顔を起こす程の元気もない。あぁ。そうすると、その視界に、一匹のサソリが現れた。なんだかやけに美しく思えた。こんな小さなこげ茶色の虫の様なやつに、なんだか守るべきものが詰まっているように見えた。そいつは右上からフレームインしてきて、チャカチャカチャカ、とスクリーンを横切ろうとしていた。少しずつ、真ん中に。あぁ、このままだと、踏んでしまうな。男はそう思った。しかし、もう避ける気力もなかった。あぁ、おかしいよ、こんなの絶対おかしいよ、避けなきゃなのに、絶対避けなきゃなのに、あぁ、と思いながら、ぐらぐら揺れる脳みそはそれを、その足を、止められなかった。男はサソリを踏んだ。サソリは砂の中に埋まった。ジヤァ、キチキチ、と音を立てて、焼けた。左足で踏んで、右足が浮いた瞬間、死んだのがわかった。その瞬間、男はぐらりと膝から崩れた。まだ少し砂の中から殻をのぞかせているサソリをさっと掘り返して、両の掌でつくった祭壇の上に乗せた。男はサソリを地面近くから、顔に少し寄せて、見つめて、両目から、一粒ずつ、小さな涙を流した。
「あぁ、」
とだけ言って、その後は、口も鼻も喉も渇いていたので、音が出なかった。
男はばたりと倒れて、死んだ。ほとんど死んだ。うつぶせになって、寝ている。顔は右向きだ。頭まで包んだ装束の布一枚を隔てて、すぐそこに死があるのを感じる。熱い砂だ。左耳を布越しに砂につけて、男は改めてそう思った。炎熱地獄の責め苦による叫び声が聞こえてきそうなほど、熱い砂だ。
そのまま何時間経っただろうか、三時間、一日、もしかすると一週間、それほど長く感じられた。苦しみの中にいるというのは、辛いことだ。あぁ。そのまま、眠ったように焼かれていると、ジュッ、という、音が聞こえた。雨が降ってきた。あぁ、なんということだろうか。男は目の前に雨粒が落ちて砂の上で焼けるのを見た。確かに雨が降ってきた。
一粒、二粒降って、すぐに滝のようになった。ドザァアアアと音を立てて、砂漠に、男の体に、降り注いだ。雨はすぐに男の纏う布を透けて、ひどく焼けた男の肌を癒した。顔を伝って口に落ちてきた水は確かに素晴らしく男の口の中を潤した。次の雨粒をもっとしっかり受け止めようと、男は最後の力を振り絞って舌を出した。一滴、二滴、三滴が舌に触れて、男はまさに、息を吹き返した。起き上がって、天を仰いで、口を開けた。雨が降り注ぐ。砂漠に遍く、等しく、そしてもちろん男の口の中にも。水道から飲んでいるのかと思うほど、十分な水が入ってくる。雨はどんどん強くなる。膝立ちで、刀を持ちあげるように両肘をまげて全身で雨を受け止める男の姿は、もはや不気味にも見えた。雨はどんどん強くなる。男は、ついにまた両の足で立った。信じられないほどの雨で固くなった地面を、砂を、踏みしめて、変わらず上を向いていた。ドザアアアア。雨はどんどん強くなる。男は本当に泣きそうになった。もうとっくに泣いていたかもしれない。雨でわからなかっただけで。こんなとんでもないほどの幸運が、あってもいいのだろうか。雨はどんどん強くなる。男はふらふらと歩き始めた。というより、踊り始めたの方が近いかもしれない。ふらふらと、雨への喜びを表現するかのように、ただ生命としての喜びを表現する、そんなダンスだ。雨は降り注いで、男と一緒に喜んで踊った。
雨はどんどん強くなった。どざああああ、と、強くなった。男の足元には、というか、砂漠中が、水たまりになった。夢の様だった。本当に不思議だった。男が足を動かして、それを水滴が恋人の様に追った。
雨はどんどん、強くなった。激しく、悲しみに暮れる人の涙の様に強くなった。雨は降り注いで、砂漠は子ども用のプールの様になった。
雨はどんどん、強くなった。もう、取り返しがつかない。胸のあたりまで水が来た。砂漠をずっと歩いていたせいでとっくに泳ぎ方を忘れていた男は、焦って歩き始めた。水をかいて、少しでも早く進もうとした。先程までは気にならなかったのに、焼けた腕に水がしみる。
雨はどんどん、強くなった。水は男の口元まできた。なんてことだ。男はがぼがぼと音を立てて、必死に生きようとした。
雨はどんどん、強くなった。もうとっくに足はつかず、男は溺れながら、流されていた。どこに向かうかは、わからない。
ものすごい勢いで流されながら、死にながら、男は海のようになった砂漠に浮いたサソリの死骸を見た。確かに、涙が出た。サソリは流れていった。
雨 石田くん @Tou_Ishida
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