気遣いとやらは知らぬ間に
朝。葉太は日課である多肉植物を愛でる時間を堪能していた。少し水をやる。つかの間の休息だ。何やら桜が騒がしいが気にしない。葉太にとってこの時間は唯一の癒しと言っても過言ではないのだ。
桜が甲高い声をあげた。葉太は気にしない。小太郎がばたばたと廊下を駆けていく。葉太は気にしない。かしゃあん、と耳障りな音がする。葉太は気にしない。
葉太はもはや無の境地に達していた。今なら牡丹も、皆も、全部救えるかもしれない。そんな、思考の逃避行。葉太は考えを整理する。
まず前提。牡丹は葉太があやしのあめの儀式の主権を握ること、すなわち当主になることを望んでいる。そして葉太には当主になろうという気持ちがまったくない。微塵もない。砂一粒程度すらない。
すると、何が起こるか考える。あやしのあめに執着を持つ牡丹は皆を殺す。それはもう陰惨で、胃もたれも糞垂れもないような事件。心中でも図ったのだろうか。真実を求めても意味がない。彼女の気が狂っただけだ。
なぜ牡丹はそこまで執着するのか。この謎を解くのは葉太には難しい。葉太は探偵にはなれない。だから、執着をなくす方が手っ取り早く解決できると考えた。こうして葉太は嫁いびりを徹底しようと心がけている。
そもそも、あやしのあめなんてない方がいいのだ。そのせいで友人も親戚も不幸になった。神様を恨んだときだった。誰かが葉太に抱きついた。
「なんだよ」
「葉太様、葉太様。朝ごはんでございますよ」
牡丹はひどいくらいに上機嫌だった。葉太はそんな牡丹を自分から剥がす。嫁いびり。嫌そうなこの世の悪を見るような顔も忘れずに。
「遅いじゃねえのよ。ささ、座って、食って、感想を言え」
桜が葉太の頭を軽く叩く。いつもの朝食と違って、明らかに様子がおかしい。小太郎の作る飯と明らかに違う。料理好きな彼が、トーストにスクランブルエッグという単純な料理で満足するとは思えない。いつも小太郎は変なところでこだわる。
おとなしく座ってスクランブルエッグを口に含んでみた。硬いものがある。明らかな招かれざるそれはおそらく卵の殻。
「感想は」
桜が急かしてくる。卵の殻を口から出すか迷ったが、行儀がいいとは言えないだろうとカルシウムを摂取する道を選んだ。
「まあ普通」
「……点数は」
「点数?及第点だよ」
葉太の言葉を聞いた桜が牡丹の頭をぐちゃぐちゃにする。撫でているつもりなのだろうが、髪が四方八方自由な方へはねるだけだ。
「葉太様、お気づきですか」
「……お前が作ったの?」
牡丹がうなずく。葉太は薄々勘づいていた。笑おうとしてふと思い立つ。これは、嫁いびりの絶好のチャンスなのではないか?
「こんな朝食作れと言った覚えは……」
ないぞ、と言おうと口が動いて葉太は考えてしまった。皿をひっくり返してやろうかと思った。それは良心というものが許さない。良心の呵責は誰にだってある。葉太にもだ。
だが、心を鬼にしなければならないとき、というのが人間の人生には存在する。ひどい夫に嫌気が差して出ていき、外の世界で幸せになる。そうなってくれれば牡丹の問題は解決できる。
「お前はもう飯作るな」
牡丹がたじろいだ。予想外の出来事だったらしい。桜が怒る。葉太は気にしている場合ではない。
「絶対料理するな。お前ごときが一丁前に料理など。俺は今後食わんからな」
牡丹はぼおっと手のひらを見つめている。それ見たことか。そんな勝ち誇る葉太と、申し訳無さに潰れそうな葉太がいる。
「……怪我、気がついていたんですか」
「……え?」
勢いよく抱きつかれた葉太はバランスを崩しかけた。ちょっと待ってくれ。
「料理下手だから、私、怪我ばかりしていたんです。気遣ってくださるなんて感激でございます」
「違うって」
「葉太……。あんた、成長しやがって……」
どうやら理想と現実はかけ離れているらしい。彼女の料理が下手なのは知っていたが、そういう意味ではない。嬉しい、と笑う牡丹は憎く思えるがそれと同時に可愛らしかった。
嫁いびりは、うまくいかない。
あやしのあめ 奥谷ゆずこ @Okuyayuzuko
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