ブン子の一生
ドンペチカ
愛と流血のショートショート
「ブン子、どうしても行くのか?」
亭主のブン太が不安そうに言う。
「ええ、いつまでもこんなところにいられないわ。私たちぐらいよ。生まれてからずっと、ここを離れようとしないのは……」
ここで生まれた者は、みんな外へ出て行っているが、ブン子とブン太は、まだこの周辺から離れたことがない。これまで、あの巨大な生き物が怖くて、その姿を見ると、すぐに下水溝の中に隠れてしまっていたのだった。
「危険だ! 君だって見たことがあるだろ。奴らはとんでもなく大きい。捕まれば生き帰って来られないよ」
「分かってる。だから私ひとりで行くわ。いつまでもここにいては駄目なのことぐらい、ブン太さんだって分かってるはずよ。一か八か行ってみるしかないのよ」
「だけど、奴らは本当に危険な生き物なんだぜ。毒ガスを使うという話を聞いたこともあるし」
「そんなの、ただの噂よ。とにかく私は行くしかないの。お願いだから分かってちょうだい」
「……そこまで言うのなら仕方ない。もう何も言わないよ。くれぐれも気をつけて行くんだ。そして必ず生きて帰ってきてくれよ」
「もちろん、帰ってくるわ」
ブン子は胸を張って言い、亭主のブン太に見送られて下水溝から這い出た。
外は夕暮れ前だった。ブン子はすぐに、木造の大きな建物を見つけた。ドアが半分ほど開いたままだ。
ブン子はそのドアからそっと建物の中へ入り、誰もいない暗い部屋へ忍び込んだ。
部屋の中には大きな黒い箱と、ベッド、それに衣類らしきものが脱ぎ散らかされていた。
ブン子はとりあえずベッド下へ隠れることにして、しばくの間、身動きせずにじっと待った。やがて日が沈んで部屋の中が真っ暗になる。彼女は闇に少し気持ちを和らげ、さらにしばらくベッド下で待ち続けた。
やがてドアの開く物音がする。ブン子は心を研ぎ澄ました。
突如として部屋が明るくなる。彼女らにとって巨大な生き物である、人間が入って来て照明を点けらしい。微かに汗の臭いもする。腹をすかせたブン子には、たまらない臭いである。彼女は期待と緊張に身震しながら、ベッド下から部屋のようすをうかがった。
大きな人間の足が見えたかと思うと、ベッドが軋む音を立て、足が消えた。
おそらく、さっき入って来た人間がベッドに上がったのだろう。
まだ早い! ブン子の直感がそう言っている。
彼女は、はやる気持ちを抑え、部屋が暗くなるまで待つことにしたが、なんとも言えない嫌な臭いがしてくる。しかし、そんなこと気にしてはいられない。
ブン子はベッド下でさらに待った。すると突如、黒い箱から騒々しい音が鳴り響き、同時に見たこのないような光が放出された。
その光りは小さな世界を映しだしているように見えた。噂に聞くテレビという物かもしれない。ブン子は警戒しつつ、その騒音と光がやむのを待った。
しばらくすると、テレビが消されたらしく光も音も消え部屋が薄暗くなった。すぐに大きな寝息が聞こえ始める。チャンスである。
しかし、ブン子は急に吐き気に襲われた。
臭いのせいかもしれない。ひょっとすると、これがブン太の言っていた毒ガスなのだろうか?
だとしたら、ぐずぐすしてはいられない。ブン子はベッド下から部屋の隅々を見回した。毒ガスを放出しているのであろう、渦巻き状の物体が部屋の隅の床に置かれ、煙を上げているのが見えた。
このままでは死んでしまうかもしれない!
ブン子は勢いよくベッド下から飛び出て、羽を広げて宙を舞った。決死の覚悟だったが、少し眩暈がするだけで、飛ぶことに支障はないようだ。
ブン子は毒ガスの臭気を避けながらベッドの上を旋回し、その眼下にパジャマ姿の人間を見た。ベッドの上に横たわる、その人間の汗の臭いは、毒ガスのことなど忘れさせるくらいブン子を魅了し、むらむらと興奮させる。
人間の着ているパジャマの袖口からは、二の腕の白い肌が見える。
迷っている暇はなかった。ブン子は急降下して人間の二の腕に止まると、ときめきを爆発させるように、その白い肌に口づけをした。
ブン子は、口づけしながら自らの唾液を二の腕の皮下に注入し、次ぎに毛細血管をさぐり当てて一気に血を吸い上げた。
ああ、これが生き血の味なのね。なんて美味しいのかしら。生き返ったような気がする。いくらだって飲める。いくらだって飲めるわ!
初めて口にする人間の血に、ブン子の身体は熱くなり、身悶えしながら心の中で叫んだ。
赤ちゃんのために、どうしてもこの血が必要だったのよ。下水溝の水だけじゃ卵を産むことが出来ない……。ああ、ブン太さん、これでやっと、私はあなたの子供を産むことが出来るんだわ。
ブン子は、吸血しながら歓喜の言葉を心の中で繰り返した。
しかし次の刹那、ブン子の敏感な触覚が微かな気流の乱れを察知した。人間が身体を動かしたのだ。ブン子は逃げようとするが、身体が思うように動かない。毒ガスによる痺れと、血を飲みすぎたことによる体重の増加が、彼女の俊敏な身体の動きを鈍らせてしまったのである。
「したまった!」
ブン子は叫んだが、その叫びは「ぐえっ!」という自らの悲鳴によってかき消される。
それは、血を吸われた人間の反撃だった。大きな人間の手の平が、自らの二の腕をぱちんと叩き、哀れブン子はぺちゃんこに潰れてしまったのだ。
吸血したばかりの人間の血にまみれ、ここにブン子の生涯が閉じられたのだった。
ー終わりー
ブン子の一生 ドンペチカ @PaL_K
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